4.5.5 ペリー・S・ブロード

R:SS伍長ペリー・ブロードはアウシュヴィッツ政治部の一員でした。すでにお話しましたように、終戦直後に、詳細な自白をしています。1959年、彼は、それとひどく矛盾した証言を行なっています。1945年のブロード証言が信用できないのは、とくに次のような理由からです[1]

 

1.       ブロードは、区画全域が「髪の毛が燃えるような」悪臭を放っていたと述べているが、それはありえない。焼却棟はこのような悪臭を放出しないからである。

2.       ブロードは各燃焼室に一時に4−6体押し込められたと述べているが、それは技術的にありえない[2]

3.       彼は、焼却棟の煙突から炎が噴出していたという伝説をオウム返しにしている。

4.       彼は、大量射殺がビルケナウ近くの森で行なわれたと述べているが、その事件はまったく確証されていない。

5.       彼も、焼却壕についての妄想話を繰り返している。

6.       ガス地下室として機能していたといわれる焼却棟UとVの死体安置室に一時に4000名が押し込められたことを目撃したと主張しているが、これらの死体安置室は210uであるので、1uあたり19名が押し込められたことになる。

 

 ブロードは、1959年4月30日と5月1日の尋問で、自分の証言について発言していますが、それによると、1945年の証言は伝聞証拠にもとづいていたとのことです。すなわち、噂と嘘が混じった話であったのです。彼は、1959年に、ガス処刑については何も知らなかった理由をこう説明しています[3]

 

「この点に関連して、中央収容所の中で大規模に行なわれていたガス処刑は下級SS隊員と看守に対しては、厳重に秘密にされていたことを説明しておきたいと思います。そのことを口にするのは禁止されていました。看守であっても、噂を通じて以外には、事態については何も知ることができなかったに違いありません。」

 

 ブロードはここで自分のことを話しているのです。彼は看守から出発して、SS伍長以上には昇進できなかったからです。ですから、古い焼却棟でのガス処刑に関するかぎり、彼の話は噂にすぎないのです[4]。のちに、彼の話はもっと詳しくなりますが、それでも、焼却棟Tでのガス処刑を目撃したのは、病院の二階に寝ていたときの「一回だけ」であったと述べています[5]。しかし、1959年証言の信憑性も低いのです。SSは秘密を保つために中央収容所の古い焼却棟の周囲を「封鎖」したと述べていますが、この話も馬鹿げているからです。もしSSが、大量殺戮をそこに直接関係していないSSの目からも隠そうとしていたとすれば、古い焼却棟でガス処刑を行なうことなど考えられないからです。にもかかわらず、古い焼却棟でガス処刑を行なったとすれば、まず、SS病院の建物を別のところに移さなくてはなりません。ここには、大量殺戮とまったくかかわりのないSS隊員が収容されていたはずでしたから。

 政治部の建物は病院の向かい側、すなわち古い焼却棟のすぐ隣にありました。ここは、すべての処刑に直接かかわりのある機関でした。ペリー・ブロードは1942年6月以降毎日、この建物の中で働いていました。大量ガス処刑は毎日彼の鼻先で行なわれていたはずですので、どうしてガス処刑を目撃したのは(それも、偶然、SS病院から)、一度だけであったのでしょうか。まったくのミステリーです

 

L:政治部の事務所はガス処刑が行なわれるたびに、どこか別の場所に移っていたのでしょう。

R:いずれにしても、政治部の目から何を隠そうとしていたのでしょうか?政治部は処刑の執行に責任をおっていた部局です。公式の処刑人の目からも「ガス処刑」を隠そうとしていたとすれば、SS病院も別の場所に移さなくてはならなかったはずです。

 

L:政治部も、毒ガスの換気がおこなわれているときには、危険を避けるために、どこかに移ったのでしょうね。

R:そのとおりですが、病院にも危険がおよんだはずです。さらに、毒ガスの危険をさせるために、焼却棟周囲の区画を疎開させることは、毒ガスの使用を隠すという努力を無駄にしてしまったはずです。ブロード証言はどのようにこじつけて解釈しようとも、非合理的かつ非論理的なのです。

 ペリー・ブロードは1959年5月30日に逮捕され、尋問されているあいだと、1964年に始まった裁判のあいだ全体を通じて拘束されていました。1965年8月20日、彼はフランクフルト地方裁判所から懲役4年の判決を宣告されましたが、それは、彼が1959年以降から刑務所ですごした期間で代替されたのです。彼の罪状は、選別と処刑、すなわち集団的殺戮を集団的に手助けした22項目におよんでいました。戦争直後の裁判と同じように、フランクルトでの裁判でも、確信殺人犯のペリー・ブロードは、自由の身で法廷を去っていったのです

 

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[1] ここでは、ユルゲン・グラーフの論考を要約するop. cit. (note 926), pp. 168-176。

[2] この点については、証人タウバーを扱うときに詳述する。

[3] Staatsanwaltschaft beim LG Frankfurt (Main), op. cit. (note 462); vol. VII, pp. 1080a, 1081.

[4] Ibid., p. 1085.

[5] Ibid., p. 1086; cf. note 946, p. 377.