3.11 同性愛者とジプシー

L(聴衆):ナチスは同性愛者とジプシーも絶滅しようとしたという説はどうですか?

R(ルドルフ):これらのグループのメンバーが強制収容所に送られたのは、そのようなグループに属していたためではなく、特定の条件を満たしていたためでした。この当時の世界の各国では、同性愛者として公然と生活するのは犯罪とみなされていました。戦後になっても、1960年代末と70年代初頭の世界的な人権運動が始まって、法律制度に影響をおよぼすまでは、そのようにみなされていました。同性愛者が収容所に送られたのは、当時の法律を犯していたからで、刑期を終えたのちにも、更正不能とみなされることが多かったのです。

 

L:彼らが絶滅の対象であったということを否定していらっしゃるのですね?

R:否定するという単語を使ってしまえば、何か、私が常識となっている知識までもすべて否定しているかのような印象を作り出してしまいます。「議論する」「反論する」という単語を使う方が適切かと思います。

 

L:わかりました。あなたは同性愛者が殺されたという説に反論していらっしゃるのですね?

R:はい。エスタブリッシュメントの高名な研究者でさえも反論しているからにすぎません。同性愛者の組織的絶滅に関する話は、本当ではありません[1]。ジプシーが第三帝国で絶滅されたという話が本当ではないことと同様です。

 

L:ドイツ連邦政府は、500000人のジプシーが殺されたと公式に声明していますが[2]、ルドルフさんとは正反対ですね。

R:ドイツ政府とは正反対の見解を抱くことは、不躾なことなのでしょうか。ドイツの良き伝統にしたがって、ドイツ政府が私たちに語っていることすべてを福音書の真理として無批判的に受け入れなくてはならないのでしょうか?ドイツ政府はジプシーの全面的絶滅についての自分の声明を支持していないというのが事実です。立証されていることは、開戦前のヨーロッパでは、約100万のジプシーが、ドイツ占領下の地域で生活していたことです。世界でもっとも影響力のあるジプシー団体国際ジプシー連合のデータにもとづいて、『ニューヨーク・タイムズ』は1992年9月27日、1990年代初頭には、同じ地域に1000万以上のジプシーが生活していると述べています[3]。だとすると、ジプシーは絶滅されたのでしょうか?ごく少ない生存者のあいだから、40年間で1000万以上の人々を生み出すことができるでしょうか?ドイツの左翼急進派の新聞『フランクフルター・ルンドシャウ』から引用しておきます[4]

 

「文書資料を広く調査することを通じてのみ、殺されたジプシーの数が、公式の数字よりもはるかに低いこと、すなわち、500000ではなく50000名であることを発見することができた(Michael Zimmermann, Essen/Jena)。」

 

 さらに、私ならば、「殺された」、「50000名」のあとにも疑問符をつけるでしょう[5]。彼らは、他の囚人と同じく、戦争末期の収容所の破局的な状況のために、死んでいったのです。その多くは、とくに戦争の最終段階で、収容所の中で死にました。彼らはドイツの政策の結果でいったというのは正確ではありません。収容所の状況を左右したのはもっと大きな力でしたから。

 

L:ルドルフさんは、ナチの強制収容所をサマー・キャンプのようなものとして描きたがっているような疑問を感じるのですが。

R:そうした印象は、ラッシニエの著作を思い起こせば消え去るでしょう。しかし、ダッハウの囚人による二つの日記を比べることをおすすめします。一人の囚人は戦争中そこに収容されていました[6]。もう一人の囚人は、戦後にアメリカ占領軍によってそこに収容されました[7]この二つを比較すると、戦時中のドイツの収容所での境遇のほうが、戦後の合衆国占領軍の収容所での境遇よりも良かったことがわかります。このことは、ダッハウ収容所を視察して1938年8月に報告書を書いた赤十字国際委員会代表G. Favreによっても確認できます。彼は、労働・保健衛生・栄養の面で、この収容所の環境は容認できる水準にあると述べています[8]

 しかし、この件を一般化することはできません。例えば、アウシュヴィッツに早期に移送され、収容所に登録された人々のかなりの数が死んでいますが――最初の3ヶ月で、登録された囚人の半分以上が死んでいます――、このことは、1942年と1943年の大半を通じて、アウシュヴィッツは、他のヨーロッパ諸国とはまったく異なった意味合いで、すなわち、犯罪的な無慈悲さと怠慢によって、人々が殺されていった収容所であったことを証明しています。人を殺すのに殺人ガス室は必要ありません。同じことがマイダネクについても言えます。グラーフとマットーニョはこう述べています[9]

 

「マイダネク強制収容所は苦難の場所であった。ここに収容された人々は、破局的な衛生状態、疫病、まったく不十分な食糧配給、過度の重労働、虐待のもとで苦しんでいた。40000名以上のマイダネクの囚人が、おもに疫病、衰弱、栄養失調によって死んでいった。数は不明であるが、処刑された人々もいた。

 戦争や抑圧の犠牲者すべてがわれわれの敬意に値するのと同じように、どのような民族であろうと、マイダネクの本当の犠牲者はわれわれの敬意に値する。

 しかし、政治的・宣伝目的の理由で犠牲者の数を水増ししたり、死因について根拠のない憶測を述べたりすることは、死者のためにはならないであろう。」

 

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[1] Cf. dazu Jack Wickoff, “Der Mythos von der Vernichtung Homosexueller im Dritten Reich,” VffG 2(2) (1998), pp. 135-139.

[2] ドイツ連邦大統領ローマン・ヘルツォーク博士は1997年3月16日、ハイデルベルクのドイツ・ジプシー文書資料・文化センターの開所式での演説の中で、「500000名までの殺人の犠牲者、そのうち20000以上がドイツ・ジプシーですが、これは恥知らずな規模の野蛮さです」と述べている。Presse- und Informationsamt der Bundesregierung, March 19, 1997, no. 234, p. 259.

[3] Cf. on this in more detail Otward Muller, “Sinti and Roma – Yarns, Legends, and Facts,” TR 2(3) (2004), pp. 254-259.

[4] “Die Forschung fangt erst an,” Frankfurter Rundschau, Feb. 13, 1997, p. 7; cf. Michael Zimmermann, Verfolgt, vertrieben, vernichtet. Die nationalsozialistische Vernichtungspolitik gegen Sinti und Roma, Klartext-Verl., Essen 1989.

[5] See in this context also Carlo Mattogno’s article on the fate of the gypsies deported to Auschwitz, “The ‘Gassing’ of Gypsies in Auschwitz on August 2, 1944,” TR 1(3) (2003), pp. 330-332.

[6] Arthur Haulot, “Lagertagebuch. Januar 1943 – Juni 1945,” Dachauer Hefte, 1(1) (1985), pp. 129-203.

[7] Gert Naumann, Besiegt und “befreit.” Ein Tagebuch hinter Stacheldraht in Deutschland 1945-1947, Druffel, Leoni 1984, pp. 139-199, 239-281.

[8] Jean-Claude Favez, Das IKRK und das Rote Kreuz. War der Holocaust aufzuhalten?, Verlag Neue Zurcher Zeitung, Zurich 1989, p. 538ff.

[9] J. Graf, C. Mattogno, op. cit. (note 523), p. 247.