4.3.3 国際軍事法廷(IMT)とその後のニュルンベルク軍事法廷(NMT)

R(ルドルフ):国際軍事法廷は、戦勝4カ国からの検事と判事で構成され、まだ生存していた第三帝国の最重要人物22名を裁きました。この裁判に続いて、第三帝国のさまざまな機関/人物に対する12の裁判(ニュルンベルク軍事法廷、NMT)が開かれましたが、それは、アメリカ側によってだけ主宰されました。他の戦勝国は裁判の継続に関心を失っていたからです。

 戦勝連合国はいわゆるロンドン協定を定めて、これらの裁判の法的枠組みを設定しました[1]。この協定の第3条は、法廷の管轄権は問題にされえないと定めていますし、第26条は控訴の可能性をまったく否認し、第13条は、法廷は独自の裁判審理手続きを定めると決定しています。

 

L(聴衆):控訴の可能性も閉ざし、恣意的な裁判審理手続きを定めた裁判は、「法治国家」における裁判とは似ても似つかないですね。

R:そのとおりです。起訴状のいくつかの罪状、例えば人道に対する罪とか平和に対する罪は、法廷が設置される以前には存在しておらず、間に合わせに作り出され、法的な基準に反して、遡及的に適用されています。このような事実は別としても、協定のこうした条項は、議論の余地のあるものとみなされてきました。

 

L:しかも、起訴状の中のこのような罪状は、連合国もドイツと同じような罪を犯しているにもかかわらず、ドイツ人だけに適用されたのですね。ソ連は、フィンランドとポーランドに対して侵略戦争を行なっています。また 西側連合国は、テロル的空爆を行い、その恐怖はドレスデン、長崎、広島で頂点に達しています。

 ニュルンベルクにおいて、人道に対する罪という罪状から、ドイツの実際の犯罪、憶測上の犯罪を裁こうとするのなら、4つの占領国ならびにその同盟国(ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア)も、史上最大の民族浄化、すなわち、東ドイツと中央ドイツからの民族ドイツ人の追放を行なったことを指摘しておかなくてはなりません。これが「人道に対する罪」ではないとすれば、何を「人道に対する罪」と呼べばよいのでしょうか。

R:いずれにしても、こうしたことを「偽善」と呼ぶだけではすまないと思いますが、国際軍事法廷の問題に戻りましょう。第18条は、「公判を、起訴事実により提起された案件の迅速な審理に厳密に限定すること。不当な遅延を生ずるような行為をも防止するため、厳重な手段をとり、起訴事実に関係のない案件および陳述は、その種類のいかんを問わず、一切除外すること」と定めています。国際軍事法廷の訴訟手続きの本質はこの条項にあらわれています。

 

L:言い換えれば、弁護側は手足を縛られているということですね。

R:弁護側に許されているのは、起訴状にある罪状についてだけ弁護活動ができるということです。第19条はこう述べています。

 

法廷は、証拠に関する法技術的規則に拘束されない。法廷は、迅速かつ非法技術的手続を最大限に採用し、かつ、適用し、法廷において証明力があると認めるいかなる証拠をも許容するものである。

 

L:証拠の採用基準がまったくないのですね。なんともはや。

R:もっと悪いのです。第21条はこう述べています。

 

「法廷は、公知の事実については、証明を求めることなく、これを法廷に顕著な事実と認める。また、法廷は、戦争犯罪捜査のため同盟諸国において設立された委員会の決議および文書を含む、連合諸国の公文書および報告書並びにいずれかの連合国の軍事法廷またはその他の法廷の記録や判決書をも、同様に法廷に顕著な事実と認める。」

 

 この「公知の事実」には連合国当局や委員会が文書、報告書、記録で事実と確定したすべてのことが入るのです。

 

L:ということは、拷問や脅迫による見世物裁判での判決も自動的に「証拠」とみなされてしまうということですか?

R:まったくそのとおりです。それだけではありません、連合国委員会のすべての報告書、ドイツの戦争犯罪についてのスターリン主義者のすべての虚偽の報告書も、自動的に証拠とみなされてしまうということなのです。例えば、国際軍事法廷は、ダッハウ裁判で手に入れた「証拠」にもとづいて、SSと武装SSが「立証ずみの」犯罪組織とみなしています。

 

L:ということは、ニュルンベルク裁判はまさしく連合国によるリンチではないですか。

R:合衆国最高裁裁判長ハーラン・フィスケ・ストーンは、まさにそのように呼んでいます[2]

 

「[合衆国首席検事ジャクソンはニュルンベルクで彼の高度なリンチを取り仕切っている。私は彼がナチスに何をしているのかについては気にかけていないが、彼が法廷と審理をコモン・ローにしたがって運営しているという振りをしているのを見ることは耐え難い。

 

 連合国側のこうした姿勢は、文書資料でもあとづけることができます。例えば、ソ連は裁判の予備段階の時点で、被告の有罪は「すでに明白」であるのだから、裁判無しで被告を処刑したい、裁判の後で処刑したいという恥知らずな願望を明らかにしています、西側連合国の中にも、これに賛同する人々がいましたが、最終的には、「公正な」裁判だけがドイツ国民に対する望ましい宣伝効果を上げうると判断されたのです[3]。しかし、ジャクソン首席検事は、裁判のときにもこう発言しています[4]

 

連合国は、敵であるドイツの政治・軍事組織が崩壊しているにもかかわらず、依然として、技術的には、ドイツと戦争状態にある。国際法廷として、当法廷は、連合国の戦争遂行努力の継続である。国際法廷として、当法廷は、各国の司法・憲法制度の精密な審理手順に拘束されない。」

 

L:ジャクソン検事はこの件について正直であったことはたしかですね。

R:イギリスの歴史家アーヴィングは、ジャクソン検事がアメリカ情報局OSSの影響力を封じるまで、ニュルンベルク裁判検事団の調査活動はOSSが個人的に請け負った事業であったと述べています。中心的な弁護人の一人アレクサンドル・フォン・クニエリエムは、検事側だけで、占領国すべての執行機関の人的・物的資源を確保しており、しかも、その権限は無制限であったという事実を国際軍事法廷の前に詳しく明らかにしています。例えば、検事側は、自分たちの望みどおりの証人を逮捕する権限、ドイツ帝国政府のあらゆる文書を没収する権限、戦勝国のすべて文書にアクセスする権限を持っていました。これに対して、弁護側には人的資源も資金もまったくなかったのです。ドイツ流の審理手順とは異なり、アングル・サクソン流の刑事裁判では、検事側は、被告に有利な証拠を探したり、提出したりすることはまったく求められず、一方的に被告の有罪を立証することだけを追及します。国際軍事法廷はこのようなアングロ・サクソン流にすすめられましたので、検事側と弁護側の人的・物的資源に大きな差がある場合には、誤審が生じやすいのです。裁判長でさえ、弁護側を手助けしようと思っても、そのようにすることはほとんどできません。判事たちは、事実上、人事や資金の配分の決定権を持っている検事の道具にすぎないからです。

 

L:ストーン判事が、「ジャクソンはニュルンベルクで彼の高度なリンチを取り仕切っている」とコメントしているのは、そのためなのですね。

R:そのとおりです。ドイツ軍の将軍を裁いたニュルンベルク裁判事件7(いわゆる「人質事件」)の裁判長チャールズ・F・ヴェンナーストラムは、法廷で進行していた事態をはじめて経験したのでしょうか、判決の直後に、これらの裁判審理を手厳しく批判しています[5]

 

今日知っているようなことを数ヶ月前に知っていたとすれば、ここにやってきたりはしなかったであろう。

 明らかに、戦争の勝者は、戦争犯罪の最良の判事ではなかった。法廷は、そのメンバーを任命した国よりもあらゆる種類の人類を代表するように努めるべきであった。ここでは、戦争犯罪はアメリカ人、ロシア人、イギリス人、フランス人によって起訴され、裁かれた。彼らは、多くの時間と努力、誇張した表現を使って、連合国を免責し、第二次大戦の唯一の責任をドイツに負わせようとした。

裁判の民族的な偏りについて私が述べたことは、検事側にも当てはまる。これらの裁判を設立する動機として宣言された高い理想は、実現されなかった。検事側は、復讐心、有罪判決を求める個人的な野心に影響されて、客観性を維持することを怠った。将来の戦争に歯止めをかけるためになるような先例を作り出す努力も怠った。ドイツは有罪ではなかった。

ここでの全体的な雰囲気は不健康であった。法律家、書記、通訳、調査官はつい最近にアメリカ人となった人々が雇われていた。これらの人々の個人的な過去は、ヨーロッパへの偏見と憎悪に満ちていた。

裁判は、ドイツ人に自分たちの指導者の有罪を納得させるはずであったが、実際には、自分たちの指導者は凶暴な征服者との戦争に負けただけだと確信させたにすぎなかった。

 証拠の大半は、何トンもの捕獲資料から選別された資料であった。選別を行なったのは検事側であった。弁護側がアクセスできたのは、検事側がふさわしいとみなした資料だけであった。…

 また、アメリカ的正義感からすれば嫌悪すべきなのは、検事側が、2年半以上も拘禁され、弁護士の立会いもなく繰り返し尋問を受けた被告による自白に頼っていることである。

 控訴権もないことも正義が否定されているとの感を受ける。

…ドイツ国民は裁判についての情報をもっと多く受けとるべきであり、ドイツ人被告には国連に控訴する権利を与えるべきである。

 

 二流の法律家ジャクソンが、敗戦国民のエリート指導者層だけではなく、この国民の自尊心の生殺与奪権を握っていました。証拠の確保や提出について、判事には、占領国に指示を出す権利はなかったのです。

 国際軍事法廷のやり方は4.3.1でお話したアメリカの裁判とよく似ていますが、少しばかりソフトでした。クニエリエムやその他の典拠文献は、ありとあらゆる種類の脅迫と心理的拷問、長時間の尋問、被告と出廷を強いられた証人の財産の没収、弁護側証人に対する逮捕や訴追その他の強制手段による脅迫戦術、宣誓供述書の歪曲、文書資料の捏造、不正確な同時通訳、証拠の提出動議の却下、書類の没収、弁護側が文書資料にアクセスすることの拒否、検事側による弁護活動の組織的妨害といった事例をあげています。また、弁護側は弁護側に有利な証拠や証言と手に入れるために外国に出かけることはできませんでした。手紙による連絡も郵便当局による検閲を受けていました。重大な犯罪を犯した咎で強制収容所に主要されていた囚人が「職業的証人」として繰り返し担ぎ出されました。そして、下された判決は、証拠と矛盾しており、その論理も「きわめて粗雑」でした。合衆国弁護人E. J. キャロルは、クルップ裁判の弁護士として出廷する許可を拒まれたとき、クレイ将軍に抗議の手紙を送り、次の諸点で国際軍事法廷を批判しています。すなわち、長期にわたる非人道的な予防検束、検事側と法廷が弁護側の文書調査を拒否したこと、伝聞資料、恣意的文書にもとづく「証拠」、弁護側証人の拘束、弁護人による被告との接見は検事側代表の在席のもとでのみ許可されたこと、被告に有利な証拠の消失、私有財産の没収、強制された証言、証人に対する脅迫などです。

 国際軍事法廷の被告は、医学的治療を拒まれ、孤独・空腹・寒さの中に捨て置かれ、虐待されて負傷していました。ですから、アーヴィングは国際軍事法廷の検事側の使った尋問方式のことを「ゲシュタポ式」と呼んだのです。さらに、弁護人は、適切な裁判審理を受ける権利に固執すると、逮捕される危険に直面しました。事実、このようなことは、ノイラートの弁護人にふりかかったのです。とくに、クルップ裁判のときにこのような事態が生じています、アシェナウアーは、強制収容所の囚人たちの証言の取り扱いについて、合衆国による「強制収容所」裁判とニュルンベルクでのSS経済管理中央本部裁判とは、同一の職業的証人が出廷しているので、パラレルな裁判であったとみなしています[6]。そして当然のことながら、国際軍事法廷でも、「ナチ体制から迫害を受けた」協会は、数多くの脅迫という手段を使って、仲間の強制収容所囚人が被告側に有利な証言を行なうのを妨げたのです[7]

 

L:ニュルンベルクでも拷問が行われたのですか?

R:国際軍事法廷は世間の目にさらされていましたので、すでにお話したシュトライヒャーに対する拷問の件を除いて、検事側はおおむね、被告を拷問するのを差し控えました。もちろん、国際軍事法廷に証人として出廷し、その供述が証拠として提出されているドイツ人証人、例えば、ルドルフ・ヘスのケースはまた別の話です。

 

L:そして、ホロコーストを「立証する」ために使われた方法が、これまで話されてきた方法なのですね?

R:それこそが、衝撃的な真実なのです。強制収容所や東ヨーロッパで行われたことになっている虐殺を「立証」したのは、ダッハウでのアメリカによる見世物裁判、および他の連合国による同じような裁判なのです。それ以降、SSと武装SSは「犯罪組織」とみなされています。国際軍事法廷自身は、その多くがこのような裁判の中で登場した「証拠」を繰り返し提出して、「事実を立証」したつもりになっているにすぎないのです。国際軍事法廷に提出された証拠がどのような影響を与えたのか、その件については、ハンス・フリッチェの回想からよくわかります。

 ニュルンベルク裁判の主要被告全員は国際軍事法廷に証拠が提出される前は、ユダヤ人の大量殺戮については何も知らなかったと主張していました。解放後のダッハウその他の強制収容所を描いた疑問の余地のあるフィルムが上映されると、それは心理的な効果をかなり発揮しましたが、まだ、完全に納得させるものではありませんでした。被告の多くが納得したのはヘスとオーレンドルフの歪曲された供述が提出されてからのことでした[8]。このときから、ユダヤ人大量殺戮説は、弁護人と被告にとって、ひいてはドイツ国民全体にとって、まったく反駁することのできない呪いの言葉となったのです[9]。ただし、被告たちは、本当の調査がまだ行なわれていないとの印象を抱いていました[10]

 

「理解できないことが、まにあわせのかたちで立証されたことになっているが、まったく調査されていない。」

 

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[1] Reproduced in its entirety in G. Brennecke, Die Nurnberger Geschichtsentstellung, Verlag der deutschen Hochschullehrerzeitung, Tubingen 1970, pp. 27ff.

[2] Alpheus T. Mason, Harlan Fiske Stone: Pillar of the Law, Viking, New York 1956, p. 716.

[3] D. Irving, op. cit. (note 23), chapter “Lynch law” (pp. 31-56 in the Internet edition).

[4]IMT, vol. 19, pp. 398f. R.H. Jackson, 3rd prosecution speech of July 26, 1946.

[5] Hal Foust, “Nazi Trial Judge Rips ‘Injustice,’” Chicago Tribune, Feb. 23, 1948.

[6] R. Aschenauer, Landsberg. Ein dokumentarischer Bericht von deutscher Sicht, Arbeitsgemeinschaft fur Recht und Wirtschaft, Munich 1951, p. 32.

[7] F. Oscar, op. cit. (note 977), p. 85.

[8] H. Springer, Das Schwert auf der Waage, Vowinckel, Heidelberg 1953, p. 87.

[9] Ibid., pp. 101, 112f.

[10] Ibid., p. 119.