4.6 証言批判、第2部:信用できる証言

4.6.1 エリー・ヴィーゼルとプリモ・レヴィ

R:アウシュヴィッツについてのエリー・ヴィーゼルの証言は、奇妙なエピソードで終わっています。1945年、赤軍がアウシュヴィッツに近づいてきたとき、ドイツ人は収容所を疎開させようとしましたが、病気の囚人には、ドイツ人と一緒に逃げるか赤軍の到着を待つか彼らの選択にゆだねました。ヴィーゼルと彼の父が、どのような決定を下したのか、彼の言葉はこうです[1]

 

「選択は私たちにゆだねられていた。自分たちの運命を自分たちで決めることができた。私は、医師のおかげで、[父]を患者もしくは看護士として病院に迎え入れていたが、その病院にとどまることもできた。あるいは、他の人々と一緒にいくこともできた。『お父さん、どうしましょうか?』 父は黙っていた。『それでは、他の人々と一緒に疎開しましょう』と私は言った。」

 

 何年間も、エリー・ヴィーゼルと彼の父親は、人々が大量に生きたまま燃やされている地獄で暮らしていたはずです。まだ生きている囚人は、考え付く限りの方法で虐待されていたはずです。そして、やっと、1945年初頭に、これらの殺人者たちの手を逃れて、進撃しているロシア軍に解放されるチャンスが到来したのです。そして、彼らはどのような選択をしたのでしょうか。何と、彼らは、悪魔のような大量殺人者集団に同行して、解放軍から逃げるという選択をしたのです。彼らは邪悪なドイツ人の作った地獄の中で、奴隷労働者としてとどまることを選択したのです。彼らは、ドイツ人のサタンの護衛のもとでの不確定な冷たい・暗い夜を手に入れることを選択したのです。

 紳士ならびに淑女の皆さん。ここに、隠されている真実の扉を開く鍵があります。エリー・ヴィーゼルと彼の父親は、逃亡するにあたって、赤軍による解放の方を、ドイツ人が自分たちにもたらすこと、ドイツ人と一緒についていった場合の今後の運命よりも恐れていたのです。これがヴィーゼル親子の件だけでないことを明らかにするために、プリモ・レヴィの証言も紹介しておきます。レヴィは自著『アウシュヴィッツからの生存』の1945年1月17日の項目の中で、自分が重病でなかったとすれば、共通の本能にしたがって、SSと一緒に逃亡する囚人たちに同行したであろうと述べています[2]

 

「理性の問題ではなかった。もし衰弱していなければ、私も群衆の本能にしたがってことであろう。恐怖心は非常に広まりやすく、すぐに現れた反応は、逃亡するということであった。」

 

 ここで彼が恐怖と呼んでいるのは、囚人たちをドイツ人と一緒に逃亡するように追い立てたもの、彼の言葉では群衆の本能であったことに注意してください。ですから、彼らが恐れたのはドイツ人ではなくロシア人であったのです。そして、レヴィは、選択の集計を行なっています。すなわち、800人が、その大部分が衰弱した囚人ですが、アウシュヴィッツにとどまることを選択しましたが、残りの20000人は、大量殺人者である民族社会主義者に同行することを選択したのです

 ヴィーゼルとレヴィは、反ドイツ虐殺宣伝の有力者ですが、まさにその宣伝文書の中で、その虐殺物語を信じるように思い込まされている世界各地の人々に気づかれることなく、自分たちはドイツ人のことを恐れていなかったことを認めてしまっているのです。もしもこの二人が自分たちの作り上げた虐殺物語を信じていたとすれば、一体どのように行動したでしょうか?

 

L:本来であれば、彼らはロシア人による解放を待ち望み、ドイツ人の手から逃れるためには何でもしたはずです。

R:まったくそのとおりです。ヴィーゼルと彼の父親、その多数百ひいては数千の仲間の囚人たちの選択を過小評価すべきではありません。アメリカの修正主義的研究者ベルク(バーク)はこう指摘しています。

 

「非ユダヤ教徒によるユダヤ人迫害の歴史全体を通じて、ユダヤ人たちが、ソ連軍に解放されて、邪悪なナチスのことを世界に向けて告発し、ナチスの敗北を促進するという選択肢と、ナチスの大量殺人者に同行して、彼らのために働き、その邪悪な体制を長引かせてしまうという選択肢のどちらを選ぶかという瞬間ほど劇的な瞬間はなかった。

 シェークスピアの『ハムレット』の言葉になぞれば、『とどまるべきか、とどまらざるべきか、それが問題だ、…なんとも悩ましい』というわけである。」

 

 そして、エリー・ヴィーゼルは選択したのです。

 赤軍によるアウシュヴィッツ占領60周年の2005年1月27日、『シカゴ・トリビューン』はこう書いています。

 

「ソ連軍は解放者として歓迎されたけれども、数週間もたつと、彼らは自分たちが解放した人々を略奪・強姦し始めた。ナチスのもとでも生きのびた女性たちは、生存者の証言によると、ソ連軍兵士によって強姦され、殺された

 10000人のソ連軍捕虜が1941年にアウシュヴィッツに移送されていたが、生き残っていた人々には残酷な運命が待ち構えていた。スターリンは、ソ連軍捕虜など存在しない、『祖国を裏切った者』だけが存在すると言明していた。ソ連軍捕虜たちは秘密裏に集められ、シベリアで辛い生活を送ることになった。

 東ヨーロッパでは多くの人々が、ソ連軍を「解放者としてではなく侵略者としてむかえた、それは第二の占領だった」と、アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館文書館長ピョートル・セトキエヴィチは述べている。」

 

L:ですから、エリー・ヴィーゼルは正しい選択をしたのです。

R:まったくそのとおりです。赤軍は彼らが解放したとされる東ヨーロッパで、誰も解放できなかったし、そうしようともしなかったのです。彼らがこの地域にもたらしたのはテロルの体制でした。このことを知っておく必要があります[3]

 批判的で公正な精神を持つ生存者の文書を読めば、同じような証言が数多く存在していることがわかります。2つの例をあげさせてください。アンネ・フランクの父親オットー・フランクは二度結婚していますが、二番目の妻の娘は、自分の両親の物語を記した本を1991年に発表しています。囚人たちがアウシュヴィッツから別の収容所に疎開する件について、こう書いています[4]

 

「私たちはどんどん数少なくなっていった。一両日ごとに、SSは宿舎から30、40名の女性を引き出して、西の中央ドイツに送っていった。私がこれらの移送集団に選別される危険も日ごとに大きくなっていった。SS隊員がやってくるたびに、私は頭を下げ、祈った。」

 

L:ということは、彼女たちはアウシュヴィッツから移されたくなかったのですね。

R:そのとおりです。まったく同じような証言を、フランス系ユダヤ人のマルク・クライン――アルサス地方のストラスブール大学医学部教授――もしています[5]

 

「[アウシュヴィッツから]移送されることはいつも不愉快な脅迫であった。収容上の中で培ってきたすべての物的利益を、大きいものであれ、小さいものであれ、すべて失うことを意味したからである。移送されることは、難儀な旅行と別の収容所での新しい環境という困難を伴った、未知なるものへの旅立ちであった。にもかかわらず、ユダヤ人大量ガス処刑に脅かされていたユダヤ人にとっては、移送は救いの道であったかもしれない。…ある日、移送集団がナチヴァイラー・ストリューホフにむかった。私を故郷のアルサスに連れて行ってくれるので、その移送集団にぜひ加わりたかった。しかし、この集団は天国への旅集団[6]であるとの情報を得たので、あきらめた。」

 

 アウシュヴィッツにとどまることを決意させたのが噂であるとすると、ガス室の恐怖は本物ではなかったことになります。クライン教授についてはまたあとでとりあげましょう。

 

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[1] E. Wiesel, op. cit. (note 1107), p. 78; thanks to F.P. Berg, on whose article (note 651) the following paragraphs are base.

[2] P. Levi, Survival in Auschwitz, Summit Books, New York 1986.

[3] Cf. Joachim Hoffmann, op. cit. (note 24), pp. 279-327; cf. Ataullah B. Kopanski, The Barnes Review, 4(4) (1998), pp. 37-40; cf. also Alfred Maurice de Zayas, The German Expellees: Victims in War and Peace, St. Martin’s Press, New York 1993; Heinz Nawratil, Schwarzbuch der Vertreibung 1945 bis 1948, 11th ed., Universitas, Munich 2003.

[4] Eva Schloss, Evas Geschichte, Heyne, Munich 1991, p. 117.

[5] Marc Klein, “Observations et Reflexions sur les camps de concentrations nazis,” in: Revue d'Etudes germaniques, no. 3, 1946 (www.phdn.org/histgen/auschwitz/klein-obs46.html).

[6] 死の集団