第五講:学問と自由

5.1 似非科学

R:最後に、ホロコースト修正主義は似非科学であるかどうかという問題に立ち戻ることで、修正主義の所説の考察を締めくくりたいと思います。

 

L:「似非科学」とは何を意味しているのですか?

R:「Pseud(似非)」とはギリシア語で、本物ではなく、偽物を意味しています。

 

L:ということは、似非科学とは科学ではないことの同義語なのですね。

R:いいえ。似非科学とは、科学的であると自称している偽科学を意味しています。

 

L:ロイヒターとルドルフは自分たちの報告を本物の科学と主張し、世間がそれを似非科学とみなしているのは、そのためなのですね。

R:そのようにみなしているのは、ドイツ政府とメディアの大半です。

 

L:科学と似非科学をどのように区別しているのですか?

R:科学にもとづく結論は検証可能です。すなわち、どのような結論であっても、論理的な思考手順、再現可能な実験、第三者が参照できるような文献資料の引用を介して、別の人々が再検証できるようになっています。1000以上におよぶ脚注が本書に付けられているのも、そのためです。

 

L:だとすると、例えば、ヒルバーグの『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』やベンツの『民族殺戮の次元』といったホロコースト史家の研究書を科学的研究とみなさなくてはなりませんね。これらの研究書には脚注がちりばめられていますから。

R:これらの研究書が、その事実関係の主張を立証する基準を満たしていることには疑いありません。しかし、このことだけが、科学的研究とみなされるのに必要な基準ではありません。これらの研究書はもう一つの基準、すなわち、反論を提示・検証するという基準を満たしていないのです。さらに、これらの研究書は、一般に認められているような証拠のヒエラルヒーを逆転させています。すなわち、もっとも重要な証拠が目撃証言であり、次が文書資料的証拠となっています。そして、物的証拠はほとんど登場していないのです。殺人ガス室での組織的殺戮として定義されてきたホロコーストは、結局のところ、その実在を立証する物的証拠、文書資料的証拠が一つもないがゆえに、「立証」されていないのです

 科学的研究のもうひとつの基準は、そのことがかならずしも絶対に必要というわけではありませんが、体型的アプローチ、事実と意見・解釈との分離という方法を採用しているかどうかです。

 ヨーロッパの政府当局が、あとで詳しく説明しますように、こと歴史問題となると学術研究の自由に口出ししてきますので、ドイツの憲法最高裁の判決を引用しておきたいと思います。それは、科学的研究の定義を、否、むしろ、科学的研究と定義されうるための条件を定めています。この定義を見れば、検閲当局が彼ら自身の基準をどのように考えているかを推し量ることができます[1]

 

「学問の自由という基本的権利の保護は、その方法や結果の正しさにも、議論や論理の健全さにも、論点の完璧さにも、それが依拠する証拠にも依存していない。唯一、学問だけが、良い学問とは何か、悪い学問とは何か、正しい分析結果とは何か、間違った分析結果とは何かを決定できる。…その研究には先入観や偏見がある、十分に反対意見を検証していないというだけの理由で、その研究が科学的ではないとすることは認められない。…その研究は、科学的であるとの根拠を失ってはじめて、学問の領域から除外される。…その基準とは、著者の見解に反する事実、典拠資料、見解、分析結果を体系的に無視することである。」

 

L:ドイツの裁判所がロイヒター報告を非科学的とみなしたのは、ロイヒターが自説に反する事実、典拠資料、見解、分析結果を体系的に無視したためなのですか?

R:ロイヒター報告は先駆的研究で、アウシュヴィッツその他のガス室問題を法医学的観点からあつかった世界ではじめての研究でした。ロイヒターを自説に反する議論や分析結果を無視したと非難することはできません。このような所説が存在しなかったのですから。しかし、ロイヒターが非難されたのはそのためではありませんでした。間違った前提にもとづいて間違った結論に達したと非難されたのです[2]

 

L:この批判は正しいのですか?

R:正しい箇所もあります[3]。しかし、ここではそのことは重要ではありません。ドイツの憲法最高裁は、間違いのある研究、欠陥のある研究でさえもそれだけで非科学的とはいえないので、法の保護の下におかれると述べているからです。間違いを犯すことがその研究の科学的性格を否定する基準としてしまえば、誰もが間違いを犯すがゆえに、科学者の大半は似非科学的研究を行なっていることになります。ですから、間違いがあるとかないとかという議論は、ここでは重要ではないのです。

 人気のない科学的研究を抑圧する心の動きは違っているようです。例として、ドイツの高級紙『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事を引用しておきます。パトリック・バーナーなる人物が、ドイツでのロイヒターの講演をこう紹介しています。

 

「国は学問の自由を保護している。科学者であるとみなされる基準は、分析結果の正しさではなく、その研究形式の正しさである。…しかし、研究形式の間違いを見れば、彼が[憎悪を]煽動する意図をもっていることを見てとることができることが見過ごされている。このことこそが、科学的講演とテーブル・トークとの相違である。…しかし逆に、形式の整った煽動は、とくに不誠実である。…アウシュヴィッツの生存者にとって、自分たちは生命の危険が冒されるような状態にはいなかったと似非論理的な理由から専門家に説明されることほど、始末の悪い侮辱はない。

 しかし、ここでは国家も愚弄されている。デッカート[ロイヒター講演の通訳]のホロコースト観が正しいとすれば、ドイツ連邦共和国は嘘に立脚していることになってしまう。大統領の演説や、黙祷の時間、歴史の教科書がすべて嘘となってしまう。すなわち、彼は、ユダヤ人の殺戮を否定することで、連邦共和国の正統性を否定していることになる。」

 

 この文章をもう一度読んで、間違いを探してください。

 

L:修正主義者は、アウシュヴィッツの囚人が生命の危険にさらされていなかったと主張しているわけではありません。

R:そのとおりです。それが第一の間違いです。チフスの蔓延が数万の囚人の命を奪いました。修正主義的なアウシュヴィッツ研究の第一人者マットーニョは、アウシュヴィッツの最大の犠牲者数を136000人ほどと見積もっています。それ以外に間違いはありますか?

 

L:バーナーの記事は学問の自由を否定し、自由とは逆の方向に向かわせようとしています。科学的で客観的となればなるほど、禁止の対象とすべきであるかのようです。

R:そのとおりです。明らかに、バーナーの議論の方向性は、ドイツ憲法制度から逸脱しています。バーナーは間違った前提から出発しています。まず、非科学的な形式によってではないとしたら、憎悪への煽動の意図があるかどうかをどのようにして知ることができるのか明らかではありません。こうした言説はあらゆる議論を非論理的にしてしまいます。第二に、アウシュヴィッツの生存者が命の危険にさらされたことなどないと主張している専門家は一人もいません。第三に、ドイツ連邦共和国の正統な存在理由が民族社会主義者によるユダヤ人迫害と絶滅に関する定説を受け入れることに依存しているという考え方は、馬鹿げており、まったく間違っています。もしも、ドイツ連邦共和国の根拠が、この歴史学上の一つの見解にもとづいているとすれば、そのことは良いことではありません。その存立が、刑罰によって強制されている歴史学上の特定の見解に依存しているとすれば、あらゆる国家は、遅かれ早かれ滅んでしまうからです。

 

L:それでは、近代ドイツ国家は何にもとづいて創られているとお考えなのですか?

R:人権、この国家を受け入れているドイツ国民、国際的承認、政治的・歴史的・文化的アイデンティティ、それ以前のドイツ国家との連続性などはどうでしょうか?

 ホロコーストがドイツ連邦共和国の道徳的基礎を形づくっているという考え方は、少々奇異な感じがしますが、同時に、この国家にとって非常に危うい考え方でもあります。このような見解を指示する人々は、ホロコーストについて異論を抱く人々のことを、たとえ、国家に害を加える意図をもっていなくても、国家の敵であると宣言しなくてはならないからです。ですから、実際には「国家の敵」ではない人々に「国家の敵」という烙印を押してしまうことになります。国家に忠誠な市民を国家の敵に変え、闘争の対象たるべき敵を作り出してしまうことになるのです。そして、このように作り上げられた敵の存在によって、ドイツ憲法が保障する諸権利を制限することが正当化されるのです。修正主義的な学問が成功を収めたとしても、健全な批判的精神をもつ人々を無理やり敵に変えてしまうことによって、社会の分極化起こり、それは、ドイツ社会の内的平和をくつがえしてしまうことがありうるのです。

 不幸なことに、ドイツの憲法最高裁さえもこの奇妙な論理を採用してきました。たとえ学術書であっても、ユダヤ人の証言を批判することで、ユダヤ人の人間的尊厳を傷つけている場合には、その学術書は焚書の対象であるというのです[4]。基本的に、ドイツの司法当局は、ユダヤ人はその尊厳を学術書によって傷つけることができる唯一の民族集団であるかのように、振舞っています。

 

L:言い換えれば、ドイツの憲法最高裁はドイツ憲法を尊重することに配慮していないということですね。ことユダヤ人問題に関することになると、法の保護の対象となるべき学問とは何かという自分自身の定義さえも尊重していないのです。明らかに、ユダヤ人はドイツでは特別措置を享受しているのです

R:まったく、そのとおりです。司法当局が、科学的であると認めざるをえなかった研究だとしても、似非科学であると中傷され続けるのです。

 

L:修正主義的な研究が似非科学と中傷されるにあたっては、どのような証拠が出されるのですか?

R:何も出されません。いかなる証拠も提出されずに、そのような話となってしまうのです。まったく事実に反しているのですが、修正主義者は互いに引用しあっているとだけ述べています。「否定派の引用カルテル」というように呼んでいます。

 

L:「普通」の科学論文もそのようなものではないでしょうか。ここでは、著者たちは、自分自身の研究、ならびに、自分と考え方の似ている研究者の研究をまず引用しています。もっとも、同じ分野で、同じような方法を使って、同じようなテーマを研究している研究者たちは、互いの研究をたがいに引用しあうのは、普通のことなのでしょうが。

R:そのとおりですが、この場合には、異論が無視されているという話になっています。しかし、このことは自分たちの側に戻ってくるのです。客観的に見れば、修正主義者のほうがまったく逆のことを行なっているからです。すなわち、修正主義者は、ホロコースト信者――証人および歴史家たち――の主張をしっかりと取り上げているのに対し、政治家、メディア、司法当局の強力な支持を取り付けているメインストリームの歴史家たちは、修正主義者の所説に関心を向けようとはしていません。まして、修正主義者の所説を真剣に取り上げて、それを検証しようともしていないのです。

 さらに、修正主義者は、普通は右翼的な政治的見解を修正主義的な所説を通じて維持・普及させようとしていると非難されています。

 

L:ヒトラーを正当化しようとしているとかですね。

R:よく耳にする非難です。

 

L:不思議なことに、スターリンやその仲間を正当化するのは似非科学とみなされず、焚書の対象にもなっていません。

R:ことヒトラーに話がおよべば、なんでもありというわけです。

 

L:しかし、この種の議論は循環論法に頼っており、学問的には認めることができません。それこそ、似非科学的議論なのです。ある研究が、禁止されている間違った結論、すなわち「ヒトラーの正当化」という結論に達しているがゆえに、非科学的とみなされたとします。その研究者が間違った結論に達したのは、問題のある見解を抱いているためであり、間違った結論に達してしまっているがゆえに、間違った見解を抱いているという循環論法です。この議論の大前提は、ヒトラーは悪魔であったし、悪魔であり、悪魔でなくてはならないという思い込みです。要するに、結論が間違っているがゆえに、その研究は似非科学であるというわけです。ここでは、真実は思想警察によって守られているドグマとタブーを介して明示されることになっています

 ですから、修正主義的研究は、修正主義的であるがゆえに、自動的に間違っているとされるのです。「ホロコースト正史の所説はつねに正しい。だから、修正主義者の所説は、つねに間違っている。ホロコースト正史の所説が正しい根拠は、修正主義者の所説が間違っているという点にある。修正主義者の所説が間違っている根拠は、ホロコースト正史の所説が正しいという点にある。」 このような循環論法が永遠に続けられて、事態は何も変化しないのです。

R:そうですね。そこまでは考えませんでした。議論の枠組みを広げ、話を修正主義とは別の問題に移しましょう。似非科学であるとの非難は、とくに、その分野を専門としていない人々が、別の自然法則のもとで作用する風変わりなエネルギー源を発見したりしている分野では、よく登場する用語です。物理学、科学、天文学など分野では、これらの学問のパラダイムが、その分野を専門としていない人々から挑戦を受けて、ときには、似非科学といった用語を使って対処することがあります。

 

L:しかし、そうした異説を取り締まる検察官が登場することはありませんね。

R:そうですね。検察官が登場するのは、ホロコースト修正主義者に対してだけです。しかし、その他の分野でも、科学的「権威」による検閲の類は存在しています。そのような事例では、一つの学派やひいては学術機関が、学会の中で高い評価を得ているパラダイムをもっているために、このようなパラダイムに挑戦すると、まるで社会的なタブーの挑戦したときに起こるような防衛反応が、この挑戦者たちに対して作動するのです。すなわち、論文掲載の拒否、人格攻撃、異論を唱える研究者からポストや名誉などを剥奪しようとする陰謀や公然とした試みなどが行なわれるのです。このような対応は、とくに、人間の平等というドグマに疑問や異論を呈した研究者に行なわれています[5]。しかし、政治的影響力を持ちうるとは思えない物理学のような分野でも、このような検閲措置は行なわれています。

 ミュンヘンのマックス・プランク宇宙物理学研究所のハルトン・アルプは、現代の科学者の教条主義的な振る舞いを中世の宗教になぞらえて論じています[6]

 

「科学は宗教となってしまった!…注目すべきことに、科学は宗教の方法を採用してしまっている。現代の科学のもっとも損失をもたらしている側面は、観察と実験とに矛盾するような理論を普及させていることである。権威ある機関・人物が物語を作り上げ、そのあとで、教育機関、経済団体、社会政治学団体がそれを擁護する。…現代の科学ももっとも有害な側面は、今日通用しているパラダイムと矛盾するような証拠を意識的に隠していることである。…非常に人間的な振る舞いではあるが、現代の科学者たちは、本来の科学的態度に反しており、『もしも観察が、これまで正しいとみなしてきたことと矛盾すれば、その観察が間違っているはずである』というように振舞っている。

 学術雑誌で行なわれている『査読』という伝統は、ほとんど検閲という事態にまで堕落している。研究者は、自分の理論に熱烈に固執している場合、えてしてレフェリーとしての立場を利用して、自分の研究にそぐわないような分析結果の公表を退けてきた。…私の知るかぎり、研究者間のそのような姿勢に匹敵するのは、過去の宗教戦争に見られた姿勢である。…その結果、本物の研究調査は地下活動となってしまっている。自立した、そしてしばしば自活している研究者は、プライベートな小部数の雑誌で自分の研究を発表している。…

 組織された宗教は、『信仰と異端』という大義名分がかかっているとする論点をめぐって、数世紀にわたって、大量の人々を殺してきたが、基本的には、個人的な利益と権力がかかっていただけであった。数世紀後、科学が登場してきたのは、中世よりは流血の事態が少ない社会であったが、やはり個人的な利益と権力のために、多くの新しい考え方と発見を押しつぶされ、多くの間違いが犯された。」

 

 このような教条的振る舞いが、政治的・法的圧力の存在しない学術分野でも見られるとすれば、一体、ホロコースト史家のあいだではどのような事態が生じるでしょうか?

 自然科学の分野でも教条主義が広まっていることを考えると、このドグマの代表者たちが、異論派の研究を似非科学と非難することは驚くべきことではありません。このような非難が正しいかどうかを検証するために、批判的精神をもった人々が、科学と似非科学とを分ける基準についての質問用紙を作成しています[7]。私はこの質問用紙を、ホロコースト修正主義の研究とホロコースト正史の研究を検証するにあたって利用してきました[8]。どちらの側の問題があるのか明らかにするために、興味深い諸点を表にまとめてみましたが、私自身の先入観もあるかもしれませんので、そのことを念頭に置きながら、ご覧ください。

 

似非科学テスト

質問

修正主義

正史

1) 学派の代表者たちは、歴史について、「その事件が長期にわたって知られているのだから、本当のことにちがいない」と述べているか?

いいえ。

「常識」がもっとも鋭利な刃物である。第二次大戦終結以来、すべてのことがすべての人々に知られ、まったくの真実だからである。

2) この分野では研究が進んできたか?

修正主義的研究は非常に進んできた。例えば、ラッシニエの『虐殺の正体の暴露』と『ホロコーストの解剖』を、エミール・アレツのアウシュヴィッツの焼却棟についての見解[9]とマットーニョの見解を比べてみよ。

ユダヤ人の計画的・産業的絶滅に関するかぎり、ホロコースト正史はニュルンベルク裁判以降沈黙してきた。その後の裁判は、逸話のような、信用のできない証拠の数を増やしただけで、信憑性の質を高めたわけではない

3) 主張の前提を受け入れるためには、物理法則を無視しなくてはならないか?

いいえ。

ホロコースト正史の依拠する多くの目撃証言は、自然法則の基本、技術的可能性に反している

4) 提出されている証拠は逸話のような性質を持つものであるにすぎないか?

いいえ。

ホロコースト正史の証拠は、もっぱら生存者からの逸話のようなものである

5) 学派の代表者たちは、自分たちが厳しい批判の対象となっていると主張しているか?

修正主義者は、注目され、批判の対象となっていないことに不満を述べている。

ホロコースト正史を批判することは、非道徳的ひいては非合法とみなされている

6) 学派の代表者たちは、論争のかわりに人格的攻撃にさらされているか?ぎ

論争の対象とされることはめったにないが、対象とされる場合には、感情的反発ひいては迫害の対象となっている。

ホロコースト正史派は自分たちを批判する人々を中傷し、迫害し、その生活を破壊し、投獄し、物理的攻撃を加える

 

L:明らかに、公に擁護されているホロコースト研究の方が、修正主義的研究よりも、はるかに似非科学の基準を満たしています。

R:そのとおりです。ドイツのメインストリームの歴史家ノルテ教授も、そのように考えているようです。ノルテ教授は、修正主義者の研究の質が「エスタブリッシュメントの歴史家たちの研究の質を上回っている」と考えているだけではなく、ホロコースト正史派を似非科学に他ならないと非難しています[10]

 

「この[修正主義]学派は、エスタブリッシュメントの研究書の中では、たんなる議論の拒否、修正主義的研究者の思惑への嫌疑、ひいては検閲操作によって、きわめて非科学的に扱われていると私は考えるようになった。」

 

 ノルテ教授のこの発言は1993年のことです。それ以降、修正主義的研究は大きく進歩し、一方、反対者である正史派は、それに匹敵するようなものをまったく生み出せず、たんに修正主義者への迫害を強めていっただけでした

 

L:ということは、ホロコースト正史派の歴史家たちの研究の多くは、似非科学に分類できるということですね。だとすれば、禁止の対象とすべきなのですか?

R:まったくそうではありません。たとえ彼らの出版物が似非科学であったとしても、あるいは、修正主義的な所説が混ぜあわされたものであっても、そのことで、検閲の対象とすべきではありません。焚書は、似非科学的たわごとよりもはるかに邪悪な行為であり、そのことはあらゆる分野にあてはまります。

 いずれにしても、政治的・法的権力、メディアの権力を握っている人々が修正主義的研究を学術的正確を否定し、そのために、あらゆる国々の憲法が学問の自由を保障しているにもかかわらず、西側諸国の多くでは修正主義者はそのような憲法上の保障を享受できません。これが現実です

 

L:ですから、焚書といった行為もまかり通っているのですね。

R:そのとおりです。ロイヒター報告は、ビーレフェルト地方裁判所の指示で回収され、焚書の対象となりました[11]。私のルドルフ報告にも同じ運命が襲いかかりました。

 

L:なぜ、政府によるこのような措置に対する保護がまったく存在しないのですか?

R:事件の実態を知っている場合にのみ、国民は抗議することができます。しかし、ホロコースト修正主義問題を公の場に出すことはできません。すべてのメディアはこれを黙殺するからです。「ナチをやっつけろ」というわけです。この論争を押しつぶすもっとも効果的な手段は、「ナチ」、「ネオナチ」という呪文です。すべての西側諸国、とくにドイツでは、「ナチ」「ネオナチ」との烙印を押されることは、社会的な陶片追放となるからです。修正主義に耳を傾けるものは、ナチを手助けしているから、「ネオナチ」だというわけです。

 

L:ナチスと関係を取り結ぼうとする人など誰もいないでしょう。

R:それは、あなたの個人的な見解です。問題は、民族社会主義者であると中傷された人物が実際に民族社会主義者であるかどうか、どのように判断するのかという点にあります。判断するためには、この人物と個人的に話し合って見なくてはなりませんね?

 

L:あなたはご自分のことを民族社会主義者であるとみなしていますか?

R:一般の人々が抱いているような民族社会主義者とみなしているかどうかをお尋ねならば、答えは、ノーです。

 

L:ということは、独自の定義がおありなのですね?あなたの定義では、ナチとはどのような人物であり、それにご自分があてはまると思いますか?

R:この質問にお答えするには、もし民族社会主義イデオロギーなるものが存在しているとすれば、それはどのようなものであるのかを知っておかなくてはなりません。正直にお話しすると、この問題にあまり立ち入りたくないのです。イデオロギーには関心がありませんし、他人が作り上げたイデオロギーに盲目的にしたがうつもりもないからです。自分自身で考え、自分の世界観を作り上げたいのです。私の民族社会主義像は、私たちがマスメディアから来る日も来る日も聞かされてきたイメージに支配されています。しかし、私は、過去15年以上にわたって、民族社会主義の特定の歴史局面について研究し、数多くの嘘を暴いてきました。このことを考えると、民族社会主義イデオロギーとしてこれまで聞かされたことにも、多くの歪曲と捏造があると考えています。しかし、はっきりしたことはわかりません。ですから、ご質問に答えることができないのです。民族社会主義が何であるか知らないからです。私の本棚や壁飾りなどをご覧いただければ、ホーエンツォレルン朝の治めた第二帝政に強いノスタルジー抱いていることがわかるでしょう。でもそれは、私が君主制を支持しているためではなく、君主制が崩壊したのちに祖国に襲いかかったすべての災難によって汚されていないドイツを体現しているためです。私が魅力を感じているのは、この無垢で、繁栄した、自信に満ちたドイツなのです。

 私にことを知っている人々の多くが、私が民族社会主義者ではないことをよく知っていたとしても、そのことは私の助けにはなりません。それでも、メディアや政府当局は私のことを民族社会主義者であると中傷し続けるでしょう。多くの修正主義者も同様です。そのような中傷は別の嘘にもとづいています。迫害と焚書をともなう名誉毀損に対して効果的に抗議するには、公開性が必要です。当局による権力の恣意的乱用に抗議する唯一の手段なのです。しかし、いったん民族社会主義者であるとの「烙印」を押されてしまえば、そのような手段をとることも難しいのです。

 

L:ナチスを排除・除外することは別に悪いこととは思えませんが。

R:400年ほど前、魔女との烙印を押された人物をあえて弁護しようとするものは誰もいませんでした。ソ連では、反社会主義者とか反革命との烙印を押されることは死を意味しました。民族社会主義ドイツでは、ユダヤ人や共産主義者を擁護すべきではありませんでした。今日の社会では、「ナチ」との烙印を押すことは、同じような効果をもたらします。そして、「ナチ野郎!」と叫んでいる人々の多くは、「ナチス」をどのように定義するのかも知りません。独裁制度の中では、陶片追放や排除に値する烙印の中身は変化しますが、迫害方法、大衆の無関心、世論の喝采という様相は変化しません。

 

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[1] Verdict BVerfG, Jan. 11, 1994, Ref. 1 BvR 434/87, pp. 16f.

[2] Criticism of Leuchter, cf. e.g. G. Wellers, “A propos du ‘rapport Leuchter’ les chambres à gaz d’Auschwitz,” Le Monde Juif, No. 134, April-June 1989, pp. 45-53; J. Bailer, op. cit. (notes 538, 645); W. Wegner, op. cit. (note 167); see the books Auschwitz Lies (note 9) and Auschwitz-Lügen (note 168) in this regard.

[3] See the critical edition of the Leuchter Reports, op. cit. (note 134). Anyone interested in the Leuchter Report’s deficiencies may also consult my The Rudolf Report, op. cit. (note 415).

[4] So also the case W. Stäglich, BVerfG, Ref. 1BvR 408f./83, cf. Wigbert Grabert (ed.), op. cit. (note  153), pp. 287ff. Also applied to the book E. Gauss, op. cit. (note 256); cf. reference in note 156; also DGG 44(4) (1996), pp. 9f. (www.vho.org/D/DGG/IDN44_4.html); VHO, “Zur Wissenschaftsfreiheit in Deutschland,” VffG 1(1) (1997), pp. 34-37; that “Holocaust denial” is equated by Germany’s courts with denying Jews their human dignity and thus their right to live has been confirmed repeatedly, see,eg., BVerfG, ref. 1 BvR 824/90, June 9, 1992; Neue Juristische Wochenschrift, 1993, 14, p. 916f.

[5] Compare Glade Whitney, “Subversion of Science: How Psychology lost Darwin.” JHR, 21(2) (2002) pp. 20-30; Paul Grubach, “All Men Are Equal – But Are They Really?” TR, 1(2) (2003), pp. 139-150.

[6] Halton Arp, “What has science come to?,” Journal of Scientific Exploration, 14(3) (2000), pp. 447-454.

[7] “BCS Debates a Qi Gong Master,” Rational Enquirer, 6(4) (1994), publ. by the British Columbia Skeptics Society, http://psg.com/~ted/bcskeptics/ratenq/Re6.4QigongDebate.html.

[8] Germar Rudolf, “Pseudowissenschaft,” VffG 7(3&4) (2003), pp. 403-405.

[9] Hexen-Einmal-Eins einer Lüge, Verlag Hohe Warte, Pähl/Obb. 1976.

[10] Ernst Nolte, op. cit. (note 263), p. 9.

[11] Udo Walendy, “Ein Prozess der Geschichte macht,” HT no. 36, Verlag für Volkstum & Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1988; confiscated after appeal, BGH, Ref. BvR 824/90.