4.3 法廷証言
R(ルドルフ):法廷における証人と原告・被告双方の取り扱いは、少なくとも理論的にですが、非常に重要です。その取り扱いは、何世代にもわたる法律家たちの数世紀の経験にもとづいており、それゆえ、歴史家たちは、その取り扱い方をガイドラインとして受け入れるべきです。もっとも、歴史学的方法と司法的方法では、真実を確定する方法が異なっている点もあります。例えば、法廷は、定められた期間の中で、何が真実であり、何が真実でないかを明確に裁定しなくてはなりません。一方、学問の分野では、真実をその基本原則に照らし合わせ続けようと思えば、すぐに明確な結論をださなくてももかまいませんし、そうすることもできないでしょう。裁判では、判決は感情的要因に左右されることがありますが、学問の分野では、感情的要因の影響力は限られています、もしくは限られているべきです。
ホロコースト証言や自白の大半は、この刑事裁判とのかかわり合いの中で作り出されました。ですから、感情に左右されていない目撃証言は稀なのです。証言の対象となる事件の性格、事件と結びついている感情の性格のために、そのことは避けられません。ですから、法廷助言者として活動する各分野の歴史家、法医学専門家は、目撃証言と自白の信憑性を批判的に検証しなくてはならないのです。しかし、ここで検討しようとするホロコースト関連裁判では、このようなことはまったく行われてきませんでした[1]。
L(聴衆):前に、デムヤンユク裁判では専門家が登場したとおっしゃいましたね。
R:この専門家が証言したのは、目撃証人の記憶がどの程度信用できないものであるかについてです。証言自身の正確さについては意見を表明していません。そのような能力もなかったでしょう。
法廷は目撃証言に対してまったく批判的な態度をとってきませんでした。ですから、無批判的な裁判で行なわれた目的証言が、学問的にはどの程度有効であるのかという問題が生じます。学問とは、真実を確定するために、感情に左右されない信用できる証言にもとづくものだからです。歴史学を裁判での目撃証言、それにもとづく刑事事件の審理の上で組み立ててしまうことには、たとえ、この裁判が法の支配に厳格にしたがっていたとしても、疑問の余地があります。まして、これらの証言が法廷で採用されたかどうかもわからないような状態で、研究者がこの目撃証言を証拠として引用することには、もっと疑問の余地があります[2]。
ですから、ホロコースト史学は、質の疑わしいものが多い証言に満足するかどうかというディレンマに直面しているのです。さらに、証言の価値は、かならずしもすべてではありませんが、証人と被告に対して検事側、法廷、メディアがどれほど公平に対してきたか依存していますので、研究者は、証言が行なわれた環境のことも考慮しておかなくてはなりません。
[1] 以下の記述はマンフレッド・ケーラーのペンネームで執筆された私の論文 “The
Value of Testimony and Confessions Concerning the Holocaust,” in: G. Rudolf
(ed.), op. cit. (note 44), pp. 85-131(試訳:ホロコーストに関する証言と自白の価値(M. ケーラー))にもとづいている。 To keep the number of
footnotes in this book within reasonable limits, please see the additional
sources cited therein. The following publications are recommended: D. Irving
(note 23); M. Lautern (note 955); Alexander von Knieriem,
[2] 例えば、コーゴンその他の『毒ガスによる大量殺戮』は、検事側の提出した様々な文書や証言にもとづいて、資料集を編纂しているが、これらの文書資料が裁判において証拠として採用されたのかどうかを検証する可能性を提供していない。