4.3.4 「法の支配の下にある諸国」での裁判[戦後の西ドイツでの裁判]

L(聴衆):わかりました。戦勝連合国による裁判の法的枠組みには疑問の余地があるとしても、のちに、法治国家であるドイツで開かれた裁判も同じ結論に達したのですね。終戦直後、ドイツは主権国家ではありませんでしたが、1955年の移行条約が西ドイツに部分的な主権を与えました。

R(ルドルフ):ドイツは、この当時も十全な意味での主権国家ではありませんでした。第一に、国連憲章には敵国条項があり、それは今でも有効です。国連憲章53条と107条には、第二次世界大戦の戦勝連合国の旧敵国、すなわち、ドイツ、日本およびその同盟国は特別な法律に従うとあります。ドイツ以外の「旧敵国」は戦勝諸国と講和条約を結んでこの特別な法律を廃棄していますが、ドイツの場合には、1990年の再統一のあとであっても、このようなことは行われませんでした。

 53条は、国連安全保障理事会の承認なしでも、ドイツに対して武力を行使することを認めています。「旧敵国における侵略政策の再現」について戦勝諸国のあいだで合意があることだけが必要条件です。ドイツが「侵略政策」――「侵略戦争」ではない――を再現したかどうか、いつ再現したのかを決定するのは、戦勝諸国の恣意的な判断に任されているのです

 107条にはこうあります。

 

「この憲章のいかなる規定も、第二次世界大戦中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとりまたは許可したものを無効にし、または排除するものではない。」

 

 法律専門家のあいだでは、この定式は戦時中か占領時代にとられた措置にだけ適用しうるというのかコンセンサスのようです。しかし、この条項の形式は再解釈の道を切り開いています。すなわち、戦勝諸国が今日とった措置であっても、国連憲章にある国際法の基準に合致する必要はないというのです。

 しかし、いずれにしても、追放、移送、強制労働[1]、没収、産業の解体[2]、人間の拉致、特許の強奪というような国際法に違反する措置が、戦時中と戦後のドイツに加えられましたが、これらの措置が法的に問題となったことはまったくありません。

 

L:でも、戦勝諸国が今日でも、これらの条項を利用するとは、ルドルフさんも思っていないでしょう?

R:冷戦時代は、戦勝諸国が対立していたので、ドイツにとって、この敵国条項は深刻な脅威ではありませんでした。未解決のドイツ問題の象徴でもあったので、かなりの善意を前提とすれば、ドイツの政策にとっても役に立ったのです[3]。しかし今日では、これらの条項は、ドイツが外交政策を行なううえで足枷のようなものとなっています。

 1955年、3つの西側戦勝国と西ドイツとのあいだに移行条約が結ばれましたが、法的側面から眺めると、戦勝諸国による裁判が不可侵であることは、この条約の中に、異例といえるほど明白に記されています。この条約第7条第1項にはこうあります[4]

 

「ドイツにおいてこれらの3つの国、もしくはそのどれが1国の法廷や司法当局が裁定した、もしくはのちに裁定するであろう刑事事件のすべての判決と決定は、ドイツの法律に照らし合わせてすべての面で法的に拘束力を持ち、有効であり、ドイツの法廷と当局によってしかるべく取り扱われることになる。」

 

 ですから、戦後、西ドイツに部分的主権を認めた条件の一つが、戦勝連合国の裁判審理のすべての判決を不可侵の真実として受け入れることだったのですそして、ドイツの裁判所と司法当局は判決や布告を出すにあたって、戦勝国の法廷の歴史上の裁定をガイドラインとしなくてはならないとも解釈できるのです。ドイツの再統一に関する1990年の条約でも、統一ドイツ政府もこの条文が有効であることを認めるとはっきりと表現されています[5]

 

L:ということは、国際軍事法廷が確定した「真実」がすでに1955年には、「不可侵」の真実として設定されていたということですね

R:そのとおりです。これが、ホロコーストの「公知の事実」というドクトリンの起源なのです。あとで検討しましょう。今日のドイツでも、このドクトリンが荒れ狂っています。それだけではありません。ドイツ基本法第139条を引用しておきます。

 

「『ドイツ国民の民族社会主義および軍国主義からの解放』のために制定された法令は、この基本法の規定によって影響を受けない。」

 

L:でも、ルドルフさんも、ドイツ国民の解放に反対しているわけではないでしょう。

R:ドイツ国民の民族社会主義と軍国主義からの「解放」が望ましいものであったかどうかが問題なのではなく、占領時代の連合国による恣意的な法律がドイツ基本法優先するのかどうか、ひいては基本法の保障するすべての人権に優先するのかどうかという問題なのです。結局のところ、ドイツは国家を超えて有効な国際法に控訴することもできないのです。敵国条項がドイツのこうした権利を否定することができるからです[6]

 普通の人であれば、ドイツ基本法第139条を見て驚愕し、この条項は初期の西ドイツ時代の化石にちがいない、今では誰もそれを重視していないと考えるにちがいありません。しかし、次のことを考えてください。1990年夏、二つのドイツ人の戦後国家と第二次大戦の戦勝国とのあいだで、二つのドイツ人国家の再統一を認める、いわゆる2+4条約が結ばれました。同時に、西ドイツ憲法の代わりをつとめていた西ドイツ基本法のいくつかの条項が修正されました。例えば、ドイツ民族の他の部分に基本法の管轄下に入ることを認める第23条は削除されました。さらに、「全ドイツ国民に適用されるこの基本法は、ドイツ国民が自由な決定によって決議する憲法が施行される日に、その効力を失う」という、基本法の有効期限に関する第146条も修正されました。この背景には、基本法がドイツ国民の国民投票によって承認されたことがなく、3つの西側連合国と何名かの戦後ドイツの政治家との交渉の中で形づくられていったという事実があります。ですから、ドイツ基本法、したがってまたドイツ連邦共和国の司法制度全体にはまったく民主主義的な正統性が欠けており、国際法にも違反しているのです。

 このような劇的な変化が1990年に、ドイツ憲法の代わりをつとめる基本法に起ったのであれば、その変化に反対しているような第139条がどうして削除されなかったのか、もしくは修正されなかったのかという疑問が当然生じるはずです。最後の東ドイツ首相ヴォルフガング・デ・マイツィエレと西ドイツ外相ハンス=ディートリヒ・ゲンシャーが第二次大戦の戦勝4カ国にあてた手紙が、その疑問を解決する糸口になります。この手紙の第2項はこうです[7]

 

「ドイツの国土の中で、戦争と独裁の犠牲者に捧げられて建設された記念碑はドイツの法律によって称えられ、その保護を受ける。」

 

 このテキストのどの点が問題であるのかをとお尋ねになるかもしれませんが、バイエルン州城・公園・湖管理局の手紙がこの点を明らかにしています。ドイツ市民の一人が、犠牲者の数をいちじるしく誇張しているフリュッセンブルク強制収容所の記念碑をもっと正確な数字を記した記念碑になぜ変えないのかという質問に対して、管理局はこう答えているのです[8]

 

「これらの記念碑や展示ケースをすべて変えるには、法外な費用がかかります。さらに、ドイツ連邦共和国とフランスとのあいだには1954年10月23日から発効された協定が存在しており、それによると、記念碑はこの協定が発効されたときのままの状態で恒久に維持しておかなくてはならないので、この法律的な理由のために変更ができないのです。」

 

 記念碑の変更を妨げるような、この種の二国間協定がフランス以外の国々とのあいだにも結ばれているのでしょう。

まとめておきましょう。

l       国際的危機が生じた場合、ドイツは、旧戦勝諸国の国内法・国際法的な権限のために、近代主権国家としての特徴すべてを失う危険にさらされます。

l       ドイツは今後も、自分に部分的主権を与えてくれた協定によって、復讐心に満ちた連合国が定めた歴史学上の「公知の事実」に拘束されます。1990年にドイツの統一を完成した条約、その他の二国間条約が、戦勝国の歴史観を挑戦し得ない真実として維持するという義務を更新しました。

l       歴史像の修正は、重要な論点についてドイツを免罪にするだけではなく、戦勝諸国に計り知れない歴史的重荷を科すことになります。このような修正は、ドイツの国内政策・対外政策に科せられてきた長年の重荷を解放することになりますので、少々幻想に近いのですが、そのような修正がなされれば、戦勝諸国はそのことを、侵略的・修正主義的復讐政策と解釈するでしょう。ドイツは、過去の不正に対する経済的・領土的補償を要求するために、歴史的重荷からの解放を意図していると非難されるでしょう。ドイツがそのような要求をしなくても、歴史的修正の助けを借りて、このような政策を進めていると疑われることでしょう。ドイツ政府が、歴史的修正主義を公然と唱えたり、それに寛容な姿勢を見せれば、戦勝諸国は、このために、平和が脅かされ、諸民族の平和的共存が危険にさらされると考えるにいたるでしょう。

l       1990年代初頭のこの恐ろしげなドイツ像に、難民収容所放火事件、「ハイル・ヒトラー」と叫ぶスキンヘッドを付け加えれば、この当時行われていたドイツに対するメディアの魔女狩りも理解できます[9]

 

言い換えれば、二つの世界大戦のときにも起ったことですが、ドイツがこのような世界的な包囲網に取り囲まれて窒息死したくなければ、ドイツは押し付けられた歴史像を受け入れなくてはならないと考えられているのです。結果として、ドイツ政府は、このような危険な政治的事態を是が非でも回避するために、たとえ、連合国自身が歴史的修正主義的な考え方を有効であると認めたとしても――そのような可能性は非常に少ないのですが――、ドイツ国内ではこの修正主義の影響力が決定的となることをあらゆる手段を使って阻止せざるをえないのです

 もちろん、この問題には別の側面もあります。1990年、一人のドイツ軍将校が、軍から放逐されました。同僚の将校との私的な会話の中で、ホロコーストと第二次世界大戦についてのドイツの単独責任に対する疑念を口にしたためでした[10]。1939年のポーランド分割は、ドイツソ連の条約の結果であり、両国は第二次世界大戦の口火を切ったという意味で共同責任を負っているということになります。しかし、この問題は、ドイツ軍将校に対する民事裁判の法廷では議論されませんでした。ドイツ連邦共和国行政法廷は、この将校はこうした発言によってドイツ連邦共和国への忠誠義務に違反したとの理由で、この証拠を有罪としたのです。今日のドイツ国家の基本理念がホロコーストと第二次世界大戦のドイツの単独責任を疑問の余地のない事実として認めることにあるので、この理念に賛同しないことは、ドイツに対する忠誠義務違反となるというのです。この将校は、ドイツの自由・民主主義的基本秩序に忠実ではない咎で有罪となったのです。

 

L:まったく、法律が曲解されています。これでは、ホロコーストがドイツ連邦共和国の存在理由、そのよって立つ支柱の一つであることになってしまいます。

R:そのとおりです。こじつけのように見えるかもしれませんが、この国がどのように成立したのかを考えるとまったく論理的な結論なのです。そして、ドイツのメディアや政治家たちもこのことを繰り返し表明してきました。例えば、前ドイツ連邦共和国大統領ヴァイツゼッカーは、「[ドイツ]国家の存立理由はNATOではなく、アウシュヴィッツである」と発言したといわれています[11]。1999年、外務大臣であったヨーゼフ・フィッシャーもこの見解を確認している[12]

 

「すべての民主主義は土台、根拠がある。フランスにとっては、1789年である。合衆国にとっては、独立宣言である。スペインにとっては、内戦である。そして、ドイツにとっては、アウシュヴィッツである。アウシュヴィッツでしかありえない。アウシュヴィッツの記憶、ふたたびアウシュヴィッツを登場させてはならないことが、新しいベルリン共和国の唯一の土台である。」

 

 かつて保守派を自称していたドイツの日刊紙『ヴェルト』は、1994年、次のような理由で修正主義者を処罰すべきであると論じています[13]

 

「アウシュヴィッツを否定する者は誰であれ、…この社会の自己認識の土台そのものを揺るがしている。」

 

 ドイツの左派系週刊誌『ツァイト』も、同じような観点から、なぜドイツの司法制度と憲法擁護庁はホロコースト異論派を沈黙させるべきなのか説明している[14]

 

「われわれの共和国の道徳的土台が危うくなっている。」

 

 そのすぐあと、ドイツ上部シュレジエン州裁判所長官をつとめたこともあるルドルフ・ヴァッセルマンは、こう記している[15]

 

「民族社会主義の絶滅収容所についての真実を否定する者は誰であれ、ドイツ連邦共和国がよって立っている諸原則を裏切っているのである。この国は、反民主主義者たちがこの国を覆そうとするときに、みずからを防衛する果敢な民主国家なのである。」

 

ドイツ連邦議会では、次のような見解が表明され、なんとすべての政党の拍手によって承認されました[16]

 

「民族社会主義者によるユダヤ人の大量殺戮、換言すれば、ホロコーストを矮小化したり、否定したりする者は、民主主義的な土台を攻撃していることを知っておくべきである。」

 

 ドイツの保守的な新聞『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』もこのコーラスに同調しています[17]

 

「デッカートの[修正主義的]ホロコースト観が正しいとすれば、ドイツ連邦共和国は嘘に立脚していることになってしまう。大統領の演説や、黙祷の時間、歴史の教科書がすべて嘘となってしまう。すなわち、彼は、ユダヤ人の殺戮を否定することで、連邦共和国の正統性を否定していることになる。」

 

L:強迫神経症患者、精神病患者の発言集みたいですね。学問の自由、言論の自由を攻撃する者こそが、ドイツ共和国の自己認識の土台そのものを攻撃し、その道徳的土台を危険にさらしているのです。

R:ドイツ連邦共和国だけは例外で、何が市民的諸権利であるかを定めているのは、基本法ではなく、支配的なホロコーストのドグマなのです。しかし、ドイツ政府がこれを受け入れよとドイツ国民に要求できるのは、ドイツ国民が国民投票で承認して、ドイツ憲法の中に明確に書き記されてからのことであるはずです。

 

L:ベルリンの中心に巨大なコンクリートブロックにある地区がありますが、それこそが、このドグマの下にひれ伏し続ける巨大なシンボルなのですね。ドイツ基本法にも、このドグマの下にひれ伏すこと定めた条文が挿入されるのもまもなくでしょう。しかし、139条の反ファシスト条項だけでもすでに十分かもしれません。

R:どうなるにせよ、このような発言から判断すると、この歴史学的テーマに異論を抱く人は誰であれ、反民主主義者、国家の敵とみなされることになります。

 

L:しかし、一体どのような立場に立てば、特定の歴史的見解が、民主主義的見解もしくはドイツ憲法秩序への忠誠心と関係があると主張できるのでしょうか?夜は外よりも寒いという見解と同じように非論理的なのですが。

R:誰もこのような主張が論理的であるとは言っていません。ドイツ連邦共和国が1950年に創設されたとき、それまで連合国がやっていた「ナチ・ハンター」という役割を引き継ぎ、自分たちでナチス犯罪の「実行犯」たちを訴追し始めました。ここで指摘しておきたいのは、その発足したばかりのドイツ国家の政治的・法的枠組みと心理的諸条件です。

 

L:ドイツ国民にとって、かならずしも明るい見通しとはならなかったのですね。

R:暗い見通しとなってしまったことは、イルゼ・コッホの事件からわかります。イルゼ・コッホは、ブッヘンヴァルト強制収容所所長であったエーリヒ・コッホの妻です。エーリヒ・コッホは戦時中に、SS内部法廷で告発され、死刑判決を受けて処刑されています[18]。戦後、コッホの妻イルゼは、訴追され、すでにお話したような連合国の見世物裁判で有罪となりました。これらの見世物裁判にまつわるスキャンダルが暴露されると、イルゼは赦免されました。にもかかわらず、発足したばかりの西ドイツ司法当局は、すぐにイルゼをふたたび訴追したのです。ドイツの裁判の環境は、わずか数年前の連合国による裁判と同じようなものでした。同じような職業的証人によるヒステリー、嘘、偏見が流布し、法廷は同じように批判的な調査を怠ったのです。さらに、コッホ夫人にとって、事態はもっと過酷でした。彼女は終身刑を宣告され、自殺したのです。

 

L:でも、これは例外ではないのですか。

R:いいえ、例外ではないのです。ハンス・ラテルンザーは国際軍事法廷でも、その18年後のフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判のときにも弁護人を務めましたが、その彼は、フランクフルトのアウシュヴィッツ裁判のときの雰囲気をこう述べています[19]

 

「私が関与した主要戦争犯罪人国際法廷では、アウシュヴィッツ裁判ほどの緊張感はなかった。ニュルンベルク国際軍事法廷でさえも、そのような緊張感はなかった。」

 

 言い換えると、18年間もホロコースト宣伝が絶え間なく続けられた結果、社会の雰囲気が偏見と憎悪に毒されてしまったので、公平な裁判ができなくなってしまったのです。年代順に整理させてください。発足したばかりのドイツ連邦共和国の最初の行動の一つはイスラエルとの条約の調印でした。その条約によると、ドイツはユダヤ人が民族社会主義から迫害され、苦難を経験したことを認め、ユダヤ人個人ならびに新しいユダヤ人国家に対する金銭・物資の支払いというかたちで補償することを約束しています。ドイツの政治家たちは、第三帝国の廃墟から財政的・経済的に脱出しようとする困難な時期にあって、金銭を支払うことで、世界ユダヤ人層の善意を確保しようとしたのです。ドイツ首相アデナウアーはすでに1952年にこのことをこうまとめています[20]

 

「世界ユダヤ人層はグレート・パワーである。」

 

L:ユダヤ人の側からは、ダニエル・ダヤンがユダヤ側の見通しをこう述べています[21]

 

「運が向いてきた!600万のユダヤ人が殺された。その代償として金を手に入れることができる。」

 

R:さまざまな立場、さまざまな評価があるものです。ことの本質は、若いドイツ連邦共和国は、国際金融やメディアで力をもっている世界ユダヤ人層の敵意をできるだけ遠ざけようとしていたということです。このために、保守的なアデナウアー政権は、野党の社会民主党の協力を得て、この敵意を全力で減らそうとしました。このとき、ちょっとした抵抗がありました。当時のドイツ連邦議会[22]では、自由民主党が非常に民族主義的でしたが、そのメンバーの一人が、ユダヤ側の要求を認める前に、第二次世界大戦中に何が起ったのかを歴史委員会が正確に定めるべきであると要求したのです。しかし、この発言は無視されました。

 事実、歴史問題を調査する政府委員会が設立されたことは、第二次世界大戦後には一度もありません。歴史問題は、新しいドイツ国家を設立するうえで、道徳的な土台の一部となるはずなのですが、この点は、戦争責任問題がドイツ政府の諸委員会で徹底的に調査された第一次世界大戦後の状況とは対照的です[23]

 戦後ドイツのほかの行政機関と同じように、新しいドイツの司法制度も、連合国によるドイツの行政機関の戦後政治的浄化の所産です。政治的に疑わしいとみなされた判事や検事は解職され、十分な資格をもっていなくても、政治的に信頼できるとみなされた人物と取り替えられました[24]その結果、熱狂的な左翼やユダヤ系・非ユダヤ系の亡命者がこのポストにつくことになりました。彼らは、旧第三帝国の役人たちには強い敵意を抱いていたからです。連合国は終戦直後、郵便配達人や列車の車掌も含む旧第三帝国の役人を政治的に尋問したり、裁判にかけたりするにあたって、自分たちに協力してくれる「Spruchkammern(宣告室)」を設置しました。ドイツ連邦共和国が1949年に発足すると、これらの宣告室の活動は、民族社会主義の「実行犯」を訴追する普通の刑事法廷に次第に引き継がれました。1958年までは、この活動はほとんど調整されていませんでした。この年に、ドイツの公的な「ナチ・ハンター」機関である国家司法行政中央本部(以降、ドイツ語の公式の略号ZStLを使います)が設立されたことから、変化が生じました。この官庁は、1958年以降、ナチス「犯罪」に関する情報を世界各地から集めています。その捜査のもっとも一般的な出発点は、連合国の見世物裁判のときに集められた「証拠」、さまざまな強制収容所囚人団体が集めた証言と話、イスラエルとくに東ヨーロッパの共産党当局が提出した証拠(ナチス「犯罪」の多くは東ヨーロッパで行われたといわれています)です。

 

L:何か不都合な点があるのですか?

R:まず、ZStLが調査したのは、ドイツ人による犯罪だけで、連合国とその共犯者がドイツ人に対して行なった犯罪は調査していないことが不都合です。ドイツ当局はそのような調査を行なうことを許されていなかったからです。

 次に、この「ナチ・ハンター」機関は、他のドイツの検察機関と同じように、ドイツの法律で、無実を証明するような証拠も収拾・提示することが義務づけられていますが、イスラエル、東ヨーロッパの共産国、共産主義者が支配している強制収容所囚人団体が、無実を証明するような証拠提供してくれるはずがありません。この点も不都合です。事実、ZStLは無実を証明する証拠を集めようとしたこともなく、連合国が終戦直後に行なったのとまったく同じように無批判的に、「有罪」の証拠を集めただけなのです。ZStLは、共産国の支配する強制収容所囚人団体と緊密かつ無批判的に協力してきました。このことは、ZStLという官庁自体が、ドイツの司法制度の中に浸透しようとする共産主義インターナショナルの第五列の一部に他ならないことを明らかにしています。ZStLが、この当時、共産主義的ポーランドのクラクフに本部を持っていたアウシュヴィッツ委員会と緊密・友好的に協力していることを考えると、いっそうこの点が明確となります。この共生関係は、アウシュヴィッツの囚人団体である「アウシュヴィッツ委員会」議長で共産主義者のラングバインとZStL長官リュッケルルが『ナチスの大量殺戮』を共同で編集するまでにいたるのです。フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判の検事と判事はラングバインあての手紙の中で、彼がこの裁判の準備・実行に多大な支援をしてくれたことに謝意を表しています[25]

 

L:1976年にカーター大統領の肝いりで設立された合衆国の「ナチ・ハンター」機関OSIのメンバーの多くが、ユダヤ人ホロコースト妄想家であり、デムヤンユク事件が明らかにしたように、彼らは、ソ連のKGBの文書偽造者と熱心に協力しようとしました。このような関係ですね?

R:私の知るかぎりでは、ZStLにはユダヤ系のスタッフはいないと思いますが、まったくそのとおりです。戦後のドイツでは、ユダヤ人よりもユダヤ人らしくすることが流行でした。今日のドイツでは、ドイツ人を訴追するために、ユダヤ人が必要であるわけではありません。ドイツ人が事態をまったくコントロールしています。ですから、ドイツの法律専門家が必要な措置であったとみなしていることは驚くことでもないのですが、これらの特別な捜査機関は、その最初の数十年のあいだに、政治的にとくに信頼できる人々を雇ったのです[26]。そして、私見では、裁判所組織もそうでした。言ってしまえば、捜査の対象となった「犯罪」のリアリティを疑ったこともないような人々だけが雇われたのです。証人たちの捜査や尋問を担当したのは、このような思想的訓練を受けた人々たちであったので、彼らが、予備審問のときに、自分たちの望むような証言を引き出そうとして、証言を渋っている証人を脅迫したのはごく自然のことでした。

 ドイツの左翼急進派の著述家リヒテンシュタインは、証言を渋る証人から証言を引き出すためには、第二級の尋問を利用することが必要であったと明言しています[27]

 

「証人は…証言を渋ったり、…精神障害に苦しんだり、その振りをしたりする。…証人は証言席を去る前に、自分の証言を翻して、自分を尋問した警官の『脅し』によって、この当時起ったとされること言わされたのだと話し始める。…彼は、警官が『自分につらく当たった』とたどたどしく証言する。しかし、そのようなことはこの類の証人には必要なことである。」

 

L:ドイツによる捜査では拷問が行なわれた証拠がありますか?

R:いいえ。しかし、当時の環境のもとでは、拷問などもはや必要なかったのです。むしろ、拷問の利用は逆効果となったでしょう。拷問は、その犠牲者に、不当な扱いうけたとの印象を残します。犠牲者が脅かされる恐怖を感じなくなればすぐに、虐待という事実が露見する「危険」が生じ、拷問を行なった側の立場が不利になってしまうからです。第二級の尋問、すなわち「厳しい尋問」ならびに暗示的質問の繰り返しのほうが、あとも残らず、はるかに効果的なのです。

 

L:言い換えれば、洗脳ということですか?

R:専門用語を使えば、そのとおりです。

 フランクフルトでの大アウシュヴィッツ裁判の調査・捜査活動が始まる前には、ドイツ政府は東ヨーロッパの文書資料の中身をあまり高くかっていませんでした。共産国からの申し出は、西ドイツを安定させまいとする試みとみなされていたのです。しかし、こうした抵抗姿勢は、来るべきアウシュヴィッツ裁判に利害関係をもつさまざまな圧力団体の働きかけによって崩れていき、その姿勢とは逆の政策、すなわち、ドイツが自己を鞭打つのを支援するように世界各国に要請する政策、ナチス犯罪のすべての資料を利用可能とする政策にとって代わられました。当初、アウシュヴィッツ委員会が提出した証拠の信憑性に疑問を抱く検事もいましたが、アウシュヴィッツ委員会が不満を述べると、その疑問は、上からの命令で脇におかれました。職業的嘘つきのレグナーを尋問し、捜査の進め方についてラングバインと争ったウェーバー検事は、ラングバインがウェーバーの上司に文書で不平を申したてると、この件について、メモの中でこう記しています[28]

 

「ことが重要な捜査事件にかかわっているので、司法省も非常に関心を抱いている。」

 

L:でも、この件は、適切な弁護を受ける権利という被告の権利には干渉していませんね。この件によって、どの点で捜査・裁判の公平さが危険にさらされたのですか?

R:国際軍事法廷のときと比較して見ましょう。ニュルンベルクで被告が対決したのは、自分たちの有罪の証拠を発見するためにほぼ1年にわたって、非占領国と戦勝国の文書資料を渉猟した機関でした。その一方で、弁護活動はひどく妨害されていたのです。1964/65年のフランクフルトで被告が対決したのは、世界的な規模で組織され、20年間不断に活動してきた告発機関でした。有罪を立証する証拠は世界各地から集められていました。

 たとえわずかであっても、適切な弁護活動をするには、数年間の作業と多額の費用が必要でしょう。言い換えれば、このように巨大な告発の嵐に対抗する弁護活動は基本的に不可能でした。

 検事側と弁護側にはいちじるしい不平等があるがゆえに、検事側はドイツの法律によって、無罪を立証する証拠も捜査・提出することを義務づけられていたのですが、実際には、このようなことは、まったく行われなかったのです。

 さらに邪悪な点は、ZStLが強制収容所囚人団体と共謀しておこなったごまかしです。すなわち、彼らは「犯罪調書」を編集して、それを証人たちにばら撒く目的で、証人予定者や国内外の捜査機関に配布したのです。この調書には、「実行犯」とされる人々とその写真――報告書が編集された時期の写真と民族社会主義時代の写真――、および彼らが犯したとされる犯罪の詳細が付されていました。その犯罪は起こったかもしれないが、容疑者とその犯罪を結びつけるような証言や手がかりはないにもかかわらず。その後、証人が求められたのは、この事件を確証されたものとみなして、具体的な犯人を犯罪に割りあて、もし必要であれば、犯罪調書に欠けている犯罪を付け加えることだけでした[29]

 

L:何か不都合な点があるのですか。

R:尋問官という者は、適切な尋問手段を使って、証人が情報を提供される前に知っていることをまず発見しなくてはならないはずです。しかし、この場合には、尋問のあとで発見することが尋問の前にすでに伝えられてしまっているのです。証人には、犯罪行為と実行犯があらかじめ伝えられており、犯罪行為と実行犯を結びつけること、犯罪者と犯罪のリストを完成させることだけが求められていることになります。犯罪が実際に行われたかどうか、被告が本当に実行犯であるかどうかという疑問は、最初から排除されてしまっているのです

 

L:まさに、ロフトゥス教授が、記憶を大幅に歪めてしまう可能性があると考えている暗示的尋問方法なのですね。

R:そのとおりです。ですから、このような事前準備を行われた証人たちが「実行犯」の身元確認を行なっているのはまったくの茶番劇なのです。さらに、証人の多くは何回も尋問されています。尋問する側が新しい情報を手に入れて、それについて証人たちに問いただそうとするケースもあれば、証言が尋問する側が真実とみなしていることと矛盾しているために、何回も尋問されたというケースもあります。こんな風に尋問が何回も繰り返されれば、証言が「洗練された」かたちに形づくられていくに違いありません。

 

L:今一度、ロフトゥス教授にしたがえば、暗示的尋問が繰り返されるごとに、記憶は歪められていくということですね。

R:ながらくZStL長官をつとめたリュッケルルは、捜査当局および私的な文書センターによる公然とした証言のごまかしの事例をいくつかあげています。すなわち、検事側のオピッツとリュッケルルによると、隠れ共産主義者の「ナチ体勢から迫害を受けた人々」協会のような強制収容所囚人団体が証人に影響を与えた、先入観を吹き込んだというのです[30]

 

L:滑稽ですね。ZStLが使った暗示的尋問方法を考えると、この機関は、巨大な証言捏造団体にすぎませんでした。

R:リュッケルルは、不適切なやり方について触れざるをえなくなっていますが、政府機関の長である彼がそこまで発言するには、検事、警官、強制収容所囚人団体、文書センターが、一体どれほどの捏造を行なったのか、計り知れないものがあります。さらに、ラテルンザー弁護人は、アウシュヴィッツ裁判の証人たちが、開廷以前でさえも、メディアやこのときに特別に発行されていた証言情報パンフレットの中で発言し、そのために、公平で客観的な証言はまったくありえなくなってしまったと述べています。さらに、多くの証人たちは、多くの団体や個人からモニターされており、それはそれでまた先入観を植え付けてしまったというのです[31]

 捜査は非常に難航したために、被告たちは裁判を待って、3年から5年間も、ときにはもっと長く拘束され、その間、繰り返し尋問を受けたのです。

 

L:被告たちはこのために疲労困憊したのですね。

R:そして、人権無視です。国際軍事法廷と同じく、ドイツによるナチス犯罪裁判の多くは、見世物裁判の様相を呈するようになっています。多数の被告が一度に告発され、数百の証人が証言し、数千の観衆がその光景に見とれ、マスメディアがそのよう様子を世界中の数百万人に伝えたのです。このような事件のどれ一つとして、法医学的調査の対象となり、法医学的証拠が提出されたこともありません。フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判の判決文は、法医学的検証がまったく行なわれなかったという大いなる怠慢のシンボルとなっています[32]

 

法廷は、通常の殺人事件の裁判であれば、殺人が行われた時点での実際の事件を正確に再現するために必要な証拠品を利用する可能性をほとんどもっていなかった。犠牲者の死体、検死報告、死亡時期・死亡原因に関する専門報告、犯罪証拠としての殺人武器などの、通常の殺人事件裁判に必要なものをほとんどが欠けていた。目撃証言の検証ができたのはごく稀であった。」

 

L:少なくとも欠陥の存在は認められていたのですね。

R:そのとおりですが、それを克服しようとはしていません。例えば、証人を喚問して、(a)言われているような犯罪行為がどのような痕跡を残すのか、(b)これらの痕跡のうちどれを発見できるかを検証すべきですが、そのようなことは行なわれていません。一人のドイツの判事が勇気を持って、犯罪の証拠として提出された証拠が犯罪が行われたことを法的に十分に立証していないとの理由で、一人の被告を釈放しようとしたところ、ドイツの最高裁は、法廷はこのような犯罪が行われたことをまったく検証していないという驚くべき理由をつけて、この釈放を却下したのです[33]ドイツの法廷がナチスの「犯罪」に関して法医学的な検証を行なったことは一度もありません。犯罪が行われたという証拠はまったく欠けているのですが、にもかかわらず、ドイツの最高裁は躊躇せずに、被告に有罪判決を下しています。法律的・歴史学的論点に取り組んでいないナチス犯罪の法廷の証言を許された専門家証人は、自分自身では犯罪調査をまったく行なっておらず、人間の記憶の信憑性という問題だけについて、あるいは、セント・バーナード犬が今日は人懐っこくて、明日は人を嫌って荒々しくなることがありうるかどうかという問題だけについて証言しています。

 

L:冗談をおっしゃっているのですか?

R:いたって真面目です。この話は、トレブリンカ裁判で、収容所長クルト・フランツの愛犬バリーについての証言が食い違っているときに登場したのです[34]

 さらに、歴史家だけが専門家報告を作成していますが、それは、目撃証言が歴史学的に正確かどうかをまったく検証していません。歴史家たちがやったことといえば、自分たちが調査したはずのナチス「犯罪」を、公式に広められている第三帝国のホラーイメージという文脈の中にもぐりこませて、被告たちはこの悪の化身の代表に他ならない、悪そのものであるという裁判の雰囲気を作り出したことだけであって、そこには批判的な姿勢などひとかけらもありませんでした[35]

 

L:ドイツ国民を再教育するには、教育学的に好都合なやり方ですね。

R:そのとおりです。裁判の目的がドイツ国民の大教育であったことは、公的にも認められています。たとえば、アウシュヴィッツ裁判検事フリッツ・フリッツバウアーもこの事実を認めています。 『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』紙の記者ベルント・ナウマンも、アウシュヴィッツ裁判が「倫理的、社会的、教育的に重要であった」と記しています[36]。 そして、裁判の「黒幕」である共産主義者のラングバインも、次のようにコメントしています[37]

 

「この犯罪裁判の特別な要素は、その政治的インパクトである。」

 

 リュッケルルは、民族社会主義者の犯罪を「清算すること」は、「刑事訴追以上に、まったく公的にも、歴史的にも適切なことである」と書いている。そして、次のようにも記している。

 

「歴史研究と犯罪調査が行なわれた結果、その合同調査の結果は、いかに不愉快なものであろうと、通りを行く人々に、心に刻むべきもの、関心の中に入れておくべきものとして印象づけられた。」[38]

 

ドイツのメインストリームの歴史家ヴォルフガング・シェフラー教授は、ナチス犯罪裁判はわれわれの社会の存在自体にかかわるテーマを扱っているがゆえに、世論の関心の中心となるべきであると首尾一貫して提案していますし[39]、ペーター・シュタインバッハ教授によると、ナチス犯罪裁判はドイツ人のアイデンティティを形づくるのに重要な貢献をしたというのです[40]

 

L:メディアによる啓蒙活動は大々的なものであったのですね。

R:そのとおりです。しかも、それはドイツ国民の大多数の意思に反していました。言うことを聞かない子供は、言うことを聞くようになるまで、殴られるのです。さまざまな著述家が明らかにしていますが、メディアによる教育活動は民主主義に敵対するものでした[41]。オーストリアの新聞『ノイエス・エステルライヒ』紙は、ナチス犯罪裁判の目撃証言に触れて、「被告が否定できなかったことは何であれ、たとえどんなに途方もないことであっても、たしかに起こったのである」[42]と述べていますが、このようなコメントは、不幸なことに、わが国のメディアに特徴的なのです。

 

L:つまり、被告の有罪ではなく、無罪を立証しなくてはならなかったのですね

R:そのとおりです。中世の魔女裁判では、このような立証のやり方を悪魔の証明と呼んでいました

国外では、1978年の国際的アピールに見られるように、ナチス犯罪には時効を許さないというのが、自己破壊的なナチス犯罪裁判に対する顕著な反応でした[43]。 殺人罪に関するドイツ刑法の時効期限はすでに二度にわたって延長されていましたが[44]、このアピールはその後に出されており、その唯一の目的はナチス犯罪とされる事件に対する訴追を恒久化することでした。リヒテンシュタインは、この条項について1979年に議論が行なわれていたとき、サイモン・ヴィーゼンタールは、多くの言語で書かれた抗議の郵便葉書を作り、これを西ドイツ政府に送るようにとの要請をつけて配布したと記しています[45]。 シュタインバッハ教授は、この条項についての西ドイツ議会の議論[46]をドイツの議会制度のなかでの特筆すべきものと書いていますが[47]、彼は、この点ではまったく正しいのです。やっと、この「犯罪」が終わってから60年ほどたった2004年に、時効の停止という狂った行為は中止されました。ドイツの最高裁は、90歳の高齢者の訴追はもはや認められないと裁定したのです[48]

 武装SS将軍であったカール・ヴォルフの事件は、政治の力がこれらの裁判に強い影響をおよぼしたことを明らかにしています。1964年、ヴォルフ将軍は30万人のユダヤ人の殺害に関与した咎で、ミュンヘンでの裁判にかけられました。

 この裁判はまったく状況証拠だけにもとづいていたのですが、90人ほどの証人が証言しています。そのうち、ヴォルフ将軍の有罪を証言したのは3人だけでした。3名の判事と6名の陪審員からなる法廷はヴォルフが有罪であるとは確信できず、有罪判決を出すことをためらっていましたので、8日間も協議を続けました。1964年9月30日、わずか1票差で、懲役15年の刑を宣告する有罪判決が下されましたが、そのような結論に達した経緯は次のように説明されています[49]

 

「『私はユダヤ人がここで殺されることになっているとは知らなかった』、ヴォルフは法廷で10週間にわたって主張し、[ドイツの雑誌]『ノイエン・ビルドポシュト』との1974年のインタビューでもそのように強調している。

 しかし、法廷は彼の発言を信じなかった。彼は、ヒムラーの『目と耳』として、ユダヤ人にどのような運命が待ち受けているかを知っていたはずである。…

 この裁判の陪審員であったノルベルト・ケルンバーガーによると、判決はわずか1票差であった。ケルンバーガーと彼の同僚の何名かはヴォルフの有罪を納得していなかった。しかし、ヨルカ判事が、この裁判は政治裁判であり、全世界の注視の下にあること、したがって、ヴォルフを有罪にしなくてはならないことを力説したようである

 ケルンバーガーによると、ヨルカ判事は、被告はどうせ1、2年後には恩赦を受けるから、被告の運命については気にしなくても良いと述べたという。」

 

 陪審員であったケルンバーガーは、ヴォルフが1年だけ投獄されるどころか、1969年になっても獄中にいたので、この見世物裁判のことを公に話し始めました。

 

1969年春、陪審員であったケルンバーガーは、ヴォルフがまだシュトラウビング[刑務所]にいることを知って驚いた。彼は1964年のヨルカ[判事]の言葉を思い出し、そして、行動に出ることを決意した。…

 ケルンバーガーは[補佐司祭]ノイハウスラー(その他)に、『もしヴォルフが4−6週間以内に釈放されなければ、口を開いて、この裁判の腐敗を暴くつもりだ』と断言した。」

 

 そのすぐあと、カール・ヴォルフは健康上の理由から、シュトラウビング刑務所を出獄しましたが、ドイツ政府当局はいつであれ、このような決定を下すことができたはずです。

 

L:ドイツ政府当局は、ヴォルフ将軍にメディアの場で発言しようというような愚かな考えを抱かせないようにしたかったのだと思います。

R:おそらくそうでしょう。この裁判からわかるのは、判決の根拠が証拠ではなく、今日のドイツの存在理由だということです。これらの裁判では、犯罪を立証するような法医学的証拠がまったく提出されませんでしたし、被告を有罪とするような文書資料もほとんどありませんでしたので、大半の被告は、目撃証言だけにもとづいて有罪判決を受けたのです。被告を有罪とするためには、伝聞証言さえも利用されたのです。

 

L:でも、伝聞証言が信用できないことは定説ではありませんか。ですから、多くの国々はこのような証言を認めていません。

R:ドイツでは認められているのです。ここで問題としている裁判では、頻繁に利用されました。フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判判決もこう述べています。

 

「証人が善意にもとづいて、自分の経験を証言しながら、その実、他人による経験を証言しているにすぎない危険、あるいは、解放されたのちに、アウシュヴィッツの物語を掲載している数多くの本や雑誌を読んだことを証言している危険が存在していることには疑問の余地はない。」

 

L:裁判官たちもこのような危険が存在していることを知っていたのですね?

R:そのとおりですが、彼らは何の措置もとりませんでした。これらの裁判では、数多くの証人が同じような内容の証言をすればするほど、その話は真実とみなされるという目撃証言の評価方法が採用されていますが、この方法は、一つの有罪証言は七つかそれ以上の無罪証言によってのみ反駁されうる、または、その逆という中世の裁判の方法と同じなのです

 

L:近代の司法制度には無縁な方法ですね。

R:まったく無縁な方法です。中世の魔女裁判の方法についてはすでにお話していますので、もう少し話させてください。中世の魔女裁判とナチス犯罪裁判とが似ているもう一つの点は、「実行犯」たちは死んでからも穏やかに休むことを許されなかったことです。魔女の嫌疑をかけられた人々の死体は掘り起こされたり、ばらばらにされたりしましたが、ナチス犯罪の「実行犯」の墓も、身元確認のために暴かれたのです。メンゲレの遺骸をめぐる騒動のことを思い出してください。メディアはこの墓に眠る「怪物」のことを繰り返し報道したのです。数世紀前の魔女裁判では、犯罪の事実は自明のこととみなされていましたが、ナチス犯罪も自明の事実とみなされています。

 

L:魔女は自明の存在とみなされていたのですか?

R:中世では、悪魔、魔女、悪魔的な行為を行なう魔女の存在は自明の事実とみなされていましたが、それは、今日、ナチス犯罪が自明の事実とみなされているのとまったく同じことです[50]。この「真実」を検証・反駁したり、とくに法医学的証拠をの助けを借りて、「公知の事実」に挑戦する動議は、ドイツやその他のヨーロッパ諸国の多くで却下されており、提出された証拠は検討の土俵にも上りません。証拠を提出する動議自体が遅延戦術をみなされており[51]、1999年代中頃以降は、ドイツ最高裁の裁定によると、「ホロコースト否定の」証拠を提出することで、依頼人を弁護しようとする尽力する弁護人ですら、ドイツでは訴追されているのです[52]

 

「民衆を扇動した咎を裁く裁判の弁護人が、民族社会主義の支配のもとで行われてユダヤ人の虐殺を否定するような証拠を提出する動議を出した場合、この人物は、刑法130条Vによる犯罪を犯したことになる。」

 

 すなわち、ドイツの法律は「ホロコースト否定」に対する法の保護を否定しているのです。この点も中世の魔女裁判に似ています。魔女裁判では、依頼人と思想的に近い見解を述べる弁護人を、魔女の咎、魔女との共謀の咎で告発することができたのです。被告の罪状となっている犯罪は、人間が考えつく中でもっとも残酷な犯罪とみなされていました。今日の用語では、「前代未聞の」犯罪、数世紀前の用語では、「邪悪な犯罪」と呼ばれています。そして、当時も今も、このような犯罪、およびその犯罪の事実を否定することは、当局の知るところとなれば、被害者からの苦情がなくても、訴追されたのです。当時も今も、司法制度は通常の公判規則にしたがうことを義務づけられていません。中世の魔女・異端者追及機関のような「ナチ・ハンター」中央本部が設置されていますし、有罪の証拠ならどのようなものであっても無批判的に受け入れられますし、法医学的調査は却下されているのです。当時も今も、被告の自白を引き出すために、当初は拷問が行われていましたが、そのような方法は次第に放棄され、もっと洗練された心理的尋問と、長期にわたる陰鬱な拘禁に取って代られていきました。当時も今も、犯罪の詳細が公式の本の中に詳しく書きこまれ、それが絶対的真実であるとみなされています(当時は、Hexenhammer(魔女のハンマー)、今日では公式の歴史書)。当時も今も、メディアはすべて、これらの犯罪の物語がその当時知られていた世界各地に広まり、誰もが等しくその物語を知るように監視していました。ですから、当時も今も、すべての証言はその詳細にいたるまで、非常によく似ており、第三者から見れば、多くの証言が同じことを述べているのだから、それは真実にちがいないという印象を作り出しています。

 当時も今も、証人の大半は匿名です。当時も今も、被告の有罪を証言する証人は、その証言の信憑性について法廷において宣誓することを義務づけられていますが、証言をすることでかなりの報酬を手に入れています。当時も今も、こうした証言が批判的に検証されることはほとんどありません。当時も今も、弁護人がこれらの証人に対して反対尋問を行なうことはほとんどありません。当時も今も、証人たちは、偽証が明らかとなっても、そのことで責任を問われることはありません。当時も今も、明らかに矛盾している証言、馬鹿げた証言、まったくありえないことを述べている証言が信用できないものとみなされたことはありません。

 しかし、証人や被告が自分たちの行為や関与を否定すると、頑強に否認した咎で、当時も今も、訴追され、もっと厳しく処罰されるのです。自分たちの邪悪な行いを進んで自白し、後悔し、悪魔のもとを去るのを誓おうとしなかったからです。当時も今も、被告たちは恩赦を手に入れる唯一の手段が自白であることを知っていました。このために、拷問が使用されなくても、被告たちは進んで自白したのです。当時も今も、被告たちは、第三者を密告することで法廷と協力し、それによって寛大が措置を手に入れよう、ひいては自由を手に入れようとしていました。

 数世紀前には、犯罪についての物的証拠はほとんど認められませんでしたが、今日でも、物的証拠はいつも却下されています。被告が殺したといわれている人物が生存している証拠、もしくは何年か前に自然死した証拠が提出されても、当時も今も、そのことで、法廷はほとんど影響を受けないのです。

 当時も今も、弁護人は行為自体のリアリティに意義を申して立てることは許されていませんでした。すでにお話しましたように、弁護人は、訴追ひいては処罰を避けるためには、定説を認めている姿勢を現さなくてはならないのです。数世紀前の裁判でも、第二次世界大戦直後の裁判でも、弁護人が裁判文書にアクセスできる機会や、依頼人と私的に話し合う機会はきわめて限られていました。

 弁護人、被告、第三者が犯罪自体のリアリティに疑問を投げかえることを決意したとすると、そのような中世の魔女修正主義、今日のホロコースト修正主義は、犯罪自体よりも邪悪なものとみなされます。最悪の犯罪なのです。「犯罪者の行為自体を信じないことは、最悪の異端である」というわけです[53]

 

L:でも、そのようなことは些細なことではないでしょうか?

R:お言葉ですが、啓蒙主義の時代に獲得された法的基準すべてを否定することが些細なことでしょうか?暗黒の中世の時代にまで司法制度を退化させてしまうことが些細なことでしょうか?

 こうした裁判で被告が置かれている立場は、まったく絶望的であり、それにあわせて、弁護戦術も修正しなくてはなりません。弁護人は、メディアやこの裁判に関与している第三者が野獣のようにみなしている依頼人と自分たちが同じ種類の存在であるとみなされないように注意しなくてはなりませんでした。検事側やメディアの先入観は、アウシュヴィッツ裁判の被告が、1848年に最初のドイツ議会が開かれた記念建築物となっているフランクフルトの聖パウロ教会での展示会のさらし者となったときに、頂点に達しました。この展示会は、ユダヤ系の検事フリッツ・バウアーの庇護の下で企画されました。バウアーは、アウシュヴィッツ委員会議長の共産主義者ヘルマン・ラングバインと協力して、この裁判を企画した中心人物です。何と、この展示会は、判決が出る前に、顔写真つきの被告の氏名を実行犯としてさらしたのです

 このような裁判に批判的な姿勢をとった弁護人にどのようなことが起ったのかは、マンハイムの弁護人ルードヴィヒ・ボックの経験からわかります。ボックはマイダネク裁判の下準備のために、開廷前に、検事側があげている証人のもとを訪れて、直接尋問しました。そして、公判が始まると、自分のメモにある証言の中身と、証人が法廷で行なった証言の中身を比べたのです。すると、彼が裁判の前に行なった尋問の中にあった数多くの矛盾や一貫性のなさが、うまく整理され、明らかに信憑性の無い箇所は取り除かれていることがわかりました[54]。メディアはこの件でボックをひどく攻撃し、ボックの弁護士免許を取り上げようとしました。この企ては、結局、失敗しましたが、多くの証人を提供したイスラエルとポーランドは、ボックの再入国を禁止しました[55]。デムヤンユク裁判では、勇気のある弁護活動を行なった第一弁護人は、バルコニーから落下して――もしくわ落下させられて――死亡しましたし、第二弁護人は顔に酸をかけられています。ですから、弁護人が自分の依頼人を熱心かつ効果的に弁護しようとしなくても、それは驚くことではないのです。事実、中世の魔女裁判でもそうであったように、弁護人としてではなく、むしろ検事として振る舞った弁護人も多いのです。

 被告の有罪を立証するような証言に対する検事と判事の姿勢は、次のようにまとめることができます。

 

l       目撃証言は、それが不正確で矛盾をはらんでいれば、とくに信用できるものとみなされる。恐ろしい事件が記憶に影響を与えているとすれば、このような事態は、事件後何年もたってからであれば、当然予想できるからである。

l       しかし、非常に正確な証言も信頼できる。恐ろしい事件は感覚を研ぎ澄まし、証人の印象を証人の記憶の中に焼き付けているからである。

 

L:でも、この二つの点はたがいに矛盾しており、ナンセンスなのではありませんか?

R:そのとおりですが、目撃証言の中にあるナンセンスな事柄は、そのまま文字通りに受けとられ、そのことがこのようなアプローチの目的なのです。すでにお話しましたように、これらの事件には通常の証拠採用基準が適用されませんでした。続けます。

 

l       専門家は、一般的に、このような裁判での目撃証人の信憑性は30年たっても衰えることがない、少なくもと証言の核心については衰えることがないと繰り返し結論している。それゆえ、信憑性の検証動議は却下される。

 

L:しかし、ルドルフさんが本書の中で紹介したロフトゥス教授その他の研究成果とはまったく反していますね。

R:これもそのとおりなのですが、私たちの記憶が事件後30年以上たっても信頼できると主張できることが不可解です。ですから、これらの事件には、通常の基準が適用されていないことがわかります。続けます。

 

l       有罪を立証する目撃証人たちは、「真実を明るみに出すために、自発的に国外からやってくるのだから」(検事の発言)、彼らの基本的な目的は真実を語ることである。

 

L:検事がそんな発言をしたのですか?

R:そうです。どうしようもないほどナイーブです。それ以外にも、ドイツの検事はこの裁判について次のようなことを述べているのです。

 

       証人がヴィヴィッドに描いた恐怖は、判事、検事、弁護人を麻痺させてしまったので、目撃証言を批判的に分析することはまったく行なわれなかった。

       犠牲者の苦難を理解するためには、衝撃的な恐怖と犠牲者に対する抑制された共感が必要である。

       弁護人が個別のケースにおいて批判的な質問をしたとしても、通常は却下された。犠牲者が嘘をついているとほのめかすことは許されないと考えられていたからである。

       証言が間違っていることがわかったとしても、過去の犠牲者を、今日、処罰することはできない。

 

 ですから、戦後のドイツでの裁判においてさえも、復讐心に満ちた職業的証人たちは偽証を繰り返してきましたが、それは驚くことではないのです。アウシュヴィッツ裁判についてのドイツ人弁護人ラテルンザーの発言は、すべてのナチス犯罪裁判にあてはまります。すなわち、外国人証人は証言する直前にドイツにやってきて、証言が終わるとすぐに帰国していったために、理論的には、彼らのことを偽証の咎で告発することもできなかった、判事も、検事も被告の有罪を申し立てる証人の証言の信憑性を検証しようともしなかった、検証しようとする弁護側の試みは最初から阻まれていたというのです。

 さらに事態を悪くしているのは、ドイツの刑事裁判では議事録がとられていないことです。すなわち、法廷は目撃証言を記録していない、ひいてはその要約も記録していないのです

 

L:ですから、判事は、自分の好きなことを判決の中に書き加えることができるのですね。

R:そうです。弁護側は、マンモス裁判のあいだ数百名の証人が行なった証言を跡付けて検証することができないのです。

 フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判のとき、弁護側はこれらの裁判の最大のスキャンダルな事件を暴露したのですが、それは、判事および控訴院によって隠蔽されてしまいました。それは、このような事件でした。

 犯罪捜査がドイツで1958年にはじまると、ポーランドのアウシュヴィッツ博物館は、当時ポーランドのクラクフに本部を置いていたラングバインの隠れ共産党組織アウシュヴィッツ委員会の助けを借りて、収容所の公式の歴史を執筆し始めました。この歴史はアウシュヴィッツ博物館のドイツ語雑誌(Hefte von Auschwitz)に掲載されました。終戦直後の時代、ポーランドはドイツ的なものにはひときわ敵意を抱いていましたので、このような著作を刊行するとしても、ポーランド語か新しい国際共通語=英語で出版すると予想されていました。ですから、この雑誌の言語としてドイツ語が選択されたことは、本当の対象が誰であるかを明らかにしているのです。この歴史書の改訂版は、やはり『Kalendarium der Ereignisse des Konzentrationslagers Auschwitz-Birkenau 1939 – 1945(アウシュヴィッツ・カレンダー)』というドイツ語の表題で出版されています。

 

L:収容所の年代記を執筆することは、別にスキャンダルな事件ではありませんね。

R:歴史学的な正確さを確保することがガイドラインであれば、そのとおりです。しかし、フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判のときに、東ヨーロッパの共産国からドイツにやってきた証人たちは、(a)事前に彼らの政治的信頼性について、共産党の秘密警察、政府、司法機関から尋問されていること、(b)彼の証言がこの尋問から強い影響を受けていること、(c)彼らが法廷の内外で党の公式の方針から逸脱しないように、共産党の秘密警察、政府の工作員がどこであっても同行していたことが明らかとなりました[56]

 

L:ということは、まず、収容所の公式の歴史が書かれ、そのあとで、このイメージにそって、目撃証言が登場したことになりますね。

R:アウシュヴィッツ博物館がアウシュヴィッツ年代記を編集した目的は、モスクワかワルシャワの指示する歴史学的なイメージにそって調製した目撃証人をフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判に登場させることに他なりませんでした。そのように推測せざるをえないのです。証人たちが、邪悪なドイツ人についてその良いところも口を滑らせて証言してしまうというようなことになってはならなかったのです。とくに、ポーランドはアウシュヴィッツを生き地獄として描くことに強い利害関係をもっていました。ドイツがこのような前代未聞の犯罪を犯していれば、ドイツ東部地域からドイツ人を追放し、彼らを大量に殺害し、ドイツ領の5分の1を併合するというポーランドの行為を道徳的に正当化できるからです。ですから、この時期には、共産主義的な東側ブロックが西ドイツを道徳的に辱めるという試みが行われていただけではなく、ドイツ人の追放=民族浄化にかかわってきた諸国が、第二次世界大戦の戦利品を確保しようとする試みも行われていたのです。

 ドイツのメインストリームのジャーナリストであるベルント・ナウマンは、ドイツの著名な日刊紙『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』紙にアウシュヴィッツ裁判についての記事を寄稿していますが、その彼でさえも、共産党政府の工作員による証人の訓練というスキャンダルな事件があったことを認めています。彼は、東側ブロック諸国によるやり方を「審問」と呼んでいます[57]

 共産党当局が「自分たち」の証人をどのように手に入れたのか、こうした証人をなぜ信用していなかったのか、その間の事情をうかがい知ることができるようになったのは2004年のことです。アウシュヴィッツ裁判が準備されていた1962年、チェコスロヴァキア共産党当局は、第二次世界大戦中のスロヴァキアで164名を殺害した咎で、ラヂスラフ・ニズナンスキーに死刑判決を下しました。しかし、ニズナンスキーは戦後、西ドイツに逃れていたので、処刑するとはできませんでした。しかし、2001年に、ドイツ当局がこの事件の再審理を始め、同じ咎でニズナンスキーを訴追しようとしました。ここで起こったことについて、ドイツのメインストリームのニューズマガジン『Focus』はこう述べています[58]

 

1962年のケースに関与した証人の一人は、尋問官に『ピストル』で脅かされたと述べている。二番目の証人は『精神的・肉体的圧力を受けて』ニズナンスキーを告発したと証言している。やはり1962年に検事側証人であったヤン・ホルブスは、2001年に尋問を受けたときに、検事側の望むどおりに証言しなければ、『この部屋から死体となって出て行くであろう』と脅迫されたと述べている。」

 

 チェコスロヴァキア、ポーランド、その他の共産国で同時に、しかも同じ機関が、フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判の証人を用意していたのです。

 

L:でも、そのようなことが行われたという証拠はまったくありませんね。共産党当局は、証人たちが逃亡して、西側諸国に亡命してしまうことを恐れていただけかもしれません。

R:直接的な証拠を発見しえていない限りでは、そうかもしれません。

しかし、この世紀の詐術の設計士であるラングバインは、ドイツの法廷が、対規模な証言の捏造の発覚にもかかわらず、証人たちの信憑性に疑問を呈さなかったことに喜んでいます[59]

 

L:捏造の発覚は、判決にまったく影響しなかったということですか?

R:そうなのです。ドイツ最高裁は、弁護側の再審請求を却下していますが、証言の捏造が行なわれたとしても、判決を覆す理由はまったくないと述べています[60]。この裁定は長らく、ナチス犯罪が裁かれ、被告に判決が下された事件では控訴を認めないというドイツの裁判審理の伝統となっているのです。

 これに比べると、弁護側証人に対する法廷の扱いはまったく異なっています。犯罪の事実を知らないと証言する証人は、犯罪が行われた時刻に現場にいなかったとか、その記憶信用できないとの理由で、価値のない証人とみなされたのです。アウシュヴィッツの看守であったゴットフリード・ヴァイゼのケースは、文書資料にもとづいて詳細にこの点を明らかにしています。ヴァイゼは、自分を告発する検事側証人よりも数多く弁護側証人をそろえることに成功しました。しかし、ヴァイゼを弁護しようとする証人は召喚されないか、もしくは、彼らの証言はその内容に反して、有罪を立証しているものと解釈されたり、あるいは、不適切なものとして却下されたのです。有罪を立証する証言だけが、犯罪の解明に役に立つとの理由でした[61]。ドイツ人弁護士ユルゲン・リーガーによると、別の法廷は、二人の弁護側証人を、これらの証人が嘘をつく理由は見捨てーリーダとのコメントをつけて、嘲笑的に却下しています[62]。いくつかの事件で弁護側証人として証言しているユダヤ系ドイツ人の作家ヨーゼフ・ギンスブルクは、いつも脅迫されており、暴力をふるわれたこともあると述べています[63]。本書の冒頭で紹介した修正主義の父であり、収容所体験を持つポール・ラッシニエは、フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判に弁護側証人として出廷し、戦時中のドイツの収容所の一般的な状況を証言しようとしましたが、ドイツ政府によって入国を拒否され、フランクフルトで証言することができませんでした。

 法廷は、問題となっている時期に強制収容所やゲットーに収容されていなかった弁護側証人に、原則として、不信の目を向けていました。弁護側証人が、検事側証人が証言した虐殺事件を思い出せなかったり、それが実際に起こったのかどうかという点を論点としようとすると(そうしたことが多かったのですが)、信頼できない人物とみなされ、「冷淡な人物」、「嫌悪感を呼び起こす人物」という烙印を押されたのです。ですから、彼らは宣誓した上で真実を証言していないとか、偽証しているという疑いに最初からさらされていたのです[64]。リヒテンシュタインによると、このような「無知な」証人たちが嘘や偽証の咎で告発され、逮捕するぞと脅迫されたり、実際に逮捕された事例が存在するそうです[65]。自分は単純明快な真実を証言していると明言している証人に対して、ある判事はこう言ったそうです[66]

 

お約束しますが、あなたはその真実のために処罰されることでしょう。」

 

 アウシュヴィッツ裁判では、証人ベルンハルト・ヴァルターは、その証言が検事側と法廷に気に入られなかったために、内容を修正するまで拘束されていました[67]。裁判所のこのような振る舞いは、証人たちを威嚇したにちがいありません。

イェルサレム裁判でアイヒマンのために証言しようとした、「実行犯」側のドイツ人弁護側証人は、何らかのかたちで第三帝国の政治・軍事にかかわっていた人たちでしたので、イスラエルに着くや否や、逮捕するぞとの脅迫を受けたために、裁判審理の場から立ち去らねばなりませんでした[68]。イスラエルでは、SSやその他の類似組織のメンバーだった者を、起訴して、見世物裁判にかけることができるためでした。

ドイツのユダヤ人中央会議前議長ガリンスキーは、強制収容所の看守全員をテロリスト組織の一員であった咎でまとめて処罰するべきであると要求していましたが、この姿勢は「収容所とゲットーの外にいた」ドイツ人証人のディレンマを象徴しています[69]。ただし、ドイツの「ナチ・ハンター」組織ZStL長官リュッケルルは、そのような措置は望ましいことではあるが、第三帝国時代にはテロリスト組織という法的概念は存在せず、現行法を遡及的に適用することはできないので、残念ながら(!)、そうした措置をとることはできないと述べています。にもかかわらず、彼その他多くの人々が、事件に何らかのかたちで関与した第三帝国時代の人物はそれだけで監獄に足を踏み入れているとみなしています。憎悪という動機を持つ証人は、どのような人物であれ、その人物の当時の職務だけの理由で、その人物を犯罪者とみなしてしまいがちだからです。ラングバインは、すべてのSS隊員が悪の化身であるという多くの囚人の見解に一つの章全体をあてていますし[70]、ホロコースト生存者全員がドイツ人全員に対する永遠の告発者であるとさえも述べています[71]。ですから、ごく少数のSS、SD、ドイツ国防軍、警察出身の弁護側証人だけが、腹蔵のない率直な証言を行なう心臓を持っていたにすぎないのです。検事側は、あらゆる種類の犯罪のつじつまを合わせる能力を駆使して、弁護側証人の証言から、彼らの首を絞めるロープを作ることができたので、腹蔵のない率直な証言を行なう弁護側証人がごく少なかったのはまったく当然のことなのです

弁護側証人がわれを忘れて、ガス室については何も知らなかったと主張したり、ひいては、その実在性について議論しようとしたりすれば、最低限、彼らは信用できない人物であると宣告されてしまうのです。判事からも口汚くののしられるかもしれません。しかし、判事は、かつてのSS隊員が自白している例外的なケースでは、その口調をどのように変えてこう発言しているのです。

 

「価値のある証人とは、誰もが何らかのかたちで知っていることを確証する数少ない人々の一人である。」

 

L:でも、誰もが何らかのかたちで知っていることを知っているとすれば、どうして証言を引き出す必要があるのでしょう?

R:まさにそのとおりです。犯罪自体は最初から、糾弾されているのです。これらの裁判の唯一の目的は、犯人を配分して、処罰を課すことだけだったのです。

 このような状況の下では、被告の立場はまったく絶望的でした。彼らは検事側証人やメディアの抑制のない憎悪と悪意のターゲットでした。このような状況を考えると、被告の大半が犯罪への関与を否定し、その犯罪の責任を死んでしまった同僚か姿を隠した同僚に押し付けることに成功したとすれば、それは奇跡に近いのです。その一方で、被告たちの大半は、犯罪が「公知の事実」とされていたので、犯罪自体には異議を申し立てませんでした。そんなことをすれば、法廷の信用を失ってしまうからです。被告たちの大半はありとあらゆるトリックを使って、犯罪現場と犯行時期から自分たちを遠ざけようとしましたが、法廷と検事側は、そのような被告の自己弁護を自分の罪を覆い隠そうとする嘘と解釈しました。被告たちの戦術はあまり成功しませんでしたが、被告たちには犯罪自体を否定するチャンスがまったくなかったのですから、彼らがこうした戦術の採用した点は理解できます。何人かの被告がある程度の罪を認めるようになったのは、心臓病、精神衰弱、ヒステリーになってからでした。被告全員が証人たちの際限のない嘘にいつも憤っていました。被告たちは、有罪を宣告され、数年間の懲役、ひいては終身刑を受けてからでさえも、罪を認めるのを「頑迷に」拒み続けましたが、このようなことはこの種の犯人にとってはまったく異常なことです。「通常の」犯罪者とは異なり、彼らは、後悔、謝罪、罪の自覚にはまったく無縁でした。 数は少ないですが、罪を認めた例も存在しています。しかし、その場合でも、彼らの精神は分裂状態におちいっていました。すなわち、犯人とされた人々は、後悔して、心から贖罪しようとはせずに、どこか別のところに罪状を探し、問題の行為の正当化を図り、自分たちへの不正に不満を言い続けたのです。身の毛もよだつような犯罪と被告たちの善良さ、上品さとのあいだの深淵を念頭において、「悪の日常性」という概念が作り出されました。

 

L:ホロコーストの「実行犯」にトラウマと緊張による精神不安定の症状が発生したとの症例は報告されているのですか?

R:いいえ、一つもありません。このようなことが話題に上ったこともありません。どうしてそのようなことを尋ねるのですか?

 

L:これらの人々が、意図的か強制的かは別として、想像を絶するような残虐な行為を行なったことを考えますと、このような事態に実行犯が対処する方法はおもに二通りです。すなわち、第一に、彼らがこれらの残虐行為をまったく気にかけないか、ひいては、それを喜んで行なった場合には、彼らは戦後の生活においても、冷淡で残虐であったことでしょう。第二に、彼らが自分の意志や道徳的判断に反してこれらの犯罪を行なった場合には、彼らは、例えば、ヴェトナム戦争での異常な虐殺行為に関与した兵士たちが精神的に不安定になったように、トラウマと緊張による精神不安定の症状に苦しんだことでしょう[72]

R:ホロコースト研究書はおしなべて、ホロコーストの「実行犯」たちは、とりたてて残虐なことを経験などしなかったかのように、戦後には、まったく正常な市民生活に復帰していったと述べています。

 

L:そんなことはありえませんね。数千名のSS隊員が、証人たちの描くところの残虐行為を経験したはずです。そのうちのごく少数が精神的障害を経験し、残りの大多数の隊員たちは、多くの目撃証言が描いているように、行なわれた残虐行為ひいては自分が行なった残虐行為まったく無関心で冷淡であり、ひいては進んでこれらの行為を行なったという話になっています。もしそうであるとすれば、戦後になっても同じような行動様式をとったはずです。人間の皮をかぶった怪物たちが、戦争が終わったからといって豹変できるわけではありません。彼らは怪物であり続け、家族に対して、もしくは彼らが依然として敵とみなしている民族的少数集団に対して暴力を振るうというような、残虐行為を犯しているはずです

R:申し訳ありませんが、そのような事態はまったく生じていません。前後、SS隊員たちは全員が、ジョン・ドゥーのように振る舞ったのです。

 

L:このような現象を完璧に解明する、唯一の回答があるのではありませんか?

R:何なのでしょう。

 

L:被告たちは無実であるということです。

R:そのような発言をすると、ドイツやその他のヨーロッパ諸国では、刑務所行きですよ。

 

L:そのこと事態が、そのような発言が真実であると証明しているのです

R:ドイツ人検事ヘルゲ・グラビツでさえも、きわめて論理的に考えて、被告たちは無実であるのかもしれないと考えたのですが、そのあと、証拠を冷笑的に否定するものとしてこの「魅力的」な推論をすぐに否認しています[73]。彼と彼の同僚たちは、自分たちの証人の助けを借りて、この証言に惑わされてしまっているのですが。

 

L:グラビツの冷笑的という用語の用法は変ですね。

R:そのとおりです。ホロコースト問題では、すべての事柄が常識とは正反対なのです。ドイツ政府は、「ナチス犯罪の実行犯たち」を狂信的・盲目的に追及しようとするあまり、ナチス犯罪で有罪を宣告された人々が、刑期を終えた後でも政治活動に従事することを禁止しました。そして、そのような措置をとるために、彼らを刑期を終えたのちにもその生涯にわたって監視下に置くことにしました。これは、法に反する行為、前代未聞の警察国家的監視行動なのです。ドイツ政府は、これらの人々が修正主義者として活動するようになることを阻止しようとしているのです。

 

L:しかし、殺人犯が刑期を終えたのちに公職に付くことを禁止するのは、別に普通のことではありませんか?

R:公職に付くといったことを申し上げているのではありません。政治活動がまったく禁止されていることが問題なのです。「ナチス犯罪裁判」で有罪を宣告された人々は、ドイツ政府が政治的とみなしている活動すべてを禁止されています。プライベートな会合で政治問題、歴史問題を話し合うこともです。この禁止条項の効果についての一例をお話します。クルト・フランツは、トレブリンカ収容所の「大量殺戮」に関与した咎で終身刑を宣告されました。1990年代、彼は恩赦によって釈放されました。彼は私の故郷の町の刑務所に収容されていました。また、彼が釈放されたときには、彼のことを担当していた行政機関には、私に妹が法律助手として勤めていました。このために、私は、彼と接触してインタビューしようといたのですが、接触できませんでした。クルト・フランツは、修正主義的研究者との接触がすぐにドイツ政府の報復を招くと恐れていたのです

 

L:中世の魔女裁判でも、このようなモニタリングが行われていませんでしたか?

R:中世の魔女裁判では、多くの被告は死刑となったので、生きて出獄した人々はほとんどいなかったと思います。今日では、何とか生きながらえた人々は、その残りの生涯のあいだ、疑いと監視の目にさらされ続けるのです。

 

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[1] See Emil Schlee, “German Forced Labor and its Compensation,” TR 2(4) (2004), pp. 364-368.

[2] See in general the book by F. Utley, op. cit. (note 980) for a description of some of these measures.

[3] Cf. M. H. Forbes, Feindstaatenklauseln, Viermachteverantwortung und Deutsche Frage, Nomos Verlagsgesellschaft, Baden-Baden 1983. See www.un.org/aboutun/charter/

[4]  “Vertrag zur Regelung aus Krieg und Besatzung entstandener Fragen,” May 26, 1952, Bundesgesetzblatt  (BGBl) II (1955) pp. 405f.

[5] BGBl, II (1990), p. 1386.

[6] For this see the comment by K.-H. Seifert, D. Homig (ed.), Grundgesetz fur die Bundesrepublik Deutschland, 2nd ed., Nomos Verlagsgesellschaft Baden-Baden 1985, pp. 603f.

[7] Frankfurter Allgemeine Zeitung, Sept. 13, 1990.

[8] Bayerische Verwaltung der staatlichen Schlosser, Garten und Seen, letter from March 20, 1981, ref. 238-3611/81 -Ib, Klas to Reinhard Heuschneider.

[9] For this see, e.g., the essay by the Italian A. Bolaffi, “Der herbeigeredete Feind,” Der Spiegel no. 51/1992, pp. 28f.

[10] Das Freie Forum 1990, no. 4, p. 12; see also the German media reports of Nov. 17, 1990.

[11] Der Spiegel, no. 28, 1987.

[12] Josef Fischer to Bernard-Henri Levy, Frankfurter Allgemeine Zeitung, Feb. 18, 1999, p. 46.

[13] P. Philipps, “Quo vadis, BGH?,” Die Welt, March 16, 1994, p. 6.

[14] K.-H. Jansen, “Die Rattenfanger,” Die Zeit, Dec. 31, 1993, p. 51.

[15] R. Wassermann, “Die Justiz hat Klarheit,” Die Welt, April 28, 1994, p. 4.

[16] Hans de With, Member of Parliament for the Social Democratic Party, May 18, 1994, Bundestagsprotokoll  p. 19669.

[17] Patrick Bahners, “Objektive Selbstzerstorung,” Frankfurter Allgemeine Zeitung, Aug. 15, 1994, p. 21.

[18] Affidavit SS-65 von SS investigating judge Konrad Morgen, IMT, vol. 42, p. 556. ヒムラー個人の命令による調査は、強制収容所システム全体をカバーするものとなり、ルドルフ・ヘスやアドルフ・アイヒマンといった高官たちに対する審理にまで発展し、多くの有罪判決が出された。see interrogations of K. Morgen (IMT, vol. 20, pp. 485-515) and Chief Judge of the Supreme SS and Police Court Dr. Gunther Reinecke, IMT, vol. XX, Aug. 6 & 7, 1946.

[19] H. Laternser, op. cit. (note 891), p. 28, cf. also p. 32; this is the only book ever published showing the perspective of the defense.

[20] Spiegel, no. 19/1995; and again on Nov. 30, 1998

[21] Tom Segev, The Seventh Million – The Israelis and The Holocaust, Hill and Wang, New York 1994, p. 223.

[22] ドイツの州の議会代表

[23] Hermann Lutzは、ドイツ帝国議会が第一次世界大戦後に設置した戦争責任調査委員会のなかで活躍した歴史家の一人である。

[24] On this “reeducation” cf. C. von Schrenck-Notzing, Charakterwasche, Seewald, Stuttgart 1965 (new: Ullstein, Berlin 1993); G. Franz-Willing, Umerziehung, Nation Europa, Coburg 1991.

[25] H. Langbein, Der Auschwitz-Prozes, Europaische Verlagsanstalt, Frankfurt/Main 1965, vol. 1, pp. 31f.; vol. 2, p. 858.

[26] A. Ruckerl, op. cit. (note 765), pp. 163f., Reinhard Henkys, Die NS-Gewaltverbrechen, Kreuz, Stuttgart 1964, p. 210.

[27] H. Lichtenstein, Majdanek. Reportage eines Prozesses, Europaische Verlagsanstalt, Frankfurt/Main 1979, p. 52, cf. also p. 55.

[28] Akten der Staatsanwaltschaft beim LG Frankfurt (Main), op. cit. (note 462), vol. 1, p. 102r.

[29] Case 1 is the Sachsenhausen Trial. The entire witness dossier is available in copy form: letter of the Chief of the North Rhine-Westphalian Central Office for Investigation of National Socialist Mass Crimes in Concentration Camps, held by the Chief Public Prosecutor in Cologne, Dr. H. Gierlich, Ref. 24 AR 1/62 (Z); Case 2 is described without mention of the trial, by J. Rieger: Deutscher Rechtsschutzkreis (ed.), Zur Problematik der Prozesse um “Nationalsozialistische Gewaltverbrechen,” Schriftenreihe zur Geschichte und Entwicklung des Rechts im politischen Bereich 3, Bochum 1982, p. 16; Case 3, regarding the Sobibor Trial, is described by F. J. Scheidl, Geschichte der Verfemung Deutschlands, publ. by author, Vienna 1968, vol. 4, pp. 213f., based on National Zeitung, Sept. 30, 1960, pp. 3ff.; Case 4, regarding the Majdanek Trial, is set out in Unabhangige Nachrichten, 7 (1977) pp. 9f.; cf. W. Staglich, Die westdeutsche Justiz und die sogenannten NS-Gewaltverbrechen, Deutscher Arbeitskreis Witten, Witten 1978, p. 14; W. Staglich, JHR 3(2) (1981) pp. 249-281; for Case 5, in the trial of G. Weise, see R. Gerhard (ed.), Der Fall Gottfried Weise, Turmer, Berg 1991, p. 63.

[30] A. Ruckerl, op. cit. (note 982), p. 256; U.-D. Oppitz, op. cit. (note 891), pp. 113f., 239; cf. also H. Laternser, op. cit. (note 891).

[31] H. Laternser, op. cit. (note 891), pp. 86ff., 170; U.-D. Oppitz は、証人たちがフランクフルトに滞在しているとき、法廷の外で彼らを支援する役割をあてられた人々による捏造のケースを文書資料にもとづいて跡づけている。op. cit.(note 891), p. 113.

[32] Verdict in the Frankfurt Auschwitz trial, ref. 50/4 Ks 2/63, pp. 108ff.; cf. I. Sagel-Grande, H.H. Fuchs, C.F. Ruter (ed.), Justiz und NS-Verbrechen, vol. XXI, University Press, Amsterdam 1979, p. 434.

[33] H. Lichtenstein, Im Namen des Volkes?, Bund, Koln 1984, pp. 117f., about a verdict of LG Bielefeld, ref. Ks 45 Js 32/64, on the clearing of the Ghetto Wladimir-Wolynsk.

[34] A. Ruckerl, op. cit. (note 630), pp. 234ff.

[35] Regarding the Auschwitz trial cf. H. Laternser, op. cit. (note 891), pp. 82f. These historical expert reports were published: H. Buchheim, M. Broszat, H.-A. Jacobsen, H. Kausnick, Anatomie des SSStaates, 2 vols., Walter Verlag, Freiburg 1964; re. Sobibor: A. Ruckerl, op. cit. (note 630), pp. 87,90ff.; re. Treblinka: ibid., p. 82; re. Majdanek: H. Lichtenstein, op. cit. (note 1036), p. 30.

[36] B. Naumann, op. cit. (note 943), p. 7.

[37] H. Langbein, op. cit. (note 1034), v. 1, p. 9.

[38] A. Ruckerl, op. cit. (note 630), pp. 7 and 23; cf. A. Ruckerl, op. cit. (note 765), p. 323.

[39] W. Scheffler, in J. Weber, P. Steinbach (eds.), Vergangenheitsbewaltigung durch Strafverfahren?, Olzog, Munich 1984, p. 114.

[40] P. Steinbach, ibid., p. 39.

[41] E. Bonhoeffer, Zeugen im Auschwitz-Prozes, 2nd ed., Kiefel, Wuppertal 1965; H. Lichtenstein, op. cit. (note 1036), p. 117; H. Grabitz, op. cit. (note 900), 1986, pp. 58f

[42] Neues Österreich, June 1, 1963, p. 12.

[43] A. Rückerl, op. cit. (note 34), p. 205; cf. also the chapter by C. Jordan, this volume.

[44] 最初の延長は BGBl I (1965) p. 315、二回目の延長は、BGBl I (1969) pp. 1065f.、最後の無期限延長はBGBl I (1979) p. 1046; cf. M. Hirsch, in J. Weber, P. Steinbach (eds.), op. cit. (note 15), pp. 40ff.; W. Maihofer, op. cit. (note 150), pp. 3-14; P. Schneider, ibid., p. 15-23.

[45] H. Lichtenstein, in J. Weber, P. Steinbach (eds.), op. cit. (note 15), p. 197.

[46] Deutscher Bundestag, Press- und Informationszentrum (ed.), Zur Verjährung nationalsozialistischer Verbrechen, Zur Sache vol. 3-5/80, Bonn 1980.

[47] P. Steinbach, in J. Weber, P. Steinbach (eds.), ibid., p. 27.

[48] Reuters, June 27, 2004, cf. TR 2(3) (2004), p. 358.

[49] G. Giese, “Der Mann, der den Papst verschleppen sollte,” neue bildpost in nine installments, April 21 to June 16, 1974. Here the issue of April 28, 1974, is quoted (www.vho.org/VffG/2002/2/Image893.gif)

[50] W. Behringer, Hexen und Hexenprozesse in Deutschland, dtv, Munich 1988, p. 182.

[51] ドイツ最高裁は、このような審理をまったく合法的とのお墨付きを与えている。ref. 1 StR 193/93.

[52] Sigmund P. Martin, “VolksverhetzungLeugnen des Holocaust durch Verteidigerhandeln,” Juristische Schulung, 11/2002, pp. 1127f., in a case against defense lawyer Jurgen Rieger; based on BGH, ref. 5 StR 485/01; cf. Neue Juristische Wochenschrift 2002, p. 2115; Neue Strafrechts-Zeitung, 2002, p. 539; cf. also BGH, ref. 1 StR 502/99, in a case against defense lawyer Ludwig Bock, see Rudi Zornig,“Rechtsanwalt wegen Stellung von Beweisantrag verurteilt,” VffG 3(2) (1999), pp. 208f.

 



[53] Cf. Max Bauer (ed.), SoldanHeppe, Geschichte der Hexenprozesse, esp. vol. I, Muller, Munich 1912, esp. starting at p. 311 (reprint: Parkland-Verl., Koln 1999); re. a detailed comparison of both cases see W. Kretschmer (=G. Rudolf), “Der mittelalterliche Hexenprozes und seine Parallelen in unserer Zeit,” DGG 41(2)(1993) pp. 25-28 (www.vho.org/D/DGG/Kretschmer41_2.html.html).

[54] Deutscher Rechtsschutzkreis, op. cit. (note 1038), pp. 15f.

[55] Ibid., pp. 15f., as well as H. Lichtenstein, op. cit. (note 1036), p. 89; H. Grabitz, op. cit. (note 900), p. 15.

[56] H. Laternser, op. cit. (note 891), pp. 37, 99ff., 158ff., 171ff.; H. Lichtenstein, op. cit. (note 1042), p. 29, は、KGBによるソ連側証人のでっち上げについて述べている。.

[57] B. Naumann, op. cit. (note 943), pp. 438f

[58] Focus, Feb. 9, 2004.

[59] H. Langbein, op. cit. (note 1034), vol. 2, p. 864.

[60] BGH, penal section, ref. StR 280/67.

[61] R. Gerhard (ed.), op. cit (note 1038), pp. 33, 40, 43-47, 52f., 60, 73.

[62] Deutscher Rechtsschutzkreis (ed.), op. cit (note 1038), p. 17; マイダネク裁判でも、無罪を立証する証言が同じように評価されている, H. Lichtenstein, op. cit. (note 1036), pp. 50, 63, 74.

[63] J.G. Burg, Zionnazi Zensur in der BRD, Ederer, Munich 1979, p. 54 (Majdanek trial; www.vho.org/D/zz).

[64] H. Grabitz, op. cit. (note 900), pp. 40f., 46, 48.

[65] H. Lichtenstein, op. cit. (note 1042), pp. 63ff.

[66] Ibid., p. 80.

[67] H. Laternser, op. cit. (note 891), pp. 34ff., 57f., 414ff.; B. Naumann, op. cit. (note 943), pp. 272, 281, 299f.

[68] R. Servatius, op. cit. (note 19), p. 64.

[69] I. Muller-Munch, Die Frauen von Majdanek, Rowohlt, Reinbek 1982, p. 57.

[70] H. Langbein, Menschen in Auschwitz, Europaverlag, Vienna 1987, pp. 333ff.; cf. pp. 17f.

[71] Ibid., 547.

[72] Cf. David Nutt, Jonathan R.T. Davidson, Joseph Zohar (eds.), Post-Traumatic Stress Disorder. Diagnosis, Management, and Treatment, M. Dunitz, London 2000. The U.S. Department of Defense, Department of Veterans Affairs, even has a National Center for Post-Traumatic Stress Disorder and two publications: National Center for PTSD Research Quarterly; National Center for PTSD Clinical Quarterly (http://www.ncptsd.va.gov/publications/index.html).

[73] H. Grabitz, op. cit. (note 900), p. 147.