3.10 バビー・ヤールと特別行動部隊による殺戮

R(ルドルフ):バビー・ヤールについてご存知の方、いらっしゃいますか?右側のご婦人、この単語をどのように理解していますか?

 

L(聴衆):1991年末、これについてのテレビ放送を見ました。ドイツ国会前議長Rita Susmuth博士が、第二次世界大戦中にドイツ人によって殺されたユダヤ人を記憶するための記念碑を除幕しました。何名が殺されたのか、覚えていません。

R:バビー・ヤールでの虐殺50周年を記念する1991年11月のことでした。ドイツ軍が1941年9月にキエフを占領したのち、特別行動部隊と呼ばれる集団が、すべてのユダヤ人を集めて、キエフ郊外で殺したというのです。しかし、この事件に関するさまざまな報告書が一致しているのはこの点だけです。この事件についての最初の批判的研究は、死者の数が3000名から300000名にまでばらついていることを指摘しています[1]。ホロコースト正史によると、キエフのユダヤ人はバビー・ヤール(老婆の渓谷)の端に追い立てられて、そこで射殺され、投げ込まれたことになっています。

 

22:バビー・ヤールの犠牲者数

 

 また、殺戮が行なわれた場所については、墓地の中、墓地の外、森の中、渓谷自体、煉瓦造りの広場、キエフの町中、ガス車、ドニエプル川といったような諸説があります。

 凶器についても、機関銃、サブマシンガン、自動小銃、ライフルの銃床、棍棒、岩、タンク、地雷、手榴弾、ガス車、銃剣とナイフといったような諸説、殺害方法についても、溺死、注射、電気ショックという諸説があります[2]

 

L:まったく、トレブリンカよりも混乱状態ですね。

R:しかし、類似点はこれだけに限りません。この殺戮行為が終わったあと、渓谷は爆破され、そのために、死体は瓦礫の下に埋もれてしまったというのです。1943年秋、前線がふたたびキエフに接近してきたとき、ドイツ人はウクライナ人に命じて、瓦礫の下からすべての死体を掘り起こさせ、薪の山の上で、数日間で、まったくあとかたもなく焼却させた、そのために、この恐ろしい犯罪の証拠は今でもまったく残っていないというのです。

 

L:トレブリンカやベウゼッツなど、ドイツ人がまったく証拠を残さずに、殺人行為を行なったとされる場所とまったく同じなのですね。

R:そのとおりです。焼却にまつわる兵站学的・技術的諸問題はまったく同じです。しかし、私がここで関心があるのはこのことではなく、1939年から1944年にかけてドイツ軍偵察機が撮影したキエフ周辺の航空写真の分析なのです。戦後、アメリカ合衆国がこの写真を集めて、国立文書館に保管しました。カナダ人の航空写真分析家ジョン・ボールは、1939年5月17日に撮影された写真、1943年9月26日に撮影された写真、1944年6月18日に撮影された写真の三枚を分析しています[3]。これらの写真は二つの理由から興味深いものです。第一に、解像度が高くて良質のために、潅木、木々、車など小さな物体も識別できます。第二に、最初の写真が撮影されたのは、バビー・ヤールの殺戮が行なわれる以前の時期です。最後の写真が撮影されたのは、赤軍がこの地域を再占領した9ヵ月後のことです。しかし、もっとも興味深い写真は、1943年9月26日に撮影された写真です。この時期は、巨大な薪の山がバビー・ヤールで燃え盛っていたということになっている時期だからです(図122)。しかし、これらすべての写真の唯一の相違点は、予想されるように植生が成長していることです。人間の手が加えられてことを示す痕跡はまったくありません。まったくです。

 

122:バビー・ヤール、1943年9月、人間の活動がまったく見られないのどかな渓谷

 

ドイツのメインストリームの歴史家ヨアヒム・ホフマン博士はこう記しています[4]

 

内務人民委員部は、カチン事件を必死に隠そうとして、それまで知られていなかった老婆の谷を、1943年11月にはじめてソ連の戦争宣伝の中に入れた。ウクライナの首都が奪回された直後、西側のメディア関係者グループが、大量殺戮現場とされたバビー・ヤールを刺殺するようにソ連から招待された。しかし、物的証拠はほとんど存在していないようである。最近、多数の航空写真が分析されているが、それによると、内務人民委員部がブコヴィナ、ダルニツァ、ビエルホロトカで掘った大規模な大量埋葬地、価値の大量埋葬地とは逆に、バビー・ヤール渓谷の土地には、ドイツ軍占領時代も含む1939−1944年のあいだにまったく人の手が入っていない。内務人民委員部は、ドイツがバビー・ヤール渓谷で「50000−80000名のユダヤ人男女と子供を機関銃で」射殺したという告発を補強しようとして、1943年に3名の『目撃証人』に証言させたが、その証言は新聞記者たちの懐疑心をかきたてただけであった。とくに、『ニューヨーク・タイムズ』の経験ある代表ローレンスは、1943年11月29日号に「50000名のユダヤ人が殺されたという」記事を公表しているが、その副題は「残っている証拠は非常に乏しい」というものであり、『ソ連のパルチザン』、「ガス車」についてのソ連側の虚偽とは無縁なかたちで、この事件を紹介し、世界を納得させようとした内務人民委員部の努力は失敗に等しかったと述べている。」

 

L:ソ連崩壊後に痕跡を調査した人はいますか?

R:いいえ、誰もいません。

 

L:でも、30000名以上のユダヤ人がキエフで殺害されたとは、文書資料的に具体的に確定されているのですね。バビー・ヤールとは明言していませんが、この数字に触れたドイツ側の資料がいくつかあるのですから。殺戮がほかの場所で行なわれたのかもしれませんが。

R:そうかもしれませんが、その場合には、この虐殺現場に関するすべての証言を、この点に関しては、しりぞけなくてはなりません。しかし、目撃証言にあるような規模の大量埋葬地が写っている航空写真など一つもないのです。

 

L:ドイツ側文書資料の信憑性を疑う根拠は何ですか?例えば、ソ連邦状況報告では、すべてがレターヘッドのある書類の中に記録されており、一部にはゲシュタポ長官へルマン・ミューラーの署名までもが付いているのですが。2900頁以上のタイプで書かれた書類があり、それぞれに30部のコピーが作られ、第三帝国の各部局に送られたはずです[5]。ここにはこの虐殺行為だけではなく、合計すると数十万となる犠牲者数の詳細を記した数百の虐殺行為が書き留められています。

R:ですから、特別行動部隊全体の問題を検証しなくてはなりません[6]。複雑なテーマですので、まず背景を説明させてください。

 ドイツの保安警察・国家保安本部特別行動部隊が正式に設立されたのは、東部戦線の後方占領地帯でパルチザンと戦う治安活動に従事するためでした。よく知られているように、東部戦線でドイツ軍が敗北したのは、ソ連が組織的にゲリラ戦争を遂行したためでした[7]。ドイツ軍の後方で活動するパルチザンの数は、1942年初頭には80000−90000名に達し、その後その数は増えていって、1944年初頭には50万名ほどとなりました[8]

 パルチザンが殺害したドイツ軍兵士および民間人の数はソ連側宣伝資料では150万人、ドイツ側資料では35000−45000人というようにばらつきがあります。しかし、1944年夏にドイツ中央軍集団が崩壊して、1944年からの数字が不完全なために、ドイツ側の数字は低すぎます[9]

 予想されるゲリラ戦争に対するドイツ側の対応は、最初からきわめて厳しいものでした。赤軍の政治人民委員は国際法に違反するソ連の残酷な戦争行為[10]に責任をおっていましたが、ドイツ側は彼らを非戦闘員と宣言し、最初からすぐに処刑しました。さらに、パルチザン活動が行なわれている地域では民間人に対する報復銃殺が実施されました。これは、当時の国際法では合法的でした。

 

23:特別行動部隊による犠牲者数

3000000

Solomon M. Schwarz[11]

2200000

H. Krausnick, H.H. Wilhelm[12]

1300000

Raul Hilberg[13]

 

L:パルチザン活動に対する報復行為として罪もない民間人を殺害するのは合法的であったとおっしゃるのですか?

R:この当時では合法的でした[14]。法的な判断基準は変化していきますが、この当時、パルチザンに対する峻厳な戦いは合法的でしたし、非戦闘員が戦闘に従事した場合の峻厳な措置も合法的でした。戦争とは残酷なものであり、戦争法規は乱用されました。戦争自体が法律を最終的に破ることだからです。戦争では、民事および刑事事件的側面から眺めれば、数多くの残酷な行為が行なわれているのです。

 ドイツはロシアのパルチザン運動を力で鎮圧しようとしましたが、それはドイツ人にもはねかえってきました。ソ連の政治人民委員を法的な確認無しに処刑せよという命令も、ソ連側の士気を高めただけに終わってしまいました。このために、ドイツ軍はこの人民委員命令を無視していましたが、この命令は1942年5月に正式に取り消されました[15]。そして、ドイツ軍は独自のヒューマニスティックな行為として、正規のパルチザングループを通常の戦闘員として認めてさえいたのです[16]

 当初、特別行動部隊の兵員は4000名にすぎませんでしたが、1942年夏までに、約15000名のドイツ人と240000名の補助要員で構成されるようになりました。後者は、ドイツ軍の侵攻をスターリン抑圧体制からの解放として歓迎した他の諸民族(ウクライナ人、エストニア人、ラトビア人、リトアニア人、そしてロシア人)からの義勇兵からなっていました[17]

 パルチザン活動も活発になっていたので、この増強は驚くべきことではありません。パルチザンに対する戦いは成功したとは言い難いものでした。特別行動部隊にとって、この巨大な地域をコントロールすることはまったく重荷であったに違いありません。120万平方キロメートル(約50万平方マイル)以上の広大な地域であり、そこをドイツ軍の補給線が走り、パルチザンはそれを効率的に寸断するようになりました。

 この同じ特別行動部隊が、大量のユダヤ人を殺し、大量埋葬地に埋めたというのです。しかし、ここでも、犠牲者の数はひどくばらついているのです(表23)。

 そして、この同じ特別行動部隊が、東部戦線の後退する前の1943年に作られた大量埋葬地を掘り起こして、巨大な薪の山の上で半ば腐敗した死体を跡形もなく焼却したというのです。バビー・ヤールはそのような作業の典型とされています。

 この大規模な証拠隠滅作業は、1943年夏に、コードネーム「作戦1005」という名で進められたという話です[18]

 

L:これらの犯罪の痕跡は残っていないのですか?

R:ホロコースト正史はそそくさとこうコメントしています[19]

 

大量埋葬地の死体の焼却はナチの犯罪を消し去るものではなかったけれども、犯罪の事実と犠牲者の数を確定することを困難とした。多くの場合、ソ連とポーランドでのナチス犯罪調査委員会は大量埋葬地の痕跡をまったく発見できず、見積もりを算出することもなかなかできなかった。」

 

L:言い換えれば、まったく証拠はないというのですね。

R:この大きさの規模の大量埋葬地やその痕跡の発見された場所が公に明示された事例は、今日まで、一つもないと思います。

 

L:私がスターリンの立場にいたとすれば、やはり、ドイツの大量埋葬地を探さなかったでしょう。たとえ、ドイツ人がこれらの恐ろしい行為を行なったとしても、殺された200万のユダヤ人は数千万の共産主義の犠牲者に比べるとわずかですし、この共産主義の犠牲者は焼却されて、その痕跡が残っており、一マイルごとのロシアの大地を肥沃にしているのですから。

L:これに加えて、どこかで戦死した数千万のドイツ軍兵士、ソ連軍兵士の大量埋葬地が数多く存在することでしょう。ユダヤ人と非ユダヤ人の死体の山、特別行動部隊の犠牲者と共産主義・戦争の犠牲者をどのように区別するのでしょうか?

R:時がたてばたつほど、難しくなりますが、やる気があれば道も開かれるものです。一例をあげると、リトアニアのマリヤムポル市当局は、1996年に、数十万のユダヤ人が殺された場所に記念碑を建てようとしました。正確な場所に記念碑を建てるために、目撃証言によると大量埋葬地があったとされる場所が発掘されました。広い地域が掘り起こされましたが、不運なことに、何も発見できませんでした[20]

 

L:死体が跡形もなく焼却されたとすれば、一体どのような事態が生じていたのでしょうか?

R:1年で、「作戦1005」のメンバーは、資料によってばらつきがありますが、150万から300万以上の死体を掘り起こして焼却したということになります[21]。120万平方キロメートルの地域に分散する無数の埋葬地を掘り起こして、しかも、物的痕跡も文書資料的痕跡も残さずに、作業をすすめたことになります。

 

L:ということは、特別行動部隊は当初から、大量埋葬地の正確な所在を知っており、地図に書きとめていたので、あとになっても発見できたことになりますね。

R:特別行動部隊だけではありません、軍、地区警察などこれらの殺戮に関与したすべての機関がそのように行動したことになります。大量埋葬地はすべて掘り返されて、その犯罪行為は「跡形もなく」消し去られたことになっていますから。

 しかし、そのような地図は発見されていません。埋葬地や巨大な薪の山を移した航空写真もまったくありません。ドイツのメインストリームの歴史家Thomas Sandkuhlerの次のような発言は、まったく正しいのです[22]

 

『作戦1005』の厳格な隠匿性のために、文書資料はほとんどない。

 

 マットーニョが明らかにしたように、この「作戦1005」には文書資料が事実上存在していないのです[23]

 

L:そして、この大規模な活動は、数千のドイツ人と自発的協力外国人補助部隊によって実行され、彼らは同時に数十万のパルチザンとも戦わなくてはならなかったのですね?

R:定説ではそうなっています。ドイツのメインストリームの歴史家Heinz Hohneは次のように述べていますが[24]、それは皮肉にしか聞こえません。

 

ハイドリヒの死の部隊は、その残酷な冒険を始めた。3000名がロシアの500万人のユダヤ人を追い求めていた。」

 

 同じように、イスラエルのナチ・ハンターであるEfraim Zuroffも次のように記していますが、ご本人にとっては不本意でありましょうが、コミカルな内容となっています[25]

 

特別行動部隊の…総勢は3000名ほどであった。…これらの部隊が、北はレニングラート郊外から、南はアゾフ海まで広がる地域、数百マイルの長さの前線をカバーしなくてはならなかった。…[すべてのユダヤ人の殺戮]という目標を達成する手段として所持していたのは、多くの場合伝統的な銃器、すなわち、機関銃、ライフル、拳銃であった。…こうした限界にもかかわらず、そして、比較的少数で広大な地域をカバーしなくてはならないという事実にもかかわらず、特別行動部隊は、15ヶ月間で90000名ほどのユダヤ人を殺戮することに成功した。」

 

 まるで特別行動部隊は、一日の仕事の後の余暇のように数十万のパルチザンと戦ったかのようです。他ならぬホロコースト史家のライトリンガーでさえも、このようなことはまったく信用できないと述べています[26]

すでに1988年、特別行動部隊に関するもっとも高名な専門家でドイツのメインストリームの歴史家Hans Heinrich Wilhelmは、ベルリンに送られていた特別行動部隊報告の中にある数字が正確かどうか確信がもてないと述べています。ヴィルヘルムは、これらの報告は唯一残っている証拠であるがゆえに、殺されたユダヤ人の数を算出するのに利用されているが、「[ これらの報告の] 信憑性が欠けており、この地域についての別の資料と比較することによってのみ、信憑性を検証することができる。だから、SSの資料を利用するにあたっては、その信憑性に疑問を抱きながら、歴史研究を進めることが重要であろうと同僚に警告しています[27]

 

L:ということは、これらの文書資料の専門家であるヴィルヘルムが、そこに含まれている情報は信憑性に欠けているとみなしているわけですね。ヴィルヘルムはドイツ刑法からの脅迫を受けることになるのではないでしょうか。

R:ヴィルヘルムは、最初の著作の中ですでに、「ここでは、少なくとも数万の殺されたユダヤ人の数が、事件報告を『改善』するために、付け加えられた。そうとでもしなければ、殺されたパルチザンの数ははるかに少ないから、この数字を正しいものとみなすことはできないであろう」とこれらの資料の信憑性に疑問を呈していますので[28]、彼の考え方は一貫しています。

 彼は別の箇所で、特別行動部隊事件報告の一つが、1134という数字に0を付け加えて合計11034という数字に改竄されたことを指摘しています[29]。ここで問題としている改竄者は、犠牲者の数をできるだけ多くすることに関心を抱いていたにちがいありません。特別行動部隊が改竄者であるとすると、彼らは、できるだけ多くのユダヤ人が殺されることを希望している人物がベルリンにいたと考えていたことになります。

 

L:結局、私たちが耳にしてきたことには、ほとんど蓋然性がないのですね。

R:誰かがこれらの数字を操作したにちがいありません。

 

L:人々を再教育するという名誉あるデマゴギー的動機から、反ファシスト的嘘つきが、このようなことをしたに違いないのかもしれませんね?

R:疑問は深まるばかりです。しかし、ドイツ軍が占領した旧ソ連領での人口統計によると、ここではドイツによる大量殺戮は起っていないことが明らかです。これを立証するために、もう一つの、そして最後の事例を紹介させてください。

マンシュタイン元帥は、第11軍司令官であり、黒海沿岸地方とクリミア半島で戦いました。1949年、彼は、特別行動部隊Dによる虐殺事件の共謀の咎で、ハンブルクで開かれたイギリス軍事法廷の前に立たされました。彼の弁護人はイギリス人レギナルド・パゲット(Reginald T. Paget)であり、彼は、回想録の中でこう書いています[30]

 

SDが述べている数字はありえないように思われる。8台の自動車を持つ約100名の部隊が、2、3日間で10000−12000名のユダヤ人を殺したというのである。ユダヤ人は再定住地に向かうと信じており、そのために所持品を携行していたので、SDが1台のトラックで輸送できるのはせいぜい20、30名のユダヤ人であろう。各車両にユダヤ人を乗せて、10km進み、そこで彼らを降ろして戻ってくるには2時間はかかったことであろう。ロシアの冬は日が短く、夜間の搬送はありえない。したがって、10000名のユダヤ人を殺すには、少なくとも3週間はかかったことであろう。

 あるケースでは、数の検証が可能である。シムフェローポリで、SDは11月に10000名のユダヤ人を殺し、12月には、市からユダヤ人を一掃したという。事件を検証してみると、次のことがわかる。シムフェローポリでのユダヤ人の射殺は、11月16日だけに起こった。シムフェローポリにいたSD部隊は1部隊だけであった。処刑地は市から15km離れたところであった。犠牲者の数はせいぜい300名であったにちがいない。この300名はユダヤ人だけではなく、抵抗運動に関与した嫌疑をかけられていたさまざまな集団であった。シムフェローポリ事件が世に知られるようになったのは裁判が行なわれていた時期のことであった。この事件のことを証言したのは、唯一の生存者、ガッファルという名のオーストリアの兵士だったからである。彼は、対ユダヤ人作戦のことを工兵隊の宴会で耳にした、シムフェローポリ近くの処刑地のそばを通ったことがあると述べた。この証言のあと、われわれは多くの手紙を受け取ったが、その中には、マンシュタインがクリミアから撤退するまで、ユダヤ人家族の近くで暮らしており、ユダヤ人たちはシナゴーグでの礼拝といった宗教儀式を行なっており、イコンや雑貨品を売買するユダヤ人マーケットも存在していたと報告している証言もあった。シムフェローポリのユダヤ人共同体が公に存続し続けていたことには疑いはない。われわれの敵対者のあいだには、シムフェローポリのユダヤ人に対するSDの暴力行為についての噂を耳にした人々が存在したけれども、ユダヤ人共同体はとくに危険を感じていなかったようである。」

 

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[1] M. Wolski, “Le massacre de Babi Yar,” Revue d’Histoire Revisionniste 6 (1992) pp. 47-58 (www.vho.org/F/j/RHR/6/Wolski47-58.html).

[2] Cf. for this Herbert Tiedemann, “Babi Yar: Critical Questions and Comments,” in G. Rudolf (ed.), op. cit. (note 44), pp. 501-528.

[3] J.C. Ball, op. cit. (note 457), p. 107, Ref. no. GX 3938 SG, exp. 104f.

[4] J. Hoffmann, op. cit. (note 24), pp. 215f.

[5] H. Krausnick, H.-H. Wilhelm, Die Truppe des Weltanschauungskrieges. Die Einsatzgruppen der icherheitspolizei und des SD 1938-1942, Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgart 1981, p. 333.

[6] 以下の記述は、Germar Rudolf and Sibylle Schroder, “Partisanenkrieg nd Repressaltotungen,” VffG, 3(2) (1999), pp. 145-153(試訳:パルチザン戦争と報復殺人(G. ルドルフ、S. シュレーダー), および “The Role of the Einsatzgruppen n the Occupied Eastern Territories,” von C. Mattogno, J. Graf, op. cit, (note 198), pp. 203-231にもとづいている。; for more details and further references see there

[7] Franz W. Seidler, Die Wehrmacht im Partisanenkrieg, Pour le Merite, Selent 1998, pp. 24-37.

[8] Bernd Bonwetsch, “Sowjetische Partisanen 1941-1944,” in: Gerhard Schulz (ed.), Partisanen und Volkskrieg, Vandenhoeck & Ruprecht, Gottingen 1985, pp. 99, 101.

[9] Ibid., pp. 111f.

[10] 赤軍の不法戦争行為についてはJ. Hoffmann, op. cit. (note 24); A.E. Epifanow, H. Mayer, Die Tragodie der deutschen Kriegsgefangenen in Stalingrad von 1942 bis 1956 nach russischen Archivunterlagen, Biblio, Osnabruck 1996; Franz W. Seidler, Verbrechen an der Wehrmacht, 2 vols., Pour le Merite, Selent 1998, 2000; A. de Zayas, Die Wehrmachtsuntersuchungsstelle, 4th ed., Ullstein, Berlin 1984.を参照。

[11] Solomon M. Schwarz, Jews in the Soviet Union, Syracuse Univ. Press., Syracuse 1951, p. 220.

[12] H. Krausnick, H.H. Wilhelm, op. cit. (note 811), p. 621.

[13] Raul Hilberg, op. cit. (note 39), p. 1219; Hilberg considers only some 650,000 to 800,000

Soviet Jews to have fallen victim to “the Holocaust,” ibid., p. 1218.

[14] Karl Siegert, Repressalie, Requisition und hoherer Befehl, Gottingen 1953; Engl.:”Reprisals and Orders From Higher Up,” in: G. Rudolf (ed.), op. cit. (note 44), pp. 529-555.

[15] Franz W. Seidler, op. cit. (note 813), pp. 160-164.

[16] Ibid., p. 127

[17] Cf. H. Hohne, op. cit. (note 760), pp. 328, 339; H. Krausnick, H.-H. Wilhelm, op. cit. (note 811), p. 147, cf. p. 287; Richard Pemsel, Hitler  Revolutionar, Staatsmann, Verbrecher?, Grabert, Tubingen 1986, pp. 403-407

[18] Cf. I. Gutman (ed.), op. cit. (note 112), vol. 1, pp. 11-14.

[19] Ibid., p. 14.

[20] Lietuvos Rytas (Lithuania), Aug. 21, 1996, as well as personal communication by Dr. Mirsolaw Dragan.

[21] In addition to these mass graves, the victims of the German army and police were allegedly also“treated.”

[22] T. Sandkuhler, Endlosung in Galizien. Der Judenmord in Ostpolen und die Rettungsinitiativen von Berthold Beitz 1941-1944, Verlag H.J.V. Dietz Nachfolger, Bonn 1996, p. 278

[23] Cf. C. Mattogno, J. Graf, “Operation 1005,” op. cit. (note 198), pp. 217-229.(試訳:東部占領地区での特別行動部隊の役割(C. マットーニョ)

[24] H. Hohne, op. cit. (note 760), p. 330.

[25] Efraim Zuroff, Occupation Nazi-Hunter. The Continuing Search for the Perpetrators of the Holocaust, KTAV, Hoboken, NJ, 1994, p. 27; cf. I. Schirmer-Vowinckel, “Inverser Verfolgungswahn: Von Beruf Nazijager,” VffG 2(1) (1998), pp. 63-68.

[26] G. Reitlinger, Die SS  Tragodie einer deutschen Epoche, Desch, Munich 1957, p. 186; Engl.: The SS, Alibi of a Nation, 1922-1945, Heinemann, London 1956, p. 185.

[27] H.-H. Wilhelm, paper presented at an international historical conference at the University of Riga, Sept 20-22, 1988, p. 11. On the basis of this paper, Wilhelm compiled the article “Offene Fragen der Holocaust-Forschung” in U. Backes et al. (ed.), op. cit. (note 167), p. 403-425, which does not contain this passage, however. I owe this information to Dr. Costas Zaverdinos, who owns a copy of the paper presented by Wilhelm in Riga and who reported about it during his opening speech at a historical conference at the University of Natal, Pietermaritzburg, on April 24, 1995.

[28] H.-H. Wilhelm, in H. Krausnick, H.-H. Wilhelm, op. cit. (note 811), p. 515.

[29] Ibid., pp. 535

[30] Reginald T. Paget, Manstein. His Campaigns and his Trial, Collins, London 1951, p. 170f.