オーケストラ団員の射殺

[ニュルンベルク裁判の妄想]

 

Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal. Volume V. Nuremberg: IMT, 1947. pp. 450.

(ニュルンベルク裁判記録).

 

 SS中尉ヴィルハウスなる人物がこの文書の中に登場していることに留意していただきたい。それ以外には、この文書についてコメントすることはありません。…

 以下がその抜粋です。

 

SS大尉ゲバウアーが、ヤノフ収容所の野蛮な殺人システムを作り、彼が別のポストに移ってからは、収容所長グスタフ・ヴィルハウスSS中尉とフランツ・ヴァルツォクSS大尉がそれを完成させた。

 旧収容所長は委員会にこう述べている。

 

『私は、フリッツ・ゲバウアーSS大尉が女子供を絞め殺したこと、男を水を満たしたたるに入れて死ぬまで凍らせたことをこの目で目撃しました。犠牲者の手足は、水に沈められるまで、手枷・足枷で拘束されていました。これらの犠牲者は凍死するまで樽の中に留め置かれました。』[ホロコースト・ホラー物語]

 

 ドイツの収容所に収容されていた数多くのソ連軍捕虜およびフランス市民の証言によると、ドイツ人の悪党どもはもっとも邪悪な殺戮手段を考え出したことがわかる。彼らはこのことをもっとも価値のあることとみなし、軍最高司令部と政府もそのことを奨励していた。

 例えば、フランツ・ヴァルツォクSS大尉は、柱に囚人の両足をぶら下げ、死ぬまでそのままにしておくことを好んでいた。ロキタSS中尉は、囚人の腹部を自分で切り開いた。ヤノフ収容所調査部門の長ハイネは、囚人の死体に鉄の杖や棒で穴を開けた。彼は、プライヤーで女性の指の爪をはがしてから、その女性の服を剥ぎ取り、彼女の髪の毛をどこかにつないで、ぶら下げ、それを揺らして、『動く的』を撃った[ホロコースト・ホラー物語]

 ヤノフ収容所長ヴィルハウスSS中尉は、自分自身がスポーツを好んでいたため、または、妻と娘を楽しませるために、自分の事務所のバルコニーから、作業場で働いている囚人たちを自動小銃で撃った[『シンドラーのリスト』にも同じようなシーンが]彼は妻にライフルを渡し、彼女が囚人を撃ったこともある。また、9歳の娘を喜ばせるために、2歳から4歳の子供を空中に放り投げて、彼らを撃った[虐殺宣伝に必ず登場する光景]。その間、娘は喜んで、『パパ、もう一度、もう一度、パパ』と叫んでいた。そして、彼はもう一度行なった。

 この収容所の囚人は、まったく理由もなく殺された。賭け事のために殺されたこともあった。女性証人キルシュナーは調査委員会にこう証言している。すなわち、ゲシュタポの委員ヴェプケが、斧一撃で身体を真っ二つにできると他の処刑人たちに請け負った。しかし、誰も信じようとしなかった。そこで、彼は10歳の少年を捕まえてきて、膝まづかせ、手のひらで顔を隠しておくように命じた。少年の頭の好適な箇所に振り下ろす練習をしてから、本当に一撃して、この少年を真っ二つにしてしまった。ヒトラー主義者たちはヴェプケの手を暖かく握りながら、成功を心から祝した。

 1943年、ヒトラーの54歳の誕生日に、ヤノフ収容所長ヴィルハウスSS中尉は54名の捕虜を選び出して、自分で射殺した。

 囚人用の特別病院が収容所に設置された。ドイツの絞刑吏ブラムバウアーとビルマンが、各月の1日と15日に患者をチェックした。そして、14日以上も入院している患者を発見すると、その場で射殺した。チェックごとに67名が殺された。

 ドイツ人は、音楽に合わせて拷問、虐待、銃殺を行なった。この目的のために、彼らは囚人たちのあいだから特別オーケストラを編成した。シュトリックス教授と有名な指揮者ムンドにこのオーケストラの指揮を強制した。また、作曲家に、『死のタンゴ』とでもよぶ特別な曲を注文した。収容所を解散する直前に、ドイツ人たちはこのオーケストラの団員全員を射殺した。」

 

 あとで、写真資料として、この『死のオーケストラ』の写真を法廷に提出します。

 ヤノフ収容所で起こったことはまったく例外ではなかった。ドイツのファシスト当局は、ソ連、ポーランド、ユーゴスラヴィアその他の東ヨーロッパ諸国の占領地域のすべての強制収容所でまったく同じように振舞った。

 国際軍事法廷に展示資料USSR-29(資料番号USSR-29)を提出します。ルブリン市マイダネク絶滅収容所でドイツ人が犯した犯罪を調査するためのポーランド・ソ連特別国家委員会のコミュニケです。資料集の63頁にあります。この資料の3節「絶滅収容所での拷問と殺戮」から引用します。

 

 「拷問の形式はきわめて多様であった。基本的に戯れとも思われるが、終には殺人となってしまった拷問もある。偽の銃殺、犠牲者は鈍器で頭を殴られて気を失う。収容所の池での偽の溺死刑、これも実際に溺死してしまうことがたびたびであった。」

 

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