4.5.7 ルドルフ・ヴルバ、アルフレド・ヴェツラー
R:すでにルドルフ・ヴルバのことはご存知だと思います。自分の関係した出来事すべてを自分の目で目撃したと主張してきたにもかかわらず、詩的修辞法にふけっていた証人です。その後、彼は、本当は何も知らなかった、どのように証言すべきか教えてくれと第三者に頼んだことを認めています。ここでは、戦時中にヴルバと彼の仲間の囚人アルフレド・ヴェツラーが作り上げた報告の重要論点について検証しておきましょう。スペインの修正主義的歴史家エンリケ・アイナトのすぐれた研究にもとづいてお話します。
まず、ヴルバ証言は、1942年4月から1944年4月までに176万5000人のユダヤ人がガス処刑されたと述べています。しかし、現時点で、ホロコースト正史は、この時期の数を「わずか」50万人と見積もっています。さらに、ヴルバは5万人のリトアニア系ユダヤ人がアウシュヴィッツでガス処刑されたと述べていますが、ホロコースト正史にはこの話はまったく登場してきません。
また、アウシュヴィッツでガス処刑されたフランス系ユダヤ人の数を15万人としていますが、ホロコースト正史は、75000人ほどが移送され、そのうち、少数のものが登録され、残りはガス処刑されたとしています。
次に、報告に記載されているアウシュヴィッツの図面は虚偽です。とくに、焼却棟UとVの粗雑なスケッチがそのことを示しています。
・ ヴルバはそれぞれ4つの開口部をもつ9つの炉を描いていますが、実際には、それぞれ3つの開口部をもつ5つの炉でした。
・ ヴルバは、二本のレールがガス室と炉室とをつなげていたとしていますが、実際には、地下の死体安置室(「ガス室」)は、炉室よりも低い位置にあり、エレベーターでつながれていました。
L:ヴルバは実際には見たことがなかったのでしょう!
R:彼は、噂で耳にしたことを記憶から取り出して、それを書いたにちがいありません。
・ ヴルバは、一時に2000名がいわゆるガス室で処刑されたと述べています。
ところが、すでにお話しましたように、死体安置室は210uしかなく、厳しい軍隊的な規律によるか自発的な協力なくしては、9.5人を1uの空間に詰め込むことはできません。
・ ヴルバはチクロンBが「薬のような粉末」であったと述べているのは間違いです。チクロンBはシアン化水素をしみこませた石膏状の丸薬でした。
・ 3分ほどという処刑時間はその他の証言の多くと一致していますが、技術的にはまったくありえないことです。
L:証人たちが同じことを証言していたとしてもですか?
R:そのようなことは証言内容が真実であることを確証しているわけではありません。すでにお話しましたように、このように短時間で処刑するには、膨大な量の毒ガスが必要です。さらに、チクロンBのガスの放出は緩慢ですので、数分間で処刑を実行するには、まったく考えられないほどの量が必要となることでしょう。
・ 焼却棟WとXが焼却棟UとVと「非常によく似た建物」であったというのは間違っています。まったく形状の異なる建物でした。
・ ビルケナウの4つの焼却棟の一日の焼却能力6000体という数字はひどく誇張されています。一日の理論的最大処理能力は1000体以下です。
・ 1943年初頭に、ビルケナウの最初の焼却棟の完成を記念して、ベルリンからの賓客の前で、クラクフからの8000名のユダヤ人がガス処刑されたと述べていますが、この事件を確証している資料は一つもありません。ヴルバは自著『私は許すことができない』の中で、ハインリヒ・ヒムラーが1943年1月、稼動したばかりの焼却棟Uの「ガス室」のなかで3000名のユダヤ人がガス処刑された(1uあたり13人)事件に立ち会っていた様子を詳しく描写していますが[1]、実際には、その焼却棟が完成したのは1943年3月ですし、ヒムラーが最後にアウシュヴィッツを訪れたのは1942年7月なのです。