第四講:目撃証言と自白

4.1 戦時中の民族社会主義の指導者たちの自白

R(ルドルフ):ある事件について、感情的にせよイデオロギー的にせよ、先入観を抱いているかもしれない人物の証言は、まったく中立で公平な観察者の証言よりも信頼できない理由については、すでに検証しています。事件の原告と被告の証言についてはとくに注意しなくてはなりません。ホロコーストについては、これはいわゆる犯人と、いわゆる犠牲者のことです。

 

L(聴衆):それでは誰も残らないのではないでしょうか?中立で公平な観察者となることができる人などほとんどいないからです。

R:ホロコーストに関して中立でありうる人物は存在しえないのでしょうか?これは基本的問題です。ホロコーストについての話はすべて非常に感情的ですので、冷静沈着な観察者になることのできる人物はほとんどいません。第二次世界大戦は世界を、善玉と悪玉に二分しましたが、そのようなことは前代未聞のことです。ですから、ホロコーストについては客観的な目撃証言など存在せず、犯人か犠牲者のどちらかの証言だけが存在するということは簡単ですし、また正しいのです。

 どの刑事事件、民事事件でもそうなのですが、双方の証言に対して懐疑心をもって接しなくてはならないということです。生き残った犠牲者は、憎悪や復讐のために、事件を誇張したり、捏造したりすることがありうるということです。犯人の方は、自己保身のために、事件を過小評価したり、事件そのものを否定することがありうるということです。

 

L:私にとっては、犯人の自白の方が、説得力があるように思えるのですが。

R:その問題から検証を始めましょう。「犯人」の自白をまず検証しましょう。ホロコースト正史派の歴史家たちは民族社会主義の指導者たちの証言をホロコーストの証拠として引用してきました。その証言を紹介する前に、いくつかのドイツ語の単語の意味を明確にしておかなくてはなりません。民族社会主義の指導者たちが「Vernichtung(根絶)」とか「Ausrottung(絶滅)」という単語を使うとき、何を意味していたのかということです。現代ドイツ語辞典を参照すれば、明確に見えます。多くの場合、物理的除去、すなわち、殺害をさしています。ただし、例外もあります。「Vernichtung(根絶)」は、たんに社会的・職業的な意味合いで使われ、金銭的土台が壊されてしまうこと、友人の社会的ネットワークが壊されてしまうことをさしています。例えば、スポーツの中での「vernichtende Niederlage(敗者の根絶)」は、負けたチームの選手が殺されてしまうことを意味しているわけではありません。「Ausrottung(絶滅)」の方が曖昧さは少ないのですが、それでも、すべて殺害を意味しているわけではないのです。

 1920年代と1930年代初頭、のちのドイツの政治的指導者となる民族社会主義の指導者たちは、永遠に続く国内戦という雰囲気の中に政治的に巻き込まれていました。この闘争に関与した急進政党が使った言語は、煽情的で暴力的でした。熱くなっているときに語られた単語を文字通りに受け取るべきではありません。このことに留意しておく必要があります

 根絶とか絶滅という単語が使われてはいますが、それが殺人を意味しているわけではない、民族社会主義ドイツの指導者の発言をいくつか引用しておきましょう。

 

1. 1941年まで総統代理であったルドルフ・ヘスは、1935年5月14日、ストックホルムでこう演説しています[1]

 

「民族社会主義の法律は、外国からの[ユダヤ人からの]干渉に、修正的な措置という手段で対抗している。

 修正的措置というのは、例えばユダヤ人は民族社会主義ドイツでは無慈悲に絶滅されているわけではないという[事実が]、プロイセンだけでも、33500人のユダヤ人が工業・手工業で、98900人のユダヤ人が商業・交通で活動しているという事実によって、さらに、ユダヤ人はドイツの全人口の1%にすぎないのに対して、弁護士の17.5%がユダヤ人であり、ベルリンでは、非アーリア系医師のほぼ50%が依然として社会安全システムに関与することを認められているという事実によって立証されているからである。」

 

 ここで使われている絶滅する(ausrotten)なる単語が、殺人の意味で使われているのではないのは明らかです。1935年の時点で、ユダヤ人すべてもしくはその一部を第三帝国は無慈悲に殺戮していると非難している人は誰もいなかったからです。第三帝国はユダヤ人を物理的に絶滅していたとの憶測は、この時点ではまったく愚かなことでしょう。ヒトラーに次ぐナンバー・ツーが、演説というかたちをとって、ユダヤ人の部分的物理的絶滅を否定するなどということは考えられないからです。ヘスの用語法は単語の社会的意味合いの中で解釈しなくてはなりません。すなわち、民族社会主義者は(無慈悲に)あらゆる手段を使ってもドイツにおけるユダヤ人の影響力を依然として排除することができていない、むしろ、穏健な強制手段を使って、ユダヤ人の影響力を修正・抑制し始めたにすぎないというのです。この抑制は、ユダヤ人の殺戮によってではなく、彼らに転職や移住を強いることで実行されているというのです。

 

2. ヒトラーは、1936年8月の四カ年計画に関する覚書の中で、ドイツ国防軍とドイツ経済は4年間で対ソ戦の準備を整えなくてはならない、もしも、ソ連がドイツを征服するようなことがあれば、それは、ドイツ国民の根絶を意味するであろうと述べています[2]。もちろん、ヒトラーは、ソ連が8000万人のドイツ人を殺戮してしまうと言っているわけではありません。ドイツは、独立した、政治的に強力な要素、文化的に強力な要素としては、存在しなくなってしまうということを述べているのです。

 

3. 1938年11月10日、彼は民族社会主義者のメディアに、ドイツの知識人階級を根絶する必要があると述べています[3]。これも、知識人の物理的絶滅ではなく、その影響力の排除を意味しているにすぎません。

 

4. 前に引用した1939年1月30日の国会演説の数日前、ヒトラーはチェコ外相と会談しています。その中で、ヒトラーは、チェコの自由主義的なユダヤ政策を批判し、自分の政府のユダヤ政策に触れて、「ドイツでは、彼らは根絶されている」と述べています。ユダヤ人の物理的絶滅などはこの当時は行なわれていませんでしたので、物理的絶滅という意味で使われているのではないことは明らかです[4]

 

5. ヒムラーのマッサージ師フェリクス・ケルシュタインは、1940年12月12日の日記に、次のようなヒムラーの発言を記している。

 

「われわれは、ユダヤ人を一掃しなくてはならない、これが総統の意志である。」

 

 また、1941年4月18日には、ケルシュタインによると、ヒムラーはこう述べたとされています。

 

「ユダヤ人は戦争が終わるまでに絶滅されなくてはならない。これは総統の明らかな意志である。」

 

 ケルシュタインの日記が書かれたときには、まだユダヤ人を絶滅しようとする意図はなかったので、この日記は問題をはらんでいると述べたのは、もっとも高名なホロコースト正史派の歴史家であるイェルサレム大学のイェフダ・バウアーです[5]。しかし、「一掃する(ausradieren)」とか「絶滅する(ausrotten)」という単語が物理的絶滅ではなく、ドイツとヨーロッパからのユダヤ人の排除を意味していると理解すれば、この日記の内容は問題をはらんでいるわけではありません。

 

6. このことは、1942年7月4日の総統本営でのテーブル・トークからも明らかです。このとき、ヒトラーは、ボヘミアとモラヴィアからのチェコ人の追放に関する自分の脅迫を、チェコ大統領ハーハに伝えた件の話しをしています。ハーハはこの脅迫にしたがって、保護国の中で親ソ連政策を唱えるものは誰であれ、「絶滅され(ausgerotte)」なくてはならないと声明しています。この文脈からも明らかなように、この単語は、免職・解雇・追放を意味しているのです[6]

 

 今度は、絶滅説を立証するためにしばしば引用されている民族社会主義の政治的指導者の発言についてです。これらの発言は終戦のかなり前になされています。ですから、連合国の監獄で被告たちが行なった自白とは対照的に、そのような発言を強要されたものとみなすことはできません。

 まず、しばしば引用される、1939年1月30日、すなわち開戦の7ヶ月前のヒトラー演説を検証しましょう[7]

 

「今日、私は今一度預言者となる。もしも、ヨーロッパ内外のユダヤ国際金融資本が、民族を今一度戦争に引き込むことに成功するとすれば、その結果は全世界のボリシェヴィキ化すなわちユダヤ民族の勝利ではなく、ヨーロッパにおけるユダヤ人種の絶滅となるであろう。」

 

 ここには、ヒトラーの世界観が凝縮されています。すなわち、ユダヤ人が国際金融資本を牛耳っており、ボリシェヴィズムの黒幕である、ユダヤ人は、必要であれば大戦争にうったえてでも、全世界を金融的・政治的に支配したがっているというのです。そして、自分ヒトラーこそが、これを防止し、ユダヤ人のくびきへの従属を防ぐために、ユダヤ人種を絶滅する推進力であるというのです。

 しかし、彼の演説は、ユダヤ人の物理的存在の絶滅をうったえていたのでしょうか、それとも、たんにユダヤ人の政治的・社会的影響力の排除をうったえていたのでしょうか?この演説の続きを引用すれば、明らかとなります。もっとも、ホロコースト正史派の歴史家たちはこの部分をいつも削ってきたのですが

 

「今のところ非ユダヤ諸民族は宣伝手段をもっていないが、民族社会主義ドイツとファシストのイタリアには、多くの民族が本能的には気がついているが、十分には考え抜いていない問題の本質について、必要であれば、全世界を啓蒙することのできる組織がある。」

 

 ご覧のとおり、ヒトラーは、ユダヤ人の邪悪な計画と振る舞いについて、全世界を啓蒙することで、ユダヤ人を絶滅しようとしていたのです。イスラエルの歴史家イェフダ・バウアーでさえも、ヒトラーがこの演説の中で物理的殺人をうったえていたという考え方に反対しています。彼は、この一文は、漠然とした、過度に誇張された脅迫であり、演説のそれ以外の部分とは好対照であると強調しています。この演説は、ルーズベルトのいわゆる「検疫演説」の中のボイコットの脅迫に対抗したものでした。ルーズベルトはヒトラーのドイツを危険なバクテリアに感染した国と呼び、それを検疫状態におくべきである、すなわち、他の国々はドイツをボイコットし、付き合いを避けるべきであると主張したのです。これに対するヒトラーの演説は、ユダヤ人の平和的移住・再定住という自分の政策を実行することについて、詳しく説明・解説したものでした。

 

L:しかし、この脅迫は、いずれにしても、開戦の可能性を想定したものでしたね。

R:そのとおりです。しかし、ここでヒトラーが殺戮を示唆していたと想定したとしても、ルーズベルトの脅迫に対抗した、過度の誇張された脅迫を、その後に犯されたとされる犯罪の証拠として利用できるわけではありません。すでにお話したように、そのあとの一文は、世界はユダヤ人に関して啓蒙されるべきであると論じているにすぎないからです。バウアー自身が、ヒトラーが殺戮の意図を抱いていたという説に証拠をあげて反駁しています。その証拠とは、開戦後の1940年5月の文書資料なのですが、その中で、ヒムラーは、「民族の物理的絶滅というボリシェヴィキ的な方法をドイツにはふさわしくない方法として」しりぞけているのですが、ヒトラーは、この文書の端に、「まったく正しい」とコメントしているのです[8]

 1941年1月30日、ヒトラー自身が国会演説の中で、1939年の予言に触れて、こう説明しています[9]

 

1939年9月1日[正しくは、1939年1月30日]のドイツ国会で行なった警告、すなわち、ユダヤ民族が世界を全面戦争に駆り立てるならば、ヨーロッパにおけるユダヤ民族の役割は終焉するであろうという警告を今一度繰り返しておかなくてはならない。」

 

 ユダヤ人の根絶という用語を、ユダヤ人が経済・政治・文化で行使している影響力を終わらせることという意味で使っているのがわかると思います。ヒトラーは、1942年1月30日、2月24日、9月30日、11月8日、1943年2月24日にも、同じような指摘を行なっています[10]。それによると、ヒトラーは、進行中の世界大戦の帰結について、二つの可能性、すなわち、アーリア民族の絶滅かユダヤ民族の絶滅か、この二つの可能性を想定していました。ヒトラーがアーリア民族とみなした民族が敗北した場合であっても、これらの民族が物理的に絶滅されると考えていたわけではありません。ヒトラーが、戦争が世界大戦に拡大したのちに、「ユダヤ人の根絶」という用語をどのように理解していたのかについては、1941年10月25日の側近への話からわかります。彼は、テーブル・トークのときに、1939年1月30日の演説のことに触れて、「根絶」とはユダヤ人をロシアの湿地帯に移送することで、ヨーロッパにおけるユダヤ人の政治的影響力を破壊することであると述べているのです[11]

 

「この犯罪者人種はその良心にしたがって、[第一次]世界大戦の時には200万の死者を、今は、数十万の死者を出している。一体どのようにしたら、彼らを湿地帯に追い払うことができるのであろうか。」

 

L:ヒトラーはありのままを言いたがらなかったのでしょう。

R:ヒトラーは、側近との内輪話の中でも、カモフラージュ言語を使わなくてはならず、事態を率直に発言することができなかったというのでしょうか。

 戦時中のユダヤ民族の「根絶」に関するヒトラー以外の、民族社会主義の指導者たちの発言を検討してみましょう。まず、宣伝大臣ゲッベルスの1942年5月27日の日記です[12]

 

「ルブリンからはじまって、ユダヤ人は今、総督府から東部地区に移送されている。幾分か野蛮な方法であり、これ以上ここに記すべきものではない。ユダヤ人にはほとんど残された余地はない。一般的には、60%が清算されなくてはならず、40%だけが労働に付かせることができるといえる。」

 

 この引用文の問題は、その他のテキストと同じです。実際の政策を念頭におけば、「清算されるべき」60%のユダヤ人とは労働不能ユダヤ人であり、それゆえ「東部地区に移送される」集団のことであると結論しなくてはなりません。このことは、彼がほんの20日前にしたためた日記の項目からも明らかです[13]

 

「ユダヤ人問題は、大ヨーロッパの枠内で解決されなくてはならない。ヨーロッパには依然として1100万のユダヤ人がいる。彼らをまず東部地区に集中させなくてはならない。戦争が終われば、マダガスカルのような島に送ることができる。いずれにしても、ユダヤ人がヨーロッパから完全に排除されるまでは、ヨーロッパには平和は存在しえない。」

 

 この時期からの文書資料をもとにして、マットーニョは、この当時、すなわちヴァンゼー会議以後、ユダヤ人の再定住が総督府で始まり、そのことが「根こそぎ作戦(Vernichtungsaktion)」に他ならなかったと述べています[14]。これらの文書資料は非常に重要であるので、それをまとめて紹介しておきます。再定住ユダヤ人の最初の移送集団が目的地に着いたとき、受け入れ当局は、1942年初頭に、次のように警告されています[15]

 

ユダヤ人を受け入れるにあたって、彼らの目的地がどこであったとしても、最終目的地に正確に移送するように配慮していただきたい。その他のケースではしばしば起っているのであるが、まったく監督を受けずに最終目的地に向かい、その結果、周辺地域に分散してしまうようなことがないようにしていただきたい。」

 

 もしも、移送集団が絶滅収容所に送られたのであれば、こうした事態が起るはずがありません。別の文書は、目的地についたユダヤ人の取り扱いについて述べています[16]

 

ユダヤ人は、新しい定住地に到着したのち、3週間、医療監視のもとにおかれなくてはならない。チフスに感染しているような兆候がわずかでもあれば、地域の責任者医師に確実に報告しなくてはならない。」

 

 もしも、ユダヤ人がガス処刑されるのであれば、彼らを3週間の健康管理のもとにおく必要はありません。再定住という「野蛮な」方法は、ゲッベルスの日記の5日前の1942年3月22日の文書によって明らかにされています[17]

 

1942年3月22日、57のユダヤ人家族、合計221名のビルゴライからタルノグロトへの疎開が行なわれた。各家族には家具やベッドを運ぶための車が提供された。警察と特別サービス部隊が、この疎開を準備・監督することになっていた。作戦は計画通りに進められた。疎開の対象となった人々はその日のうちにタルノグロトで宿泊した。」

 

L:だとすれば、どうしてゲッベルスは、このことを「野蛮な方法」とみなし、「ユダヤ人にはほとんど残された余地はないと記さなくてはならなかったのでしょうか?

R:西側の標準では、強制的大量再定住は「野蛮なこと」ではありませんか?第二次大戦後のドイツ人の東部領土からの強制的大量再定住も野蛮なことです。ホロコーストに関して抱くイメージのために、私たちの目は情緒的に曇ってしまい、そのために、ホロコースト以外の日常的な野蛮さを認識することができなくなっているのです。ホロコーストについてのホラー話だけを耳にしているので、それ以外のことはそんなに悪いことのようには見えないのです

 

L:今日、ボスニア、コソボ、チェチェンで紛争が起っており、ルワンダやダルフルでは虐殺行為があり、パレスチナ人が抑圧されていますが、そのような議論をすることで、こうしたあらゆる種類の野蛮な取り扱いのことを「そんなに悪くない」という絨毯の下に隠してしまうことができます。

R:そのとおりです。しかし、ゲッベルスはホロコースト宣伝に感情的に惑わされていたわけではないことを忘れてはなりません。彼にとっては、すべての家族を経済的に不毛な東部地区に強制的に再定住させることは、「野蛮」だったのです。そして、この点では正しかったのです。ユダヤ人には「ほとんど残された余地はない」という発言は、ヨーロッパにおけるユダヤ人の政治的・経済的・社会的存在についてのことであり、ユダヤ人の殺戮のことを言っているわけではありません。

 ですからゲッベルスが理解しているところの、移送されたユダヤ人の60%の「清算」とは、彼らの東部地区への疎開のことであり、西ヨーロッパ・中央ヨーロッパでの彼らの経済的・政治的・社会的影響力の「清算」のことなのです。ですから、ゲッベルスの日記にある「清算」という用語は、ヒトラーの発言にある「根絶」、「絶滅」と同じ意味なのです

 検討に値する次の発言は、1941年12月16日、すなわち、ヴァンゼー会議のほぼ1ヶ月前のポーランド総督ハンス・フランクの演説です。この演説の中でフランクはこう述べています。

 

「もし、ヨーロッパのユダヤ民族が戦争を生き残り、その一方で、われわれがヨーロッパの防衛のために最良の血を犠牲にしたとすれば、この戦争は部分的にしか成功していないであろう。それゆえ、基本的に、ユダヤ人については、私は、彼らは消えさるべきであると簡単に考えている。彼らは行かなくてはならないのである。」

 

L:これも明確な内容です。

R:そのように見えます。例えば、ノルテ教授はホロコーストの証拠として引用しています[18]。しかし、ノルテ教授は、引用テキストの残りの部分を忘れているのです。それはこうです。

 

私はユダヤ人の東部地区への移送のための交渉を始めている1月、ベルリン[ヴァンゼー]でこの件に関する大きな会議があるので、国務秘書官ビューラー博士をそこに派遣するつもりである。この会議の主催者は、国家保安中央本部のSS上級集団長ハイドリヒである。いずれにせよ、大規模なユダヤ人の移住が始められる。」

 

L:ノルテ教授は文脈から切り離して、内容を歪曲したかのようにみえます。

R:もう一度申し上げます。そんなに急がないでください。その引用はこう続いています。

 

しかし、ユダヤ人をいかにすべきだろうか? 連中を東部地区の再定住村落に定住させられると思うか? われわれはベルリンで次のように言われた。悩むことなどあるか? 東部地区においても帝国総督領[占領下のウクライナ]においても、われわれが連中に出来ることは何もない。だから、勝手に連中を消してしまえ、と。紳士諸君、私は諸君に、いかなる慈悲の感情も捨て去るよう求めたい。われわれはユダヤ人を根絶せねばならない。帝国の機構を全体としてまっとうするために、連中を見つけ出し根絶可能なところでならどこででも。350万人ものユダヤ人を、射殺することも毒殺することもできない。しかし、それでもなおわれわれは、なんとかして彼らを根絶せしめる処置をとることが可能だろう。総督府は帝国としてユダヤ人から解放されなくてはならない。いつどこでこのようなことは行なわれるのかは、この地域に設立される機関の問題であり、その管轄権限については、しかるべきときに通知するであろう。」

 

L:それで、どちらを意味しているのですか。再定住なのですか、根絶なのですか。

R:どうして二者択一なのですか?フランクは同じことを話しているのです。定住と根絶とは同義語なのです。フランクは、「350万人ものユダヤ人を、射殺することも毒殺することもできない」と明言もしています。ユダヤ人は射殺されることもガス処刑されることもないのです。 

 実際、このテキストを、ゲッベルスの日記やハンス・フランクの別の文書のような資料の文脈の中で読み込めば、あいまいな点は消え去ります[19]。フランクもゲッベルスも、労働不能ユダヤ人は東部地区に再定住される、その以外のユダヤ人は強制労働力として利用されると考えていたにちがいありません。

 最後に、1943年10月4日のヒムラー演説を検討しましょう。普通、「秘密演説」と呼ばれているものです。以下がその抜粋です[20]

 

「私がいま言及しているのは、ユダヤ人の疎開、ユダヤ民族の絶滅に関してである。それは、簡単に言われていることの一つである。党員だったら、『ユダヤ民族は絶滅されており、それはわれわれの計画の一部である。われわれはユダヤ人の消去(Ausschaltung)、絶滅を実行している』と言うであろう。だが、やがてこの8000万の善良なドイツ人は、おのおのが礼儀正しいユダヤ人をもっていることに気づくだろう。明らかにほかのユダヤ人はブタだが、自分の知っているユダヤ人は一流だ、と言うかもしれない。しかし、こう言った人のうち誰ひとりとしてその姿勢を貫き通した者はいない。ほとんどの諸君は、100人の死体が並ぶということが、何を意味するか、それが500人、1000人だったらどうか、知ることであろう。そして、この苦しみに耐えながら、人間的な弱さによる例外を無視すれば、道徳的でありつづけることが、われわれをたくましくしてきた。これこそが、かつて書かれたことがなく、今後も書かれることがない、われわれの栄光の歴史の一章なのである。われわれは、もしわれわれが、秘密のサボタージュ主義者、煽動家、醜聞家としてのユダヤ人を、戦争による苦難と収奪とともに、空襲のあいだに、各都市に依然として抱えているとすれば、そのことがどんなにつらいことであるのかを知っているからである。もしも、われわれがドイツ民族の本体の中に依然としてユダヤ人を抱えているとすれば、1916年17年と同じ状況の中にいることになるであろう。

…われわれには、われわれを殺したがっているこの民族を殺すという道徳的権利があったし、わが国の国民に対する義務があった。」

 

L:疎開とは物理的絶滅のカモフラージュ言語であるという説がありますね。

R:いいえ、逆です。ヒムラーにとっては、「絶滅」の方が疎開の同義語であったのです。民族社会主義ドイツ労働者党綱領には、ユダヤ人の物理的絶滅など主張されていないからです。ユダヤ人は国家公民=民族同胞ではありえないので、ドイツから追放されるべきであると述べられているだけです[21]

 

L:ヒムラーの触れている死体とは何の死体ですか?

R:この一文は、数十万の死体がかたわらにあることを見たことがないために、ユダヤ人に対する厳しい措置のことを理解していない、礼儀正しいユダヤ人を知り合いにもつドイツ人に関係しています。「しかし、こう言った人のうち誰ひとりとしてその姿勢を貫き通した者はいない。」この一文は、これらの死体がユダヤ人の死体ではありえないことを意味しています。もしも、「一流のユダヤ人」を知り合いにもつドイツ人が、数百のユダヤ人の死体を見たとすれば、彼らは反ユダヤ的措置になおさら共感しないでしょう、ひいては、それを妨害するかもしれないからです。しかし、ヒムラーの演説の聴衆はSSの高官・警察指導者であり、これらの死体を見ているがゆえに、反ユダヤ的措置に理解を示していました。ですから、ユダヤ人の死体を見たとすると、彼らが一掃反ユダヤ的措置を支持するようになるとは限りません。厳しい措置が正当化されうる、それらは罰であると納得したときに、これらの措置を認めるはずです。でも、何のための処罰なのでしょうか?人間の大量死、戦争責任のための処罰なのです。この意味で、「もしも、ヨーロッパ内外のユダヤ国際金融資本が、民族を今一度戦争に引き込むことに成功するとすれば」、災難が彼らに降りかかるという、しばしば引用されるヒトラーの警告に関心を向けなくてはなりません。ヒトラーと彼の同志が、両大戦の咎でユダヤ人を非難していたことは、彼らの発言の多くから見て取ることができます。もう一度、1941年10月25日のヒトラーの発言を読んでください。この中で、ヒトラーは、戦争の犠牲者を出している咎でユダヤ人を非難し、そのすぐあとで、「彼らを湿地帯に追い払う」という処罰について触れています。この湿地帯とは、同じ頃にドイツ軍兵士もその深みにはまっていたベラルーシの湿地帯のことに違いありません。

 ドイツ人たちに反ユダヤ的措置の採用を理解させたのは、そして、ヒムラーの演説を聞いている人々に、ユダヤ人に対する厳しい措置が必要であることを理解させたのは、まさにこれらの死体、すなわち戦争の犠牲者なのです。だからこそ、ヒムラーとその演説に耳を傾けた人々は、この当時、このような仮借のない姿勢を採用したのです。

 

L:しかし、最後のところで、ヒムラーは、自分にはユダヤ人を殺す道徳的権利があると実際に発言していますね。

R:そのようにいっていますが、もっとも過激な民族社会主義者でさえも、ユダヤ人はドイツ国民全体に対するジェノサイドを計画しているとは主張していませんでしたので、その発言にはほとんど意味はありません。民族社会主義的イデオロギーや宣伝が語っていたのは、ドイツ国民を従属・奴隷化しようとしているユダヤ・ボリシェヴィズムとユダヤ金融資本のことです。ですから、この文脈の中で考えますと、ここでの「殺害」は、ヒムラーには、ユダヤ人を従属・奴隷化する権利があるという意味であり、また、これこそが、この当時、実際に起こっていたことです。ヒムラーは、「われわれにはこの民族を殺す道徳的権利があった」と過去形で述べていますので、この一文を文字通りに解釈することは間違いだということになります。なぜならば、ホロコースト正史によると、ユダヤ人の殺戮は1943年10月の時点では過去の出来事ではなかったはずですから。当時、ヨーロッパにはまだ数百万のユダヤ人がいました。ハンガリー系ユダヤ人の移送はまだ行なわれていませんでしたし、ポーランドでは、ウッチの大ゲットーからまだ誰も移送されていませんでした。フランスでは、ユダヤ人の4分の3が終戦までフランスに残っていましたし、フランスの市民権を持つユダヤ人の90%は移送からはずされていました。

 

L:ヒムラーの演説は録音されなかったのですか?

R:レコード盤に録音された演説の一部がニュルンベルク裁判に提出されました。

 

L:ということは、ヒムラー演説は録音されていたのですね。

R:レコード盤への録音には背景上の問題点、技術的な問題点があります。まず、ヒムラーが、指導者向けの軍事情勢についての演説のような機密事項の録音を許可していたということが考えにくいからです。技術的な難点もあります。ニュルンベルクに証拠として提出された録音は、いわゆる「シェラック・ディスク」によるものでした。「録音針」によってディスクに記録するのです。これは、20世紀初頭の原始的な録音技術でした。したがって、音質も悪いのです。

 

L:音声分析には十分な音質ではありませんか?

R:そうでしょうか。いずれにしても、このような分析が行なわれたかどうか知りません。

 

L:音を真似した可能性もあるということですか?

R:その可能性がまったくないわけではありません。事実、ドイツの家電会社AEGは1939/40年に、テープ録音技術装置の大量生産に成功していますし、この技術はドイツでは燎原の炎のように広がっていきました。

 ですから、1940/41年以降、ドイツの指導者の演説はテープ録音によって行なわれるはずです。しかし、ヒムラーの演説のようなものを記録したこの種のテープは一つも発見されていません。

 

L:連合国はこの当時ドイツの録音技術を知らなかったので、このような録音技術をあつかえなかったのですね。

R:そのとおりです。だから、連合国は、自分たちの知らないテープ録音技術を使いながら、テープから音声記録を作り出さなくてはならなかったことになります。

 

L:ニュルンベルク裁判のときに、ヒムラー演説を記録したとされるシェラック・ディスクの素性を調査しなかったのですか?

R:検事側は、このディスクをドイツのファイルから発見したと主張しています。すなわち、テープを利用した連合国ではなく、ドイツ側がこのディスクを作成したというのです。しかし、ドイツ側が演説をテープ録音していたとすれば、そこからシェラック・ディスクは作らないでしょう。ですから、このディスクの素性は胡散臭いのです。その他多くの疑わしい文書資料と同様に、この証拠の断片は、その素性が調査されないまま、証拠として確定されているのです。ですから、この録音の素性と信憑性を調査しなくてはならないのです。しかし、このヒムラーの演説がこれまで主張されてきたものと同じであると仮定しても、マットーニョが的確に指摘しているように、1942年11月23日のバッド・トルツでの彼の発言のようなほかの演説や文書資料すべての文脈の中でその意味合いを考察しなくてはならないのです[22]

 

「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題は完全に変化した。総統はかつて国会演説の中で、もしユダヤ民族が、例えばアーリア民族を絶滅させるために、世界戦争の引き金を引くようなことがあれば、絶滅されるのはアーリア民族ではなくユダヤ民族であろうと述べた。ユダヤ人はドイツの外に再定住され、この東部地区で暮らしており、道路建設や鉄道建設に従事している。これは、首尾一貫したプロセスであり、冷酷さ無しに遂行されている。

 

 ですから、第三帝国の指導者の演説や日記は、その全体の文脈の中でだけ正確に解釈できるのです。さらに、民族社会主義の政治的指導者の発言がこれらの指導者の意図を表現していたとしても、そのことは、かならずしも実際に何が起こったのかについての正確な情報を提供しているわけでもありません。

 

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[1] Quoted from the publication of the Rudolf Hess Association, “Dokumentation no. 9: Rede von Herrn Reichsminister Hess am 14. Mai 1935 in der Deutsch-Schwedischen Gesellschaft in Stockholm,” Postfach 11 22, D-82141 Planegg.

[2] Cf. W. Treue, Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte, 3 (1955), pp. 184f.

[3] Bundesarchiv, NS 11/28, pp. 30-46; cf. H. von Kotze, H. Krausnick (ed.), Es spricht der Fuhrer, Gutersloh 1966, p. 281; VfZ 1958, p. 188; for a contrary opinion on National Socialist usage of words, cf. M. Shermer, “Proving the Holocaust,” Skeptic, 2(4) (1994), pp. 44-51; cf. Shermer, Why People Believe Weird Things, Freeman & Co., New York 1997, pp. 211-241.

[4] See also, Joseph Billig’s remarks in La solution finale de la question juive, Beate Klarsfeld, Paris 1977, p. 51.

[5] Y. Bauer, op. cit. (note 434), p. 273, note 10.

[6] H. Picker, op. cit. (note 435), p. 435; this example, as well as examples 2 and 3, were pointed out for the first time by D. Irving in, “On Contemporary History and Historiography,” JHR 5(2-4) (1984), p. 277.

[7] Max Domarus, Hitler Reden und Proklamationen 1932-1945, Lowit, Wiesbaden 1973, vol. II, p. 1058.

[8] Y. Bauer, op. cit. (note 434), p. 57.

[9] Max Domarus, op. cit. (note 853), p. 1663.

[10] Ibid., pp. 1828f., 1844, 1920, 1937, 1992.

[11] W. Jochmann (ed.), Adolf Hitler. Monologe im Fuhrerhauptquartier 1941-1944. Die Aufzeichnungen Heinrich Heims, Knaus, Hamburg 1980, p. 106.

[12] Ralf Georg Reuth (ed.), Joseph GoebbelsTagebucher, 2nd ed., vol. 4, Piper, Munich 1991, p. 1776.

[13] Roger Manvell, Heinrich Fraenkel, Goebbels. Eine Biographie, Kiepenheuer & Witsch, Koln-Berlin, 1960, p. 256.

[14] Cf. C. Mattogno, op. cit. (note 605).

[15] Jozef Kermisz, Dokumenty i materia􀃡y do dziejow okupacij niemieckiej w Polsce, vol. II, “Akcje” I “Wysiedlenia,” Warsaw-Lodz-Krakau 1946, p. 11.

[16] Ibid., p. 15.

[17] Ibid., p. 46.

[18] E. Nolte, Streitpunkte, op. cit. (note 263), p. 296.

[19] Cf. in this regard, and in more detail, C. Mattogno, op. cit. (note 605); cf. also Germar Rudolf, “Some Comments about the NS-Language with Regards to Jews,” TR 3, in preparation.

[20] PS-1919, IMT, vol. 29, pp. 110-173, here pp. 145f. A short audio extract from the speech may be heard on line at www.vho.org/VffG/1997/4/Himmler041043_2.wav.

[21] 党綱領第4条“Staatsburger kann nur sein, wer Volksgenosse ist. Volksgenosse kann nur sein, wer deutschen Blutes ist, ohne Rucksichtsnahme auf Konfession. Kein Jude kann daher Volksgenosse sein.” –「民族同胞たるものにかぎり、国家公民たることができる。信仰の如何を問わず、ドイツ人の血統を持つものにかぎり、民族同胞たることができる。したがって、ユダヤ人は民族同胞たることをえない。」

[22] Bradley F. Smith, Agnes F. Peterson (ed.), Heinrich Himmler. Geheimreden 1933 bis 1945 und andere Ansprachen, Propylaen, Frankfurt 1974, p. 200.