5.2 暴力
R:どのような人物が排除・追放に値するかといえば、他人の意見を抑圧せよと唱えたり、ひいては力ずくで抑圧しようとしている人物であることは明らかです。抑圧を唱えたり、力ずくで抑圧しようとした修正主義者は一人もいません。それどころか、修正主義者は穏やかで、平穏を愛する人々です。
L:しかし、ユダヤ人に対しては穏当な姿勢をとっているように見えないのですが。
R:そのような告発を立証してください。一方、私は、修正主義者を黙らせようとする国家権力の乱用、物理的・非合法な暴力の事実を立証できます。いくつかの例をあげて起きます。
1970年代末、フランスのジャーナリストで「国民戦線」の指導者フランソワ・デュプラ(Francois Duprat)が、リチャード・ヴァレル(リチャード・ハーウッド)の執筆した『600万人が本当に死んだのか?』(英語版)のフランス語訳小冊子を出版しました。彼はまた、『ガス室の秘密』と題する修正主義的研究も出版しています。そして、1978年3月18日、わずか38才のときに、彼の車の中で爆弾が爆発し、彼は命をおとし、彼の妻は腕と足を失いました。このテロ行為は、「ユダヤ人レジスタンス・コマンド」と「ユダヤ人革命集団」という2つのユダヤ人団体による犯行でした。犯人はまだ捕まっていません[1]。
フランス人教授フォーリソンはたびたび攻撃を受け、一度は死にかけたこともありました。1989年9月16日、彼は愛犬をつれて、故郷ヴィシーの公園を散歩していました。いつもの散歩でしたが、この日の様子は異なりました。その公園で、3人の悪漢が彼を襲い、催涙ガスを吹きかけ、気を失うほど殴ったのです。地面に倒れてからも、顔と胸を何回も足蹴にされました。「彼の顎と顔が砕かれていました」とかけつけた救命消防士は語っています。4時間におよぶ手術がなされました。「ユダヤ人の記憶の息子たち」という団体がこの犯行を認めました。この団体の声明文には「フォーリソン教授が最初であって最後ではない。ホロコースト否定派を震え上がらせろ」とありました。
この襲撃は「ロイヒター報告」に対する反応でもありました。フォーリソンは報告の精神的父であったからです。フランスの「ナチ・ハンター」セルジュ・クラルスフェルトは、もっとも攻撃的な反修正主義者ですが、この事件についてこうコメントしています[4]。
「長年にわたってユダヤ人共同体を怒らせてきた者であれば、このような事態を予測すべきである。…死者の記憶を中傷すれば、何らかの事態を招くものである。」
反修正主義者は、殺人も含む暴力の行使を公然と唱えています。一方、修正主義者はそのようなことはけっして行なってきませんでした。にもかかわらず、人でなしと罵られているのは修正主義者の方なのです。
L:そうではないでしょう。あなたの議論は間違いです。このような暴力行為が起こる理由があるにちがいないからです。
R:修正主義者狩りを推し進めている人々が殺人を肯定している動機は、ユダヤ系雑誌The Scribe の次のような文章からも明らかです[5]。
「ホロコーストに対する正しい姿勢とは、事実上神の敵であるわれわれの敵に適切な処罰を加えるのに遅すぎることはないということである。われわれの敵とは誰なのか?ホロコーストが起こったことを否定する人々すべてである。…ホロコーストが起こったことを否定するような人々は、その人自身がホロコーストに関与したとみなされるべきである。そのような人々は、自分の頭に死刑宣告文をつけて歩き回っているようなものである。われわれの敵は、彼ら自身が600万人の損失を経験しなければ、ホロコーストが起こらなかったなどと主張することをやめないであろう。…神の敵であることを暴露している人々は、しかるべき処罰を受けることであろう。」
60年のあいだ、民族社会主義者は悪魔の化身とみなされ、その巣窟を排除するためならどのような手段を使っても良いとされてきました。「この悪の化身が這い出てくる巣窟はまだ数多い」というのです。そこからは、害虫、野獣、怪物が這い出てきている。これがまさに庶民のイメージです。ナチス、怪物、悪魔なのです。このような怪物を発見したならば、すぐに殴り倒す、足蹴にする、ひいては殺してしまうことが許されています。第二次世界大戦中の連合国の宣伝は、自分たちの兵士をこのように駆り立てました。こうしたことは、程度の差こそあれ、どのような戦争でも起こりうることです。しかし、第二次世界大戦の宣伝は戦争が終わっても中断されずに、今日まで続いているのです。
L:それが正しいことが立証されているからです。
R:正しいか正しくないか、それは個々人の判断です。しかし、自分たちの仲間の人間を、自分たちとは異なって見解を抱いているという理由だけで、人でなし、悪魔、害虫、下等人種とみなしても良いのでしょうか。かつて民族社会主義者は、そのようなやり方を行なったと非難されているのではないでしょうか。煽動的な形容詞を使うことは、それこそ、ファシスト的、ナチス的、人種差別主義的ではないでしょうか。
修正主義者は放火や爆弾という暴力も受けてきました。歴史評論研究所は、その雑誌1984年2-4号の冒頭にこう記しています[6]。
「[1984年]7月4日の真夜中頃、本出版社の事務所と倉庫が放火のために焼失した。…読者の皆さんがご覧になっているのは、灰の中からふたたび登場した『不死鳥』のような『歴史評論』誌である。残念なことに、30万ドル以上の価値のある歴史的書物、資料、ファイル、装備が失われた。」
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イギリスのウックフィールドにある歴史評論社印刷所に対する爆弾放火、1996年9月 |
こうした事件のリストを次に掲げておきますが、これでもまだ不完全です[7]。
1978年11月20日:フォーリソン教授が学生に襲撃される。
1980年11月5日:イギリス東サセックスの修正主義的出版社『歴史評論』プレスへの放火。
1981年1月29日:フランスの修正主義者Michel Caignetの顔に酸が投げつけられ、傷跡が残る。
1981年4月5日:歴史評論研究所(IHR)の職員が事務所の外で殴られる。
1981年6月26日:早朝、IHRに対する放火、さしたる損失なし。
1982年4月25日:IHRへの放火、本の焼失。
1982年5月27日:修正主義的な歴史教師ジョージ・アシュレーに対する爆弾攻撃。
1982年9月5日:IHR事務所への発砲。
1982年12月:修正主義者ジョージ・アシュレー宅、荒らされる。
1984年2月6日:ユダヤ防衛連盟員、エルンスト・ツンデルに対して暴力を振るう。
1985年5月15日:ジョージ・アシュレー宅前で爆発事件。
1985年6月5日:ユダヤ防衛連盟、修正主義者のドイツ系アメリカ人ハンス・シュミットを爆弾で狙う。
1987年7月12日:ニコラス・ウルマンなる人物が、故郷の町のフィットネスクラブで運動をしているフォーリソンに暴力を振るう。
1987年12月12日:フォーリソン教授とその一行が、パリのソルボンヌ大学でのゼミナールの最中に、ユダヤ人群衆の襲撃を受けて負傷。
1988年1月14日:リヨン第三大学の修正主義的歴史家ジャン‐ポール・アラールが群衆に襲われて負傷。
1988年2月10日:修正主義者に共感していたドイツのメインストリームの歴史家エルンスト・ノルテ教授博士の車が放火される。
1988年7月18日:カナダの修正主義者ジェームズ・キーグストラ宅が放火される。
1990年2月6日:フランスの修正主義者オリヴィエ・マティウが殴られる。
1991年3月21日:フォーリソン裁判の冒頭、傍聴人のグループが彼を襲う。
1992年1月22日:ユダヤ人修正主義者デイヴィッド・コールがロサンゼルスの大学で殴られる。
1992年3月17日:スウェーデン・モロッコ系修正主義者アフメド・ラミのもとを訪れているときに、フォーリソン教授が群衆によるリンチ寸前となる。
1992年10月28日:ベルギーの修正主義者Jean-Marie Borbouseの書店が放火・破壊される。
1993年4月22日:修正主義者デイヴィッド・ウルコックスが、ワシントンのホロコースト博物館の開館に抗議するデモを行なっているときに、ひどく殴られる。
1995年4月4日:「反ファシスト民警団」、ドイツ系カナダ人エルンスト・ツンデルに、剃刀とネズミ捕りの入った匿名の脅迫文を郵送。
1995年5月7日:カナダのトロントのツンデル宅への放火。
1995年5月20日:ツンデル、偽の発送者の住所からの小包を受け取る。ツンデルはそれを警察に持っていった。X線検査をすると、半径90m以内のものを破壊してしまう強力な爆弾が発見された。警察はこの爆弾を石切り場で処分した。TVクルーがこの場面を撮影し、ツンデルはそれを夕方のニュースで見た。
1996年7月16日:パリの修正主義の書店Librairie du Savoirが荒らされる。
1996年9月6日:『歴史評論』プレスに対する二度目の放火。
1996年9月7日:パリの書籍業者パトリック・エリンが、修正主義的書籍を売ったとの理由で殴られる。
1998年1月15日:パリで開かれていた修正主義者ロジェ・ガローディとピエール・ギヨームの裁判の過程で、この二人が襲われ、負傷。
1998年2月27日:ガローディに判決が下されているときに、彼と彼の支持者が襲われ、負傷。
1999年1月16日:スペインのバルセロナで、修正主義的傾向のLibreria Europaに放火。
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放火されたバルセロナの書店Libreria Europa、1999年1月16日 |
[1] Cf. E. Ratier, op. cit. (note 1318), pp. 232ff.
[2] Le Havre Presse, March 20, 1978, from E. Ratier,
Les guerriers d’Israel, Facta, Paris 1995, p. 233.
[3] The Globe and Mail, September 18, 1989; Le Monde, September 19, 1989; Sunday Telegraph, September 24, 1989; cf. Mark Weber, The Zionist Terror
Network, Institute for Historical Review,
Newport Beach 1993.
[4] Cf. E. Ratier, op. cit. (note 1317), pp. 250, 252.
[5] Holocaust Denial,” The Scribe, Journal of Babylonian Jewry, No 70, October 1998
(www.dangoor.com/70032.html).
[6] JHR 5(2-4) back cover.
[7] For details, cf. Jean Plantin,
“Einige Falle von physischer Bedrohung und Gewaltanwendung gegen Revisionisten,” VffG 5(1) (2001), pp. 85-91; see also R. Faurisson,
“Jewish Militants: Fifteen Years, and More, of Terrorism in