4.2.4 意図的な誇張と嘘

L(聴衆):ルドルフさんは、ホロコーストについての偽りの話、誇張された話すべてが、意図的な嘘ではなく、不幸な誤りにもとづいていると説得しようとしているとの疑いを払拭することができないのですが。

R(ルドルフ):そんな単純な問題ではありません。前に、500万人のホロコースト生存者の中に、どれくらいの数の精神病理学的な嘘つきを見つけることができるかという修辞学的な問題を提起しています。100名なのでしょうか。1000名なのでしょうか。どちらなのでしょうか?この数は、大量殺戮が起ったと請合っている証人の数に等しいのです。第二次世界大戦直後の、きわめて感情的な雰囲気の中では、嘘をついた人はいないと考えることはできません。2.2.2節では、連合国の虚偽宣伝のことに触れているマーザー教授のことをお話しました。また、「反ファシスト」は「高貴な動機」からホロコーストについての嘘をついたことを認めたエルネスト・スカルスキのことをもう一度触れておきます。

 ここでの基本的な問題については、ドイツの弁護士フリードリヒ・グリム博士がその著作の中で語っています。第二次世界大戦直後にある人物と偶然に出会って、その人物は、会話の中で、自分は連合国の宣伝機関の一員であったと明かしたというのです

 

L:おそらく、マーザー教授がいうところのイギリス宣伝機関のEllic Howeのような嘘を広めることを職業としている人物なのでしょうね

R:そのとおりでしょう。連合国による虐殺宣伝の効果についての会話の中で、グリム博士が、戦争が終わった今、この宣伝を中止して、真実にもとづいて、諸民族の平和的共存をはかるべきではないかと指摘したところ、連合国の宣伝機関のメンバーであった人物は、このもっともな提案に対してこう答えたそうです[1]

 

「そうではありません。虐殺宣伝は、われわれが全面戦争に勝利を収める方法なのです。…それをはじめたばかりです。ドイツ人に対する共感が完全に消え去り、ドイツ国民自身が、自分たちが誰であり、何をしているのかわからないほど混乱するようになるまで、虐殺宣伝活動を強化するつもりです。」

 

L:何ということでしょう!

R:ですから、私たちが耳にしていることの大半は、連合国の宣伝芸術家の活動の結果に他ならないという方が正確かもしれないのです。グリム博士の本は、この引用箇所の件で、1998年にドイツの司法当局の手で販売・流通を禁止されましたが、その事実自体が、ドイツ人が今日享受している自由の程度を物語っています[2]

 このような宣伝の具体例に移りましょう。嘘、もしくはもっと洗練された言い方をすれば、「ブラック・プロパガンダ」の古典的事例は、ベウゼッツについてのヤン・カルスキの話です[3]。カルスキはその後数十年間、この話のおかげで、この収容所の「絶滅計画」の主要な証人となりました。もっとも、彼の話すところの絶滅方法は「ガス室」ではなく、「死の列車」でした。その床は石灰で覆われており、ユダヤ人の死体から骨と肉を引き剥がして、ゆっくりと呑み込んでいくというのです。しかし、ここではこの話の内容に立ち入ろうとは思いません。むしろ、この当時のカルスキの公的な活動について触れておきたいのです。戦時中、彼は、ロンドンの亡命ポーランド政府の連絡員でした。「連絡員」としての活動の実態については、ユダヤ系イギリス人のメインストリームの歴史家ウォルター・ラカーが次のように述べています[4]

 

「カルスキは1941−42年、ワルシャワで地下生活をおくり、ドイツ語のパンフレットを印刷・出版して、ドイツ軍兵士に対する『宣伝工作』に従事していた。」

 

L:だとすると、彼はベウゼッツ収容所での「出来事」の信頼できる証人なのでしょうか?

R:客観的にいえば、彼にはそのような資格はないでしょう。ベウゼッツについての彼の話は、ひどく矛盾しており、今日の定説とも矛盾していますが、彼の話を分析すれば、カルスキがやったことはベウゼッツについての「ブラック・プロパガンダ」を広めたにすぎません。結局のところ、当時の彼の公的な職務は「ブラック・プロパガンダ」活動だったのです。ですから、メインストリームの歴史家たち、例えばノルテ教授もヒルバーグ教授も、カルスキのことを「信用できない証人」だと述べているのです[5]

 

L:連絡員としての彼の活動は、程度の差こそあれ、人が信用しそうな嘘をロンドンに伝えることだったのですね?

R:そのとおりです。こうしたことを行なっていたのはカルスキだけではありません。亡命ポーランド政府は、占領下のポーランドのレジスタンス運動と密接な関係を持っており、レジスタンス運動は、サボタージュ活動を実行するとともに、工作員、連絡員、宣伝家のネットワークを組織していました。例えば、こうした宣伝家たちが、アウシュヴィッツでの虐殺物語を規則的にロンドンに送っていたのです[6]

 このような宣伝活動の指導者の一人の告白から、アウシュヴィッツからの宣伝報告の起源がどのようなものであったのかを正確に知ることができます。

 大ベルリン管区のドイツ共産党青年組織の最後の指導者であったブルーノ・バウムは、将来の共産主義的東ドイツの最後の大統領エーリヒ・ホーネッカーとともに、1935年に逮捕されました。彼は、非合法活動と「国家に敵対する宣伝文書」の配布の咎で、1937年に反逆罪13年の刑を宣告されました。そして、1943年4月、アウシュヴィッツに移送されています。熟練電気工であったので、アウシュヴィッツの電気工囚人労務班に配属されました。そして、すぐに地下細胞を組織し始め、収容所に共産主義的レジスタンス宣伝を広め始めました。電気工という職務であったので、収容所の中を自由に動き回ることができたためでした。1944年中頃、バウムは、ヘルマン・ラングバイン(オーストリア共産党員、のちにアウシュヴィッツ委員会議長)とヨーゼフ・チラキエヴィチ(ポーランド社会党員)も所属したアウシュヴィッツ収容所パルチザン会議指導部にまで、上りつめました。バウムと彼の仲間は、国際社会主義・共産主義収容所パルチザン指導部のために、ドイツの軍需産業についての情報を収集し、その情報は、ポーランド地下組織を介してロンドンに無線で送られました。SSによる非人道的な虐待、「すべての諸民族の450万人の殺人の犠牲者を含む、アウシュヴィッツ収容所でのナチスの膨大な犯罪」についての虐殺宣伝報告は短波放送を介してラジオ・ロンドンに送られていますが、それは週2回の頻度で、収容所地下運動編集グループが作成・発送したものでした[7]

 バウムは戦争末期にマウトハウゼン収容所に移され、そこで、アメリカ軍によって解放されました。1945年5月16日、ソ連の奪還コマンドがバウムその他30名の共産党員をソ連市民と偽って、収容所から連れ出し、1945年8月初頭ごろまで、ウィーン近郊のヴィルヘルミネンブルク城に彼らをひっそりと収容しました。そこで、バウムたちはのちに共産主義的東ドイツとなるソ連占領地域の将来の指導者としての訓練を受け、命令を受けたのです。

 バウムはその後、東ベルリンの共産党指導者となりましたが、厳しい経済政策をとったために、1953年6月17日の東ドイツ国民の反ソ暴動を呼び起こしてしまいました。バウムの家族はイスラエルのキブツで暮らしていましたが、東側ブロックは反シオニスト政策をとっていたので、バウムは1959年、ベルリンの共産党指導部からはずされ、ポツダムに移されて、1971年にそこで死にました。

 このブルーノ・バウムや彼の同僚たちが、戦争直後にソ連びいきの記事を書いたのです。1945年6月に発表された記事が、共産党指導部「政策決定委員会」が調整・承認した「アウシュヴィッツ強制収容所共産党活動報告」でした。このような情報操作が、「戦争犯罪調査ソ連臨時委員会」報告とともに、400万人の犠牲者という宣伝目的の数字を含むアウシュヴィッツに関するソ連側宣伝のコアを1990年まで形作りました

 終戦3ヵ月後の1945年7月31日、このブルーの・バウムは自分たちの活動を自慢する、「われわれは地獄から無線をうっていた」と題する記事を書いています。それは、この当時のドイツ共産党中央機関紙『ドイツ民族新聞』に掲載されました[8]。その記事にはこうあります。

 

外国諸国で広まり始めているアウシュヴィッツについての情報宣伝の起源は、ポーランド人同志に助けられたわれわれの活動にある。」

 

 アウシュヴィッツの政治部、すなわち収容所ゲシュタポは、この当時、収容所パルチザンの正体を暴くことはできませんでしたが、できるかぎりネガティブキャンペーンの広がりを阻止しようとしましたので、収容所のSS指導部はアウシュヴィッツの労働・生活状況を改善しました。このために、バウム自身が「アウシュヴィッツは最後にはモデル収容所となった」と書いているほどです。

 共産主義者によるこのような宣伝活動が実際に効果を上げたことは、バウムの記事の中の修正箇所によっても明らかです。1949年に出版されたバウムの本『アウシュヴィッツでのレジスタンス』には、はっきりとこう書かれています[9]

 

この当時世界に広まっていたアウシュヴィッツに関する宣伝情報の大半は、収容所のわれわれによって書かれたといっても大げさではないと思う。」

 

 しかし、この本の1957年度版にはこうあります[10]

 

「この当時世界に広まっていたアウシュヴィッツに関する出版物の大半は、収容所のわれわれによって書かれたといっても大げさではない。」

 

 別の例をあげると、1949年版にはこうあります。

 

「われわれは、アウシュヴィッツに収容されていた最後の日まで、この宣伝を広めた。」(35頁)

 

1957年版はこうなっています。

 

「アウシュヴィッツに収容されていた最後の日まで、われわれはこのようなかたちで情報を提供した。」(1957年版89頁、1961年版88頁)

 

L:「われわれ自身が宣伝を書いた」というのと「われわれが情報を提供した」というのでは少しニュアンスがちがっていると思いますが。

R:まったくです。終戦後の1949年、戦後裁判がすべて終わったときには、彼らは、この件について率直に描くことができると考えていたのです。しかし、1950年代中頃に西ドイツで始まった戦犯裁判の洪水がこの状況を変えてしまいました。モスクワは、このような裁判を利用して、西ドイツにおいて「ファシスト」すなわち「右翼」の犯罪を非難・強調し続けることで、政治的左翼集団の中で道徳的優位な立場を占めるために、戦時中に書かれたことを宣伝活動であったと認めることはしないと決定したのです。東側ブロックが西ドイツのおける民族社会主義者犯罪裁判をどのように利用したのかについては、あとで検討しましょう。

 

L:宣伝活動に従事した収容所パルチザングループには、のちに戦後のホロコースト・ロビーの代表者の一人へルマン・ラングバインがいたことは非常に興味深いことですね。

R:物事を考えさせる事実ではありませんか?ラングバインは共産党員であり、長年アウシュヴィッツ委員会の議長をつとめた人物ですが、その彼が戦時中だけではなく、戦後には、アウシュヴィッツ宣伝において中心的な役割を果たしたのです。また、アウシュヴィッツ委員会の本部は当初、ポーランドのクラクフ、すなわち、スターリン主義者の支配するポーランドのクラクフに置かれていたのですから、まったくのスターリン主義団体であったことも興味深いことです。その後、委員会本部は、ラングバインの故郷の町、中立国のウィーンに移されました。当然予想されるように、ラングバインと彼の委員会は、フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判調査に中心的な役割を果たしました。この裁判は、アドルフ・レグナーという名のアウシュヴィッツ主人の証言からはじまっていますが、このレグナーは、さまざまなごまかし、捏造、偽証を行なった度し難いほどの精神病理学的嘘つきであり、アウシュヴィッツでは、ブルーノ・バウムと同じく電気工でした[11]

 

L:レグナーを厳しく非難しているのですね。

R:彼に対する非難の事実関係は記録されています。レグナーの犯罪は民族社会主義時代から戦後にまでまたがっています。レグナーの犯歴について、ドイツの検事総長シャーベルはドイツのバーデン・ヴュルッテンベルク司法省にこう書いています。

 

レグナーは収容所裁判での検事側証人として、憎悪と復讐の念から明らかに嘘をついた。虚偽の告発、偽証の咎で3年6月の刑の宣告を受けた。…さらに、法廷で専門家証人として証言するレグナーの権利は、恒久に否定されている。」

 

L:このような人物がドイツでの刑事裁判の口火を切るのが許されたのですか?

R:はい、ラングバインと友人たちのちょっとした助けを借りて。そして、レグナーは、アウシュヴィッツ政治部の尋問官、SS曹長ヴィルヘルム・ボーガーを恐ろしい虐殺行為を行なった咎で告発したのです。

 レグナーはアウシュヴィッツ委員会と密接な連絡を取り合っており、自分のことを「100%東側寄り」、すなわち共産主義者であると称しており、共産主義的なポーランド、とくに、この当時、アウシュヴィッツ委員会の本部のあったクラクフに移りたいと述べていました。戦後、レグナーは、数多くの裁判で「職業的証人」として姿を現し、「身元確認者」として証言し、彼自身の言葉を使えば、「数多くのナチの処刑」に貢献しました。レグナーはすべてのドイツの収容所で文書資料を集め、そこから、ありとあらゆる人物に対する告発を作り上げ、数百、ひいては数千の犯罪を詳しく目撃したと述べていました。レグナーがアウシュヴィッツ委員会に、自分ならば裁判を始めさせることができると述べると、ラングバインはすぐに検事総長のもとに赴いて、支援を申し出ました。言い換えれば、レグナーとラングバインはタンデム自転車に乗っていたようなものです。しかし、シュトゥットガルトでこの件に携わっていた検事ウェーバーは、1958年5月13日のメモの中で、レグナーのことを「復讐心の満ちた精神病患者」、「自己矛盾に陥った精神病理学的職業的犯罪者」と呼んでいます[12]

 

L:レグナーはアウシュヴィッツについてどのような話をしたのですか?

R:アウシュヴィッツについてのレグナーの話は非常に長いものです[13]。ここでは二つの例だけをあげておくことにします。

@ 彼は、1400−1600人を具体的に告発し、そのうち160人ほどは名前もあげています。

 

L:個人の経験だけから、そんなに数多くの人々を見分けることはできないでしょう。

R:そのとおりです。ですから、職業的密告者と、捏造証人という彼の本性が明らかになるのです。

A レグナーはビルケナウ降車場の木の陰に隠れて、次のような光景を目撃したと証言しています。

 

「ですから、私は大きな木の陰に隠れて、起っていることを目撃しました。ボーガーが、最後の移送集団としてやってきたばかりの15歳くらいのユダヤ人少女を連れてやってきました。…ボーガーとこの少女が彼の同僚から150mばかりの距離にやってくると――私自身はこの事件の現場から15−20mにいました――、ボーガーはこの少女に話しかけ、そのあとで力一杯殴りました。少女は気を失って地面に倒れました。ボーガーが何を少女に話したのかはわかりませんでしたが、おそらく、性的な目的でこの少女を利用しようとしたのでしょう。少女が気を失ってしまったので、ボーガーは恥ずべき目的を遂げることはできませんでした。選別部隊が近づいてきていたからです。ボーガーは少女の体から服の一部をちぎりとりました。ポケットナイフあるいは小刀で切ったのでしょう。少女は下着と靴下だけの姿となりました。…すると、彼はピストルを取り出して、少女の左の胸と右の胸を次々と撃ちました。さらに、彼は、銃口を少女の性器に押し込んで、もう一度撃ちました。」

 

 レグナーの尋問官はそんなに馬鹿ではなかったので、ボーガーの行為は射撃音のために気づかれたのではないかと質問すると、レグナーは、ビルケナウでは「毎日、四六時中」射撃音を耳にするので、誰もボーガーの殺人事件に気がつかなかった、少女の死体にも気がつかなかったと説明しています。

 

L:ナチ・サド・ポルノですね。でも、これが嘘であるとどのように証明するのですか?

R:簡単です。ビルケナウの降車場には、レグナーが隠れることができるような木などないのです。しかし、もちろん、レグナーはこの事実にもめげることなく、捏造した木の存在を何回も利用しています。

 レグナーは、ボーガーが同じような、もしくはもっと激しい、サディスティックなやり方で、さらに30名を殺したのを目撃したと証言しています。また、鍵穴や窓から、ボーガーが拷問を加えているのを気づかれずに目撃していたと証言しています。

 

L:何と、「パンチとジュディ・ショー」のようですね。レグナーは、ボーグナーの部屋の鍵穴からのぞきこむためにうろつきまわること以外には、アウシュヴィッツではすることがなかったのでしょうか?

R:そうにちがいありません。彼は、このようなやり方で数千の殺人を目撃したと証言しているのですから。

 

L:レグナーは最大の嘘つきにちがいありません

R:それにもましてショックなのは、レグナーを尋問した尋問官が、尋問を終えてこう結論していることです。

 

「レグナーがこれまで供述していない、とくにサディスティックな様相をもつ新しい事実についての情報を提供した1958年11月4日の尋問記録は、自分の記憶を呼び起こすために、『アウシュヴィッツ強制収容所』との銘のある没収された緑のノートを参照することを要請したのちに作成された。レグナーは、尋問の前にこれらのノートにあたることを許されている。1945−46年、レグナーは、アウシュヴィッツ強制収容所での出来事をこのノートに記していた。

 

L:何ということでしょう!レグナーは自分の経験にもとづいて証言しているのではなく、アウシュヴィッツ委員会の宣伝担当同志が用意した材料に味付けしているだけなのですね

R:レグナーは「新しい事実についての情報を提供した」という箇所をもう一度読んでみてください。精神病理学的な嘘つきが持ち出した捏造話、軽々しい話も、何と一筆で「新しい事実」となってしまうのです。レグナーはその後報酬として、何回も尋問を受け、さらに75件の「新しい事実」を提供しているのです

 

L:何と何と!一体どういう尋問官なのでしょう。レグナーの記録を参照して、伝聞証言を繰り返すことを許すべきではなかったはずなのに。

R:まったくそのとおりです。尋問のルールにまったく反しています。まして、レグナーが精神病理学的な嘘つきであることは既知の事実だったのですから。

 そのうえ、SSのアウシュヴィッツ自動車部隊の運転手として雇われていたリヒャルト・ベックは。レグナーはバウムやラングバインと同じく、「収容所地下組織」に所属していたと述べています[14]

 

L:だからこそ、ラングバインとレグナーは緊密に協力しているのですね!

R:そのとおりです。アウシュヴィッツでは、レグナーは自動車部隊の電気部門に配属され、戦後は、ベックの無罪を証言する囚人の宣誓供述書を集めることで、ベックを助けています。

 

L:言い換えると、ベックとレグナーは友達だったのですか?

R:ベックは証言の中で理由もなくレグナーのことに繰り返し触れていますが、友達であったとしか言いようがありません。

 

L:友は群れを呼ぶというわけですね。ベックはアウシュヴィッツについてどう話しているのですか?

R:ベックについてはあとで詳しく検討しましょう。まず、レグナーの話をさせてください。彼には、アウシュヴィッツの自動車部隊にエミール・ベールという名の電気工の同僚囚人がいましたから。このベールは尋問でこう述べています[15]

 

「政治部やボーガーが行なったとされるいくつかの事件について、話を聞かされましたが、それを詳しく話すことはできません。当時、これらの出来事について耳にしたことはありませんでした。…

 ブロック10で行われた女性に対する人体実験について、話を聞かされましたが、当時、このことについては知らなかったと言わなくてはなりません。…

 アウシュヴィッツの黒い壁のところでは、政治部が毎日のように大量銃殺を行なっていたという話ですが、私はそれについて特別なことを知りません。個々の出来事については知りません。…

 SS隊員が囚人を虐待したことは見たことがあります。…

 しかし、殺人事件については思い出すことができません。また、囚人がSS隊員による虐待ののちに死亡した事件についても知りません。…

 新しく到着した移送集団が選別を受けている現場にいたことはありません。その噂を耳にしただけですので、すべての移送集団が選別の対象となったと憶測していたにすぎません焼却棟もガス室も見たことがありません。どのSS隊員がそこに勤務していたのかも知りません。」

 

L:でも、この証人はレグナーと同じような経験をしていたはずですね。彼は、なぜ何も知らないですか?

R:レグナーとはちがって、ベールは戦争直後の時期に「職業的証人」にはなりませんでしたし、囚人団体のために活動しませんでしたし、強制収容所についての文書や文献も集めていませんでした。さらに、これが重要なのですが、偽証したという犯罪歴も残していません。検事局は彼の証言をどのように解釈したと思いますか。

 

L:検事たちが先入観にとらわれていなければ、レグナーに対して懐疑的に対応したはずです

R:先入観にとらわれていなければの話です。しかし、そうではなかったのです。ベールは自分が犯罪については何も知らなかったことについてこう弁明しています。

 

「私は電気工としてかなり自由であり、収容所を歩き回っていたにもかかわらず、証言することがほとんどないことは信じられないように思えることを認めざるをえません。私たちは、中央収容所の中だけですが、看守無しで自由に歩くことができたと言わなくてはなりません。」

 

L:でも、これはレグナーにとっても同じでしたね

R:そのとおりです。レグナーが正直であれば、彼の証言はベールと同じようなものであったはずです。

 注意していただきたいのですが、「ガス室」の目撃証人の中で、反対尋問を受けているのはわずか二人しかいません。アーノルド・フリードマンとルドルフ・ヴルバ博士です。

 

L:これまでに、たった二人だけなのですか?

R:そのとおりです。ガス室について何らかのことを知っていると主張する人々は数千人存在しているかもしれません。戦後の数十年間、さまざまな法廷が数多くの証人を尋問してきましたが、この二人以外には、判事、検事、弁護人の反対尋問を受けた証人は一人もいません。繰り返しておきますが、一人もいないのです

 

L:証人に反対尋問を行なうことが普通のやり方ではないのですか?

R:通常の殺人裁判ではそうです。しかし、あとで明らかにしますように、通常の裁判のことをお話しているわけではないのです。

 今日にいたるまで、このような反対尋問が行なわれたのは1985年のいわゆる「ツンデル裁判」だけです。フリードマンとヴルバという二人のユダヤ人証人が、フォーリソン教授のアドバイスを受けたクリスティ弁護人から反対尋問を受けたのです。

 

L:この二人の証人はどのような人物なのですか?

R:フリードマンはスロヴァキアで逮捕され、1944年春にアウシュヴィッツに移送されました。私の知る限りでは、彼がアウシュヴィッツでの自分の経験を長々と証言したのは最初のツンデル裁判がはじめてだと思います。アウシュヴィッツの焼却棟についての証言をいくつか抜粋してみましょう[16]

 

「焼却棟からは煙が立ち昇っており、悪臭を絶えずもたらしていました。焼却棟は宿舎に近く、また背も低かったので、煙は上に向かっていくのではなく、収容所に広がっていったからです。…焼却棟は、別荘風の背の低い建物で、短い煙突が突き出ていました。夜になると、特定の時間のことですが、1−2mの炎が煙突から出ているのを見ることができました。煙も出ていました。…肉の焼けた悪臭がして、炎の色はときによって、黄色から暗赤色まで変りました。…私たちはさまざまな物事を話し合いましたが、今焼かれているのはハンガリーからの移送集団だと憶測することもありました。そのような炎のタイプだったからです。また、ポーランドからの移送集団だと憶測することもありました。彼らは痩せこけていたからです。」

 

L:花火大会のようですね

R:そうです。もちろん、技術的にはナンセンスです。結局フリードマンは、反対尋問の中で、自分の経験からそのことを知ったわけではないこと、他人の話を繰り返しているにすぎないことを認めています。何と、彼自身は、煙を炎も見ていなかったのです[17]

 ルドルフ・ヴルバはアウシュヴィッツのガス室の実在を請合うもっとも重要な証人の一人です。ヴルバはアウシュヴィッツに収容されましたが、そこから逃亡することに成功しました。ほかの数百名の囚人もヴルバと同様の経験をしているのですが、特殊ヴルバだけが、ガス室についての話を残しているアウシュヴィッツからの唯一の逃亡囚人なのです[18]

 

L:数百名の中のたった一人なのですか?

R:そのとおりです。アウシュヴィッツでの大量絶滅に関するヴルバ報告は、1944年11月に戦争難民局から出版されました。ユダヤ系の財務長官ヘンリー・モーゲンソーが設立したアメリカの宣伝組織です[19]。合衆国政府が公的に認めた最初のアウシュヴィッツ報告でした。ですから、ヴルバの報告は、アウシュヴィッツに関してもっとも影響力をもった文書の一つでしょう。20年後に、ヴルバは同じ出来事を記した本を出版していますが、自分の記憶の正確さと信憑性を自慢するという誤りを犯しています[20]

 しかし、1985年、反対尋問にさらされる中で、「ガス室」についての彼の記述がまったく事実にもとづいていないことが明らかとなりました[21]。そして、ヴルバは次第に追い詰められていって、自分自身の目で目撃したのではないこと、報告を書くにあたっては、「詩的修辞法」を用いながら、伝聞情報だけにもとづいて書いてしまったことを認めたのです[22]

 

L:しかし、詩的修辞法を使うのはとりたてて悪いことではないのではないでしょうか。

R:真実を語っているのではないと述べているのであれば、そのとおりです。小説のことを嘘のかたまりとは非難はしないでしょう。著者が真実を語っていると主張した場合のみ問題となるのです。そして、ヴルバは1944年以降ずっと真実を語っていると主張してきたのです。

 ガス室証言をするようにヴルバを法廷に召喚した検事は、ヴルバの不誠実さにあきれてしまい、ヴルバには信用がおけないとの理由で、ヴルバに対する尋問を中断してしまいました[23]

 

L:ヴルバの記憶は信用できないかもしれませんが、だからといって、彼の証言が嘘であるということにはならないのではないでしょうか?

R:この物語はまだ終わっていなかったのです。スウェーデンの大学教授ゲオルグ・クラインは、その著作『ピエタ』の中で、1987年にヴルバと話をしたと述べています[24]。クラインは戦時中にユダヤ人迫害を経験したハンガリー系ユダヤ人ですが、大量絶滅については知らなかったと述べています。1987年、彼は、数年前にクロード・ランズマンが制作した9時間の映画『ショアー』のことをヴルバと話したところ、クラインもホロコースト生存者でしたので、当然のことに、アウシュヴィッツでのヴルバの経験が話題となりました。クラインが、ヴルバに、彼の仲間は戦時中の彼の経験のことを知っているのかどうか尋ねたところ、最初、ヴルバはこの質問に答えませんでした。しかし、少しあとに、彼は、冷笑的に微笑みながら、ヴルバがランズマンの映画に突然登場したことに自分の仲間の一人が興奮し、映画の中でのヴルバの話が本当かどうかを知りたがったので、こう答えたというのです。

 

「わかりません。私は俳優にすぎませんでした。台本を読んだだけです。」

 

 そして、彼の仲間はこうコメントしたというのです。

 

「何ということでしょう。あなたが俳優であったとは知りませんでした。だとすると、この映画が俳優なしで製作されているといわれているのはなぜですか。」

 

クラインはこの事実を耳にすると言葉を失い、これ以上質問しようとはしませんでした。彼は、自著の中で、ヴルバの皮肉な笑いを忘れることはできないと述べています。

 

L:ゲオルグ・クラインはヴルバが話したことを繰り返しているにすぎないのですね。しかし、ヴルバが嘘つきであるとすると、彼がクラインに述べたことが本当かどうかどのようにしたら知ることができるのでしょうか?

R:いったん嘘をつけば、その後も嘘をつき続けるものです。…

 

L:ランズマンがヴルバに「台本」を渡したとすれば、ランズマンの映画に登場するほかの証人たちの信憑性はどうなるのでしょうか?

R:ですから、次にあげようと思っている意図的な嘘つきの事例は、嘘つき中の嘘つき、最大の嘘つきともいえるランズマンなのです。ランズマンは、ガス室が実在した証拠が発見されたならば、そのような物的証拠や文書資料的証拠を破壊してしまうだろうと述べたことがあります。この奇妙な発言を覚えておられるでしょう。非合理きわまるこのケースを検証してみましょう。

 すでにお話しましたように、ランズマンは9時間におよぶ記念碑的労作『ショアー』を製作し、その中で、修正主義者に反駁しようとしました。この映画は証人とのインタビューだけで構成されています。その中にはSS隊員もいました。ランズマンの話では、インタビューが記録されないとの条件でのみ、インタビューに応じたSS隊員もいたそうです。ですから、ランズマンは隠しカメラを使ってこれらのインタビューを記録したといわれています。

 このトリックに引っ掛かったとされるSS隊員が、トレブリンカのSS曹長であったといわれるフランツ・ズーホメルでした。ズーホメルの証言を分析すれば、彼の話が嘘であることがわかりますが、そのことはさておいて、ここでは、バッグの中に隠したカメラでこのインタビューを撮影したというランズマンの主張を検証しておきます。このインタビュー場面を見ると、次のような点に気づくはずです。

 

       ズーホメルは、しばしばカメラに直接目を向けている。

       カメラはいつも被写体を正確にとらえ、焦点もあっている。

       二人が収容所の図面を見ているとき、図面はカメラのほうに向けられる。そして、カメラはポインターを拡大し、ポインターのあとを正確に追っている。

 

L:カメラがバッグの中に隠されているとすれば、ありえないことですね。

R:二人がカメラのある場所を知らなければ、ありえないことです。

 

L:ということは、ランズマンは観客をいっぱい食わせているのですね

R:そのとおりです。もっと悪質です。すでに1985年、ランズマンはインタビューの中で、ドイツ人証人に総額3000マルク支払って、30年間はこの支払いの件については沈黙するという誓約書に署名させていることを認めたのです。しかし、お金だけではありませんでした。彼は、「現代史研究センター」なる団体――その偽のレターヘッド「アカデミー・ドゥ・パリ」、偽の身分証明書「クロード-マリ・ソレル歴史学博士」――をでっち上げて、証人を募ったのです。2004年、彼はこの件を生徒の前で自慢しています[25]

 

「私は彼らにお金を払いました。小額ではありませんでした。ドイツ人に払ったのです。」

 

 まとめておきましょう。

「自分が何を期待されているか」を知っていたにちがいない「小説家」のヴルバは、ランズマンから、「台本」を渡されて、どのような話をすべきか指示されています。

質問:だとすると、その他の「目撃証人」は『ショアー』の製作中に何を受けとったでしょうか?SS隊員は(『台本』に加えて)何を受けとったでしょうか?

回答:ランズマンの望むように証言するための大金です。

質問:では、「ドキュメンタリー映画」『ショアー』の目的は何だったのでしょうか?

 

L:回答:真実を話すためであったはずです

R:そのとおりです。ですが、「真実」には「台本」は無用ですし、「真実」を売春婦のように買うこともできません。

 

L:そうかもしれませんが、映画の中での彼らの話が依然として真実であるという可能性は残っています

R:家庭の問題としては、その可能性は残っていますが、それはどの程度の可能性なのでしょうか。登場人物の信憑性がいちじるしく低いので、彼らがホロコーストについて信じ込ませようとしている内容を、確証無しに受け入れることはできません。

 さて、嘘の最後の事例です。嘘つきを暴露するのは、ときとして簡単なことです。ルドルフ・カウアーのケースがまさにそうです。アウシュヴィッツの囚人であった彼は、アウシュヴィッツの看守が鞭でポーランド人少女の胸を殴りつけ、一方の胸を引き剥がしてしまったと告発した件を嘘であると認めています[26]

これは収容所に広まっていた噂話でした。私自身はそのことをまったく目撃していません。」

 

 この発言は、噂や月並みな話を自分の経験として広めたことのある人物の中には、自分たちが嘘をついていることを知っている人物がいたことを明らかにしています。

 

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[1] Friedrich W. Grimm, Politische Justiz, die Krankheit unserer Zeit, Scheur, Bonn 1953, pp. 146-148 (www.vho.org/D/pj); see also, F. Grimm, Mit offenem Visier, Druffel-Verlag, Leoni 1961, pp. 248f.

[2] 予想される結果を恐れて、出版社はこの件について、これ以上の情報を提供することを拒んだ。

[3] Jan Karski, Story of a Secret State, Houghton Mifflin, Boston 1944, pp. 339-351.

[4] W. Laqueur, The Terrible Secret: An Investigation into the Suppression of Information about Hitler’s

Final Solution,” H. Holt, New York 1998, p. 230.

[5] Cf. the detailed analysis by C. Mattogno, op. cit. (note 694), chapter I.3., pp. 22-33.

[6] Cf. in this regard, Enrique Aynat, “Die Berichte des polnischen Widerstands uber die Gaskammern von

Auschwitz (1941-1944),” VffG, 8(2) (2004), pp. 150-166.

[7] Cf. Neues Deutschland (Berlin) Dec. 15, 1971; Dec. 21, 1971, Feb. 13, 1980; Feb. 13, 1985; Peter Przybylski, Tatort Politburo – Die Akte Honecker, vol. 1, Rowohlt, Berlin 1991, pp. 46ff.; the remarks on Bruno Baum are taken from the article by Knud Backer, “‘Ein Kommentar ist an dieser Stelle uberflussig,’” VffG 2(2) (1998), pp. 120-129, here Fn 26, 29, pp. 128f. For further references, cf. ibid. On the reports of the Polish underground on Auschwitz, cf. E. Aynat, op. cit. (note 911).

[8] This article was an extract from a manuscript by B. Baum, “Bericht uber die Tatigkeit der KP im Konzentrationslager Auschwitz” dated Juni 1945, Vienna, contained in the Hermann Langbein Collection in the Dokumentationsarchiv des Osterriechischen Widerstandes, Vienna.

[9] Kongress-Verlag, Berlin 1949, p. 34.

[10] Ibid., 1957, p. 89, und 1961, p. 88.

[11] The following is based on the files of the Staatsanwaltschaft beim LG Frankfurt (Main), op. cit. (note 462), cf. G. Rudolf, “From the Records of the Frankfurt Auschwitz Trial,” TR 1(1) (2003), pp. 115-118; Rudolf, Part 2, TR 1(2) (2003), pp. 235-238; Rudolf, op. cit. (note 463); Rudolf, Part 6, TR 2(3) (2004) pp. 327-330, here p. 328.

[12] Staatsanwaltschaft, ibid., vol. 1, pp. 7, 106r, similar p. 85r.

[13] Interrogation of Jan. 4, 1958, ibid., vol. 2, pp. 247-261.

[14] Re. R. Bock cf. G. Rudolf, “From the Records of the Frankfurt Auschwitz Trial, Part 4,” TR 1(4) (2003), pp. 468-472.

[15] Cf. G. Rudolf, ibid., Part 6, TR, 2(3) (2004), 327-330, here p. 328.

[16] Queen versus Zundel, op. cit. (note 64), pp. 315, 326, 407; more smoke: 344, 347; more flames: 402-404. Cf. Michael A. Hoffmann II, The Great Holocaust Trial, 3rd ed., Wiswell Ruffin House, Dresden, NY, 1995, pp. 45-47.

[17] Queen versus Zundel, op. cit. (note 64), p. 445:

Q:人間の死体を焼却する焼却棟は煙をまったく出さないと申し上げましたが、そのことを否定なさるのですか。

A:私はあなたの話を耳にしましたし、同時にまた、他の人々の話を耳にしました。今となっては、他の人々の話よりもあなたの話のほうを信用するでしょうか、そのときには、他の人々の話を受け入れたのです。」

[18] Krystof Duni-Wascowicz, Resistance in the Nazi Concentration Camps 1933-1945, Warsaw 1982, p. 213.

[19] War Refugee Board, German Extermination Camps – Auschwitz and Birkenau, Executive Office of the President, Washington, D.C., November 1944.

[20] Op. cit., (note 242); German: Ich kann nicht vergeben, Rutten & Loening, Munich 1964.

[21] ヴルバ報告の詳しい批判は E. Aynat, Los “Protocolos de Auschwitz”: ?Una Fuente Historica?, Garcia Hispan, Alicante 1990; updated in French as “Les ‘Protocoles d’Auschwitz’ sont-ils une source historique digne de foi?”, Akribeia, nr. 3, Oct. 1998, pp. 5-208 (www.vho.org/F/j/Akribeia/3/Aynat5-208.html); Carlo Mattogno, “Jean-Claude Pressac and the War Refugee Board Report,” JHR, 10(4) (1990), pp. 461-486; J. Graf, Auschwitz. Tatergestandnisse und Augenzeugen des Holocaust, Neue Visionen Schweiz, Wurenlos 1994, pp. 27-35 (www.vho.org/D/atuadh).

[22] Cf. Queen versus Zundel, op. cit. (note 921), pp. 1244-1643, here, pp. 1447, 1636 (www.vho.org/aaargh/engl/vrba1.html)(試訳:「目撃証人」ルドルフ・ヴルバの法廷証言); cf. Michael A. Hoffmann II, op. cit. (note 921) pp. 56-59; cf. J. Graf, op. cit. (note 921).

[23] Queen versus Zundel, op. cit. (note 921), pp. 1636-1643.

[24] Georg Klein, Pieta, Stockholm 1989, p. 141.

[25] ABC, March 15, 2003: cf. the entire text: Manfred Kohler, “Forced Confessions: Why Innocent Defendants Admit their Guilt,” TR 1(4) (2003), pp. 465f.

[26] Cf. “Illinois suspends death penalty,” CNN, Jan. 13, 2000 (http://archives.cnn.com/2000/US/01/31/illinois.executions.02/).