4.6.3 アウシュヴィッツ・ファイルからの証言の抜粋
R:第四講を終わらせていただくにあたり、信用することができると考えられる目撃証言をいくつか引用しておきます。かつての囚人が、アウシュヴィッツが絶滅収容所ではなかったという話を作り上げる理由もなく、そのような話を作り上げなくてはならない外的な条件もないと思われるからです。
L:旧SS隊員組織やひいてはドイツ政府が囚人たちを脅迫した可能性はないのですか?
R:戦後のドイツ政府が囚人に圧力をかけたことなどまったくありません。戦後のドイツでの囚人や囚人団体の振る舞いを見れば、彼らが戦後のドイツ政府に恐れを抱いていたことなどまったくないことがわかります。
旧SS隊員組織が囚人たちに脅威を与えていたなどいう主張はブラック・ジョークの類です。旧SS隊員は1945年以降、ヨーロッパひいては全世界でいかなる法的な保護も与えられていませんでした。囚人団体がよく組織されており、大きな影響力を持っているのと比べれば、SS隊員組織が行使しえた影響力などまったく取るに足らないものです。
囚人たちの証言の中で、引用できるものをいくつか引用させてください。すでにお話しましたように、これらの証言の内容すべてが信用できるものでもありませんが、信用できると思われる箇所だけを紹介しておきます。
すでに、マリラ・ローゼンタールの証言については分析しておきました。外から強い圧力を受けていたにもかかわらず、彼女は、自分がアウシュヴィッツにいたときには虐殺事件を目撃したことがないときっぱりと述べました。また、モノヴィツ強制労働収容所についてのヤコブ・レヴィンスキの誠実な証言、エミール・ベールの証言も紹介しました。ベールはアウシュヴィッツでは電気工でアドルフ・レグナーの同僚でしたが、職業的な嘘つきのレグナーの話を何一つ確言していません。
4.6.3.1 アルトゥール・ハルトマン
R:ハルトマンは収容所に到着するとすぐに、足に怪我をしたために、ジャガイモの皮むき作業にまわされました。彼の回想では、そこには多くの病人、労働不適格囚人がいたとのことですが、この話は、そうした囚人はすぐにガス処刑されたというホロコースト正史とは矛盾しています。また、彼は、囚人を虐待したために死刑に処せられたSS隊員のことも記しています。そのようなことがなければ、彼は、強制収容所職員による虐待の件に不満を申し出ることができなかったはずです[1]。
4.6.3.2 ヘンリク・バルトシェヴィチ
R:バルトシェヴィチはアウシュヴィッツの皮なめし作業場で働いていました。彼は収容所パルチザンに所属していたために尋問を受けて足蹴にされましたが、それ以上の拷問については触れていません[2]。
4.6.3.3 アレクサンドル・ゴレツキ
R:ゴレツキは、膀胱の手術を受けたばかりで、前立腺手術を受ける予定の囚人のことに触れています。興味深いことに、アウシュヴィッツでは囚人たちの命を救うために手術が行なわれたという事実には、ほとんど関心が向けられていません[3]。
4.6.3.4 アドルフ・レグナー
R:レグナーは、1943年5月にダッハウ強制収容所にいたとき、病院に治療を受けて、仕事をすることができるようになったと述べていますが、この証言は嘘ではないでしょう[4]。
4.6.3.5 コンラート・ラング
R:ラングは1940−1945年のあいだ、アウシュヴィッツに収容され、1943年には、ドイツ装備工場でカポーとなり、2000名の囚人を従えていました。彼は、サボタージュを企てたとの嫌疑尋問を受けたときに、ボーガーと会ったと述べています。1958年にラングを尋問した西ドイツの警官はラングの証言をこうまとめています。
「ラングは、ボーガーが「非常に峻厳で」、囚人たちに恐れられていたことを人づてに聞いていただけであった。ラングは、ボーガーによる、もしくはボーガーの命令に囚人の殺戮、射殺については聞いたこともないと述べている。」
ラングは囚人の中で高い地位を占めていたので、多くの囚人や収容所責任者と接触していました。その彼が、ヴィルヘルム・ボーガーによる殺戮行為のことをまったく知らなかったことは注目に値します。
L:おそらく、ラングヘルトは自分がドイツ人と協力していたことを考慮して、手加減したのでしょう。彼は自分の配下にいた囚人を虐待していたと思います。
R:そのようなことは考えられると思いますが、そのようなことをすれば、彼が告発されたに違いありません。彼は、あらゆることをして、例えば、たとえ嘘であったとしても、ボーガーを告発するようなことをして、囚人団体の機嫌を損ねないようにしたはずです。例えば、すでに申し上げましたとおり、オイゲン・コーゴンは自分の悪行を隠すためにこのような戦術を取っています。しかし、ラングはボーガーを告発しようとはしていません。ですから、彼にこのような証言[5]をさせた動機は、真理への愛以外には思いつかないのです。
4.6.3.6 モリツ・ザロモン
R:ザロモンは、ボーガーによってひどく拷問されたので、「ガス処刑」に「ふさわしい」と思っていたと述べていますが、そのあと、奇跡が起こって、収容所病院に入院させられ、回復したことになっています[6]。
4.6.3.7 ヤコブ・フリーズ
R:レグナーと同様に、ヤコブ・フリーズも職業的犯罪人としてアウシュヴィッツに収容されていました。彼は、尋問のときに、懲役14年の刑に処せられていたと述べています。アウシュヴィッツでは、中央収容所の作業班の作業長でした。尋問官によると、フリーズはボーガーの「犯罪」についてこう述べています[7]。
「彼は、アウシュヴィッツでは射殺についてはまったく耳にしたことがないと述べている。アウシュヴィッツでは、フェンスによじ登ろうとした囚人が看守に撃たれたことだけ記憶しているという。また、囚人に対するその他の犯罪についてもまったく耳にしたことがないという。アウシュヴィッツとビルケナウで何が起こっているのか知ったのは、1945年以降、メディアを介してだという。」
ですから、自分の個人的経験と戦後に耳にした情報を区別できる証人も知れば、ドイツ人に協力して囚人を強制労働にかりたてために、自分の罪状を隠すという戦術的目的をもって、証言内容を調整した証人もいることになります。
L:しかし、個人的な体験と伝聞情報を区別した囚人たちは迫害されなかったのですか?
R:神話を支持せずに、他の囚人たちから敵意を持たれた場合には、迫害されたと思います。たとえば、エミール・ベドナレクの運命を取りあげてみましょう。彼は、ポーランド地下運動に関係した咎でアウシュヴィッツに収容されました。彼はアウシュヴィッツの懲罰作業班のカポーとして働いていたときに、14名の囚人を殺したとされ、その咎で終身刑を宣告されました[8]。VVNのような影響力をもち、よく組織されている囚人団体は、終戦直後から、脅迫や中傷などの手段を使って、仲間の囚人たちに強い圧力をかけていたことを思い出してください。こうした囚人団体にとって、自分たちに従おうとしないかつての囚人たちに対する告発をでっち上げることなど簡単でした。西側社会では、こうした囚人団体は、囚人たちによって唯一の現実的な脅威でした。ですから、多くの囚人たちが証言を調整したと考えなくてはならないのです。
ヤコブ・フリーズが証言を調整していたとすれば、それは、囚人団体と捜査官の敵意を掻き立てるのを避けるために、そうしたはずです。彼にやましいことがあったとすれば、神話の中身を支持したはずです。しかし、自分の身に危険がおよぶことがあるかもしれないにもかかわらず、彼は神話を支持していないのです。
フリーズの直接の上司は、保護拘束収容所長でアウシュヴィッツ副所長であったアウマイヤーSS大尉でした。ですから、フリーズが、アウシュヴィッツでの出来事を知らなかったはずはないのです。
4.6.3.8 アルフレド・コルン
R:当初、アルフレド・コルンはプワショフ収容所に収容され、そこでかなりの自由を享受していました。プワショフ収容所が閉鎖されたのは1943年のことだったからです。1943年末、自発的にアウシュヴィッツに移り、SS監督官たちは彼を公平に扱いました。一度、収容所ゲシュタポに尋問されたことがありますが、深刻な事態にはなりませんでした。収容所での虐殺行為については噂で聞いたことがあるが、詳細は知らないと述べています。虐殺行為の中で彼が記憶している事件は、1944年11月のガス処刑と関連した出来事ですが、ホロコースト正史では、それ以前に、アウシュヴィッツの絶滅施設は稼動を停止しており、解体途中であったはずです[9]。
4.6.3.9 オットー・ロッケ
R:オットー・ロッケはボーガーに虐待されたと述べています。その後、彼は囚人病院に4週間入院していますが、隔離ブンカーでかかった病気かチフスのためでしょう[10]。ロッケはまた、ボーガーが自分に行儀良く対するようになったのは、収容所長リーベンヘンシェルが囚人を殴ってはならないという命令を出した1943年春以降のことであったと述べています。ボーガーの悪名は、尋問中に殴ることが許されていた時期に由来しています。ロッケはボーガーを正式に告発することを拒みました。
4.3.6.10 ライラ・サドフスカ
R:サドフスカ夫人はアウシュヴィッツのユダヤ人囚人として、作業中に重傷を負い、これ以上働くことができなくなりました。そして、こう述べています[11]。
「私は労働不適格となりましたので、ガス処刑されるのではないかと恐れました。労働不適格者はすべてガス処刑されるというのが常識になっていました。」
彼女は選別されましたが、彼女が恐れていたように、あるいは、ホロコースト神話の主張のように、ガス処刑されたわけではなく、回復するまで、収容所病院に入院させられました。7日後、彼女はふたたび、選別されました。今度は悪名高いメンゲレ博士によってでした。サドフスカ夫人はメンゲレによって非常に苦痛な人体実験を施されたと述べていますが、彼女はそれがどのような事件であったのか詳しく述べてはいません。そして、その実験のあと、不具になったと述べています。も神話が本当の話であれば、彼女は労働不適格であるだけではなく、人体実験にも不必要となったので、ガス処刑されたはずです。しかし、また、奇跡が起こったのです。彼女は治療を受けて健康を回復したのです[12]。
ですから、このような話となります。アウシュヴィッツのユダヤ人女囚が重傷を負って、病院に運ばれ、一週間にわたって治療を受けました。次に、SSの医師が彼女に不快な手術を行ないましたが、そのあとで、彼女は完全に健康を回復しました。ですから、SSが、手術などあらゆる手段を使って、この女性の健康を回復させ、労働適格者となるようにしたことは明らかです。しかし、戦後のインタビューでは、サドフスカ夫人は、アウシュヴィッツで医学的な治療を受けたというポジティブな経験をまったくひっくり返して、伝えようとしたのです。さらに、1959年に彼女を尋問した調査官は、どのような人体実験(手術)であったのかを解明しようとしていません。尋問官たちは何とナイーブであったことでしょう。
戦時中のドイツでのサドフスカ夫人の経験はそんなに恐ろしいものではありませんでした。このことは、サドフスカ夫人が、イスラエルの気候が性に合わないとの理由で、戦後もドイツに暮らし続けていたという事実からもわかります。
サドフスカ夫人が収容所到着直後に経験したと述べている「選別」にもこのパターンがあてはまります。サドフスカ夫人など新しい囚人は、目的地に着くと3ヶ月の検疫隔離措置の対象となりました。この検疫隔離措置が終わると、すべての囚人の健康状態を確認するために、再度選別が行なわれ、そのあとで、多くの囚人が別の宿舎に移されたのです。そして、彼女たちはトラックで移送され、そのときに、サドフスカ夫人の話では「最後の歌」を歌ったということになっています。
L:サドフスカ夫人は、これが最後の歌であったとどのようにして知ることができたのでしょう?
R:もちろん、知っていたはずもありません。その後目にすることがなかったので、殺されたとの結論を引き出したにすぎないのです。もちろん、この結論はナンセンスです。もしも、SSが彼女たちを殺そうとしていたとすれば、彼女たちに3ヶ月の検疫隔離措置を施すことは無意味であるからです。また、トラックで移送されていくあいだに歌を歌っていたという事実は、処刑されることを知っていたという説を確証していません。
4.6.3.11 フーゴ・ブライデン
R:同じような矛盾が、フーゴ・ブライデンの証言にも存在します。彼は、二回目の尋問の中で、11歳のユダヤ人少年――幼かったにもかかわらず、また、ホロコースト正史にも反して、到着すぐにガス処刑されていない――が、数週間治療を受けて、チフスから回復し、そのあと、選別されて、注射によって殺されたと述べています。しかし、ブライデンが、この少年の運命と最後を知ったのは伝聞情報からでした[13]。
4.6.3.12 エルヴィン・ヴァレンティン
R:囚人ヴァレンティンの証言にも矛盾があります。彼は、ノイトミッシェル労働収容所長シュツルプナーゲルを告発し、その結果、シュツルプナーゲルは、食料を盗んだ咎で、懲役18ヶ月に処せられたと述べています。シュツルプナーゲルはシュトゥットホフ強制収容所で刑期をつとめたというのです[14]。
L:SS隊員が殺人者としてではなく、食料泥棒として処罰されたというのですか?
R:そうした話となっています。ヴァレンティンはまた、申しで続けていたので、アウシュヴィッツに送られ、そこで肺炎にかかったと述べています。
L:彼は自発的にアウシュヴィッツに移送されたのですか?
R:はい。
L:ということは、アウシュヴィッツ収容所の評判はそんなに悪くなかったのですね。
R:少なくとも、このときの彼にとってはそうなのでしょう。ホロコースト正史では、重病の患者は選別されてガス処刑されたことになっていますが、ヴァレンティンは、外科医であったので、アウシュヴィッツの病院で十分な治療を受けました。さらに、彼の話によると、彼は囚人病院ブロック9の医師長としてハンス・ミュンヒ博士のもとで働いていたこと、その病院には一時1000人の囚人が入院していたこと、その多くはチフスと赤痢患者であったことになっています。もちろん、このような話は、重病の囚人は選別・ガス処刑されたというヴァレンティンの話と矛盾しています。ヴァレンティンは選別・ガス処刑のことにこれ以上触れていませんので、ガス処刑についての彼の話は、戦後の印象にもとづいているのかもしれません。
ヴァレンティンがボーガーの虐待行為のことを知っていたのは、噂からにすぎませんでした。彼自身の経験はこうです。
「…私はボーガーから丁寧に話しかけられた。それは、アウシュヴィッツの囚人としての初めての経験だった。」
医師としての彼の経験も肯定的です。上司であるSS医師について、まったく「悪口」を言うことはできませんでした。
ヴァレンティンが大量殺戮のことを知ったのは伝聞によるものでしたが、そのことを彼自身が認めています[15]。
「不幸な犠牲者のガス処刑と焼却の手順について述べられていることは、その大半が『伝聞』にもとづいている。」
4.6.3.13 ヴァルター・モスバッハ
R:ヴァルター・もスバッハの証言も矛盾していますが、彼自身がこのことを認め、釈明しています[16]。
「私は[SS]医師フィッシャー博士の人格を二つに分けたいと思う。医師としては、彼は正しく振舞い、囚人の側を支持したこともあった。他方、SS隊員としては、彼は、囚人医師の目の前で、15分ほど前に治療・保護してやった囚人を、選別のときにガス室に送った。」
L:この話では、SSの医師の方が、囚人医師よりも囚人たちに対して優しく振舞っているようですね。
R:そのとおりです。まったく矛盾しているのです。優しいSS医師フィッシャー[17]は、自分が気を配ってやった囚人患者を、暖かく微笑みながらガス室に送ったことになっています。しかし、モスバッハ証言の矛盾は、「ガス室へ」という表現を削除すれば、消えます、すなわち、フィッシャーが特定の囚人を選別する目的は、彼らをガス室に送ることではなく、危害のない別の目的、すなわち、収容所病院に入院させるとか、軽労働を割り当てることであったと考えればよいのです。
4.6.3.14 マックス・ヴィルナー
もう一人の囚人マックス・ヴィルナーの証言も同じような矛盾を抱えています。彼の話では、彼は、チスフの疑いをかけられて選別され、労働不能ユダヤ人であったにもかかわらず、ビルケナウの病院区画に移送され、そこで回復したとのことです。しかし、その次のページで、ビルケナウの囚人たちは病気の程度にしたがって分類され、それに応じて、ガス室で殺されたと述べているのです。ただし、ガス処刑の詳細については触れておらず、非常にあいまいです[18]。
「…一生懸命努力しても、特定の事件について思い出すことはできない。このために、ここに滞在している別のアウシュヴィッツ囚人と一緒にいて、彼らと意見を交換し、その結果を詳しくルードヴィヒスベルクの国家司法行政中央局の検事シェーラー[正しくはシェーレ]に報告しようと思っている。」
この話から、証人たちが、フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判の始まる前から、検事たちの助けを借りながら、自分たちの証言を調整していたことがわかります。少なくともこの点では、ヴィルナーは正直でした。
4.6.3.15 ヴィルヘルム・ディボフスキー
R:ヴィルヘルム・ディボフスキーは、ドイツ共産党員であったために、1941/42年冬から1943年2月までビルケナウに収容されていました。彼は大量ガス処刑について証言していますが[19]、彼の話には、「囚人のあいだでそう言われていた」、「後である人が語ったところでは」、「個人的には知らないが」、「私は聞いたことがない」、「私自身は見たことがない」、「彼は尊大に振舞ったようである」、「ポーランド人の囚人を通じて…知るようになった」、「この二人が語ったところでは」、「選別について何も語ることはできない」、「伝聞情報から知っただけであるが」、「そのことは知らない」、「メンゲレという名前を知ったのは本からであった」、「私は知らない」、「それは私にとっては何も意味しない」、「収容所ではこのことは知られていた」、「この件については詳しく述べることはできない」、「この件についてはこれ以上述べることはない」といった表現がちりばめられています。
L:こうした証言がまともに受け取られてきたのですね。
R:ディボフスキーは次のように明言しています。
「私はビルケナウでの大規模なガス処刑については何も語ることができない。私の知るところでは、このようなガス処刑は、私がアウシュヴィッツを去ってから行なわれたためである。」
L:しかし、大量殺戮はビルケナウのブンカーですでに1942年春にはじまっていたことになっていますね。数千のユダヤ人が巨大な壕の中で大きな煙と炎を噴出する薪の山の犠牲者となっていたはずですが。
R:この証人はビルケナウ収容所の建設に関与していたことになっていますので、そこで起こったことについては正確に知っていたはずです。しかし、彼の証言を検証してみると、自分が見聞きしたことではなく、伝聞情報から知識を得たことが大半なのです。そして、彼が明言しているのは、彼がビルケナウにいたときには「大規模なガス処刑」はなかったということだけなのです。
L:ハレルヤ!
R:数多くの証人がアウシュヴィッツのSSは恐ろしい存在であったと証言していますが、ディボフスキーの証言は、この恐ろしさとはどの程度のものであったのかを明らかにしています。
「私は建設局にいたビショフ(Bischof)[ママ]中佐[正しくは少佐]を知っていた。…ビショフは1945年以降エッセンで暮らしており、私は個人的にエッセンの彼の住まいを訪ねた。1950年に訪れたときには、彼は、エッセン、クラップ通り78で暮らしていた。その後、彼はエッセン・シュティーレに移った。…私の隣人は、アウシュヴィッツ強制収容所の看守を勤めていた人物であった。…私はビショフについて、何か悪いところがあったと証言できない。むしろ、その逆で、彼の良いところだけを証言できる。」
カール・ビショフ(Bischoff)は、アウシュヴィッツのSS中央建設局長でした。彼の指令のもとで、巨大な絶滅施設が建設されたことになっています。そのような施設が実在したとすればの話ですが。ディボフスキーは収容所の建設にかかわっていましたので、ビショフは彼の上司でした。
L:その彼と、戦後になっても、良い関係を持ち続けたのですね。看守の一人とも同じように。
R:この話は、SS隊員の恐ろしさとはどの程度のものであったのかを明らかにしています
4.6.3.16 ハンス・レーリヒ
R:レーリヒは共産党員であり、国家反逆罪の咎で1936年から投獄されていました。1942年初頭、ビルケナウに移送されました。レーリヒは、囚人を理由もなく射殺した看守がSSによって・逮捕・連行されていった様子を記しています[20]。
L:恣意的な殺害は、犯罪として追及されたのですね!
R:そのとおりです。事実、当時、SSは、囚人虐待を厳罰に処すべしという命令を出していました[21]。もちろん、この命令がどの程度遵守されたのかという問題と、命令に違反したSS隊員が厳罰に処せられたのかどうかという問題は、まったく別の問題ですが。
1942年6月、レーリヒはチフスのために労働不適格となり、ガス室送りではなく、アウシュヴィッツ中央収容所の病院送りに選別されました。1942年8月まで入院して、SS医師の治療のおかげで回復しました。
[1] Staatsanwaltschaft
beim LG Frankfurt (
[2] Copy of the testimony from Aug. 30 [1958];
ibid., vol. 2, pp. 223ff.
[3] Letter by the Auschwitz Committee,
[4] Ibid., vol. 2, p. 250.
[5] Interrogation of
[6] Interrogation of
[7] Ibid., vol. 3, p. 437R.
[8] See the verdict of the
[9] Interrogation of
[10] Interrogation of
[11] Ibid., vol. 5, pp. 657, 684, 676, 678f.
[12] Ibid., p. 684.
[13] Ibid., p. 701.
[14] Ibid., vol. 6, pp. 841-843, 847f.
[15] Ibid., vol. 6, pp. 862-867; here addition
from
[16] Ibid., p. 931.
[17] Brün Meyer
(ed.), Dienstaltersliste der
Waffen-SS. Stand vom 1. Juli 1944, Biblio Verlag, Osnabrück 1987によると、ホルスト・フィッシャーは「SS衛生兵長」、すなわち、博士号のない衛生兵にすぎなかった。
[18] Ibid., pp. 934f.
[19] Ibid., vol. 7, pp. 1007-1013.
[20] Ibid., pp. 1127, 1129.
[21] “Der Inspekteur der Konz.-Lager und Führer der SS-Totenkopfverbände,”
Berlin, June 4, 1937, Befehlsblatt SS-TV/IKL no. 5,
May 1937, no. 29: “Mißhandlung von Häftlingen, Strenge Behandlung von Mißhandlungen, Degradierung, Ausschluß, Strafgericht” (mistreatment of inmates, severe punishment
of mistreatment, degradation, exclusion, prosecution) Ill. 150: Wilhelm Dibowski doesn’t know anything…
(Files, p. 1011)