4.4. 文献とメディアでの証言

R(ルドルフ):ホロコースト文献での最大のスキャンダルの一つが1998年に起りました。ブルーノ・デッセッケル、別名ビンヤミン・ヴィルコミルスキーが、アウシュヴィッツとマイダネクですごした自分の少年時代を「目撃者」としてまとめ、それを発表したのです。彼は自分のメモワールに『断片』[1]というタイトルをつけましたが、まもなく、まったくのフィクションであることがわかってしまいました[2]。デッセッケルは戦時中にスイスを離れたことがまったくありません。このスキャンダルがスキャンダルである所以は、ホロコーストについて嘘を述べている人物がいるということではありません。そんなことは目新しいことではないからです。ホロコースト正史派全体がこの作品に夢中になってしまって、デッセッケルを褒めちぎり、その作品がフィクションであることが判明してからも、ごまかしを認めることを拒み続けたことがスキャンダルなのです。ユダヤ系のメインストリームのジャーナリストであるダニエル・ガンツフリードは、デッセッケルの正体を公表すると[3]、ヴィルコミルスキーが嘘をついていることを公に暴露すれば、修正主義者の炎に油を注いでしまうので、そのようなことをすべきではないとの不満を突きつけられました。また、ユダヤ系のメインストリームの著述家ハワード・ヴァイスは、事件を次のようにねじ曲げています[4]

 

「ホロコーストに関するフィクションを実話として発表してしまうことは、ナチズムの恐怖と死の収容所は存在しなかったと主張する人々に塩を送るようなものにすぎない。一つの話が嘘であるとすると、否定派は、だとすると、どの生存者の話が真実であるのかというようにたたみかけてくるからである。…おそらく、[ヴィルコミルスキー]の話の信憑性については誰も疑問を投げかけようとはしないであろう。ホロコーストについてのすべてのことが非常に神聖になっているからである。」

 

L(聴衆):修正主義に塩を送っているのは、嘘をもみ消そうとしている人々なのでしょうか、それとも、嘘を暴露しようとしている人々なのでしょうか?

R:両方ともです。どちらにしても、修正主義が勝ちを収めるのですから。

 

L:何が修正主義を利しているかどうかではなく、何が真実かどうかを考えるべきですね。

R:まさにそのとおりです。しかし、ショアー・ビジネスのスターたちはそのようには考えていません。例えば、リップシュタットは、彼女は、ヴィルコミルスキーの本が偽書であったとして、そのことは「事態を少々込み入ったものにしたかもしれないが、作品は[小説としては]依然として力強いものである」とコメントしています[5]。 ユダヤ系の作家ジュディス・シュレヴィツ(Judith Shulevitz)は、カナダの有力紙に発表した記事の中で、『断片』が本物であるかどうかはまったく重要なことではない、と論じています[6]

 

「私としては、ヴィルコミルスキー=デッセッケルが詐欺行為を行なうにあたってもっと細心の注意を支払って、世界的な文学 作品に値するような壮麗な偽物を執筆すればよかったと考えている。」

 

L:またもや、反ファシスト嘘つきが登場しました。少なくとも、正直であると言えると思います。

R:クラーク大学(マサチューセッツ州ウォセスター)のホロコースト研究センター所長デボラ・ドヴォルク(Deborah Dwork)は、『断片』が偽書であることは認めつつも、デッセッケルへの共感を表明しています。出版者によって利用されて、「深く傷ついた」人物であるというのです[7]

ホロコースト研究のメッカ=イスラエルのヤド・ヴァシェム博物館長イスラエル・ガットマンは、デッセッケルが嘘を付いたとするのは適切ではないと述べています[8]

 

「ヴィルコミルスキーは、彼自身が深く経験したことを物語として執筆した。彼は、詐欺師ではない。魂の中でこの物語を経験した人物なのである。その苦痛は本物だ。」

 

 ガットマンのケースは例外ではありません。やはりヤド・ヴァシェム博物館員のリー・バリント(Lea Balint)も、デッセッケルが詐欺師であることが暴露されてからも、彼のことを擁護しています[9]

 こうした主張はまず修正主義に反対するという特徴をもっていますが、もう一つの特徴は、デッセッケルの擁護者たちが、彼の話は事実ではないかもしれないが、非常にリアリスティックであって、ホロコースト生存者の物語を的確に反映していると論じていることです。

 

L:デッセッケルの物語は他の物語と非常に似ているがゆえに、適切なものであると論じていることになりますね。

R:はい。しかし、この主張は、ヴィルコミルスキーのような話がすべて虚偽であるとみなせば、その根拠を失います。ハワード・ヴァイスは、ヴィルコミルスキーの話が「一つの虚偽」にすぎないと述べていますが、そうではなく、このような事例は数多いのです。

 スティーブン・L・ジェイコブス(Steven L. Jacobs)は、自分と同宗派の仲間たちが不誠実であることを詳しく批判して、同じような偽書事件が1997年初頭にオーストラリアでも暴露されていることを思い起こさせています。ドナルド・ワットが、自分がアウシュヴィッツの囚人であったという話を捏造した事件のことです[10]

 そのあとにも、捏造が暴露されています。1998年、イエズス会士ファン・マヌエル・ロドリゲス(Juan Manuel Rodriguez)がエクアドルに移住してきていたルーマニア系ユダヤ人サロモン・イサコヴィチ(Salomon Isacovici)を告訴しています。イサコヴィチは、ロドリゲスが執筆し、自分に話してくれた物語を自分の自伝として公表したというのです[11]

 さらに、2004年10月末、オーストラリア人バーナード・ブラハム(Bernard Brougham)、別名バーナード・ホルスタイン(Bernard Holstein)の嘘が暴露されています。ある私立探偵がブラハムの経歴を調査すると、彼の著作『盗まれた魂(Stolen Soul)』を出版していたウエスタン・オーストラリア・プレス出版社は、書店からこの著作を引き上げたのです[12]。ブラハムは、9歳のときに(!)アウシュヴィッツに収容されて、人体実験の対象となり、レジスタンスに所属して、逃亡を図ったものの、捕まって拷問されたと述べていました。しかし、彼を養子としていた家族は、ブラハムはドイツ生まれでも、ユダヤ人でもないと出版社に知らせてきたのです。そこで、探偵が調査すると、ブラハムはオーストラリア生まれで、1942年にカトリックの洗礼を受けていることがわかりました[13]。この調査結果に対する反応は特徴的です[14]

 

「出版者ジュディ・ショロック(Judy Shorrock)は、この調査結果にまだ『ショック』を受けており、この事件によってホロコースト否定派の活動が活発となることを恐れてこう述べている。

 『私は、この本の出版に3年を費やしてきました。私は打ちのめされています。この事件は、ホロコーストの信憑性にダメージを与えるでしょう。まったく心を痛めています。』」

 

 最後に、マウトハウゼン収容所囚人スペイン協会「Amical de Mauthausen.」の前会長エンリク・マルコ(Enric Marco)事件のことを紹介しておきます。彼は、1970年代末から、戦時中マウトハウゼンとフリュッセンブルク収容所に収容されていたと話していました。そして、2005年1月27日、アウシュヴィッツ解放60周年にちなんで、スペイン国会でこう演説しています。

 

「私が強制収容所についたとき彼らは私の服を剥ぎました。彼らの犬が私たちを噛み、スポットライトが私たちの目をくらませました。彼らは男を一方の側に、女子供をもう一方の側に並ばせました。女性たちは輪を作って、身体を張って子供たちを守りました。」

 

 しかし、この話は、スペインのメインストリームの歴史家ベニト・ベルメヨ(Benito Bermejo)が2005年初頭に発見したように、まったくの嘘だったのです。戦時中の1941年、マルコは自発的にドイツの造船場に働きに出かけ、1943年にはスペインに帰国しています。ですから、ドイツの収容所を内側から見たことなどないのです[15]

 ポーランド人ジャーナリストのヨハンナ・セドレツカは、1965年に発表されたイェルジ・コシンスキによる基本的ホロコースト文献『異端の鳥』[16]が捏造作品であることを暴露しましたが[17]、エリー・ヴィーゼルは、暴露されてからも長らく、このホロコースト詐欺師のコシンスキのことをまったく信用し続けていました。ノーマン・フィンケルスタインはヴィーゼルのこの態度を指摘することで、ホロコースト詐欺師のことを盲目的信頼してしまう姿勢の存在を明らかにしています[18]。アルフレッド・カジンは、エリー・ヴィーゼル、プリモ・レヴィ、イェルジ・コシンスキたちが「虐殺物語をでっち上げて、一財産作ろうとした」と『シカゴ・トリビューン』紙上で非難していますが、この非難は正しいのです[19]

 

L:エリー・ヴィーゼルとプリモ・レヴィも捏造者であると暴露されたのですか?

R:不誠実であると非難されてきました。多分、アウシュヴィッツの生存者の中でもっとも有名なエリー・ヴィーゼルは、ホロコースト問題では同盟者となるはずのユダヤ系の人々、とくに、フィンケルスタイン[20]、ヴィダル・ナケからも攻撃されています。ヴィダル・ナケは修正主義的研究者フォーリソン博士の最大の論敵ですが、彼はこう述べています[21]

 

「例えば、ラビのカハネがいます。この過激なユダヤ人はエリー・ヴィーゼルのような人物と同じように危険である。ヴィーゼルは、自分の頭に浮かんだつまらないことを話している。彼の話が正確ではなく、ショアーの押し売りにすぎないことは、『夜』のなかの文章を読めばすぐにわかる。彼は、歴史的真理に対して、不正、大いなる不正をおかしている。

 

 ヴィーゼルの自伝『夜』の中身については後で検証することにして、ここでは一つの点に触れておきます。本書のオリジナルフランス語版では、彼はアウシュヴィッツのガス室のことに触れていません。彼は、アウシュヴィッツのユダヤ人は焼却壕に生きたまま押し込められて殺されたと考えていました。この点についてもあとで検証します。

 ドイツ語版になって、「焼却棟(crématoire)」という単語を「ガス室(Gaskammer)」という単語に置き換えることでこの「欠陥」はやっと「修復」されました。この作業は機械的に行われたので、ブッヘンヴァルト強制収容所にはガス室が存在したという話はまったくなかったにもかかわらず、その焼却棟もガス室に変ってしまっているのです[22]

 

オリジナルのフランス語版

偽造されたドイツ語版

A. アウシュヴィッツにて

A. アウシュヴィッツにて

S. 57: au crématoire

S. 53: ins Vernichtungslager

S. 57: au crématoire

S. 53: in die Gaskammer

S. 58: les fours crématoires

S. 54: die Gaskammern

S. 61: aux crématoires

S. 57: in den Gaskammern

S. 62: le four crématoire

S. 57: in die Gaskammer

S. 67: Au crématoire

S. 62: in die Gaskammer

S. 67: le crématoire

S. 62: Gaskammer

S. 84: exterminés

S. 76: vergast

S.101: les fours crématoires

S. 90: in den Gaskammern

S.108: six crématoires

S. 95: sechs Gaskammern

S.109: au crématoire

S. 95: in den Gaskammern

S.112: le crématoire

S. 98: die Gaskammer

S.129: au crématoire

S.113: in die Gaskammer

B. ブッヘンヴァルトにて

B. ブッヘンヴァルトにて

S.163: du four crématoire

S.140: der Gaskammer

S.174: au crématoire

S.150: in die Gaskammer

25:ヴィーゼルの有名な著作『夜』(1958年オリジナルのフランス語版)のドイツ語版(1962年)の偽造。ドイツ語版には「ガス」という単語が15箇所に登場しているが、フランス語版はそのような単語をまったく使っていない[23]

 

L:でも、誤訳の責任をヴィーゼルに押し付けることはできないでしょう。

R:ヴィーゼルがそれを容認していればですが。このような偽造はメディアで行われているのが問題です。いつも監視していなくてはなりません。

 また、1991年末、旧囚人向けのフランスの雑誌の中で、新たなごまかしが暴露されています。同誌に掲載されたアウシュヴィッツの焼却棟の火焚き人アンリ・ビリ(Henry Bily)による記事が、ミクロス・ニーシュリの本を粗雑に模倣したものであることが暴露されたのです[24]

 

「[ビリ]は、まったく典拠文献であることを示さずに、ミクロス・ニーシュリ博士の『アウシュヴィッツの医師』から、とくに7章と28章をまるごと借用した。…不幸なことに、ニーシュリ博士の間違いがそのままコピーされている。アンリ・ビリが所属していたと主張するアウシュヴィッツ・ビルケナウの特別労務班の活動について詳しく描写した箇所である。…

 分析の結果、アンリ・ビリのテキストを目撃証人のオリジナルな報告とみなすことはできないことが明らかとなった。」

 

L:特別労務班の活動とは何ですか?

R:今日使われている用語としては、ガス室から死体を引き出し、髪の毛を切り、金歯を抜き、死体を炉や薪の山に運んでいった囚人グループのことです[25]。しかし、オリジナルのアウシュヴィッツ収容所資料によれば、この用語「特別労務班」(特別部隊)が焼却棟で作業する囚人をさして使われたことはありません。殺人とは無関係なさまざまな仕事を担当した囚人たちを指して使われていました[26]

 

L:捏造された「コード言語」のもう一つの事例が登場しているということですね。

R:そのとおりです。頑固なホロコースト信者でさえも、ごまかしや嘘が横行していることを認めざるをえなくなっています。もしそうであるとしたら、先入観を抱かずに批判的に検証したとすれば、一体どのような光景が見えてくるのでしょうか。

 ここでは少しばかり批判的に、エリー・ヴィーゼル、プリモ・レヴィ、ミクロス・ニーシュリ、フィリップ・ミューラーといったメディアに登場する綺羅星のような証人たちの証言を検証してみましょう。

 ミクロス・ニーシュリの『アウシュヴィッツの医師』[27]は、ホロコースト信者でさえも欠陥があると認めているものですが、彼がニュルンベルクでの尋問のときに行なった証言とひどく矛盾しています。このために、検事側は彼を証人として召喚することを止めています。ニーシュリは、本の中で公言したことを何一つ立証できませんでした。彼の話がまったく眉唾であることは、詳しく明らかにされています[28]

 ビルケナウの特別労務班員としての活動を詳しく描いたフィリップ・ミューラーの「小説」[29]も、精査された結果、剽窃であることが明らかにされました[30]。イムレ・ケルテーシ(Imre Kertesz)の『一人の運命を失った者のロマン(Roman eines Schicksallosen[31]もエリー・ヴィーゼルからの、さらに、信じがたいことであるにせよ、ヴィルコミルスキーからの剽窃です[32]

 

L:ケルテーシは2002年に、この本によって、ノーベル文学賞を受賞したのではなかったですか?

R:そのとおりです。ホロコースト文献の分野では、嘘と名声は同じことを意味しているようです。さて、エリー・ヴィーゼルの次に有名なアウシュヴィッツの生存者プリモ・レヴィの件に移りましょう。彼は、自分の著作の中で、アウシュヴィッツでのガス処刑のことを知ったのは戦後になってからのことだったと述べています[33]。そのために、ガス処刑については直接触れていません。しかし、1976年以降、補足の中で、ガス室の話が頻繁に登場するようになり、レヴィも直接にそのことを見聞したかのような印象が作り出されています。つまり、1970年代にホロコースト産業が興隆するようになると、ガス室ホラー物語への読者の関心を満足させるために、レヴィの話も中身が膨らまされていったとの疑問がわくのです[34]。レヴィの本の中の殺人ガス室についての補足の中にどのような価値があるかについては、1987年4月11日のレヴィの自殺直後に公表されたフランスの左翼の日刊紙『リベラシオン』紙の記事が明らかにしています。その記事は、レヴィが1943年末にパルチザンとして逮捕されたときに即座に射殺されなかったのは彼がユダヤ人であることを認めたであったと述べています[35]

 

「レヴィはパルチザン活動をしていたときにファシストに逮捕された。そのとき、ピストルを隠し持っていたが、その場で射殺されるのを逃れるために、ユダヤ人であることを明かした。そして、彼は、ユダヤ人としてドイツ側に引き渡された。ドイツ人は彼をアウシュヴィッツに送った。」

 

L:パルチザンはその場で射殺されたのですか?

R:かならずしもそうではありませんが、パルチザン、すなわち非合法戦闘員の処刑は、戒厳令下では認められていましたし、今日でも認められています。レヴィは、自分がユダヤ人であることを明らかにすれば、有利な特別措置を受けることを期待していたのですし、その期待がかなえられたからこそ、彼は生き延びることができたのです。

 

L:虚偽のホロコースト文献のことを問題としているのであれば、アンネ・フランクの日記のことに触れざるをえないのではないですか?[36]

R:ここではその問題をお話したくありません。

 

L:しかし、それは偽造文書だったのでしょう。

R:そんなに単純ではありません。ドイツ連邦調査局(BKA)の専門家報告は、オリジナルの原稿には、ボールペンを使ったいくつかの修正がなされていると述べています。ボールペンは戦後の発明ですから、アンネ・フランクがそのような補足をしたのではないことは明らかです。彼女は終戦直前にベルゲン・ベルゼン収容所で死んでいるのですから[37]

 フォーリソン教授によると、戦後に日記を編集して、今日私たちが知っているようなものを作り出したのはアンネの父オットー・フランクでした[38]

 また、アンネ・フランクは、小説として出版しようと思って「日記」を書いていたのです。ですから、彼女自身が書いた部分であっても、本物の日記としてではなく、自分の経験にもとづく小説として理解しなくてはならないのです。

 

L:どの点が、虚偽にあたるのですか?

R:たんなる小説にすぎないものを真実と主張するのは不誠実です。ただし、私がこのテーマを避けようとしているのは、たとえ、父親によって編集された小説であったとしても、アンネの日記の枠組みには、虚偽に当たるものはまったくないという事実のためです。戦時中、彼女と彼女の家族およびその他のユダヤ人たちは、ドイツ占領軍による移送を逃れるためにアムステルダムで身を隠していました。しかし、結局、発見されて、アウシュヴィッツに移送されました。この話の大枠には間違っている箇所はありません。数多くのユダヤ人が同じような運命をたどったからです。15歳の少女アンネはアウシュヴィッツでガス処刑されずに、正式に登録されました。そして、戦争末期に、ベルゲン・ベルゼンに移送されて、その他数千のユダヤ人と同じように、チフスで死にました。この事実は修正主義者の学説と矛盾しません。それどころか、アンネの日記は修正主義者の学説を立証しているのです。

 『アンネ・フランクの日記』は本当の日記ではなく、「偽造」であると主張することは、まるで修正主義者がアンネ・フランクの悲劇的な運命を否定しようとしているかのようで、後味が悪いのです。ですから、私はこのテーマに避けているのです。アンネ・フランク「事件」が明るみに出しているのは、ホロコースト産業が第二次世界大戦中に登場したこの人物の悲劇的な運命の周囲で発展していったということだけです。

 

L:ショアー・ビジネスのようなものがあってはならないということですね。

R:歴史学の分野ではあってはなりません。

 最後に、心理的な影響をもっとも強くおよぼすメディアとして映像メディアのことを触れておきたいと思います。戦時中の収容所の性格を描いたフィルムはまったく存在していないにもかかわらず、そのようなドキュメンタリー資料が存在すると確信している人々に何回も会ったことがあります。戦後に撮影されたフィルムが、その中に登場するシーンが実際に戦時中に撮影されたものであるかのような印象を繰り返し暗示しているためです。

 もっとも早期に制作されたフィルムが、Todesmuhlen死の粉引き小屋)です、連合国が終戦直後に制作し、ドイツ国民に見せたものです。それは、強制収容所の恐怖を描いたものとされ、ドイツ国民の「再教育」の推進を目的としていました。しかし、批判的な姿勢をとるドイツ人も少なくなく、抗議によって上映が中断されたこともありました。少数の観客の抗議の声は、その映画から罪の意識を感じた観客によって暴力的に押しとどめられたこともありました[39]。当時の記事によると、批判を呼び起こしたのは、戦争末期のドイツの強制収容所の状況に関する本物の写真と映画のクリップに、爆撃されたドイツの町でのドイツ人の死者の山、「自動的逮捕」収容所での衰弱したドイツ人囚人の光景がつけられており、それがドイツの強制収容所の犠牲者として提示されていたことでした[40]。メインストリームの歴史家チェンバレンは、連合国の占領軍が本物の映像資料を制作することは難しかったと述べていますが、このような主張自体が、この難しさを連合国がどのように「解決」したのかを示唆しています。

 

L:そのような偽造については、文書資料にもとづいて明らかにすべきですね。

R:そのとおりですが、残念なことに、私の知る限りでは、まだ文書資料にもとづいて明らかにされていません。

 

L:強制収容所の囚人を描いたとされるフィルムに写っているという友人のことを知っていますが、この人物は、捕虜となったアメリカ軍兵士です

R:あなたのお話を信じたいと思いますが、伝聞証拠にもとづいて歴史研究を行なうわけにはいかないのです。

 

L:私が嘘をついているとおっしゃるのですか?

R:まったくそうではありません。しかし、すべての証言を同じような批判的基準から検証しなくてはならないのです。その証言が私の主張と矛盾しているからといって、その伝聞証言を根拠のない「ゴシップ」として否定したり、私の主張と一致しているからといって、その伝聞証言を無批判的に認めたりすることはできないのです。

 

L:私の友人がおしゃべりにすぎないというのは侮辱なのですが。

R:どうか、落ち着いてください。私たちが求めているのは、少なくとも、これらのフィルムやシーンのどの箇所に写っているのか、この映画はどこで撮影されたのについての、法律にもとづく証言なのです。残念ながら、あなたが紹介してくださった退役軍人の逸話は価値がないのです。

 

L:そのような侮辱を認めるわけにはいきません。

R:もし私の話が無神経であったとすれば、謝ります。しかし、理解していただきたいことは、ホロコースト生存者たちは、自分たちの話が盲目的に受け入れられないとなぜ怒り出すのかという点です。私は、立証可能な証言であれば、喜んで受け入れますが、今日まで、そのようなものを受けとったことがありません。

 さて。メディアの話題に戻りましょう。すでに、ランズマンのドキュメンタリー・フィルム『ショアー』についてはお話しました。このような映画やホロコースト生存者とのインタビューについてもっとも注目すべき点は、ホロコースト生存者たちがまったく批判にさらされていないことです。批判的な質問もなされませんし、それ以上の説明も求められないのです。反対尋問も受けないでなされた法廷証言はメディアでのインタビューは価値がないのですが、メディアでのインタビューはそれ以上に価値がありません。

 すでにお話しましたが、1990年中頃、できるかぎり多くのホロコースト生存者の目的証言を記録するというプロジェクトがいくつか発足しましたが、このプロジェクトでは、目撃証人が何を話そうとも、その信憑性に疑問を呈することなく、彼らの話を無批判的に記録するという作業がすすめられました。

 

L:ですから、このような証言にはまったく価値がないのですね。

R:まったく価値がないともいえません。現時点で、魔女についての数千の目撃証言があったとします。待った価値のないものでしょうか?そうではありません。そのような証言が存在することは、記憶の「同期化」と大衆ヒステリーが起っていることを明らかにしていますし、当時の政治・社会情勢、さらには、隠されている歴史的事実をこれらの証言からつかみ出すこともできます。その意味で、ホロコースト生存者の新しい証言には価値があります。批判的な研究を介してのみその価値を評価することのできる情報の宝庫なのです。

 一方、『ショアー』や『シンドラーのリスト』といった映画が歴史学の定説を正確に反映しているとみなしている人は誰もいないでしょう。しかし、歴史家たちは、これらの映画が「社会教育の要請」のこたえているとの理由で、歓迎しているのです[41]

 

L:「社会教育の要請」とは、言い換えれば洗脳のことではないですか。

R:穏健ではあるが長期にわたって効果的な「社会操作」といえると思います。

 

L:何と、わが国の歴史家たちは、このような捏造映画を介して私たちが洗脳されることを願っているのですね。

R:捏造という件については立証が必要ですが、『シンドラーのリスト』を少しばかり検証してみましょう。

 

 

 V.129は、プワショフ収容所長ゲートが自宅のバルコニーから囚人に向かって銃を乱射するシーンです。当時の航空写真によると、所長宅は傾斜のふもとにあり、そこから登ったところに囚人バラックがあります(V.131)[42]。一方、映画の中のシーンでの収容所や所長宅の配置は、射撃が可能となるようにV.130のようになっています。ですから、このシーンはでっち上げなのです。

 映画『シンドラーのリスト』は概ね、歴史上の事件の枠組みの中におかれている小説にもとづいています[43]。しかし、メインストリームの歴史家でさえも、本と映画の話の筋がひどく歪曲されていることを認めています[44]。映画監督も、意図的にモノクロと固定カメラを使って、この映画が当時のドキュメンタリー・フィルムであるかのような印象を作り出したことを公に認めています[45]。世界中で学校の先生は、学校の全クラスがこの映画を鑑賞する映画会を開くことを義務づけられてきました。オーストラリアでは、商業テレビ史上初めて、この映画は、コマーシャルをいれずに放映されています。ドイツ人の観客はこの映画の中でとくに不誠実な点に気づきませんでした。ドイツ語版以外の映画では、ドイツ人兵士やSS隊員が命令を出したり、出動したり、叫んだり、暴力を振るうときには、いつも吹き替え無しでドイツ語を話しています。これはこの種映画では典型的な手法なのです。ドイツ語は残酷な怪物の言葉、すなわち悪魔の言葉であるとの印象を、ドイツ人以外の人々に潜在的に伝えているのです。ドイツ語版では、全員がドイツ語をしゃべっているので、この点に気づくことはありません。このようなトリックを使って、ドイツ人には事態を気づかせることなく、ドイツ人とドイツ語、ドイツ文化に対する悪感情が、全世界で呼び起こされています。

 

L:だから、ドイツ語を学びたがる人があまりいないのですね。

R:それも一つの結果です。もう一つお話しておきたいことは、プワショフ所長(アモン・ゲート)、ブッヘンヴァルト所長(エーリヒ・コッホ)、マイダネク所長(ヘルマン・フロスシュット)、ワルシャワ所長、ヘルツォゲンボシュ所長が犯罪行為の咎でSS内部裁判にかけられている事実をスピルバーグが観客に伝えようとしていないことです。これ以外にも、歪曲された歴史上の事件がスピルバーグのホラー宣伝映画に数多く登場していますが、時間の制約のために、お話しすることができません。

 まとめておきますとこうなります。数多くの裁判事件での目撃証言は、信憑性に欠けています。しかし、多くの人々は法廷に対して敬意の念を抱いていたので、その法廷がそれにふさわしいかどうかは別として、そんなに真実を証言することから離れてはならないと考えていた証人も存在していました。でも、このような証人たちがメディア相手に話したり、本を書くときには、このような抑制はなくなってしまったのです。これらの証人たちにとって、嘘をついたり、話を捏造したり、他人の話を剽窃したりすることは、あたりまえの行動基準となっていきました、その動機は多様ですが。

 自己顕示欲やうぬぼれ、すなわち、ステージの中央に立っていたいという意志が、嘘や誇張を促す動機です。これはごくあたりまえの社会現象でして、現代の神話と伝説の起源を研究する学問のメインテーマになってきています。ランケによると、人間にとって、物語を話すことは、恐れと経験を処理することに役に立つので、周囲とのコミュニケーション、社会的約束事のためも、高い優先権を持っているのです[46]

 ローンリヒも誇張と妄想による捏造の社会的意味を考察しています[47]。ブレドニヒは、信用できる個人的物語とみなされているが、実際には嘘に他ならないような世界各地の神話や伝説を集めたポピュラーな著作を出版しています[48]。ですから、嘘というのは私たちの世界の確固とした一部なのです。社会的機能さえも果たしているのです。ご自分に正直であれば、第三者と話しているときに、本当の経験を誇張していること、ときには捏造していることにも気づくはずです。すなわち、嘘をついているのです。

  もちろん、メディアや文献の中での嘘の背後には、欲望や利益とった物的利害が強力な動機となっていることも数多く見られます。この場合には、嘘の社会的機能は反社会的となります。

 

L:ショアー・ビジネスのようなビジネスはあってはならないのですね。

R:復讐心や憎悪が私たちの思考の中で一定の役割を果たすことがあります。もっとも、実行犯の処罰を目的とする法廷でよりも、メディアや文献の中では、その役割は小さいのですが。多数の共産主義者とユダヤ人が、すなわち民族社会主義のおもな犠牲者集団が、憎悪の炎につつまれて、みずから虐殺行為を行なった事例があります。戦後のポーランドで発生した、ドイツ人に対するユダヤ人の復讐行為のことです。この事件については、ユダヤ系アメリカ人のジャーナリスト故ジョン・サック氏が『目には目を』に中で明らかにしています[49]

 嘘がまかり通るのを奨励している最大の要因は、嘘をついている証人の正体が絶対に暴露されることがないという保証、少なくとも刑事訴追の対象となることはないという保証です。メディアや文献の中でホロコーストの嘘つきの正体が暴露されることはほとんどありませんし、あったとしても非常に寛大な処置を受けるだけです。メディアで嘘をついた証人に起りうる最悪の事態は、せいぜい、少しばかりのお金を手にして、ふたたび匿名性の中に身を隠すことです。

 法廷においても、ホロコースト証人は、たとえ宣誓を行なってから嘘をついたとしても、放免されます。偽証の件で処罰せよとの動議が出たとしても、かつての迫害の犠牲者をふたたび訴追するべきではないとの理由で、却下されてしまいます。もちろん、このようなやり方は、嘘に対する門戸開放政策となります。

 

L:偽証の件で有罪となったアドルフ・レーグナーは例外ですね。

R:そのとおりです。終戦直後にはまだドイツ当局も懐疑精神を持っていたので、レーグナーはことを急ぎすぎてしまったのです。でも、結局は、望みどおりのものを手に入れました。

 

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[1] B. Wilkomirski, Bruchstucke. Aus einer Kindheit 1939-1945, Suhrkamp/Judischer Verlag, Frankfurt 1995; Engl.: Fragments. Memories of a Wartime Childhood, Schocken Books, New York 1996.

[2] Stefan Machler, Der Fall Wilkomirski, Pendo, Zurich 2000 (Engl.: The Wilkomirski Affair, Schocken Books, New York 2001); Daniel Ganzfried, alias Wilkomirski. Die Holocaust-Travestie, Judische Verlagsanstalt, Berlin 2002.

[3] Weltwoche no. 35, Aug. 27, 1998, pp. 46f.

[4] Chicago Jewish Star, Oct. 9-29, 1998; this and other quotes taken from Mark Weber, “Holocaust Survivor Memoir Exposed as Fraud,” JHR 17(5) (1998), pp. 15f.(偽書『断片』(ヴィルコミルスキー)事件(歴史的修正主義研究会編・試訳)

[5] Forward, Sept. 18, 1998, p. 1.

[6] Ottawa Citizen, Nov. 18, 1998.

[7] New York Times, Nov. 3, 1998.

[8] Acc. to Norman Finkelstein, “The Holocaust Industry,” Index on Censorship, April 2000, 2/2000, pp. 120f. See also N. Finkelstein, op. cit. (note 370), pp. 55-58.

[9] Cf. note 1090. For more of such contortions cf. Arthur R. Butz, “Historical Past vs. Political Present,” JHR 19(6) (2000), pp. 12-25, here pp. 18-21.

[10] Steven L. Jacobs, “Binjamin Wilkomirski (Fragments) and Donald Watt (Stoker): When the Holocaust Story Is a Lie,” CCAR Journal, spring 2001 (http://data.ccarnet.org/journal/601sj.html); cf. Serge Thion, “Revisionistisches aus unerwarteter Ecke,” VffG 2(1) (1998), p. 38 (to appear in Engl. in TR).

[11] Bill Grimstad, “Augenzeuge oder Romanheld?,” VffG 3(2) (1999), pp. 218f.

[12] Bernard Holstein (=Brougham), Stolen Soul: A True Story Of Courage And Survival, University of Western Australia Press, Perth 2004.

[13] Catherine Madden, Jim Kelly, “Holocaust man’s claims queried,” The Sunday Times (Perth), Oct. 31,

2004.

[14] Melissa Singer, “Holocaust ‘memoir’ withdrawn,” The Australian Jewish News, Nov. 6, 2004; cf. M. Singer, “Literary hoaxes and the Holocaust,” ibid., Nov. 19, 2004 (www.ajn.com.au/pages/archives/feature/feature-02m.html)

[15] BBC News, May 12, 2005 (http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/4539461.stm). Tageszeitung, May 17, 2005, p. 11 (taz.de/pt/2005/05/17/a0110.nf/text).

[16] Houghton Mifflin, Boston 1965.

[17] Kosinskis War,” The New Yorker, Oct. 10, 1994, pp. 46f., cf. www.ukar.org/kosins.html.

[18] N. Finkelstein, op. cit. (note 370), p. 56.

[19] Chicago Tribune, Dec. 31, 1995, reviews, pp. 1f.

[20] N. Finkelstein, op. cit. (note 370), pp. 41-78.

[21] Interview with Michel Folco, Zero, April 1987, p. 57.

[22] French: La Nuit, editions de minuit, Paris 1958; German: Die Nacht zu begraben, Elisha, Ullstein, Fankfurt/Main-Berlin 1962.

[23] Compiled by Jurgen Graf, first published in: R. Faurisson, “Die Zeugen der Gaskammern von Auschwitz,” in: E. Gauss (ed.), op. cit. (note 256), pp. 99-110, here p. 110; Engl.: G. Rudolf (ed.), op. cit. (note 44), p. 144.(試訳:アウシュヴィッツのガス室についての目撃証人(R. フォーリソン)) The properly translated words of the Engl. edition have been omitted here for space reasons (Night, Hill and Wang, New York 1960).

[24] Le Deporte pour la liberte, December 1991 – January 1992; Bily’s story had been printed in the October – November 1991 issue of this journal under the title “Mon histoire extraordinaire.”

[25] See e.g. D. Czech, “The Auschwitz Prisoners’ Administration,” in: I. Gutman, M. Berenbaum (eds.), op. cit. (note 250), p. 371

[26] See. C. Mattogno, op. cit. (note 578), pp. 101-103.

[27] Engl. see note 376.

[28] W. Maser, op. cit. (note 100), pp. 348f., fn. 145; cf. Paul Rassinier, Le Veritable Proces Eichmann ou les Vainquers incorrigibles, Les Sept Couleurs, Paris 1962, appendix V; C. Mattogno, Medico ad Auchwitz”: Anatomia di un falso, Edizioni La Sfinge, Parma 1988.

[29] So J.-C. Pressac, op. cit. (note 251), p. 181.

[30] 1115 C. Mattogno, Auschwitz: un caso di plagio. Edizioni La Sfinge, Parma 1986; Engl.: “Auschwitz: A Case of Plagiarism,” JHR, 10(1) (1990), pp. 5-24.(  試訳:アウシュヴィッツ:盗作のケース(C. マットーニョ)

[31] Rowohlt, Berlin, 4th ed., 2001.

[32] Markus Springer, “The New Face of the ‘Holocaust,’” TR 2(3) (2004), pp. 297-300.

[33] Si c’est un homme, Juillard, Paris 1993, p. 19. The first Italian edition appeared in 1947 under the title Se questo e un uomo, Einaudi, Torino 1966 (Engl.: If this is a Man, Penguin, Harmondsworth/New York 1979).

[34] Cf. R. Faurisson, op. cit. (note 1107) as well as Pierre Marais, En lisant de pres les ecrivains chantres de la Shoah – Primo Levi, Georges Wellers, Jean-Claude Pressac La Vielle Taupe, Paris 1991.

[35] Ferdinand Camon, “Chimie/Levi, la mort,” Liberation, April 13, 1987, p. 29.

[36] Niederlandisches Staatliches Institut fur Kriegsdokumentation (ed.), Die Tagebucher der Anne Frank,Fischer Frankfurt am Main 1988.

[38] R. Faurisson, “Is the Diary of Anne Frank Genuine?,” JHR, 3(2) (1982), pp. 147-209. As book with the same title, IHR, Torrance 1985

[39] B.S. Chamberlin, “Todesmuhlen. Ein Versuch zur Massen-’Umerziehungim besetzten Deutschland 1945-1946,” Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte, 29 (1981) pp. 420-436, here p. 432.

[40] The Unabhangigen Nachrichten, no. 11 (1986), p. 11は、連合国は映画『死の粉引き小屋』の中で、連合国のドレスデン空襲による犠牲者を写したドイツ側の写真を強制収容所の大量殺戮の証拠として利用したと伝えている。

[41] On the impact of Holocaust in Germany and Austria cf. M. Broszat, Vierteljahshefte fur Zeitgeschichte, 27 (1979) pp. 285-298; P. Dusek, Zeitgeschichte (Vienna) 6 (1978/79), pp. 266-273; P. Malina, ibid., 7 (1979/80) pp. 169-191; Tilman Ernst, Aus Politik und Zeitgeschichte, 31(34) (1981) pp. 3-22; on the impact of Shoah cf. G. Botz, Zeitgeschichte, 14 (1986/87) pp. 259-265; R. Faurisson, op. cit. (note 408).

[42] Acc. to air photos in the U.S. National Archives: DT RL 751, Krakow, May 3, 1944; TuGx 895 A SK,exp. 382f., October 1944; quoted from J.C. Ball, Schindlers Listeblosgestellt als Lugen und Has,Samisdat Publishers, Toronto 1994; cf. J.C. Ball, op. cit. (note 303)試訳:航空写真と矛盾している12の「目撃証言」(J. ボール)).

[43] T. Keneally, Schindler’s Ark, Hodder & Stoughton, London 1982; T. Keneally, Schindler’s List, Simon & Schuster, New York 1982: 「本書はフィクションである。名前、場所、事件は作者の想像の所産であり、フィクションとして使われている。実際の事件、場所設定、人物(死者・生者)に似ていることがあっても、まったく偶然にすぎない。」

[44] Cf. David M. Crowe, Oskar Schindler, Westview Press, Philadelphia 2004; Emilie Schindler, Erika Rosenberg, Where Light and Shadow Meet: A Memoir, W. W. Norton, New York 1997.

[45] Film & TV Kameramann, no. 2/1994, pp. 24ff., esp. the statement by chief camera man Janusz Kaminski, p. 27.

[46] Kurt Ranke, Die Welt der einfachen Formen, de Gruyter, Berlin 1978.

[47] Lutz Rohrich, Sage und Marchen, Herder Freiburg 1976; L. Rohrich, in: Gunter Eifler (ed.), Angst und Hoffnung, Johannes-Gutenberg-Universitat, Mainz 1984; L. Rohrich, “Die Moral des Unmoralischen,” in: Rheinisches Jahrbuch fur Volkskunde 26 (1985/86), pp. 209-219.

[48] Rolf Wilhelm Brednich, Die Spinne in der Yuca-Palme, Jumbo, Hamburg 1999.

[49] John Sack, op. cit. (note 360), pp. 100-111.