4.2.2 記憶の操作

R(ルドルフ):「口移しの情報」についてのもう一つの、もっと危険な側面は、自分自身の「知識」が自分の経験に由来しておらず、伝聞情報であること、すなわち、親戚や知人、メディアの記事、学校などで教わったことにもとづいているにもかかわらず、頭の中にある月並みな事柄を自分自身で体験したことと思い込まされてしまう点です。私たちは、子供のときに、母親や親戚の人々から何回も聞かされてきた物語をよく覚えているものです。その話の土台となる絵やフィルムを見せられることもあります。多くの場合、子供時代に自分自身の体験にもとづく個人的な記憶を持つことはできないにもかかわらず。私たちの記憶は、耳にしたことや他人の経験を自分自身の経験とみなすように「訓練されてしまう」のです。もちろん、私の両親は意図的に嘘をついているわけではないのですから、このようなプロセスに反対する理由はありません。

 しかし、誰かが、劇的な結果をもたらすようなことを私たちに思い込ませようとする場合には、状況は根本的に異なります。例えば、子供のときに両親から性的な虐待を受けていたというようなことを、精神科医が患者に思い込ませようとするような場合です。この「専門家たち」は、患者がこのような事件についてまったく覚えていないという事実を無視します。彼らは、質問を繰り返し、巧妙なインタビュー技術を使って、患者がこうしたトラウマを「抑圧している」にすぎず、この「失われた知識」を掘り起こすことが精神科医の仕事であるというように、患者に思い込ませようとしているにすぎないのです

 エリザベス・ロフトゥス博士は、人間の記憶能力について、人間の記憶を操作する能力についての研究の世界的な専門家です。彼女は、数多くの研究書の中で、ちょっとした尋問を技術使えば、簡単に人間の記憶を操作することができることを明らかにしています[1]。例えば、ある実験では、暗示的な尋問技術を使うことで、被験者の36%に、ディズニーランドでバッグズ・バギーを見たことがあると思わせることに成功しています。もちろん、バッグズ・バギーはディズニーのキャラクターではなく、ワーナー・ブラザーズのキャラクターですので、そんなことはありえないのですが。

 さらにロフトゥス博士は、尋問が行われた環境が情緒的であればあるほど、問題の経験が情緒的であればあるほど(性的虐待、宇宙人による誘拐など)、容易に人間の記憶を操作できることを発見しています。メディアによる情緒的な報道も、人間の記憶の集団的歪曲を引き起こすのです。

 

L(聴衆):ひどいショックです。人間は、それまで経験したことのないトラウマとなるような事件を「記憶する」ことができないことになります。

R:ロフトゥス教授その他の専門家の研究によると[2]、被験者に「思い出させたい」事件の中に、被験者が実際に思い出すことができる事件の一部が含まれていれば、記憶の操作はもっと簡単になります。いってしまえば、記憶している事件の一部が、それ以外の虚偽の部分の出発点となるのです。

 

L:ホロコーストというテーマにはどのように関連しているのですか?

R:ロフトゥス博士は偽りの記憶の専門家であると同時に、ユダヤ人でもあります。このために、彼女は、1980年代末に、ジョン・デムヤンユクの弁護側証人として、デムヤンユクに対する目撃証言の信憑性について証言しようとしました(2.10節参照)。ロフトゥス自身はこう述べています[3]

 

「私は事件の関係書類だけで十分に納得した。この事件は、(a)35年も前の古い記憶に依拠しているが、それだけで十分だった。この衰えていく記憶に加えて、(b)証人たちは事前に容疑者の写真を見せられているという事実、証人たちは容疑者の名前すなわちデムヤンユクという名前さえも教えられているという事実がある。このシナリオに加えて、(c)イスラエルの尋問官が、デムヤンユクを知っているかどうか証人に尋ねている、すなわち先入観を抱かせるような尋問を行なっているという事実がある。さらに、(d)証人たちは身元の確認について話し合っているという事実、すなわち、身元に関する記憶が汚染されているという事実がある。さらに、(e)尋問のたびにデムヤンユクの写真が見せられており、証人には彼の顔が焼き付けられてしまい、自分の証言にますます自信を持つようになってしまっているという事実がある。こうした要因に加えて、(f)このケースが非常に情緒的な性格を持ってしまっているという事実がある。証人たちが身元確認している人物は、ナチスの道具以上の人物、ディーゼル・エンジンを操作して、囚人を虐待する恐ろしいイヴァン以上の人物となっているからである。この人物がイヴァン雷帝であったとすると、証人たちの母、父、兄弟姉妹、妻、子供たちの殺戮の責任者となってしまっているからである。」

 

 ロフトゥス博士は、専門家証人として利用されるかわりに、こう述べています[4]

 

「私はこの件について何百回も自問したのちに、次のように説明しました。『もし私がこの事件を引き受ければ、私のユダヤ人としての遺産に背を向けることになります。もしも引き受けなければ、過去15年間の研究活動すべてに背を向けることになります。研究活動に正直であろうとすれば、これまで判断してきたのと同じようにこの事件も判断しなくてはなりません。目撃者による身元確認に問題があるとすれば、私はそのことを証言しなくてはなりません。そうするのが首尾一貫しているのです。』」

 

 ロフトゥス教授は、ユダヤ人の友人と話してみると、ユダヤ人の友人、知人、親戚すべて、ひいてはユダヤ人すべてが、自分がデムヤンユク事件で弁護側証人として証言すれば、自分たちの民族を裏切った咎で自分のことを非難することを知りました。彼女はこう述べています[5]

 

「彼女[ロフトゥス博士の友人]は、私が彼女を裏切ったと信じていました。ひいては、デムヤンユクが無罪であるかもしれないと考えている咎で、私の民族、私の遺産、私の人種すべてを裏切ったと信じていました。」

 

L:ロフトゥス博士はユダヤ人を人種だと考えているのですね!

R:そのように見えますね。いずれにしても、彼女は弁護側証人として出廷しないと決めました。彼女は観客席から裁判を観察し、自分がその他のユダヤ人にどれほど共感しているか、記憶と格闘している証人たちにどれほど共感しているかを詳しく伝えました。しかし、被告に対してまったく共感していません。合衆国市民であるロフトゥス博士は、真実に奉仕することよりも、および、形式的な仲間意識しかない合衆国市民に対して奉仕するよりも、自分がその一員であるユダヤ人に対する義務の方が重要であると考えて、デムヤンユクを苦境に放置したのです。彼女は、証人の記憶の信憑性を評価する別の専門家を召喚することに手を貸したけれども、無実の人物の殺害を認めようとしたのです。当初、デムヤンユクは死刑を宣告されましたが、執行されず、最後には釈放されました。それは、もっぱら弁護団の活動、さまざまな修正主義的研究者の支援のおかげでした[6]

 

L:このために、彼女は、「ホロコースト否定派」からその名をあげられることにひどく憤慨するのでしょうね。

R:あなたの予言は当たりました。彼女は、自分の著作が修正主義者に引用されていることを知らされたとき、そのように反応しました[7]

 

「彼女はショックを受け、どうしたらよいかわかりませんでした。」

 

暗示・示唆と想像によって、記述されたとおりには起らなかった事件、もしくはまったく起らなかった事件が記憶の中にインプットされることがある。だから、子供のときの性的虐待のようなトラウマを引き起こす経験についての証言の大半には、きわめて懐疑的に対処しなくてはならない。

暗示・示唆と想像によって、記述されたとおりには起らなかった事件、もしくはまったく起らなかった事件が記憶の中にインプットされることがある。だから、「ホロコースト」のときのガス室体験のようなトラウマを引き起こす経験についての証言の大半には、きわめて懐疑的に対処しなくてはならない。

世界的に認められている専門家エリザベス・ロフトゥスによる、人間の記憶の信憑性に対する懐疑的な発言(高く評価されている[8]

修正主義者による典型的な発言(ドイツ、オーストリア、スイス、フランス、ベルギー、ポーランド、イスラエルでは10年までの懲役で処罰されている)。

 

L:ですから、ロフトゥス博士は自分の研究成果を、自分と同じ宗教集団の刑事裁判の帰趨に影響をおよぼすようなかたちで利用されたくなかったのですね。

R:そのとおりです。しかし、彼女の研究成果を「反ユダヤ主義的」とか「ナチス的」と糾弾することができないがゆえに、証人としての彼女の信憑性はいっそう高まったのです。

 あとで検討することになりますが、デムヤンユク裁判は、その他の民族社会主義者の犯罪者、もしくはそのように告発されている人物に対する裁判、とりわけよく知られているイェルサレムでのアイヒマン裁判、フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判、デュッセルドルフでのマイダネク裁判、クラウス・バルビー、モーリス・パポン、エーリヒ・プリープケその他に対する裁判とほとんど異なるところがありません。

 ロフトゥス博士は、「民族社会主義の犯罪者」を告発する証人の記憶の劣化を促した(a)から(f)までの要因を挙げていますが、わたしはそれに付け加えて、もっと多くの要因をあげることができます。

 

(g) ロフトゥス博士は平均的な証人よりも高い職業倫理と真実を重視する価値観を持っているとみなすことができます。しかし、その彼女でさえも、デムヤンユクの無罪を立証するような証言をすることができなかったのです。自分の所属する「人種」に対する「裏切り」とみなされたからです。ロフトゥス博士は自分が何を言っているのか十分に自覚しているのでしょうか?ユダヤ人にとっては、真実とは、それがユダヤ人に役に立たないものであれば、卑しむべきものであり、それとは逆に、嘘あるいはたんなる不正への無関心は、それがユダヤ人に役に立つものであれば、まったく認められうるのです。だとすれば、職業倫理にまったく縛られていない「普通の」ユダヤ人から、一体どのような真実への愛を期待することができるでしょうか?

h) さまざまな証人の経験は、口伝えで、書物を通じて、ラジオやテレビでつねに広められていきました。とりわけ、証人たちは個々人の会話を通じて、あるいは戦争直後に設立された支援組織を介して、こうした経験を共有するようになったのです。

(i) 「ホロコースト」というテーマは、遅くとも1970年代末以降、非常に一面的なかたちで、西側社会のどこであっても、よく語られるようになった話題でした。

(j) さらに、ホロコーストの中で起きたとされる出来事を知らないこと、その存在を知らないこと、ましてそれについて疑うことは、社会に対してきわめて有害である、ひいては犯罪行為であるとみなされていました。ですから、この出来事を思い出したり、特定の出来事を消し去ったりすることは、証人に対する非常に大きな社会的圧力となりました。

 

 この4つの要因が、ロフトゥス博士のあげている要因にも増して、記憶の大規模な劣化に大きく寄与しているのです。

 

L:それは理論上のことにすぎませんね。実際に、このような記憶の操作が行われたという証拠がありますか?

R:まず、世界的に有名な二人の「ナチ・ハンター」の文章を引用させてください。一人はイスラエルのエフライム・ツーロフ(Efraim Zuroff)です。彼は、自著『職業ナチ・ハンター』の中で、アウシュヴィッツの医師であったヨーゼフ・メンゲレの追及捜査のことを書いています。メンゲレは「死の天使」と呼ばれ、多くの囚人に残酷な医学実験を行ない、さらにガス室の数十万の殺戮にも関与したとされている人物です[9]。ツーロフは調査を続けていくあいだに、驚くべき事実、彼にとっては驚くべき事実に突き当たりました。すなわち、メンゲレは戦後20年以降には、邪悪な犯罪者であったと喧伝されているのですが、戦争直後に生存者に対して行なわれた尋問調査の中では、そのような人物としては描かれていないというのです[10]

 

「これらの報道記事[11]の中身は、まったく驚くべきものであった。1985年の時点で、メンゲレは悪のシンボル、化学の悪用の化身となっていたが、1947年の時点では、そうした烙印を押されていないのである。…メンゲレは[1947年の時点では]高官の犯罪者とはみなされていなかったし、彼の逮捕もとりたてて重要な出来事とは考えられていなかった。…このことは、『死の天使』という悪名が長年かかって積み上げられてきたものであることを明らかにしている。…この意味で、[メンゲレは]、南米でナチ・ハンターに負われているのと同じ人物ではなかったのである。」

 

L:事件からわずか2年後の記憶は、20年、30年後の記憶と比べると、かなり新鮮だということですね。

R:そのとおりです。証人たちが1980年や1985年に自分の記憶として描いている事実は、彼らの記憶ではなく、20年も大量の情報を提供されているあいだに、「偽の記憶」として彼らの記憶の中にしみこんでしまった月並みな決まり文句なのです

 お話しておきたい二人目のナチ・ハンターはアダルベルト・リュッケルルです。1958年に「民族社会主義者犯罪」の捜査を目的として設立されたルーヴィヒスシャーフェンのドイツ国家行政中央局の議長を長年つとめた人物です。リュッケルルは、ほぼ20年にわたる捜査活動の中で、ヨーロッパ、合衆国、イスラエルの証人とは異なって、オーストラリアの証人は、戦時中の収容所での出来事を詳しく覚えていないとたびたび述べています[12]

 もちろん、リュッケルルはこの理由を調査していません。オートラリアとその以外の国々の唯一の相違は、オーストラリア社会では、1970年代末まで、ホロコーストがさしたる話題となっていなかったことです。メディアも、政治も、裁判所もこのテーマにかかわっておらず、被占領諸国からオーストラリアに移住した生存者たちも、この人口の少ない国家では、ヨーロッパ、イスラエル、合衆国に移住した生存者と比べると、はるかに組織化されていませんでした。捜査官たちがオーストラリアで発見したことは、ここで暮らしている生存者の記憶が、記憶の操作をほとんど受けてこなかったということです――ただし、捜査官たちは、この事実の意味するところを悟ることはできなかったのですが――

 その一方で、ホロコースト宣伝は世界各地で頻繁に行われ、有史以来最大の宣伝キャンペーンを繰り広げるようになりましたので、その影響から逃れることできた人物を見つけるのはほとんど不可能になってしまいました。

 最後に、ホロコーストという無謬のドグマが証人におよぼしている影響力の事例を具体的にあげておきます。ドイツのフランクフルトで開かれた大規模なアウシュヴィッツ裁判のための捜査活動がはじまったのは、1958年末、アウシュヴィッツのドイツ国家警察尋問官であったヴィルヘルム・ボーガーに対する起訴からでした。ボーガーがアウシュヴィッツで数多くの残虐行為――野蛮な拷問、恐ろしい殺人、処刑や大量ガス処刑への関与――を行なったことを告発する多数の証人がすぐに見つかりました。ボーガーに対する捜査活動が進められていく中で、アウシュヴィッツでボーガーの秘書をつとめたことのあるマリラ・ローゼンタールというドイツ系ユダヤ人女性も尋問を受けました。彼女に対する最初の尋問は、彼女が自分の以前の上司に対する告発を確証すること、アウシュヴィッツでの残虐行為という告発を確証することができなかったために、行き詰ってしまいました。とくに、ローゼンタール夫人の証言は、自分の以前の上司の良好な関係ならびに良好な職場環境のことを触れていました[13]

 

「ボーガーは私に親切でしたので、個人的には不満はありませんでした。彼はいつも、私に皿を洗わせるとの口実で、皿に自分の食事の一部を載せて、私にくれるというようなことまでしてくれました。…彼はまた、政治部で働いているほかのユダヤ人女囚にも非常に親切であり、私たちユダヤ人女性は彼のことが非常に好きでした。ボーガーはユダヤ人に対してとりたてて憎悪を抱いていなかったのを覚えています。…要するに、私個人やその他の政治部の女囚に対して、ボーガーが何か良くないことを行なったことがあるとはまったく言うことができません。」

 

 証言には非常に重要な箇所がありますので、注意してお聞きください。ローゼンタール夫人は、政治部の女囚たちがトイレでゴシップ話を行い、最新のゴシップ情報を交換したと述べています。

 

L:噂の製造工場が稼働していたのですね!

R:そのとおりです。ただし、ローゼンタール夫人はこの種のゴシップとは距離をとっていたと述べています。この種のゴシップの中身についてはよく知っていたのですが、その信憑性に疑問を持っていたためです。

 

「囚人たちは、ボーガーが男性収容所に入っていったときには虐殺がいつも起っていると話していました。しかし、私はその件についての証拠を発見できませんでした。ボーガーはこの件についてはまったく触れませんでした。ボーガーが感情的に動揺していることを見たことがありません。ですから、私は、ボーガーが囚人たちを射殺した日時や場所などをまったく指摘することができません。ベルトにピストルを吊るしている以外に、彼がその他の武器を持っているのを見たことがありません。事務所にもライフル銃や機関銃はありませんでした。制服が汚れていれば、それは処刑が行なわれたことを示唆しているのかもしれませんが、そのような汚れも見たことがありません。」

 

 1959年12月10日の二回目の尋問のとき、ローゼンタール夫人は、被告の無罪を立証してしまうような彼女の証言とその他の囚人たちによる告発証言との矛盾を突きつけられました。彼女は自分の記憶が十分ではないといって、釈明しようとしています。また、次のようにも釈明しています[14]

 

「アウシュヴィッツで経験したことはあまりにも多すぎるので、自分がそこで見聞きしたことをしっかりと理解できませんでした。どの当時であればよく知っていたのかもしれませんが、今となっては、詳細な点を思い出せないのはそのためかもしれません。フランクフルト・アム・マインでは、アウシュヴィッツでの同僚と一緒になりましたので、もちろん、当時のことについて話し合いました。正直なところ、私は、同僚たちが覚えている事件の詳細について驚いてしまいました。前にも申し上げましたとおり、そのことを思い出すことができないのです。そして、誰かをかばっているわけでもないことを強く申し上げておきます。しかし、知ってもいないことを話すこともできないのです。」

 

L:彼女は、以前の仲間であった女囚に「同僚」という表現を使っていますね。

R:その点は重要です。尋問官が、なぜ虐殺行為を思い出すことができず、犯人の身元確認もできないのかと詰問するたびに、ローゼンタール夫人は、恐怖に捉われて、茫然自失状態だったので、自分の身の回りで起きていることを理解できなかったと主張しています[15]

 ローゼンタール夫人の証言は、アウシュヴィッツの政治局の秘書たちの証言の中で、唯一被告の無罪を立証するようなものであったので、その証言が尋常ではないことは、関係文献の中では広く認められています。ホロコースト正史派の歴史家もフランクフルトの法廷も、ローゼンタール夫人が、第二の尋問で述べているように、恐怖の体験を心理的に抑圧し、記憶から消し去って、潜在意識の中に閉じ込めてしまったからにちがいないと説明しています[16]

 

L:精神科医も、子供のときの性的虐待の記憶が抑圧されることについて、同じように説明しようとしていますね。

R:良く観察されておられますね。もっと詳しくみてみましょう。ローゼンタール夫人は、秘書の中で、このテーマで尋問を受けた最初の証人でした。さらに、最初の女性でした。彼女は、第一回目の尋問のときには、親切なボーガー氏から受けた厚遇について詳しく思い出すことができました。彼女が、自分もその場に居合わせたとされる虐殺行為についてはじめて(意識的に)耳にしたのは、尋問官の口からでした。尋問官は、証人に「巧妙なかたちで」影響を与える能力を十分に持っていました。彼女は、虐殺行為の詳細を覚えていないことで非難されていましたが、記憶力が乏しく、他の囚人とゴシップ情報の交換をしなかったと釈明していました。

 二回目の尋問の前に、彼女は以前の「同僚」数名と会いました。「同僚」という単語を使っていることからもわかりますように、彼女は自分のことを絶滅収容所の奴隷ではなく、アウシュヴィッツの通常の従業員とみなしていました。この「同僚たち」(「生存者たち」)は、虐殺物語を彼女に話してくれましたが、彼女はその類のことをまったく覚えていなかったので、その話にショックを受けました。しかし、このような話は、尋問官がしてくれた話しと一致しており、この話とは違うことを覚えているのは自分だけのようであったので、自分の記憶違いであろうとの結論に達したのです。その理由を探し求めていると、過去の恐怖の記憶を抑圧して、潜在意識の中に追いやってしまっているという説明が話されましたが、彼女は、そのようなことを思い出すことはできないと、しっかりと証言しています。

 もう一つの問題として、どうして、ローゼンタール夫人は二回目の尋問の前に、かつての仲間の囚人と話し合って、記憶を交換することを許されたのでしょうか?誰がこの話し合いを整えたのでしょうか?関係文献によると、囚人団体がこうした話し合いを整えたとのことです。そして、このことは、裁判での証言に決定的な影響を与えたのでした[17]

 マリラ・ローゼンタールは、虐殺行為を思い出すことはできないと主張していましたが、そのことは、彼女は茫然自失の状態の中ですべてを経験したためであると説明されています。しかし、そのような説明は、潜在意識の中に「抑圧してしまった」はずである過去の肯定的側面を詳しく覚えているという事実と反しています。記憶の操作の犠牲者となった精神科の患者の意識的な記憶が、「専門家」によって信じ込まされた事実と異なってしまうという逆説的状況を説明するときに、いつも行われる説明なのです。

 ローゼンタール夫人はボーガーを肯定的に描いていますし、イスラエルが好きではなかったために、ドイツに戻ってきました。そして、仲間の囚人のことを「同僚」と呼んでいます。このことは、彼女がアウシュヴィッツでの諸事件にトラウマを経験していなかったことを示唆しているのです。

 ですから、ローゼンタール夫人に「トラウマ」を残したのはアウシュヴィッツでの経験ではなく、記憶を操作しようとする囚人団体、かつての仲間の囚人、メディアの記事、検事局、のちには判事の声明による脅迫なのです。自分が記憶をなくしたのは「トラウマ」のせいであるとのローゼンタール夫人の主張は、何回も尋問されるたびに、強くなっていきますが、この事実こそが、彼女の「トラウマ」の原因が脅迫であるということを立証しています。

 

L:がっかりしますね。人間の記憶とはこれほどあてにならないのですから。

R:この点での人間の欠陥を自覚して、人間の記憶を軽々しく信用しないことです。

 しかし、はるかに厄介なのは、フランクフルトのアウシュヴィッツ裁判ではローゼンタール夫人の証言が無罪を証明するものではなく、何と、有罪を証明するものとみなされたことです。判事の見解によると、アウシュヴィッツでの虐殺行為はあまりにも恐ろしいものであったために、証人=ローゼンタール夫人は、これらの虐殺行為の記憶を失ってしまうほどの「トラウマ」を受けたというのです。このような論理を使えば、いかなるものであれ、無罪を証明するような証言を、有罪を証明する証言に変えることができてしまいます。ひとたび先入観を持った結論が確定されてしまえば、それを反駁することはできなくなってしまっているのです。

 

L:最近登場して、戦時中の経験を公に話すようになった証人の話については、どのようにお考えですか?

R:1995年、私自身がそのような証人にインタビューしました。戦時中にアウシュヴィッツのSS医師であったハンス・ミュンヒ博士です[18]。ミュンヒ博士はこの当時84歳でしたが、彼にインタビューしてみて、彼の話は多くの矛盾を抱えており、決定的な箇所では、現実とも矛盾しているという結論に達しました。繰り返し尋問したところ、ミュンヒ博士は、自分が話していることは自分が実際に経験したことであろうという当初の主張が間違っていることを認めました。高齢者が数十年も前に経験したと称している事件についての記憶の信憑性がきわめて脆弱なものであるということは、とりたてて驚くべきことではありませんし、それは証人がたんに高齢であるためでもありません。ミュンヒ博士は50年間も、この事件に巻き込まれてきました。戦後再三にわたって尋問を受け、多くの裁判に証人として出廷し、囚人団体と話し合い、何十年も生存者の書物を読み続け、さまざまな人物やメディアとのインタビューに応じてきました。彼の記憶は、このようなことからの影響を受けざるをえませんでした。

 私がミュンヒ博士とのインタビュー記事を公表した直後に、ドイツ最大の政治誌『シュピーゲル』は、私がミュンヒ博士の信憑性に投げかけた疑問を払拭するためでしょうか、博士との短いインタビュー記事を掲載しました。しかし、『シュピーゲル』のインタビュー方法自体がきわめて皮相なものであり、尋問を受けている人物の記憶を操作する方法ともいえる、問題の暗示的・示唆的提起という方法を使っているのです[19]。ミュンヒ博士の回答は法外なものでしたので、フランスの検事は憎悪の煽動の咎で彼を起訴しました。ミュンヒ博士は、アルツハイマー病がかなり進行していたので、やっとのことで、服役を免れたのです[20]

 

L:ということは、今日、額面どおりに受けとれといわれている証言は、アルツハイマー患者の証言だとということですね。

R:そういうことになります。高齢者による青年時代の経験の記憶には信憑性がないということははっきりしています。にもかかわらず、メディアは、修正主義者に反駁しようと必死になって、戦後60年たっても、この「奇跡的な記憶力を持つ証人たち」を登場させているのです[21]。1990年代中頃、高齢になっていくホロコースト生存者の証言を組織的に収集・記録する目的の野心的な計画が、いくつか進められました。その一つが1994年末に、スピルバーグによって、もう一つが(ベルリン郊外の)ポツダムにあるドイツ系ユダヤ人モーゼス・メンデルスゾーン・センターによって始められました。ドイツ系ユダヤ人歴史家ユリウス・シェープスとアメリカの文学教授ジェフリー・ハートマン(イェール)が監督していました[22]

 このプロジェクトの学術レベルについては、スピルバーグ・イニシアティブが物語っています。証人とのインタビューはボランティアによって行われました。ボランティアたちは20時間の訓練を受けました。彼らの大半は、それが何を意味するものであれ、ホロコーストについて少しばかりの知識だけをもっている人々でした[23]

 

L:彼らは背景となる歴史の知識を持っていないので、重要な内容を持つインタビューをすることはできないということになりますね。

R:そのとおりです。さらに、彼らがホロコーストについて少しばかりを知識をもっているために、ホロコーストは、感情的に歪められたかたちで受けとられています。そして、証人に対する批判的な姿勢も望まれてはいません。そのことは、インタビュー技術についてのメンデルスゾーン・センターの報道記事が物語っています[24]

 

「ガイドライン無しの質問

個人の記憶を科学的に評価することは難しいので、歴史的経験を記録することを保証し、浅薄な歴史的事実化を避けるのは物語の主観性である。心理分析インタビューと同じように、物語の信憑性を保証するために、控えめなインタビュー技術を使うことで、証人自身の記憶に自由に語らせる余地を与えるべきである。」

 

L:このやり方には問題点があるのですか?

R:主観的であることによって真実にアプローチできるのでしょうか?ここで使われているインタビュー技術は、社会学でいうところの「物語風インタビュー」です。このようなインタビューを行なっているときには、インタビューを行なう側は、インタビューを受ける側の意図に合わせます。この技術は話したいという人間の志向性にもとづいており、たとえ妄想に近いものであっても、そのような話しをする最大限の自由を話し手に与えるのです。インタビューを行なう側はインタビューを受ける側の主観的な思考のプロセスを把握することができるというのです。そうするために、インタビューを行なう側は、インタビューを受ける側に、たとえ客観的真実からどれほど遠ざかっていようとも、自分の物語を話し続けてもよいというシグナルを送らなくてはなりません。話に相槌を打ったり、話しを続けることを促したり、ひいては、話にくちばしを入れて、例えば「ガス室」といったような特定のテーマにインタビューを受ける側を誘導するのです[25]

 このようなインタビューでは、話の内容に批判的な質問は、話しを中断させてしまう、ひいては話しをまったくとめてしまうかもしれないので、タブーなのです。

 こうしたインタビューの中身は、非常に主観的なものとなり、客観的事実とはほとんど合致しません。こうしたインタビューの中身が客観的現実であるとみなしている人々は、きわめて深刻なあやまちを犯しているのです。こうしたインタビューの社会学について知識をもっていながら、それでもなお、その中身を「真実」とみなし続けるのであれば、自分自身を偽っているに他なりません。

 インタビューのあいだに非常に批判的な質問をすることで、証人の話しを批判的に分析することによってのみ、証人自身が実際に経験したことと、意識的にせよ無意識的にせよ、50年間のあいだに他人の経験から作り出してきたこととを区別できるのです。批判こそが科学的方法です。証言の中の内部矛盾を検証し、その証言内容が他の手段によって確証される事実に合致しているかどうかを裁定しなくてはならないのです

 たんに証人に自分たちの信仰を無批判的に話す機会を与え、そのことを揺るぎのない真実であると宣言することは、呪術師とシャーマンがサガによって真実を裁定した石器時代に戻ってしまうことを意味するのです

 不幸なことに、このようなプロジェクトだけが、こうしたごまかしの技術を使っているわけではありません。メディアにおいてであれ、犯罪捜査においてであれ、法廷であれ、ホロコースト正史派の歴史家・社会学者の研究であれ、「ホロコースト生存者」とのインタビューの大半はこのように行なわれています。生存者に批判的な質問をすることはタブーとなっています

 別の事例をあげれば、ドイツの検事総長ヘルゲ・グラヴィツは、人は「生存者」に批判的な質問をすべきではなく、彼らを理解し、共感しなくてはならないと考えています[26]

 こうした「ホロコースト生存者たち」がこのようなインタビューをくぐり抜けてきたのです。その多くは何度も何度もです。彼らが妄想を口にしたとしても、周辺の人々は非難もせずに、むしろ、その話しを認めたのです。繰り返された話がこうした証人の記憶に影響を与えたにちがいありません。

 

L:記憶はどんどん不正確なものとなっていくにちがいありませんね。

R:不正確なものになっていくと予測できます。ですから、こうした尋問技術は、歴史学とはまったく無縁な代物です。こうしたインタビュー計画は危険です。事実、誤り、嘘を区別できないほど混ぜ合わせてしまい、混じり合わされたものに「本当の」真実というお墨付きを与えてしまうからです。そして、そのお墨付きが、多くの国々では刑法によって守られているドグマを確固としたものにするために利用されているのです。将来、科学者たちは、自分たちの前任者が利用した無益かつ詐術的な技術と盲目的な教条主義が混じり合わさったものに直面したとき、ひどく煩悶してしまうことでしょう。

 

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[1] Elizabeth Loftus, The Myth of Repressed Memory, St. Martin’s Press, New York 1994; Elizabeth Loftus, “Creating False Memories,” Scientific American, vol. 277, no. 3, 1997, pp. 70-75 (http://instruct1.cit.cornell.edu/courses/psych113/Loftus.pdf); cf. a series of articles on human memory in TR, 1(4) (2003), pp. 456-466.

[2] Cf. auch David F. Bjorklund (ed.), False-Memory Creation in Children and Adults: Theory, Research, and Implications, Lawrence Erlbaum Ass., Mahwah, NJ, 2000; Terence W. Campbell, Smoke and Mirrors: The Devastating Effect of False Sexual Abuse Claims, Insight Books, New York 1998; Tana Dineen, Manufacturing Victims: What the Psychology Industry Is Doing to People, R. Davies, Montreal 1996; Eleanor Goldstein, Kevin Farmer (ed.), True Stories of False Memories, Social Issues Resources, Boca Raton, FL, 1993; Elizabeth F. Loftus, James M. Doyle, Eyewitness Testimony: Civil and Criminal, 3rd ed., Lexis Law Pub., Charlottesville, VA, 1997; Richard Ofshe, Making Monsters: False Memories, Psychotherapy, and Sexual Hysteria, 3rd ed., University of California Press, Berkeley, CA, 1996; Mark Pendergrast, Melody Gavigan, Victims of Memory: Sex Abuse Accusations and Shattered Lives, 2nd ed., Upper Access, Hinesburg, VT, 1996; Gary L. Wells, Elizabeth F. Loftus (ed.), Eyewitness Testimony: Psychological Perspectives, Cambridge University Press, New York 1984.

[3] E. Loftus, Katherine Ketcham, Witness for the Defense, St. Martin’s Press, New York 1991, p. 224; cf. the paper by John Cobden, “An Expert on “Eyewitness” Testimony Faces a Dilemma in the Demjanjuk Case,” JHR 11(2) (1991) pp. 238-249.

[4] E. Loftus, Katherine Ketcham, ibid., p. 232.

[5] Ibid., pp. 228f.

[6] Cf. Caroline Song, “Dr. Elizabeth Loftus, Controversial Expert on Human Memory,” TR 1(4) (2003), pp. 456-458; Robert H. Countess, “My Critique of Dr. Loftus’ Behavior,” ibid., pp. 459f.

[7] M. Shermer, op. cit. (note 849), p. 183.

[8] E. Loftus, “Creating False Memories,” op. cit (note 875); here I quote a summary of Loftus’ argument as published in the German version of this paper as published in Spektrum der Wissenschaft, January 1998, p. 62. This summary is not included in the English version.

[9] Cf. Gerald L. Posner, John Ware, Mengele. The Complete Story, McGraw-Hill, New York / Queen

Anne Press, London 1986; 2nd ed. Cooper Square Press, New York 2000.

[10] Efraim Zuroff, op. cit. (note 831), pp. 127f.

[11] 戦後、「生存者たち」は逮捕されたドイツ人当局者、起訴されたドイツ人当局者の犯罪を告発する証言を定期的に求められ、さまざまな新聞がその内容を記事にしている。ここでツーロフが言及しているのは、メンゲレの「逮捕」事件との関連で、Jidisze Cajtung (March 21, 1947), Ibergang (March 30, 1947), Bafreiung (April 4, 1947), Undzer Weg (March 21, 1947),Undzer Wort (March 28, 1947), and Moment (March 24, 1947)に登場した記事である。

[12] A. Ruckerl, op. cit. (note 765), pp. 258f.

[13] Record of interrogation of Maryla Rosenthal on Feb. 21-22, 1959, Staatsanwaltschaft beim LG Frankfurt (Main), op. cit. (note 462); vol. 4, pp. 507-515: in more detail, cf. G. Rudolf, “From the Records of the Frankfurt Auschwitz Trial, Part 5,” TR 2(2) (2004), pp. 219-223.

[14] Staatsanwaltschaft, op. cit. (note 462), vol. 20, p. 3183.

[15] Ibid., pp. 3184f.

[16] Rebecca Elizabeth Wittmann, Resistance Reconsidered: The Women of the Political Department at Auschwitz Birkenau, Report of Experiences of the Working Party “Jewish Resistance at the Concentration Camps,” Center for Advanced Holocaust Studies, United States Holocaust Memorial Museum, 1999, in cooperation with scientists from the Museums of Auschwitz-Birkenau, Majdanek and Theresienstadt (www.interlog.com/~mighty/essays/wittmann.htm).

[17] A. Ruckerl, op. cit. (note 765), p. 256; U.-D. Oppitz, Strafverfahren und Strafvollstreckung bei NSGewaltverbrechen, Selbstverlag, Ulm 1979, pp. 113f., 239; H. Laternser, Die andere Seite im Auschwitzprozes 1963/65, Seewald, Stuttgart 1966

[18] G. Rudolf, “Auschwitz-Kronzeuge Dr. Hans Munch im Gesprach,” VffG 1(3) (1997), pp. 139-190.

[19] Bruno Schirra, “Die Erinnerung der Tater,” Der Spiegel, 40/1998, pp. 90ff. (www.vho.org/VffG/1997/3/Spiegel.html).

[20] Tageszeitung, Oct. 19, 2001, p. 11.

[21] 例えば、アウシュヴィッツに配属されていたSS隊員オスカー・グレーニングは、2005年初頭に、アウシュヴィッツ占領60周年のインタビューを受けているが、そのとき83歳であった。The Nazi’s testimony,” The Guardian, Jan. 10, 2005 (www.guardian.co.uk/secondworldwar/story/0,14058,1386675,00.html?gusrc=rss); see also the TV documentary “Auschwitz. Inside the Nazi State” of the U.S. public broadcastion station PBS, Jan. 18 –Feb. 5, 2005 (www.pbs.org/auschwitz/40-45/victims/perps.html); Hans-Jorg Vehlewald, “Soll blos keiner sagen, er hatte nichts gewust: Ich war SS mann in Auschwitz,” Bild, Jan. 25, 2005 (www.bild.tonline.de/BTO/news/2005/01/25/ss__mann/ss__mann.html)

[22] Cf. Newsweek, Nov. 21, 1994; New York Times, Jan. 7, 1996; Geschichte mit Pfiff, Nov. 1996, p. 37; Welt am Sonntag, Nov. 17, 1996; cf. http://web.lemoyne.edu/~hevern/nr-shoah.html.

[23] Stuttgarter Zeitung, Dec. 28, 1994.

[24] Archive der Erinnerung,” Suddeutsche Zeitung, July 3, 1995.

[25] これ自体が「インタビュー効果」と呼ばれる操作である。see cf. W. Fuchs-Heinritz, R. Lautmann, O. Rammstedt, H. Wienold (eds.), Lexikon zur Soziologie, 3rd ed., Westdeutscher Verlag, Opladen 1994, p. 317.

[26] Helge Grabitz, NS-ProzessePsychogramme der Beteiligten, 2nd ed., C.F. Muller, Heidelberg, 1986, pp. 12ff., 78, 87.