4.6.2 「ホロコーストのあいだのオペラ」

R:次の記事は、1997年5月1日、オーストラリアの新聞Killoy Sentinel (New South Wales) に掲載されたものです。

 

「私たちは皆、アウシュヴィッツの名前を知っている。大半の人々は、アウシュヴィッツをユダヤ人の『死の収容所』として知っているだろう。多くの人々は、それがポーランドにあったことを思い起こすことができるだろう。詳しいことは知らない人も多いかもしれないが、少なくともその名前は知っている。いずれにしても、それは現代文化の一部である。

アウシュヴィッツは普通、ユダヤ人(ユダヤ民族ではない、そんなものは存在しない)を絶え間なく、組織的に、計画的に絶滅した場所として描かれている。

まったくの恐怖、いたるところに広がる苦難の雰囲気、差し迫る死のアセンブリー・ラインについての多くの証言や記述がある。一体、このような場所に囚人用の水泳プールがあるということなどはありうるのであろうか。社会教育センター、討論グループ、劇場、少年合唱隊、オペラの上演があり、しかもすべてが、囚人によって運営され、かつ囚人のためであったというなことがありうるのであろうか。まったくありえない。それは、私たちが親しんでいるイメージにはそぐわない。

定説とはなっていいない証拠や見解を述べている書物、論文、ビデオがある。それを有名書店で手に入れることはできない。しかし、これらの書物、論文、ビデオを探し求めれば、上記の情報を手に入れることができるであろう。

戦時中のさまざまな航空写真が公表されているが、この水泳プールはそこに登場している。もちろん、これらの写真が偽造されていることもありうるかもしれない。しかし、囚人用のプール――クローズ・アップされている――は、今日のアウシュヴィッツを撮影した映像に登場している。このビデオには、ツアー・ガイド長で、今日の収容所の監督者であるフランツィシェク・ピペル博士との驚くべきインタビューも入っている。このフィルムを作成したのは、デイヴィッド・コールであった。

コール氏はアメリカ系ユダヤ人である。ビデオは偽造されたのかもしれない。しかし、他の施設が実際に存在した、存在しているとすれば、水泳プールも存在しているのであろう。

他の施設が実在していた証拠としては、とくに、『イェルサレム・ポスト』(国内版)、1995年1月25日、7頁をあたってみればよいであろう。

筆者はオリジナルのコピーを持っている。イスラエルから送られてきたものである。1頁半の記事の題は、『殺戮の只中で、子供たちは兄弟愛の歌を歌った』というものである。『1943年、10歳になるダニエル K.はアウシュヴィッツに到着した。彼は、今では大学教授となっているが、死の収容所の別の顔を思い起こしている』と出だしは始まっている。『[ベートーベンの第九交響曲]からの合唱が、…1943年、アウシュヴィッツ・ビルケナウのユダヤ人少年合唱団によって歌われた。…私もその一員であった・・・私が文化や歴史、音楽に始めて親しんだのは収容所においてであった。』

1944年3月、私はジフテリアにかかって、収容所の病院に送られた。私の母は、病院で一緒にいられるように頼んでいた。[回答は記されていない]…看護婦、医者、患者は生き残った・・・』

なぜ、看護婦、医者がいたのであろうか。殺されるはずの人々のために病院が存在したのであろうか。少年は、2−3年間、食事、衣服、住居を与えられたのであろうか。ダニエル K.は続けている。

『われわれのグループの青年指導者の一人が、…子供たちのための教育センターを作ってくれるように頼んだ。彼は許可を得た。ほどなく、この教育センターは、家族収容所のための精神的・社会的センターとなった。[家族収容所!]それは、収容所の魂であった。』

『このセンターでは、少年オペラも含む音楽や劇が上演された。さまざまなイデオロギー、シオニズム、社会主義、チェコ民族主義が議論された…イムレという指揮者がいて、…少年合唱団を編成した。リハーサルは、音響効果のよい大きな便所バラックで行なわれた…』

1944年秋、労働に適した囚人の大集団がドイツに送られていた。』(引用終了)

なんと、囚人の『大集団』が労働に適格のまま存在していたのである。絶滅やガス炉などもいつものように数多く触れられているが、それについては、意図的に無視した。それらは私たちのまわりにうんざりするほどころがっているからである

私の目的は、これらのレジャー施設が認められて存在していたという事実に関心を向けることである。これらが実在したことには疑問の余地がない。これらが実在したことは、私たちすべてが親しんでいる話に、新たな、思考を呼び起こすような光を投げかけている。すなわち、アウシュヴィッツは、普通描かれているような場所ではなかったのではないか。」

 

この記事にあるコールのビデオは目を見開かせるものですが、インターネットから無料で、もしくはハード・コピーとしても購入できます。この記事にあるレジャー活動は、ここに言及されている通常の文献にも登場していますし、まったく言及されてこなかったわけでもありません。生存者の証言文書には、アウシュヴィッツ=絶滅収容所というイメージとは正反対の事実について触れている箇所が数多くあります。煩雑さを避けるために、簡潔にリストアップしておきます[1]

 

<文化>

 劇場[2]、映画館、キャバレー、多国籍―多くはユダヤ人―オーケストラ[3]、作曲家マーラーの姪アルマ・ローゼは女性オーケストラの指揮者だった[4]。イグナツ・シュパイザーは収容所オーケストラのバイオリニスト、シュモン・ラクスは収容所オーケストラの作曲家、バイオリニスト、指揮者[5]。合唱団[6]。ロシア・バレー、イタリア・オーケストラ[7]

 

<スポーツとフィットネス>

 運動場、SS兵士と囚人職員とのサッカー[8]、遊び場、卓球[9]、幼稚園、テレジエンシュタットのユダヤ人学校[10]、囚人用の休息緑地、花壇[11]、プール、水球、サウナ[12]、売春宿[13]

 

<外の世界とのコンタクト>

 手紙の受発信[14]、ユダヤ人用小荷物の受け取り[15]、ユダヤ人あての50000の小荷物[16]、ユダヤ人一人一月一つの小荷物[17]、釈放[18]、民間ポーランド人とイギリス軍捕虜と一緒に働く囚人、手紙や資料の持ち出し[19]、特別許可証を持った囚人が看守なしで収容所を離れる[20]、逃亡のチャンス(90%の成功率)[21]、1944年9月の国際赤十字代表の視察[22]、連合国ラジオ放送の聴取[23]

 

<管理システム>

 福祉部は外からの問い合わせに回答し、法律案件、相続、出生、結婚、死亡、囚人死亡者の財産の遺族への相続についてアドバイスした[24]、収容所管理局は検事局に自然死ではない死亡事件を報告した[25]、死亡証明書には30の署名が必要であった[26]、骨壷と囚人死亡者の遺物は親族に送られた[27]、チェコでの親族のための死亡確認[28]

 

<労働と家族>

 地位の高い職務でのアーリア系職員とユダヤ系職員の調和[29]、裁縫室のある女性労働収容所[30]1944年5月の時点で、囚人のうちごくわずか11331名だけが労働不可能[31]、ジプシーのための家族収容所[32]、民間人の服を着た長髪の囚人、収容所内での数多くの出生[33]、孤児ブロック[34]、テレジエンシュタットからのユダヤ人用の家族収容所[35]

 

<食料と健康>

 数百の病床を持つ囚人病院[36]、シック・ブック[37]、将来の労働のための治療[38]2倍の食料割り当て、手術室、レントゲン装置[39]、歯科[40]、神経疾患のためにベッドに拘束されている女性[41]、1942年夏のチフスの流行、毎日200名以上の患者、SSの医師たち[42]、囚人のための適切な食事[43]、1日1800カロリー[44]、重労働に従事する外国人労働者は4000カロリー、ドイツ人技術者よりも多い、4800名の病気で動けない囚人が、医師の看護の下でアウシュヴィッツにとどまる[45]、他の収容所への移送を拒む囚人[46]

 

L:このリストは、普通のアウシュヴィッツ観とは矛盾していますが、この講義を通じて知ることになったその他すべての証拠とはマッチしていますね。

R:この点については、アウシュヴィッツの囚人であった人物が驚愕すべき証言をしていますので、この人物の話を引用しておきます。アウシュヴィッツの囚人マルク・クライン教授博士が、その回想録の中で、「アウシュヴィッツT中央収容所」との見出しで書いていることです[47]

 

「大半の作業班がオフであった日曜日や休日には、労働時間はさまざまであった。点呼は正午に行なわれた。夕方には、リラックスしたり、体育活動を行なうか、文化活動を行なうか選ぶことができた。サッカー、バスケットボール、水球(囚人たちが収容所の中に作った戸外プール)には、多くの観客が集まった。注目すべきことは、重労働を免れていた栄養状態のよい囚人だけがこうしたゲームに参加して、その他大勢の囚人たちの拍手を浴びていたことである。」

 

アウシュヴィッツ中央収容所の囚人用水泳プール。3つのスタート台と3mの飛び込み板がある。2001年春撮影(ドイツ人による仕事の質を物語っている。何とまだ水をたたえている。)© Dr. Robert H. Countess

 

 もちろん、このような話は、生存者の証言に数多く登場しているわけではありません。恐怖や虐殺の物語の片隅にふと登場してきているだけです。しかし、意識的ここのような話を集めてまとめてみると、証人たちの描くアウシュヴィッツ像がきわめて矛盾したものであることに気づくはずです。そして、私たちは深く考えさせられてしまうのです。目撃証言は、際限もなく流布されていますが、その体系的な分析はいまだ終わっていません。この報われることのない課題に取り組もうとする人がいるでしょうか?

 

L:このような話を利用して、囚人たちがアウシュヴィッツでは快適な時間を過ごしていたとおっしゃりたいのですか?

R:いいえ、そうではありません。生存者の中に登場しているアウシュヴィッツ収容所の肯定的な側面は、囚人の精神状態、健康状態を判断する上で限られた価値しか持っていません。しかし、このような側面が自分のアウシュヴィッツ観にマッチしていないからといって、その側面に触れている人々を邪悪な人物とみなしたり、その側面を隠しておくべきではありません。この肯定的側面から、その人なりの判断を下すべきです。本書の紙面は限られていますので、大量絶滅問題に焦点を絞らなくてはなりません。ですから、殺されなかった囚人の喜びや悲しみについてはこれ以上立ち入らないことにします。

 本質的なことは、ほとんどすべての目撃証言には、真実の側面と虚偽の側面双方があるということです。完璧な記憶を持っている人は誰もいないし、完璧な道徳を持っている人もいません。真実の側面と虚偽の側面を分けなくてはならないのですが、こと、ホロコースト証言に関するかぎり、このことが忘れ去られてきたのです

 

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[1] 以下の多くは、ドイツ人弁護士ハヨ・ヘルマンが集めた。

[2] Jean-Claude Pressac, op. cit. (note 251), p. 41.

[3] M. Klein, op. cit. (note 1236); F. Müller, op. cit. (note 181), p. 10; Reitlinger, op. cit. (note 252), p. 126.

[4] FAZ-Magazin 1990, no. 563, p. 80.

[5] Liberty Bell, Washington DC, Febr. 1988, p. 34.

[6] Hefte von Auschwitz, no. 18, State Museum Auschwitz, p. 259; Udo Walendy, op. cit. (note 1146), p. 198; Hermann Langbein, op. cit. (note 1081), p. 150ff.

[7] U. Walendy, op. cit. (note 1146), p. 244.

[8] H. Langbein, op. cit. (note 1081), p. 155; Queen versus Zündel, op. cit. (note 64), p. 338, 397.

[9] Verdict, op. cit. (note 1041), p. 430f.; Simha Noar, Krankengymnastin in Auschwitz, Herder, Freiburg 1986, p. 57.

[10] Filip Müller, op. cit. (note 181), p. 154.

[11] U. Walendy, op. cit. (note 1146), p. 287.

[12] J.-C. Pressac, op. cit. (note 251), p. 57; Ota Kraus, Erich Kulka, op. cit. (note 871).

[13] Verdict, op. cit. (note 1041), p. 28; Hefte von Auschwitz, no. 18, p. 57; U. Walendy, op. cit. (note 1146), p. 115.

[14] Hefte von Auschwitz, no. 18, p. 48.

[15] Ibid., p. 226; Langbein, op. cit. (note 1081), p. 43

[16] Walendy, op. cit. (note 1146), p. 38; P. Rassinier, Was ist Wahrheit?, 8th ed., Druffel, Leoni, 1982, p. 246f. (www.vho.org/aaargh/fran/livres/PRwahr.pdf).

[17] F. Müller, op. cit. (note 181), p. 154.

[18] Verdict, op. cit. (note 1041), p. 45; R. Höß, in M. Broszat (ed.), op. cit. (note 1158), p. 179; Langbein, op. cit. (note 1081), p. 70; Walendy, op. cit. (note 1146), p. 126; see works quoted in notes 467f.

[19] Langbein, op. cit. (note 1081), p. 513; Hefte von Auschwitz 18, pp. 66, 215, 220; M. Broszat (ed.), op. cit. (note 1158), p. 99.

[20] Verdict, op. cit. (note 1041), p. 39

[21] M. Broszat (ed.), op. cit. (note 1158), pp. 99f., 178.

[22] P. Rassinier, op. cit. (note 1253), p. 246.

[23] M. Broszat (ed.), op. cit. (note 1158), p. 99.

[24] Hefte von Auschwitz 18, p. 57.

[25] Verdict, op. cit. (note 1041), p. 34.

[26] Robert Lenski, The Holocaust on Trial, Reporter Press, Decatur, AL, 1990, p. 309.

[27] Hefte von Auschwitz 18; p. 65.

[28] Langbein, op. cit. (note 1081), p. 71.

[29] Ibid., p. 545; Hefte von Auschwitz 18, p. 45; F. Müller, op. cit. (note 181), p. 90.

[30] Langbein, op. cit. (note 1081), p. 177.

[31] Reitlinger, op. cit. (note 252), pp. 125.

[32] Verdict, op. cit. (note 1041), p. 31; Langbein, op. cit. (note 1081), p. 44.

[33] F. Müller, op. cit. (note 181), p. 240.

[34] Verdict, op. cit. (note 1041), p. 830.

[35] Hefte von Auschwitz 18, p. 260.

[36] Walendy, op. cit. (note 1146), p. 120.

[37] Ibid., p. 139.

[38] Verdict, op. cit. (note 1041), p. 716.

[39] See in general Simha Noar, op cit. (note 1246).

[40] Verdict, op. cit. (note 1041), p. 40; Queen versus Zündel, op. cit. (note 64), pp. 396, 399.

[41] Verdict, op. cit. (note 1041), p. 474.

[42]  Ausgewählte Probleme aus der Geschichte des KL Auschwitz,“ State Museum Auschwitz, 1988, p. 66

[43] Hefte von Auschwitz 18, p. 45;

[44] P. Rassinier, op. cit. (note 1253), p. 270; Walendy, op. cit. (note 1146), pp. 169, 188.

[45] W. Stäglich, Der Auschwitz-Mythos, op. cit. (note 152), p. 448

[46] M. Broszat (ed.), op. cit. (note 1158), p. 101; Simha Noar, op. cit. (note 1276), p. 111.

[47] De l’Université…, op. cit. (note 89), p. 453; similar in “Observations…,” op. cit. (note 1236); taken from Robert Faurisson, “Das Schwimmbad im Stammlager Auschwitz,” VffG 5(3) (2001), pp. 254f.; cf. Robert Faurisson, op. cit. (note 334), p. 25.