4.3.1 アメリカの裁判

R(ルドルフ):終戦直後から、アメリカ側は、党、国家、経済の分野で指導的ポストを持っていたドイツ人すべてを裁判なしの「自動的逮捕」のもとにおきました。数十万の人々が、鉄条網で囲まれた収容所に拘束されたのです。終戦直後から、すべてのドイツ人囚人は戦争捕虜としての身分を失いました。アイゼンハウアー将軍の命令で、「民間人収容者」として、まったく法律の保護を失ったのです

 

L(聴衆):9・11事件以降のグアンタナモ基地のようですね

R:まったくそのとおりですが、はるかに規模が大きいのです。とくにアメリカとフランスの管轄下にあった囚人たちは、建物も宿舎もない収容所に押しこめられていました。自分たちで地面に穴を掘り、その中で日の光や雨を避けていました。十分な食料や医療も与えられず、赤十字やその他の団体、個々人も彼らを助けることを認められていませんでした。その結果、アメリカの収容所の囚人は数十万単位でハエのように死んでいったのです[1]

 軍政府命令第1号によると、ドイツ人は望まれる情報を連合国に与える義務を課せられており、違反すれば終身刑までの処罰が加えられました。この義務の結果、ドイツ人証人は、投獄されたり、何時間も尋問されたり、ロシア側に引き渡すと脅迫されたりして、自白を強いられたのです[2]。「特別プロジェクト」と呼ばれる特別局が、自白しようとしない証人に対する有罪の証拠を集めるという目的だけで設置されました。集められた材料は、証人たちを「落とす」のに利用されました。証人たちは、もし他人を告発する供述を拒めば、自分が訴追の対象となると脅迫されていたからです。

 

L:戦後、ドイツ人はまったく法の保護のもとにおかれていなかったかのようですね。

R:それが、無条件降伏の結果です。恣意的な行為を制限する規制はまったくありませんでした。アメリカ占領地区では、アメリカ軍の管轄下で、ダッハウ、ルードヴィヒスブルク、ダルムシュタット、ザルツブルクで様々な戦犯裁判が開かれました。この裁判に先立って、エベンゼー、フライジング、オベルウルゼル、ツッフェンハウゼンなどの各地の収容所や監獄――ドイツの右派系の著述家によると「拷問センター」[3]――で、容疑者や証人に対する尋問が行われました。

 これらの裁判については、西ドイツの公式の「ナチ・ハンター」のトップであるアダルベルト・リュッケルルでさえも、簡潔にこうコメントしています[4]

 

「まもなくアメリカ人でさえも、アメリカの軍事法廷の裁判審理のやり方に、とくに、予備審問の過程で、物理的・心理的な圧力を受けた可能性のある被告の自白を証拠として繰り返し使用したという事実を知って、この裁判のやり方に異議を唱えるようになった。」

 

 ドイツ人とアメリカ人の弁護士、とくに、ドイツ人のルドルフ・アシェナウアーとアメリカ人のジョージ・フレッシュマン、ウィルス・M・エヴェレットが囚人虐待を告発していましたので、合衆国のいつかの委員会がこの件を1949年に調査しています。しかし、これらの委員会は、合衆国の人権団体から、合衆国陸軍と政治の実態を覆い隠すイチジクの葉っぱにすぎなかったと非難されています。たんに、スキャンダルの広がりを防ぐためだけに利用されたというのです。例えば、戦争防止全国会議は、軍を無罪としたボールドウィン委員会の結論をこうコメントしています[5]

 

「委員会は、この種のやり方の改革を推奨して、報告をしめくくっている。しかし、これらの推奨は、報告の大半を構成しているすべての言い訳や赦免が偽りであることを示している。事実、結論がのべていることは、あなたたちがたとえそれをしなかったとしても、私たちは、あなたたちがそれを繰り返すことを望まないというものである。」

 

 この時とくに熱心な調査官はマッカーシー上院議員でした。しかし、上院からオブザーバーとして派遣されていた彼は、醜聞隠蔽工作に調査委員会と軍が協力していることに抗議して、わずか2週間でオブザーバーの職務を辞しています。彼は、合衆国の監獄でドイツ人被告に加えられた虐待の事例を詳細にリストアップしていますが、それは恐ろしいものです[6]

 

L:マッカーシー上院議員は、1950年代の共産主義者狩りによる害毒で信用をまったく失っているので、そのような虐待の証人としてはもっともふさわしくないのではないでしょうか

R:そのことは良くわかっています。しかし、今日では、ルーズヴェルト大統領に時代に合衆国の行政機関に潜入した共産主義者と戦うという彼の意図の核心には十分根拠があったことがわかっています[7]。もちろん、だからといって、マッカーシー旋風と呼ばれたヒステリー状態の中で生じた無実の市民に対する迫害が弁明されるわけではありません。

 指摘しておきたいのは、右派の政治家、献身的な愛国者、合衆国軍の支持者であるマッカーシー氏が、十分な根拠もなく、自国の軍隊を非難することなどありえないということです。ともあれ、マッカーシー議員の発言を引用する代わりに、第二次大戦ではヨーロッパ戦線軍事裁判部長を勤めたエドワード・L・ヴァン・ローデン氏の発言を引用させてください。1948年、ローデン氏はテキサス州最高裁判事ゴードン・シンプソン氏とともに、合衆国によるダッハウ裁判での不正が行われたという告発を調査するための特別委員に任命されました。以下が彼のテキストからの抜粋です[8]

 

ドイツのダッハウでの合衆国法廷のアメリカ人尋問官は、自白を手に入れるために次のような方法を使った。すなわち、殴打と野蛮な足蹴。歯を折ること、顎を砕くこと。偽裁判。独房への拘禁。僧侶の振りをすること。食糧配給量の減額。無罪の約束。…私たちは勝利を収めたが、殺戮を続けたがっている者が、私たちのなかにいる。これが不愉快な点である。…アメリカの法律は伝聞証拠を禁止しているが、それも効力停止されていた。…証拠として採用された供述は、3ヶ月、4ヶ月、5ヶ月も独房に始めて拘禁された人物からのものであった。彼らは、窓のない、四方を壁に取り囲まれた部屋に拘禁され、身体を動かす機会もまったく与えられなかった。一日二回の食事が、ドアの下の隙間から差し込まれた。誰かに話しかけることも許されていなかった。家族や聖職者と連絡を取ることもできなかった。…私たちの尋問官は、被告の頭に黒いフードをかぶせて、メリケン・サックで顔を殴ったり、足蹴にしたり、ゴム・ホースで殴ったりした。ドイツ人被告の多くは歯を折られていた。顎が打ち砕かれていた被告もいた。私たちが調査した139件のうち、2名を除いて、ドイツ人全員が、直る見込みのないほど、睾丸を殴られていた。これが、アメリカ人尋問官による標準的な作業手順であった。パール検事は、偽裁判や、暴力も含む説得的方法を使ったことを認め、このようにして手に入れた証拠にどれほどの価値を置くかどうかを決定するのは法廷であると述べた。しかし、すべての証拠の価値が認められたのである。18歳になる一人の被告は、何回も殴られたあとに、言われたままの供述を書いていた。16頁にまでやってくると、この少年は、一晩、閉じ込められた。翌朝早く、近くの房にいたドイツ人は、この少年が『もう嘘はつけない』とうめいているのを聞いた。そのあと、看守がやってきて、虚偽の供述書を完成させようとすると、このドイツ人は、房の棒に首をつって死んでいた。にもかかわらず、このドイツ人が 首をつってまで署名を逃れようとした供述書は、法廷に提出され、他の被告を告発する裁判証拠として認められた。署名を拒んだ囚人が、薄明かりの部屋に連れて行かれたこともあった。その部屋では、アメリカ軍の制服を着た民間人尋問官が、黒いテーブルの周りに座っていた。テーブルの中央には、十字架があり、両端には、二つのろうそくがともされていた。そして、被告には、『これから、アメリカの裁判が開かれる』と宣言された。偽の法廷は、偽の死刑判決を下した。そして、『将軍がこの判決を承認すれば、数日以内にお前は絞首刑となる。しかし、この自白に署名すれば、無罪としてやることができる』と宣告された。にもかかわらず、署名しなかった者もいたという。…別の事例では、偽のカトリックの司祭(実際には尋問官)が被告の房に入ってきて、懺悔を聞き、贖罪を認めてから、『尋問官が署名を求めたものならば、なんでも署名しなさい。そのことで、自由になるでしょう。たとえそれが虚偽であっても、私が、嘘をついたことに贖罪を認めることができます』と親しげに教えてやった。

 

L:ひどい話ですね。これに比べれば、第二次イラク戦争のあとのアブ・グレイブ事件もたいしたことがないように見えます[9]

アブ・グレイブ事件では、アメリカ人たちは、イラクの政治制度のことをヒトラーのナチス・ドイツよりもはるかに邪悪ではないとみなしているにもかかわらず、軍が拷問の使用におよぶことができることが明らかになっています。ですから、第二次世界大戦後のドイツでの合衆国軍の振る舞いは、はるかに劣悪なものであったことでしょう

R:まったくそのとおりです。

 

L:合衆国の検事たちが、ダッハウ収容所ではガス室が使われたという話を「定説」としようとしたのは、このダッハウ裁判においてのことですね?

R:そのとおりです。ダッハウ裁判のようなやり方をすれば、どのようなことでも「立証」できてしまうからです。マルメディ裁判の主要被告ヨアヒム・パイパーによると、いわゆる「第三級」の手段=拷問よりも酷かったのは、絶望感、外界や仲間からの孤立感でした。尋問官たちは、脅迫や約束(いわゆる「第二級」の尋問)を使った偽証によって囚人たちの連帯感を打ち砕き、囚人たちをたがいに敵対させることに成功したからです。

 

L:最近の『タイム』紙の記事からも明らかなように、合衆国当局がグアンタナモ基地で使っている尋問方法とよく似ていますね[10]。ですから、第二次世界大戦後に起ったことは、合衆国軍の伝統となったようですね。

R:断ち切らなくてはならない伝統です。しかし、第二次世界大戦後のドイツで使われた方法のほうが、現在のグアンタナモ基地で使われている方法よりも、はるかに大規模で、かつ野蛮だったと思います。グアンタナモ基地の収容所は例外的な存在ですが、合衆国軍は第二次世界大戦後のドイツでは、例外的存在を普遍的存在に変えてしまったのです。

 戦後の尋問(数時間、数日間)記録を見ると、検事たちは、「宣誓供述書」の中で被告の無実を証明しそうな箇所を削除したり、書き換えることで内容を変えたりして、これらの「宣誓供述書」をつぎはぎしていることがわかります。

 こうした疑わしい「宣誓供述書」に加えて、検事側は、信憑性の確認されていない文書の「コピー」や伝聞証言を証拠として紛れ込ませるというトリックを使っています

 アメリカ占領地区軍政府命令4号により、囚人は他の囚人を告発する検事側証人となることで自由を買うことが約束されたからです。

 

L:おぞましい手段が組織的に使われたようですね。

R:そのとおりです。すべては程度の差こそあれ、「上からの命令」に忠実で、計画にしたがっていたからです。

 

L:でも、なぜ、囚人たちは弁護人からのアドバイスにしたがって、供述を拒まなかったのですか?

R:ごく単純なことです。裁判かはじまるまで、すなわち尋問を受けている期間、被告たちにはまったく法的なアドバイスが与えられていなかったのです。そして、裁判がはじまってからでさえも、弁護人は効果的なサポートができませんでした。裁判所が任命した弁護人の多くは連合国側の人間でしたし、ドイツ語もあまりできずに、被告の弁護にもほとんど関心を抱いていなかったからです。被告を脅迫して、嘘の自白をするようにアドバイスする検事のような弁護人もいました

 献身的な弁護人、例えば、ウィリス・M・エヴェレット弁護人のような人物が弁護活動にあたっているときでさえも、その活動は検事と法廷の手でまったく妨害されていたのです。弁護人がアクセスできるファイルはごく一部に限られており、被告との面会も裁判の開始直前に許されただけでしたし、裁判がはじまってからのこともありました。しかも、何と、連合国の検事の在席のもとで許されたのです。裁判がはじまるまで、弁護人たちは起訴状の内容を、きわめてあいまいにしか知りませんでした。無罪を証言してくれるような証人を尋問しようとする動議、検事側の提出した証拠――歪曲された供述――に対する異議申し立ては、多くの場合却下されました。このようなやり方は合衆国検事当局の規定に合致していたのです。軍事法廷に関するアメリカ占領地区軍政府命令7条第7項はこう述べているからです。

 

「法廷は、証拠に関する法技術的規則に拘束されない。検事側、弁護側双方は反証を提出することができるが、法廷がその証拠の許容性については決定する。」

 

L:言い換えれば、「われわれは好きなように何でもやるし、法的手続きに制限を設けない」ということですね。

R:そのとおりです。法的手続きはきわめて恣意的でした。最後の問題なのですが、犯罪を立証していると思われる強制収容所の囚人の供述をどのように評価すべきなのでしょうか。これらの供述=証言を引き出すために、検事側がとくに利用した手続きが、「ステージ・ショー」もしくは「レビュー」です[11]。検事側は強制収容所の囚人たちを集めて、映画館の観客席、視聴者席に並べました。被告は、ライトのあたる壇上に置かれ、強制収容所の囚人たちはライトのあたらない席に置かれて、どのような粗野な告発をすることも許されたのです。まるで、まったくの地獄の人民裁判のようでした。検事側の期待に反して、告発が行われないか、もしくは不十分であると、検事側が「手を差し伸べて」、囚人たちに告発するように促しました。脅しや脅迫が使われたこともあります[12]。往々にして、検事側は被告の無実を証明するような供述は破棄してしまいました[13]。こうした「ステージ・ショー」の最終場面には、SSの制服を着たアメリカ軍将校が、被告と一緒に登場し、数名の囚人たちが、彼らのことを、一連の犯罪行為の咎で告発したのです[14]

 

L:ニュルンベルク国際軍事法廷でもこのようなことが行われたのですか?

R:いいえ、ニュルンベルク国際軍事法廷ではありません。それに先立ってアメリカ占領地区で行われたダッハウその他の裁判においでです。弁護側の強制収容所囚人は、黙れと命令されたり、脅迫・侮辱され、逮捕・虐待されたこともあります。弁護側証人となろうとする囚人は、家族に報復するぞと仲間の囚人に脅迫され、もし獲物である被告に対する告発や供述を拒めば、彼ら自身を告発・起訴するとまでいわれたのです。仲間の囚人を殺すぞと脅迫して事例までもが報告されています。「ナチ体制から迫害を受けた」ドイツ人協会――のちに憲法違反の共産主義的団体として解散させられた――は、どの囚人が食料割り当てを受けるか、どの囚人を宿舎リストに載せるかの決定権を与えられていました。ですから、囚人の大半は弁護側証人として主っていることを邪魔されていたのです。被告の無実を立証するような証言をすることは、こうした生存者団体から制裁を受けることになり、実質禁止されていたことになります[15]

 進んで告発しようとした証人たちは、さまざまな裁判に、ときには集団で頻繁に姿を現し、目立った存在でした。彼らは現金や現物で報酬を受け取っていました。これらの証人たちは「職業的証人」であり、あからさまに、自分たちの証言を調整しました。すなわち、重罪の咎でドイツの強制収容所に収容されていたが、犯罪を告発する供述をする代わりに免訴を約束された犯罪者が実際に、悪行をクリーンにするために証言を調整したのです。

 

L:すでに、登場したアドルフ・レグナーのようにですね。

R:合衆国陸軍調査委員会メンバーのシンプソン判事とローデン判事はこうした証人のことを「くず」と呼んでいましたが、レグナーはまさにそのような人物です[16]。証人は、事が露見しても、偽証で告発されることはありませんでした。逆に、証人が、自白を迫られた手段を法廷で告白し、自白を撤回すれば、訴追されて、彼の命は風前の灯となってしまったのです。

 

L:しかし、アドルフ・レグナーはいくつかの事件での偽証の咎で訴追され、有罪となっていますね。

R:そうなのですが、それは連合国の裁判所によってではなく、戦後何年かたってから、ドイツの裁判所によってです。しかも、ホロコースト・ロビーがまだ十分に組織されていなかった西ドイツの初期の時代だけの話です。1950年代後半となると、偽証罪でのホロコースト証人の訴追はまったく行われなくなったのです

 

L:そのような手段を使えば、なんでも立証できますが、理性的な歴史家であれば、このような証言を重視するはずがないと思いますが。

R:不幸なことに、そうではないのです。例えば、1990年に著名な歴史学雑誌に寄稿したメインストリームの歴史家T. A. シュヴァルツは、アメリカによる裁判はジュネーブ協定にしたがって行われた、この裁判の主な問題点は、控訴手続きが定められていなかったこと、判決を将来どのように扱うのか定められていなかったことにすぎないと述べています[17]

 

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[1] Cf. James Bacque, op. cit. (note 575); J. Bacque, Crimes and Mercies, Little, Brown & Co., Toronto 1996.

[2] Freda Utley, The High Cost of Cengeance, Henry Regnery, Chicago 1949, p. 172 (www.vho.org/dl/ENG/thcov.pdf).

[3] R. Tiemann, op. cit. (note 977), pp. 71, 73; F. Oscar, op. cit. (note 977), pp. 77ff.

[4] A. Ruckerl, op. cit. (note 765), p. 98.

[5] R. Tiemann, op. cit. (note 977), p. 181.

[6] Congressional Record-Senate no. 134, 26.VII. 1949, pp. 10397ff., reproduced in its entirety in R. Tiemann, op. cit. (note 977), pp. 269ff. (http://vho.org/D/zferdk/4.html).

[7] Cf. John Earl Haynes, Harvey Klehr, In Denial. Historians, Communism & Espionage, Encounter Books, San Francisco, 2003.

[8] E.L. van Roden, “American Atrocities in Germany,” The Progressive, February 1949, pp. 21f. (www.corax.org/revisionism/documents/19490200vanroden.html)(試訳:連合国による戦後の「戦争犯罪裁判」を告発する

[9] For some photos from Abu Ghraib prison see www.antiwar.com/news/?articleid=2444

[10] Adam Zagorin, Michael Duff, “Inside the Interrogation of Detainee 063,” Time, June 20, 2005, pp. 26- 33

[11] Cf. in this regard R. Aschenauer, Macht gegen Recht, op. cit. (note 977), pp. 18ff.; O.W. Koch, op. cit. (note 977), p. 127.

[12] R. Aschenauer, Macht gegen Recht, ibid., pp. 24ff., 33f.

[13] Ibid., p. 21.

[14] Gesellschaft fur freie Publizistik, Das Siegertribunal, Nation Europa, Coburg 1976, pp. 69f.

[15] R. Aschenauer, Macht gegen Recht, op. cit. (note 977), pp. 42f.; F. Utley, op. cit. (note 980), p. 198; O.W. Koch, op. cit. (note 977), p. 53.

[16] Gesellschaft fur freie Publizistik, op. cit. (note 993), p. 69.

[17] T.A. Schwartz, “Die Begnadigung deutscher Kriegsverbrecher,” Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte, 38 (1990) pp. 375-414.