4.2.5 圧力、恐れ、脅迫、洗脳、拷問
R(ルドルフ):すでにお話しましたアメリカの目撃証言専門家エリザベス・ロフトゥス博士は、人間の記憶というものは人間が感情的ストレスにさらされたときもっとも歪められてしまうものであることを、研究の中で発見しました。ここには、意図的にストレスにさらされたケースも含まれます。記憶の操作を可能とするさまざまな方法を検証してみましょう。
まず、わが国のような「法治国家」でどのように尋問が行なわれているのかをみてみましょう。この件で、放映されたばかりのアメリカのABCテレビの報道番組に触れておきます。この番組では、まったく普通の尋問技術を使って、無実の人間に殺人を自白させ、その自白が殺人罪を立証するのに十分な証拠能力をもつようにされていく様子が描かれています。その後、偶然に、真犯人が逮捕されましたが、この事件は、普通に行われている警察の尋問方法の実態を暴露するスキャンダルとなりました[1]。
「毎年、数千の犯罪者が、警察の尋問による自白をもとに有罪とされている。専門家によると、法律強制尋問技術は非常に効果的なので、きわめて口の固い犯罪者の口を割らせることができる、ひいては、無実の人間を告発することもできるという。無実の人間が尋問の対象となって、自分がやってもいない犯罪を自白してしまった数百の事例が存在するという。」
メリーランド州の警官で、尋問の専門家であるRich Fallinもこう述べています。
「嘆き哀しむ家族や、警察の尋問を受けたことのないひ弱な人物を長い時間尋問すれば、彼らは自白するでしょう。」
方法はきわめてシンプルです。尋問官は、犯罪現場の恐ろしい写真や別の証人の証言などの証拠を容疑者に突きつけ、それは容疑者の有罪を立証していると――虚偽であっても――示唆します。尋問は中断されることなく何時間も続きます。食べ物や飲み物は提供されないか、提供されても少量です。トイレに行く機会も制限されます。尋問室は意図的に不快な環境になるように設計されており、不必要なほど暑いのです。尋問官はかわるがわる深夜まで容疑者に尋問します。容疑者は、尋問官が「善意で」職務を果たしており、容疑を否定すれば処罰が厳しくなるだけであり、自白だけが救いの道であると説き伏せられます。消耗・疲労・感情的ストレスという条件のもとでは、大半の容疑者は、有罪・無罪にかかわりなく、口を割ってしまいます。捏造された自白にもとづく不正な有罪判決が続いたので、例えば、イリノイ州は2000年に、死刑執行猶予制度を作っています[2]。
L(聴衆):逮捕されたり召喚された場合には、弁護士の立会い無しでは何もしゃべらないほうが良いと弁護士がアドバイスするのは、そのためなのですね。
R:そのとおりです。しゃべったことすべてが、不利になるように利用されてしまうからです。不幸なことに、多くの人々は非常にナイーブなので、警察官はなべて正直な人物であると信じています。しかし、そうではありません。犯罪捜査チームにいる警察官は、日々、粗悪・粗暴な人間に対処しており、そのように行動しています。
L:でも、そんなことはドイツでは起りませんよね。
R:ナイーブすぎます。ドイツのメディアを見れば、ドイツでも事態はまったく変らないことがわかります。例えば、1990年夏、『シュピーゲルTV』は、殺人罪で告発された被告が、「非常に効果的な尋問方法」ならびに少なからず「効果的な審理方法」にさらされたのちに、自白したケースを2例報道しています。二つの事件では、法医学的な分析が、二人の容疑者はともに無実であることを明らかにしていたにもかかわらず、法廷は法医学的な証拠を退けて、有罪は「自白により自明の理である」と主張したのです。幸運にも、真犯人がすぐあとに捕まり、容疑者は釈放されました[3]。判事でさえも、法医学的な証拠よりも自白の方に高い価値を置いてしまうことがあるのです。
歴史の問題に戻りましょう。今日の定説を形作ったホロコーストについての尋問が行なわれたのは、1944−1947年のあいだ、その大半がソ連、ポーランド、ドイツで行なわれたさまざまな戦争犯罪裁判においてでした。これらの裁判審理を詳しく検証する前に、自白の形式を見ただけでも、この自白が圧力をかけて強要したものであることがわかるケースをいくつかあげて起きます。
すでに、アウシュヴィッツのゲシュタポ尋問官であったヴィルヘルム・ボーガーのケースについては検証しました。フランクフルトのアウシュヴィッツ裁判の口火を切ったのは、ボーガーに対する予備審問でした[4]。ボーガーはドイツの警官による尋問を受けていますが、その尋問のときに、アウシュヴィッツでのガス室の実在に対してまったく異を唱えていません。もっとも、この点についての彼の証言はほとんど意味のあるものではありませんが[5]。注意を促しておきたいのは、彼が連合国の捕虜となった2週間後の1945年7月に行なった供述です[6]。
「アウシュヴィッツの大量死――アウシュヴィッツのSSスタッフ自身が、おそらく疫病のおかげで、しかし、実際には、見え透いた理由、すなわち、1年以上の収容所の検疫のために!鉄条網の前の灰色の囚人たち!1943年の秋に、何も知らないドイツ国民の頭越しに、知るようになった。収容所とカトヴィツェの国家警察の幹部が突然、国家刑事警察局によって交代させられ、SS全国指導者ヒムラーの命令で、調査が始められた!極秘に、有名な判事の特別委員会、検察側代表、SS少佐モルゲン博士と6−8名のスタッフがアウシュヴィッツに4ヶ月滞在して、『腐敗と殺人事件』を調査した。…
ガス処刑、銃殺、絞首刑、疫病、SS隊員による殺害によるアウシュヴィッツでの囚人犠牲者の合計は、正確にはわからないが、『登録所』で勤務していたSS曹長エルバーのあげている控えめな数字をはるかに上回る400万人に達するであろう。」
L:ひどく細切れの意味不明な文章ですね!
R:そのとおりです。それまでは、ボーガーはまったく正しいドイツ語で書いているのですが。それだけになおさらです。
L:ボーガーが、彼を捉えた連合国側が捏造した400万人のアウシュヴィッツ犠牲者という嘘を「のみ込む」のにそんなに時間がかかっていませんね。
R:わずか2週間で、彼は尋問官たちの文章のスタイルを「のみ込み」、それまでの正しいドイツ語を使うことをまったく止めてしまったのです。尋問官たちは、一体どのような手段を使って、「反ファシスト」的スタイルの細切れで意味もない誇張をヒステリックに集めたような文章をボーガーに書かせることに成功したのでしょうか?
L:「穏当な」手段ではなかったことだけは確実です。
R:もう一つのケースはペリー・ブロードです。アウシュヴィッツのガス室を詳細に供述した有名なSS側の証人です。ブロードはこの当時、収容所ゲシュタポの中でボーガーの同僚でした。彼も、連合国に捕まってから、「自白」を行なっています。それは、少なくとも正しい言葉で書かれています。抜粋しておきます[7]。
「アウシュヴィッツは絶滅収容所だった!人類史上最大のものだ。それが存在している期間に、200万人か300万員のユダヤ人が殺された。…
ヒトラーと彼の部下が計画し、恐ろしい方法で実行され、そしてけっして贖われることのない最大の犯罪の最初の試みは成功した。そのときから、最大の悲劇、平和で幸せな生活をおくっていた数百万の何の罪もない人々に襲いかかった悲劇が始まったのだ!」
L:レジスタンスにうちこんだ戦士が書いたような文体ですね。
R:そのとおりです。ブロードはSS隊員でした。もし彼がここで述べていることが正しければ、彼自身もヒトラーの「部下」であったはずです。ですから、フランスのメインストリームのアウシュヴィッツ専門家故プレサックもこう述べているのです[8]。
「しかし、彼の声明の形式と調子は、虚偽の匂いがする。彼の書いたものを、SS隊員の考え方の忠実な反映とみなすことはできない。読んでみると、囚人によって書かれたとの印象を受ける。だから、148、149、153−156頁は、注意深く読まれなくてはならない。最後に、172頁で、『SS隊員という怪物にとって、虐待されたユダヤ人の苦痛を眺めることは、楽しい娯楽であった』というようなことを書いているのは誰なのであろうか。多くの誤りがあるにもかかわらず、ブロード証言の基本には信憑性があると思われるが、今の文体は、はなはだしいポーランド愛国主義に彩られている。さらに、彼の陳述のオリジナル原稿は、知られていない。しかし、このテキストを否定するべきではなく、その『特別なトーン』も説明することができる。すなわち、ブロードは『勝者の言語』を採用したか(ヴィダル・ナケの仮説)、彼の陳述は、ポーランド人によって『わずかに』書き換えられたかである。」
L:ブロードはこの文書を自分で書かなかったとプレサックは言おうとしているのですか?
R:ブロードはこのような供述をしたことを否定していませんが、フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判のときに、自分は伝聞を繰り返したにすぎないこと[9]、この供述書には手が加えられていると述べています[10]。
「私は手渡された写真コピーをながめました。私が書いた箇所もあれば、誰かが付け加えた箇所もありました。間違っている箇所もあります。このようなものが私のオリジナルかどうか疑問を持っています。いくつかの箇所は私が記したものですが、それは文書全体ではありません。この供述書にはいくつかのバージョンがあるのでしょう。この供述書には私の知らない情報がかなり入っているようです。」
しかし、そのとき、裁判長がこう指摘しました。「この供述書は同じ文体で書かれており、内容も同じです。一人の人物、つまりあなたによって書かれたと思われますが。」
ブロードはこの指摘を否定していません。
L:ということは、彼が書いたのですね。
R:おそらく彼が書いたのでしょうが、自分の意志で、誰からも影響をまったく受けずに書いたわけではありません。いずれにしても、ブロードは、自分のオリジナルの供述がガス処刑に触れていることを否定していません。しかし、この「文書資料」からさらにいくつか抜粋してみましょう[11]。
「SS准尉ヴァウペルは、アウシュヴィッツ強制収容所に駐屯するSS髑髏部隊第一中隊から、6名のとくに信頼できる部下を選んだ。その中には、何年もSS『黒い将軍』の隊員であった兵士もいた。彼らは、SS准尉へスラーのもとに出頭しなくてはならなかった。へスラーは彼らが出頭してくると、これからの数分間に彼らが目にすることは極秘条項である、もしも秘密を漏らせば、死刑処分となると強く警告した。この6名の任務は、アウシュヴィッツの焼却棟の区画周辺の道路・通りを完全に封鎖することだった。どのような階級であれ、ここを通過することは許されなかった。焼却棟を目にすることができる建物の事務所は移動させられた。SS守備隊病院にいる収容者は、その近くの焼却棟の屋根と陰鬱なその場所の庭を見ることのできる一階の窓の近くに近づくことを禁止された。」
「[犠牲者の]第一列がホールを通って死体安置室に入った。すべてがきちんとしていた。しかし、特別な臭いが彼らの一部を不安にしていた。彼らは天井に固定されるシャワーや水道管を探したが無駄であった。その間、ホールは一杯になった。何人かのSS隊員が、冗談話をしながら、彼らと一緒に入ってきた。彼らは入り口のほうを凝視していた。このSS隊員は、最後の犠牲者がホールに入り終えると、それとなく姿を消した。突然ドアが閉められた。ドアは、ゴムのラバーによって気密常態にされており、金具で締められた。内部の人々は、重いボルトが締め付けられる音を耳にした。しっかりと締めつけられ、ドアは気密を保った。死を前にした、身動きの取れないような恐怖が犠牲者のあいだに広まった。彼らはドアをたたき始めた。絶望的な怒りを感じながら、拳骨でドアをたたいた。冷笑的な笑いだけが返ってきた。誰かがドア越しに叫んだ。何人かの犠牲者は、天井の6つの穴のカバーが取り外されるのに気づいた。彼らは、ガスマスクをつけた頭を穴のところに見つけたとき、恐怖の叫び声を上げた。『害虫駆除作業員』が仕事を始めた。その一人は、戦功十字章をつけたSS曹長Teuerだった。彼らは、害虫駆除のために使われる『チクロン』という商標の入った缶をのみとハンマーで開けた。『毒ガス危険!訓練を受けた者だけが開くこと』 缶には豆粒ほどの大きさの青い丸薬が一杯詰められていた。缶が開けられると、その中身がすみやかに穴の中に投下され、そのあとにカバーが閉じられた。その間、グラブナーは焼却棟の近くに停車していた貨物自動車の運転手に合図した。運転手はエンジンをかけ、そのけたたましい騒音は、ガス処刑されている数百の人々の死の叫び声よりも大きかった。グラブナーは科学者としての興味を抱きながら、腕時計の秒針を眺めていた。チクロンBはゆっくりと作用した。それは固体のシアン化水素化合物で構成されていた。缶が開けられると、青酸が丸薬から放出された。2分ほどたつと、叫び声は次第に収まり、不明瞭なうめき声だけが聞こえた。犠牲者の大半はすでに意識を失っていた。さらに2分たつと、グラブナーは時計を見るのを止めた。まったくの静寂が訪れた。…」
「少したつと、排気装置がガスを除去し、焼却棟で働く囚人が死体安置室のドアを開いた。口を開いた死体がたがいに積み重なっていた。とくに、ドアのところに積み重なっていた。死に物狂いで、ドアを開いて脱出しようとしたためであった。焼却棟の囚人部隊はまったく無関心なように、感情を表さずに、ロボットのように作業していた。捻じ曲がった手足がガスで硬くなっていたために、死体を死体安置室から引き出すのは困難であった。熱い煙が煙突から噴出していた。1942年はじめのことであった!」
L:非常に詳しい描写ですね。ですから、ブロードは、この任務を果たしていた『6名のSS隊員』の一人だったにちがいありません。
R:そうでなければ、これほどまで詳しいことを供述できなかったはずです。しかし、この供述と1959年にアウシュヴィッツ裁判の予備審問のために逮捕されたときのブロードの証言とを比べてみましょう。以下がその抜粋です[12]。
「私自身は、アウシュヴィッツの小さな焼却棟でのガス処刑にはまったく関与していません。いちどだけ、小さな焼却棟の反対側にあるSS病院の上階の窓からガス処刑を見たことがあります。しかし、私が覚えているのは、ガス室の平らな天井の上にガスマスクをつけた二人のSS隊員が立っているのを目撃したことだけです。二人の男がハンマーを使ってチクロンBの缶を開き、穴に毒を投入するのを目撃しました。ガス処刑が行なわれているときにはその区画が封鎖されていましたので、関係者以外のSS隊員もその区画に近づくことはできませんでした。囚人たちはガス室に入れられてから死の恐れのために叫び声をあげたと想像することはできますが、実際には何も耳にしたことはありません。しかし、SS病院の前には、エンジンを最大に稼働させたトラックが止まっていました。これはガス処刑に関係したと思います。叫び声や銃声を聞かせないようにするためでした。」
L:しかし、チラッと見たにすぎないとすれば、終戦直後に、非常に詳しく供述することができたのはなぜなのでしょうか?
R:1959年には責任を回避するために嘘をついたのか、それとも、終戦直後には、処刑されることを避けるために嘘をついたのか、そのどちらかです。終戦直後には、彼の供述のスタイルは、その文体と内容ともに戦勝国側のものです。ですから、最初の供述のほうが嘘であると推定できます。しかし、最初の供述には本当の話が含まれていると推定すると、ブロード自身が怪物のようなSS隊員であったことになります。そうだとすると、ブロードはヘスのようにポーランド人の手で裁かれ、処刑されなかったのはなぜなのでしょうか?ブロードはガス処刑の首謀者の一人であったことを否定し続けています。あとで、ブロード証言を詳しく検証して、彼の供述が決定的な点で虚偽であることを明らかにします。ここでは、ブロードの自白の文体がSS隊員側の文体ではなく、想像上の犠牲者の視点からの三文小説の文体であるので、彼の戦後の自白は、強制のない自由な環境のもとで行われたものではないことを指摘しておけば十分でしょう。
では、本質的な疑問をあげておきます。終戦数ヵ月後に、レトリックを駆使して、犠牲者の観点から虐殺物語をSS隊員に書かせるにはどのような待遇が(もしくは虐待が)必要なのでしょうか?
この疑問に答えるために、使われた手段があいまいに示唆されているケースに言及させてください。ハンス・アウマイヤーのケースです。
アウマイヤーは1942年2月中頃から1943年8月中頃までアウシュヴィッツの保護拘束収容所の所長でした。1945年6月29日に、イギリスの看守がアウマイヤーに最初の尋問を行なっていますが、そのとき、彼は、アウシュヴィッツの焼却棟についてまったくナイーブに話していますが、ガス室についてはまったく触れていません。この証言に満足しなかった尋問官は、ガス処刑についてのもっと詳細で「正確なデータ」――毎日の犠牲者数、合計犠牲者数――、および「彼自身の責任の自白」、その他の実行犯や命令を発した人物の密告を要求しました[13]。アウマイヤーはガス処刑が行なわれたかどうか、それに関与したかどうかさえも尋ねられておらず、ただガス処刑の詳細なデータの提供と自白とを求められたのです。結局アウマイヤーは「自白」することになるのですが、その自白には「囚人番号211ハンス・アウマイヤーSS少佐の1945年8月10日の尋問報告」という文書が付されています[14]。
「尋問官は、この供述の大半が事実に関する限り、真実と一致していることに満足しているが、アウマイヤーの個人的反応、彼の考え方は、彼の運命が悪くなると少々変るかもしれない。」
L:アウマイヤーは情報提供させるために尋問されたのではなく、イギリスがすでに「真実」だとみなしていたことを確証させるために尋問されたことになりますね。
R:そのとおりです。事実、ガス室についてのアウマイヤー証言は数多くの誤りを含んでおり、定説とも矛盾しています[15]。彼は、要求されているとおりに、ガス処刑について何事かを語らなくてはならなかったので、最初の実験的なガス処刑について供述していますが、そのアウシュヴィッツの「ブンカー」11でのガス処刑が実施された時期を、今日の定説よりも1年ほどあとに設定してしまっているのです。アウマイヤーによると、最初の実験的なガス処刑は1941年秋/冬ではなく、1942年秋/冬のことであり、1942年にビルケナウのブンカーで行われたとされる最初のガス処刑は、1943年初頭のことだというのです。アウマイヤーは、彼がアウシュヴィッツに着任したのが1942年2月であったためにそのように供述しなくてはならなかったのです。そうでなければ、自分の着任以前の出来事についての詳細なデータを要求する尋問官を満足させることはできなかったのです。当初、アウマイヤーは「真実」を話すことを渋っていました、すなわち、嘘をつくことを拒んでいましたが、自分の運命が厳しいものであるという事実、自分の前途を恐れざるをえないという事実のために、態度を変えたのです。
L:どのような脅迫が使われたのでしょうか?
R:ヒトラーの副官ニコラウス・ベロウが証言しています。連合国は、自分に好都合な「自白」を彼から引き出すまで、長期にわたって、彼を予防拘束所に収容したというのです。彼の言葉を借りれば、彼は、「イギリス人に大量の嘘を話した」というのです[16]。
もう一つの例はクルト・ベッヒャーです。1944年初頭、彼はSS中佐として、SS指導部の一員で、ハンガリーでの馬や戦略物資の調達を引き受けていました。この関係で、ヒムラーとシオニスト組織との有名な交渉――戦略物資の搬送と交換してユダヤ人を釈放すること――に関与していました[17]。ベッヒャーはハンガリー系ユダヤ人の移送に関与した件で、連合国に逮捕され、何回も尋問されました。彼は協力の姿勢を見せたので、ニュルンベルク裁判では被告となるあつかいを受けるのではなく、「オープン・ウィング」に移されました。
L:前に登場したヘットルのようにですね。
R:そのとおりです。ベッヒャーもヘットルとともにハンガリーで仕事をしていましたが、やはりヘットルと同じく、裁判にはかけられませんでした。
よく知られているように、ユダヤ人の絶滅を命じた文書資料はまったく存在しません。しかし、絶滅の中止を命じていると思われる文書は存在したという話になっています。この証拠としてあげられるのが、ベッヒャーの証言です。彼はニュルンベルク国際法廷の場で、「1944年9月中旬から10月中旬のあいだに」、「ユダヤ人の絶滅をすぐに」中止するようにとのヒムラーの命令を受け取ったと証言しているのです[18]。
L:文書は発見されているのですか?
R:いいえ、そのような文書は存在していないのです。クルト・ベッヒャーは、15年後も、アイヒマン裁判にかかわる調査尋問の中で、この証言を繰り返しています[19]。しかし、この話は、ヒムラーのその他の意図や行動についての詳しい証言とひどく矛盾しています。ベッヒャーの話を信じるとすると、この当時、ヒムラーは交渉目的で、できるだけ多くのユダヤ人を確保しようとしていたはずです。彼らを釈放する代償として、できるだけ多くの戦略物資を手に入れることができるのですから。ヒムラーにとって、ユダヤ人を絶滅してしまって、自分の取引能力を消し去ってしまうのは狂気の沙汰だったに違いありません。1961年のベッヒャーの供述は、アイヒマンやその他の人物はベッヒャーも有罪にしようとしていたと推測させます。ですから、ベッヒャーには、自分が、イスラエルにおいてさえも被告となる危険にさらされている、そして、それは死刑判決と同じことを意味することがわかっていたのです。
スウェーデン軍少佐ゴラン・ホルミングは、1970年代にまったく偶然に来ると・ベッヒャーを知ることになり、何年かあとに、ニュルンベルク裁判での証言の裏話を彼に尋ねました。すると、ベッヒャーは、敵が近づいてきたときには、犠牲者を出さずに収容所を整然と降伏させよというのがヒムラーの命令内容だったと述べたそうです。ニュルンベルク裁判では異なった証言をしたのかと尋ねると、ホルミング氏には当時のニュルンベルク裁判の雰囲気が理解できないでしょうとあいまいに答えたそうです[20]。
L:だとすると、歴史家たちはみんなで協力して、ヒムラーが1944年秋にガス処刑の中止とアウシュヴィッツのガス室の破壊を命じたという物語をでっち上げてきたことになりますね?
R:そのとおりです。同じようなかたちで強要されて作り上げられた証言が、戦後には数千単位で存在しているにちがいありません。ドイツ外務省のフリードリヒ・ガウスのケースがあります。彼を尋問した連合国検事ロバート・ケンプナーは、もし自白しなければ、ロシア側に引き渡すと脅迫して、ガウス証言を強要して作り上げました。バッハ=ゼレウスキー(ツェレフスキ)のケースもこれに似ています[21]。
ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けた労働力利用長官フリッツ・ザウケルが自分の罪を自白するような供述書に署名したのも、もし署名しなければ、妻と10人の子供をロシア側に引き渡すと脅迫されたあとのことでした[22]。
L:シベリアの収容所での終身刑を意味するのですね。
R:おそらくそうでしょう。ゲッベルスの側近ハンス・フリッチェもモスクワでKGBの尋問を受けたときには、罪を認める文書に署名していますが、のちのニュルンベルク裁判できっぱりと撤回しています[23]。
ワシントンのドイツ大使館のヘルベルト・フォン・シュトレンペル男爵とハンス・トムゼン博士は、彼ら拘束され、繰り返し尋問されていたときに、裁判所が脅迫戦術を使ってきたことを記録しています。すなわち、ロバート・ケンプナー検事は、もしも罪を認める供述をしなければ、軍法会議に引き出されて死刑判決を受けるとシュトレンペルに語ったとのことです。シュトレンペルによると、食事も与えられず、何日間も厳しい尋問にさらされたために、「催眠状態」におちいったとのことです。トムゼンは、自分が何を思い出すべきかを尋問官から耳打ちされたと述べています[24]。
SS判事コンラード・モルゲン博士は戦時中に、囚人に対する虐待行為の咎で、SS隊員に対する刑事裁判を行なった人物で、ニュルンベルク裁判のときの、そのあとのフランクフルトのアウシュヴィッツ裁判のときの、アウシュヴィッツでのガス処刑についての彼の証言は、看過することができないほど重要なものですが、その彼も、望まれているとおりに証言しなければ、ソ連側に引き渡すとアメリカ人から脅迫されています[25]。
ミルヒ元帥はゲーリングの無罪を立証する証言を行なったために、彼自身も被告席につくことになると脅迫されています。事実そのすぐあとで、捏造された戦争犯罪の咎で告発され、終身刑を宣告されました[26]。
ニュルンベルク国際法廷(IMT)のあとにアメリカ人がとりしきったニュルンベルク軍事法廷(NMT)のとき、裁判長リー・B・ワイアットは、ドイツの人種・再定住中央本部メンバーに対する裁判の最中に、次のように述べています[27]。
「裁判の過程で、検事側が証拠として提出している宣誓供述書を作成した被告も含む何人かの証人が、自分たちは脅迫された、尋問官は不適切な強要にうったえたと証言した。」
600万人という魔法の数字の主要な証人であるヘットルとヴィスリセニイも、強要のもとで証言しています。ヴィスリセニイと同じようにユダヤ人の移送に深く関与していたヘットルは、勝者におもねったおかげで、ニュルンベルク裁判では被告席につくことなく、特権的な証人として地位を享受しました[28]。ヴィスリセニイは連合国に協力しなければ共産主義的東ヨーロッパに追放するとの脅迫を受けて、協力に応じることにしたのです。彼は同僚の囚人を告発し、身を隠してしていた同志の密告を申し出るということまでしたのです。連合国側は、彼が裏切った同志の報復から彼の家族を守ることまで約束してくれたのです[29]。連合国はヘットルについてはその協力の代償として彼を自由にするという約束を守ったのですが、ヴィスリセニイに対してはそんなに親切ではありませんでした。彼は、協力したにもかかわらず、共産主義的チェコスロヴァキアに移送され、そこで死刑判決を受けて絞首刑になりました[30]。さらに触れておかなくてはならないのは、ヘットルやヴィスリセニイその他多くの証人がアイヒマンの罪を認めるような供述を行なった状況です。彼らすべてが、地下にもぐっていたアイヒマンはすでに死んでいるとみなしており、アイヒマンに罪をなすりつけて、自分たちの無実を立証したり、連合国の恩寵を買おうとしたのです[31]。
L:肉体的な虐待が行なわれた証拠がありますか?
R:はい。「第三級尋問」についての話をしましょう。この用語は、実際には拷問を意味しています。
アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスはイギリス軍に逮捕されてから、提示された「自白」に署名するまで、数日間拷問されました。この件については、ヘスがポーランドの監獄にいたときに書いた回想録からも明らかです[32]。
「1946年3月11位置、私は逮捕された。…(イギリスの)野戦憲兵隊からかなりに手荒にあつかわれた。最初の尋問で、私は殴打されて証拠を提出した。それに署名してはいるが、記録に何が書かれているのか知らない。アルコールが与えられ、鞭が私に加えられた。鞭は私のもので、たまたま妻のかばんに入っていたものだった。鞭で馬をうったこともなければ、まして囚人をうったこともない。にもかかわらず、尋問官は、私がこの鞭で囚人たちをいつも殴っていたとした。数日後、私はイギリス占領地区の主要尋問センターであるヴェーゼル河畔のミンデンに連れていかれました。私はそこでイギリスの尋問官、大尉の手でさらに手荒な扱いを受けました。私は尋問官を非難することはできない[ニュルンベルク裁判では]。彼らはすべてユダヤ人だったからです。私は心理的にずたずたにされました。…」
L:しかし、アウシュヴィッツ所長の言葉を信じるのは難しいのではありませんか?
R:この件について記しているのはヘスだけではありません。1980年代に、彼を拷問した当事者が、ヘスを拷問した様子を記しており、拷問が行なわれたことを確証しています[33]。
「ヘスはイギリス軍の制服を見ただけで、驚いた。
クラークは、『名前は』と叫んだ。『フランツ・ラング』と答えるたびに、クラークは囚人の顔を殴った。4回殴られると、ヘスは打ちひしがれ、自分が誰であるか認めた。
逮捕部隊の中のユダヤ人尋問官の両親は、ヘスの署名した命令に従ってアウシュヴィッツで殺されていたので、ヘスの素性が明らかとなると彼らの憎悪に火がついた。
囚人は寝床から引きずり出されて、パジャマがはがされた。彼は裸のまま、屠殺台に引きずられていき、クラークが殴った。叫び声がいつまでも続いた。
その後、軍医が、『死体を持って帰りたくなければ、止めさせなさい』と大尉に警告した。
毛布がヘスに投げかけられ、クラークの車に引きずられていった。尋問官がウィスキーをヘスののどに注いだ。その後、ヘスは眠ろうとした。
クラークは警棒をヘスのまぶたの下に置き、ドイツ語で、『豚の目を開けておけ、豚め』と命じた。
最初のあいだ、ヘスは、何回も繰り返してきた言い訳を繰り返した。『私はヒムラーから命令を受けた。私はあなた方と同じように兵士であり、私たちは命令に従わなくてはならない。』
一行は、朝の3時ごろにハイデに到着した。吹雪はまだ続いていたが、毛布はヘスから引き剥がされ、彼は、丸裸のままで、刑務所の庭から自分の部屋まで歩いていかなくてはならなかった。」
また、ポーランド総督ハンス・フランクもドイツのミンデンでイギリス軍から拷問を受けたことが同書からわかります[34]。SSの経済管理中央本部長オズヴァルト・ポールは強制収容所に関する財政・行政の責任者でしたが、自分が宣誓供述書に署名したバド・ネンドルフの尋問センターで使われている非合法手段のことを書いています[35]。ニュルンベルク裁判記録には、シュトライヒャーの証言についての興味深いテキストが掲載されています。検事側の異議にこたえて、この証言は記録から削除されていますが、削除すべきかどうかという法廷の議論は削除されていません[36]。副総統ルドルフ・ヘスの副官カールハインツ・ピンチュはモスクワでKGBによって数ヶ月間拷問されています[37]。ソ連側は、ユップ・アッシェンブレンナーを拷問して、彼から東部戦線での「ガス車」についての「自白」を引き出しています[38]。オーストリアの管区指導者アウグスト・アイグルーバーは、終戦時に去勢されています。ベルゲン・ベルゼン収容所の最後の所長ヨーゼフ・クラマー、およびその他の男女SS隊員は、拷問を受けて、終には殺してくれと頼んでいます[39]。イギリス人ジャーナリストのアラン・ムアヘッド(Alan Moorehead)はこう書いています[40]。
「SS看守の房に近づくと、[イギリス人]軍曹の言葉が荒々しいものとなった。大尉はこういった『今朝尋問を行ないました。気持ちの良い光景ではありません。』 軍曹が最初のドアのかんぬきを開け、…金属製のスパイクを彼の前でがらつかせながら、房の中に大またで入っていった。『起きろ、薄汚い悪党ども、起きろ』と叫んだ。6名ほどが床に横たわっていた。すぐ立ち上がることができたのは1、2名だった。一番近くにいた人物のシャツと顔は血で染まっていたが、膝まづきながら二回立ち上がろうとして、ゆっくりと立ち上がった。自分の前で腕を広げ、ひどく震えながら立っていた。
『起きろ!』 軍曹は[次の房でも]叫んだ。一人の男が血にまみれて床に横たわっていた。頭はひどく腫れ上がり、髭は汚れていた、『殺してくれ、殺してくれ、我慢できない』と小さな声を上げた。同じ文句が彼の口から何回も出た。『この薄汚い悪党ときたら、今朝ずっと同じことをほざいている』と軍曹が言った。」
L:ひどいものですね。
R:手始めにすぎません。次の章では、戦後の裁判で使われた方法、すなわち、指の爪を打ち砕くこと、それをはがすこと、歯を殴り折ること、性器をつぶすことについてお話することになります。
L:このような刑事裁判の判決が、今日でも究極の歴史的事実とみなされているのですね?
R:メインストリームの歴史学雑誌Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichteのようなドイツ現代史に関する半公式出版物を基準とすれば、そうみなされています。ニュルンベルク裁判は正義を求めた公平な裁判であり、その唯一の欠点は法的原則であるというのです[41]。
それでは、ドイツの戦争犯罪を告発したと称するこれらの法廷その他の裁判のことを検証しましょう。そうすることで、証人と被告にはもっと数多くの様々な圧力がかけられていたことがわかることでしょう。
[1] ABC,
[2] Cf. “
[3] Cf. for
instance Spiegel-TV, RTL-Plus,
[4] おそらくボーガーは、アウシュヴィッツでの彼の上司マキシミリアン・グラブナーが犯した犯罪の身代わりの羊であったろう。
[5] Cf. for this G.
Rudolf, op. cit. (note 920), pp. 328-330.
[6] Staatsanwaltschaft
beim LG Frankfurt (
[7] Pery Broad, “Reminiscences,”
in: Jadwiga Bezwinska, Danuta Czech (eds.), KL
Auschwitz Seen by the SS,
H.
[8] J.-C. Pressac, op. cit. (note 251), p. 128.
[9] Bernd Naumann,
[10] Hermann Langbein,
Der
Auschwitz-Prozes, Europaische Verlagsanstalt, Frankfurt/Main
1965, vol. 1, pp. 537-539.
[11] Pery Broad, op. cit. (note
941), pp. 174, 176f.
[12] Staatsanwaltschaft
am LG Frankfurt (Main), op. cit. (note 462), vol. VII, p. 1086; cf. G. Rudolf, “From
the Records of the Frankfurt Auschwitz Trial, Part 8,” TR
3, in preparation.
[13] Public Record Office, File WO.208/4661. “Freiwillige Aussage des Kriegsgefangenen Hans Aumeier.”
For all further source references, see C. Mattogno,
op. cit. (note 473), pp. 133-136.
[14] Ibid., Report no. PWIS Det
(N)/18 Report on interrogation of prisoner no. 211 Stubaf.
Aumeier, Hans; Akershus
prison,
[15] Cf. G. Rudolf,
op. cit. (note 382), here pp. 463f.
[16] W. Maser, op.
cit. (note 100), pp. 158f.
[17] Cf. Y. Bauer,
op. cit. (434), starting on p. 220.
[18] IMT document PS-3762; IMT, vol. XXXII, p. 68.
[19] AG Bremen, ref. 19 AR 1851/61,
interrogation of
[20] Goran Holming, “Himmlers Befehl, die Vergasung der Juden zu
stoppen,” VffG
1(4) (1997) pp. 258f.
(Engl.: TR,
in preparation
[21] M. Lautern, Das letzte Wort uber
Nurnberg, Durer, Buenos Aires 1950, p. 24, 32;
further references and similar cases in A.R. Butz,
op. cit. (note 27), pp. 204f., as well as Maurice Bardeche,
Nuremberg
I… op. cit. (note 87), pp.
120ff.
[22] IMT, vol. 15, pp.
64f. The document in question is PS-3057. This and much of the following
information is taken from Mark Weber’s paper, “The Nuremberg Trials and the
Holocaust,” JHR 12(2)
(1992) pp. 167-213.
[23] IMT, vol. 17, p.
214, Document USSR-474; cf. K. Heiden, “Why They
Confess,” Life magazine,
June 20, 1949, pp. 92ff.
[24] New York Times,
March 12, 1947, p. 6; March 13, 1947, p. 17; March 14, 1947, p. 12; March 15,
1947, p. 11; March 18, 1947, p. 4; March 19, 1947, p. 5; March 26, 1947, p. 4; Chicago Tribune, March 19,
1947, p. 20.
[25] John Toland, Adolf Hitler, Doubleday, Garden City, NY, 1976, p. 774.
[26] Sworn affidavit of E. Milch,
[27] Trials of war criminals before the
Nuremberg Military Tribunals under Control Council law no. 10, U.S. Government
Printing Office, Washington, DC, 1949-1953, vol. 15, p. 879.
[28] D.
[29] R. Servatius, op. cit. (note 19), p. 64.
[30] H. Arendt, op. cit. (note 19), p. 257.
[31] Ibid., p. 331,
regarding D. Wisliceny, esp. also p. 339.
[32]
[33] R. Butler, Legions
of Death, Arrows Books
Ltd.,
[34] R. Butler,
ibid., pp. 238f.
[35] O. Pohl, Letzte
Aufzeichnungen, in: U. Walendy, HT
no. 47, Verlag fur Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, Vlotho
1991, pp. 35ff.; M. Lautern, op. cit. (note 955), pp.
43ff.; D. Irving, op. cit. (note 23), pp. 80f.; Pohl referred to himself as
legally innocent, since he had never ordered or condoned any atrocities: see Credo.
Mein Weg zu Gott, A. Girnth,
[36] IMT, vol. 12, p.
398; cf. Keith Stimely, “The Torture of Julius Streicher,” JHR, 5(1) (1984), pp. 106- 119; R. Butler, op. cit. (note 968),
pp. 238f.; cf. W. Maser,
[37] Wolf Rudiger Hess, My
Father Rudolf Hess,
[38] Aleksandr Solzhenitsyn, The Gulag Archipelago I-II,
Harper & Row, New York 1974, p. 112.
[39] Cf. Montgomery Belgion, Victor’s
Justice, Regnery,
[40] Alan Moorehead, op. cit. (note 775), pp. 105f.
[41] Lothar Gruchmann,
Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte 16 (1968), pp. 385-389, here p. 386.