4.5.6 リヒャルト・ベック
R:リヒャルト・ベックはアウシュヴィッツの自動車プールで運転手をしていました。彼はフランクフルト法廷事実捜査局から20ヶ月間で2度尋問されています[1]。
ベックは最初の尋問で、「ガス処刑の一回の事例を個人的に目撃しました、それは1943年夏のことだったにちがいありません」と述べています。しかし、二回目の尋問のときには、1942年から43年にかけての冬のことであったと述べています。彼は、処刑に立ち会うことを許可されているわけではありませんでしたので、「ガス処刑」や壕での処刑に立ち会うことを厳禁されていたはずです。にもかかわらず、まったくやすやすと現場に赴いているのです。彼は、自動車に乗ってガス室に向かったり、SS隊員に同行して、処刑現場から「数m」のところに居合わせたりしているのです。彼の話では、処刑命令はごく簡潔で、「用意、やれ!」というものでした。
L:それは幼稚ですね。命令は「用意、狙え、撃て」といったようでなくてはなりません。
R:三つの可能性があるようです。
a) ガス処刑や銃殺は秘密ではなかった。
b) SS隊員はまったく愚かで、もっとも基本的なセキューリティー業務さえも果たすことができなかった。
c) ベックが文学的修辞法を使っている。
L:選択の余地はありませんね。
R:ベックは証言の別の箇所でこう述べています。
「トラックにサンドイッチを積んでビルケナウの降車場に運ぶように命令を受けました。SSは、スイスの国際赤十字がユダヤ人の『再定住』を視察することを予想して、サンドイッチを配給して印象をよくしようと考えていたのです。しかし、この視察団はやってきませんでしたので、サンドイッチを持って帰りました。」
L:サンドイッチはどうなったのでしょう。明らかに、ベックは私たちの目をごまかそうとしています。全能のSSは赤十字の視察団の到着・出発もコントロールできないかのようです。
R:そのとおりです。
ベックは、アウシュヴィッツのブンカーの一つでガス処刑を目撃したと述べていますが、いくつかその話を抜粋しておきます[2]。
「最後に、一人のSS隊員、伍長だったと思いますが、彼が私たちの救急車のところにやってきて、ガスの缶を取り出しました。そして、その缶を持って、ゲートから見て、この建物の右側にある階段を上っていきました。彼は階段を上っているときガスマスクをつけているのに気がつきました。階段を上りつめると、丸い缶のふたを開けて、その中身を穴の中にふるい落としました。私は、彼が缶をふっているときに、缶が壁にぶつかる音を耳にしました。そのとき、壁の穴から茶色のゴミ煙が上がっているのを見ました。SS隊員が小さなドアをふたたび閉めると、筆舌に尽くしがたいような悲鳴が部屋の中で始まりました。人間がこのような悲鳴をあげることができるとは想像もできませんでした。悲鳴は8−10分続いて、その後まったく静かになりました。しばらくして、囚人がドアを開けると、大きな死体の山の上を青みがかった煙が漂っているのを見ることができました。…
この青い煙はおそらくガスだと思いますが、死体の上を漂っていました。にもかかわらず、死体を除去するための囚人作業班は、驚いたことに、ガスマスクもつけずに、部屋に入っていったのです。」
これまでお話したことを思い返してください。この証言のなかに不可解な箇所がありませんか?
L:シアン化水素は青ではありありません。ベックは、このガスのドイツ名(ブラウザウレ=青酸)から憶測して、そのようにイメージしたのでしょう。
これらの人々をすみやかに殺すには、大量の毒ガス丸薬を部屋に投下しなくてはなりません。ということは、換気されていない部屋にはまだチクロンBガスが残留・放出されており、囚人作業班は、ガスマスクや保護服を身に着けずに部屋に入ることはできなかったはずです。そうでなければ、彼らも死んでしまいます。
R:まったくそのとおりです。さらに、チクロンBはその放出中に茶色の煙など出しません。
V.132 リヒャルト・ベックによるアウシュヴィッツでのガス処刑
(フランスの修正主義的漫画家コンク氏から)
@ 犠牲者がガス室に押し込まれる |
A ドアが閉じられ、チクロンBが投下される |
B 数分間待機 |
|
|
|
C ドアが開けられ、「この青い煙はおそらくガスだと思いますが、死体の上を漂っていました。にもかかわらず、死体を除去するための囚人作業班は、驚いたことに、ガスマスクもつけずに、部屋に入っていったのです」 |
D まったくありえない! 全員が死んでしまう。チクロンBの充満した部屋は何時間も換気されなくてはならない(マニュアルは20時間をすすめている)。ガスマスクをつけていても安全とはいえない。 |
|
|
|
L:殺害時間についてのベックの話はどうですか?
R:合衆国の処刑ガス室では、大量の毒ガスが囚人のすぐ下で放出されますが、囚人一人を処刑するには10−15分かかっています。このことを考えますと、たった一缶のチクロンBを使用しただけでは、数百の囚人をすみやかに殺害することはできないでしょう。また、チクロンBからのガスの放出には、かなりの時間がかかるのです。
L:結局、ベックは自分が目撃したと主張していることを目撃していないのですね。
R:そのとおりです。ですが、話はこれで終わりではないのです。ベックは別のガス処刑を目撃していると主張しているからです。1941年秋、中央収容所の焼却棟Tでのことです。しかし、ホロコースト正史によると、この焼却棟の死体安置室でガス処刑が行なわれたのは1942年初頭のことなのです。
さらに、ベックは、自分が何年間も毎日では入りした自動車プールの建物が通りの向かい側、すなわち、古い焼却棟に隣接していたと述べています(そのスケッチも描いています)。もしも、1942年春以降、ガス処刑がこの焼却棟の中でいつも行なわれているとしたら、どうして、彼は一回だけしか目撃していないのでしょうか?
L:ひっそりと行なわれていたからでしょうか。
R:彼はその件についてこう述べています[3]。
「いずれにしても、私がアウシュヴィッツにいた全時期を通じて、囚人たちの死体が古い焼却棟で焼却されるのを見ることができました。これが減ったのは1944年末になってからのことです。2mほどの炎が煙突から立ち上るのを毎日見ることができました。また、焼けた人肉のような悪臭もしました。」
L:煙突から噴出す炎という古臭い物語ですね。
R:悪臭の話も忘れてはいけません。さらに、あろうことか、この焼却棟は1943年7月には閉鎖されているのです。
すでにお話しましたように、ベックは、アドルフ・レグナーの相棒で、手紙の持ち出し・持込の件で収容所のパルチザンの手助けをしていました。一度この件で逮捕され、収容所ゲシュタポの尋問を受けていますが、拷問もされていませんし、処罰を受けてもいません。
L:ということは、このSS隊員は、少なくともインタビューを受けているときには、すでに戦時中に囚人側に完全に寝返り、戦後は意識的に自分たちの宣伝を広めたと主張しているわけですね。
R:ベックという人物はそのような性格なのでしょう。彼はアドルフ・レグナーの相棒でした。そして、レグナーは囚人労働者として自動車プールに配属された電気工でした。そして、悪名高い嘘つきで、偽証を行なったのです。