4.5.9 ダヴィド・オレール

R:ダヴィド・オレールは1943年3月にアウシュヴィッツに移送され、SS隊員の肖像画を描く絵描きとして雇われました。彼は焼却棟Vの屋根裏部屋で暮らしていたといっています。戦争末期に、マウトハウゼン労働収容所に移されました[1]。彼が焼却棟Vの内部や配置について詳しく知っていたことは、彼の描いたこの建物の図面からわかります[2]。事実、非常に詳細で、オリジナルの建物図面に驚くほど似ていますので――彼は外からは見えない炉の導管さえも描いています――、この建物の設計図を手に入れていたのではないかとも推測できるほどです。ですから、ペルトが人間の苦難の究極のセンターと呼んだ[3]この建物の中でほぼ2年暮らした人物がいることになります。オレールはここで起こったことを知っているはずですし、また、彼自身も知っていたと主張しています。オレールの絵は、「大量殺戮」についての唯一つの図版であるとみなされています。そのうちのいくつかを掲載しておきます[4]

 

 

 

 ここには、黒煙と炎を噴出している焼却棟の煙突が描かれています。そのうちのいくつかには、鮮やかなオレンジ色の炎が描かれていますが、残念ながら、ここではモノクロ図版を掲載していますので、その鮮やかな色彩を想像することができません。しかし、インターネットではカラー図版が掲載されています[5]

 おわかりのように、オレールのお気に入りのオブジェは焼却棟の煙突ですが、それは実際とは異なっています。煙や炎についてだけではなく、形が大きすぎるのです。また、そもそも、実際をそのまま描いたとされていないものもあります。ですから、オレールが描いているのは実際のことではなく、数多くの「詩的修辞法」=誇張や捏造を使って、象徴的に描いた作者の解釈なのです。オレールにとってこの詩的修辞法がいかに重要であったのかについては、次の図版からわかります。

 

現実を歪曲するオレールの芸術手法:ガス室が直接、炉室につながっている[6]

 

 これは、特別労務班員がガス室から死体を引き出す光景を描いたものだとされています。右側にはガス室の開いたドア、左側には焼却炉の一部が描かれています。この絵の問題点は、ビルケナウのどの焼却棟をとっても、殺人ガス室とされている部屋と炉室とは隣接していないことです。オレール自身は彼が描いた焼却棟の図面の中で、ガス室に使われた死体安置室を建物の地下に配置していますので、このことをよく知っていたにちがいありません。しかし、この絵の印象を強めようとして、正確さを犠牲にしたのです

 

L:ガス室がガス処刑後すぐに開けられたならば、囚人がガスマスクや保護服なしでガス室内で作業することはできないとの話でしたね?このガス室は死体で天井まで一杯ですので、ドアは開けられたばかりです。

R:まったくそのとおりです。オレールのもう一つの絵を検証しましょう。焼却棟での「大量殺戮」の処刑の次の手順を描いたものです。ビルケナウの焼却棟UとVの炉室を描いています。

 

ビルケナウの炉のドアを高さ3−4フィートと間違って描いている[7]

 

 この絵の間違いをリストアップしておきます。

 

(1)     ここでは燃焼室のドアの高さが3−4フィートになっていますが、すでにお話しましたように、アウシュヴィッツ焼却棟の実際の炉のドアは、せいぜい高さ2フィート幅2フィートです。

(2)     死体運搬ストレッチャーは、囚人の持つ棒で燃焼室に押し込まれたのではなく、燃焼室のドアの下にある棒についていたローラーを介してです。

(3)     タウバーと同じく、オレールも一人の人物がストレッチャーを燃焼室に押し込んだとしていますが、燃焼室の中からストレッチャーを押し上げるものは何もないので、梃子の法則にしたがえば、一人の人物が自分よりも重くなるストレッチャーのバランスをとることは難しい。

(4)     内部が華氏1400−1800度もある炉のドアの前で、上半身裸で作業することは物理的に不可能です。

(5)     石炭燃料炉のドアから炎が噴き出てくることはありません。

 

L:炎は石炭ガス発生装置からではなく、燃焼室の中で燃え上がっている死体から出ているのではないですか?

R:大量の死体が燃焼室の中で激しく燃えていたとすれば、そこにさらに死体を押し込むことなどできなかったにちがいありません。燃焼室に死体を押し込むにあたって、燃焼室内部で何かが燃えていてはならないのです。言い換えれば、ダヴィド・オレールはタウバーと同じように、誇張、捏造、嘘を広めているのです。ただ、別の媒体を使って広めているにすぎないのです

 

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[1] Serge Klarsfeld, David Olere 1902 – 1985, Beate Klarsfeld Foundation, New York 1989, p. 8.

[2] Reproduced in R.J. van Pelt, op. cit. (note ), pp. 175-177.

[3] Van Pelt’s testimony in Errol Morris’ documentary movie Mr. Death, op. cit. (note 159).

[4] The original paintings are stored at the Ghetto Fighters House, Holocaust and Jewish Resistance Heritage Museum, Kibbutz Lohamei-Haghettaot, Israel. Some of them were published in David Olere, L’Oeil du Temoin/The Eyes of a Witness, Beate Klarsfeld Foundation, New York 1989.

[6] J.-C. Pressac, op. cit. (note 251), p. 258.

[7] Taken from Robert J. van Pelt, The Case for Auschwitz, op. cit. (note 140), p. 179; also in David Olere, Alexandre Oler, Witness: Images of Auschwitz, WestWind Press, North Richland Hills, Texas, 1998; cf. http://fcit.coedu.usf.edu/Holocaust/resource/gallery/olere.htm