3.9 死体の山

L(聴衆):もし私の間違いでなければ、ルドルフさんは、強制収容所で死んだ人は少数であるとおっしゃっていますね? それでは、連合国が収容所を解放したとき、巨大な死体の山を発見し、多くの写真を撮影していることはどう説明されますか?

 

104:イギリス軍がベルゲン・ベルゼン収容所を占領したのちに撮影されたチフスの犠牲者の写真[1]

105:虚偽のキャプションをつけた図104、西ドイツの雑誌『クィック』、1979年

106:イギリス軍による解放直後のベルゼン収容所の入り口、「チフス」[2]

 

107:ダッハウの貨車の中の囚人の死体。囚人たちは移送中に死んだ。鉄道が空爆されたために、列車は食糧の配給も受けずに、数週間も、ドイツ各地をあてどもなくさまよった[3]

 

R(ルドルフ):私の話を誤解されているのでしょう。表40に、文書資料にもとづく犠牲者数を上げています。ほぼ40万人です。あなたが触れている写真はよく知られたものです。いくつかを掲載しておきましょう。図104−106は、ベルゲン・ベルゼン収容所でイギリス軍が撮影したものです。最初の写真はおそらくもっとも知られているものですが、同時に、不幸なことに、もっとも誤用されています。何回となく、マスメディアの中で大量殺戮の証拠写真として使われてきたからです。しかし、写っているのは、図106からも明らかなように、戦争末期にベルゲン・ベルゼンで蔓延したチフスの犠牲者なのです。

 

 

108:戦争の進行に伴う犠牲者数の劇的増加と戦争末期の爆発的増加

109:戦争末期の数ヶ月のベルゲン・ベルゼン収容所の公式死亡統計(収容所博物館の展示)。収容所は1945年4月15日に解放された。その後、13000名ほどが疫病の流行のために死んだ。

21:戦争末期の数ヶ月のベルゲン・ベルゼン収容所の囚人統計。収容所博物館の展示によると、囚人の数の増加の原因は、前線に近い収容所の疎開であった。

 

 戦争末期にドイツの収容所で何が起こったのかは死亡率統計からも明らかです。図108は、ダッハウ、マウトハウゼン、ブッヘンヴァルトでの年毎の犠牲者数と3つの収容所の合計の数です。これらの収容所が解放されたのは、1945年春であり、このために、ドイツがこれらの収容所をコントロールしていたのは数ヶ月のことであった点に留意しておかなくてはなりません。図109と表21は、戦争の最後の数ヶ月のときのベルゲン・ベルゼン収容所の数字です。もっと劇的なのはダッハウ収容所の統計です。ここでもベルゲン・ベルゼンのような破局が生じました。戦争の最後の月には死亡率が急激に上昇しています。

 その他の収容所でも、1944年末と1945年初頭には死者の数がうなぎのぼりに増えました。それは、一方ではドイツのインフラストラクチャーが崩壊してしまったため、他方では、囚人たちが前線近くの収容所から中央ドイツの収容所に疎開してきた結果、ドイツがコントロールしていた収容所が人口過密となったためです。連合国は囚人たちを前線近くの収容所からドイツ内部の収容所に疎開させることを要請していましたが、ヒムラーは、この疎開を命じることによって、連合国の要請にこたえたわけです[4]。ただし、彼は、この疎開が囚人にとって新たな破局となることまでは悟りえませんでした。

 1944年末までの連合国の絨毯爆撃によって、ドイツは完全に麻痺状態に陥ってしまいました。大都市の大半は爆撃され、重要交通路は寸断されました。連合国の指導者たちは、絨毯爆撃による全面的破壊だけでは満足しませんでした。有名なアメリカの戦闘機パイロットであるチャック・イーガーはこのように述べています[5]

 

「[1944年秋、私の戦闘機グループは]50マイル×50マイルの地域を割り当てられ、動くものは何であれ、機銃掃射するように命じられました。…無慈悲に人をやっつけることをどう感じるかなどとは尋ねられませんでした。…悲惨で穢れたミッションでしたが、時間通りに離陸して、やり遂げました。…私たちは、まったくのそして単純な虐殺行為を行なうように命じられましたが、この行為を承認したお偉方は、それが正当だと感じていたのでしょう。戦時中のドイツでは、『無垢の民間人』と軍人を区別することは簡単ではなかったからです。ジャガイモ畑を耕している農夫であっても、ドイツ軍に食料を提供していたことになるはずですから。」

 

 戦場の兵士たちも、町の住民も食料、衣服、医薬品といった必要最小限の必需品を手に入れることができませんでした。飲料水さえも不足していたのです。その上、1945年初頭には、数百万の東ドイツの住民が西側に逃亡し、主要交通路を麻痺させ、その他多くのドイツ人も、まったく破壊された都会を逃れようとしていました。この時期に、200万以上のドイツ人が、とくに東ドイツ(東プロイセン、西プロイセン、シュレジエン、東ポメラニア、東ブランデンブルク)で、赤軍の暴力行為によって死んでいます。

 このような状況の下では、さまざまな収容所や監獄の囚人たちはどのような状態になったと思いますか?他の住民たちよりも悪い状態にあったことは確かです。全面戦争という連合国の政策の効果は、戦争末期にベルゲン・ベルゼン収容所長であったヨーゼフ・クラマーの申し立てからも見てとることができます。彼は、イギリス軍の尋問を受けたときに、こう述べています[6]

 

「収容所は、あなた方[イギリス軍とアメリカ軍]がライン川を渡る前には、まだ機能していました。水や食糧も供給されていましたし、私は、収容所に提供された食料を受け取って、できる限りうまい方法でそれを配給しなくてはなりませんでした。しかし、突然、ドイツ各地から新しい囚人の列車の波が私のもとに送られ始めました。新しい囚人に対処することはできませんでした。もっとスタッフと食糧を送ってくれるように訴えました。しかし、それは不可能であるとの話でした。手持ちの手段で対処しなくてはなりませんでした。そのとき、水を供給しているくれた発電装置が連合国の空爆を受けたのです。連合国の戦闘機がいたるところを飛んでいましたので、食糧は収容所に届きませんでした。事態はどうしようもなくなっていました。最後の6週間は絶望的でした。死者を埋めるスタッフもおらず、まして、病人を隔離することなどできませんでした。囚人のために医薬品と食糧を手に入れようとしましたが、できませんでした。絶望しました。」

 

 この当時、ドイツ各地には死体の山があふれていました。人は数千単位で、毎日どこでも死んでいき、収容所の囚人たちは、とくに東部から西部に移送されてきた場合には、この人間の破局の時期に、悪いカードを引くことになってしまいました。数百万のドイツ人民間人と同様に、囚人たちも、前ドイツ連邦共和国大統領ヴァイツゼッカーの表現を借りれば、「強制された旅」を経験したのです。今日、これらの移送は死の行進と呼ばれていますが、当時、ドイツのすべての道路では死の行進が行なわれていたので、確かに、この移送は死の行進でした。

 1945年初頭、残った収容所は、食料、衣服、寝る場所といった基本的な必需品を囚人に提供できなくなりました。医薬品もなく、この混乱の中で、チフスや赤痢が蔓延し、数週間のうちに、多くの人々が死んでいきました。多くの死体を焼却する燃料もまったくありませんでした。

 

L:ナチスが燃料なしで死体を焼却する方法を発明していなかった証拠ですね。

R:そのとおりです。そして、連合国が収容所を解放したときに発見したのは、まさにこの事態であったのです。絨毯爆撃という彼らの政策の帰結だったのです

 

110ノルトハウゼン収容所の囚人の死体――アメリカ合衆国の空襲の犠牲者[7]。アメリカのメディアは、ナチスの絶滅政策の犠牲者と述べた[8]

 

L:ドイツの収容所での大量死の責任は連合国側にあるというのですか?

R:私がまず関心を抱いているのは、歴史的な分析を行うことで、道徳的非難ゲームに関与することではありません。正確に何が起こったのかを知るまでは、道徳的評価を慎みましょう。そうしないと、道徳的感情のために、批判的能力を曇らせてしまうという危険をおかすことになります。しかし、ここでは、この問題に少し触れておきます。必ずしも囚人全員というわけではありませんが、無実の人々が収容所に閉じ込められていたとすれば、閉じ込めた人に部分的な責任があるに違いありません。しかし、当然のことながら、絨毯爆撃によるドイツ人の大量死は、連合国の責任です。死は、収容所の中の囚人と収容所の外の自由な人々とを分け隔てません。

 ダッハウとベルゲン・ベルゼンでのいわゆる大量殺戮についての情報は世界中に広まりましたが、その大量死をもたらしたのは、この当時のドイツ各地に広まっていた地獄のような状況でした。このような情景を目撃した人々が、ドイツの収容所では絶滅政策が実行されていたとの印象を抱くのは理解できますが、ことの本質は違います[9]

 もっとも頑固なホロコースト信者でさえも、これが間違いであることを認めています。例えば、ノルバート・フライは、近代史についてのドイツ左翼誌Vierteljahrshefte

fur Zeitgeschichteの中で、西側連合国が収容所でこの状況に遭遇したときの反応についてこうコメントしています[10]

 

「この発見による衝撃は、間違った結論を導き出し、その一部は今日まで残っている。逆説的であるが、このような結論から、歴史的政治的に正しい洞察が登場した。」

 

L:「歴史的政治的に正しい洞察」とは何ですか?

R:憶測するしかありませんが、フライは、西部地区の収容所での大量殺戮説は歴史的に間違いであるが、東部地区の収容所では正しいと結論しているのでしょう。

 アウシュヴィッツとトレブリンカなどの収容所では、死体の山も発見されていませんし、したがって、それを撮影した写真もありませんでした。ですから、それにもとづいて虐殺宣伝を行うことはできませんでした。一方、ダッハウとベルゲン・ベルゼンには死体の山があり、それを撮影した写真がありました。フライは、こうした条件のもとでダッハウとベルゲン・ベルゼンについて虚偽の宣伝を広め、ホラー写真を利用することを正当化できるとみなしているのです。つまり、こうした状況の下で、戦勝国――今日でも依然として何名かの歴史家――は西部地区収容所の写真を天からの贈り物とみなしました。この写真を利用することで、民族社会主義=究極の悪魔説を立証し、連合国の戦争犯罪――絨毯爆撃、自動逮捕、見世物裁判、民族浄化、ドイツ軍捕虜と民間人移送者の奴隷労働、特許の泥棒、ドイツの非工業国化など――を正当化することができたのです。そして、忘れてはならないのは、その後に始められ、今日まで続いているドイツ人の再教育、すなわちドイツ民族の非民族化を正当化することができたのです。フライはこうしたことを歴史的政治的に正しかったとみなしているのです。

 

111a-d本当のホロコースト。犠牲者:空爆による600000人のドイツ人、実行犯:西側連合国。[11]

 

L:ここでも、反ファシスト的嘘が登場し、それは「逆説的」に、人々のためになったというのですね。

R:そのとおりです。いずれにしても、ドイツ人は、自国民が数百万も大量殺戮されたことを受け入れ、自国に対する処分を公平な処罰として受け入れることを余儀なくされたのです。

 

L:でも、アウシュヴィッツについても死体の山の写真はありますね?

R:正確には二つです。ビルケナウの戸外壕での死体焼却の証拠とみなされているものです。アウシュヴィッツ収容所のパルチザン員が犯罪を記録するために、撮影したということになっています。

 

L:アウシュヴィッツについての宣伝を広めたと主張している人々たちですね(ブルーノ・バウムと友人)?

 

113a-c:図112の拡大図

 

 

112:アウシュヴィッツのポーランド・レジスタンス・グループが撮影したとされる写真。焼却棟Xの北側で焼却されている死体といわれている。

114:アウシュヴィッツ・ビルケナウのオリジナルのフェンスポスト

 

R:そうでしょう。図112にはこの二つの写真のうち一つが掲載してあります。ドイツの修正主義的政治学者ヴァレンディは、すでに何年も前にこの写真を分析しています。その分析によると、明るい露出の中で、写真左側のまったく暗い人物は写真の中のそれ以外の人物とマッチしていません。図113aの拡大写真をご覧ください。さらに、左から二番目の人物の腕は非常に長く、二つの肘を持っています(図113b参照)。また、地上の死体のようなものは、非現実的で解剖学的には人間ではありえないような姿をしています。とくに、二つの肘をもつ人物の足元の死体がそうです。私はこれ以上のこの写真の詳細について関与したくありません。ホロコースト正史派の歴史家たちは、何回もコピーされてきたので写真の質が落ちてしまったと強調しているからです。

 

L:それはナンセンスです。写真は何回コピーされても、人間の解剖学的姿を変えるわけでもなく、光のあたる調子を変えるわけでもありません。

R:その分野の専門家なのですか?

 

L:はい、この分野を専門的にあつかっています。この写真には変なところがあるとすぐに気がつきました。露出が間違っても、一人の人物を暗くして、残りを明るくすることなどできません。

R:たとえ、この人物が影の中に入っていてもですか?

 

L:この人物の周囲も暗くなるはずですが、そうはなっていません。

R:わかりました。プレサックは、この写真の質が低いのはコンタクト・プリントであったためであると説明しています。

 

L:まったくナンセンスです。コンタクト・プリントがなぜ質の劣化をもたらしてしまうのでしょうか?質は劣化しません。少なくとも、普通の目では、気がつきません。これらの写真は複写にすぎないというのであれば、オリジナルを見たことのある人物がいるのでしょうか?

R:いいえ、いつもこの写真です。オリジナルは存在しないのでしょう。しかし、興味深いことに、この写真にはさまざまなバリエーションがあるのです。暗い背景が明るい背景となっているバリエーションもありますし、右側の人物の輪郭がペンで強調されているバリエーションもあります。

 

L:質の悪いコピーはそのように修正されるものです。

R:写真をもとにした絵であると考えてみてはいかがでしょうか。

 

L:それもナンセンスです。このような絵を写真としてだますことはできないでしょうから。

R:落ち着いてください。話を続けさせてください。背景にあるフェンスポストをご覧ください。それは曲がっていますね。このフェンスポスト(拡大図、図113c)を、ビルケナウの典型的なフェンスポスト(図114)と比べてみてください。ご覧のとおり、ビルケナウの本物のフェンスポストは緩やかに曲がっています。SSが収容所の生活を撮影した大量の写真が残っていますが、そこに登場するスフェンスポストは、緩やかに曲がったものです。

 言い換えれば、この絵の元になる写真があったとすると、それはビルケナウで撮影されたものではないか、改竄されたものです。ですから、少なくとも、この写真のキャプションは間違いです

 

L:まったくの捏造だと思います。

R:おそらくそうなのでしょう。しかし、この写真の元になったものが本物だとしても、焼却棟が完成していなかったので、チフスの犠牲者を薪の山の上で焼却する光景を写したものでしょう。もしくは、焼かれているのは死体ではなく、しらみのついた汚れた衣服にすぎなかったのかもしれません。

 

L:壕も薪の山も写っていませんが。

R:いずれにしても、この写真はアウシュヴィッツでの大量殺戮の証拠ではありません。この写真の元になっているのが本物であったとしても、せいぜい30名の死体を写しているだけです。目撃証人が主張しているように数千の死体ではありません

 

L:レジスタンス戦士たちが数千の犠牲者の死体の焼却を記録したかったとすれば、どうして異なったアングルからも撮影しなかったのでしょうか?二枚目の写真はもっと多くのことを写していますか?

R:いいえ。二枚目の写真も基本的に同じ光景を写しています[12]。付録の中に最大サイズで掲載しておきました。

 

L:これも、写真としてだますことはできないですね。これも絵です。

R:写真だと思いますが、本物の光景の写真ではなく、手をかなり加えた写真だと思います[13]。もちろん、一枚目の写真も手を加えられた写真もしくは絵です。ですから、あなたのご意見は結局のところ正しいのです。

 

L:ありがとうございます。

R:どういたしまして。このテーマを終えるにあたって、いくつかの事例を紹介して、写真証拠として提示されているものが必ずしも本物ではなく、批判的検証に耐えうるものでもないことを明らかにしておきます。

 

115:「難民を乗せた貨車1946年。ルール地方に向かう満員列車。背景には、リューベック行きの二階建て列車」というキャプションの付いたドイツ連邦鉄道ハンブルク駅のオリジナル写真。

116「ゲットーと絶滅収容所への移送」というキャプションの付いた修正写真[14]

 

 例えば、図115です。現在、ハンブルク中央駅に展示されています。1946年の光景を写したものです。必死に食料を求めて田舎に向かうドイツ人を詰め込んだ貨物列車が停車しています。終戦直後のドイツの貧困と飢えを立証している証拠です。

 図116は、1990年5月2日にドイツ公共テレビに放映された番組『死がドイツからの主人である』の第三部に登場した写真です。ルーマニア系ユダヤ人がアウシュヴィッツに移送されていく光景であるとの話でした。ドイツのホロコースト正史派の歴史家イェッケル教授がこの映画の歴史学的正確さに責任を負っていました。

 

L:同じ写真ではありませんか!

R:そのとおりです。でも、イェッケル教授博士の写真は、駅舎がカットされていますし、ホームの上の手荷物運び車が姿を消しています。さらに、二階建ての客車がルーマニアにはなく、ドイツにはあったので、背景にある客車の窓が修正されています。この写真は、これまで発見された中でもっとも粗雑な捏造写真の一つです。

 

117f:左側の写真には「SS国家では奴隷制度が完成された」とのキャプションが付けられている(『シュピーゲル』1966年/42)、右側の「バリエーション」写真には「SSのサディストが木に吊るすことを命令する」とのキャプションが付けられている。[15]

 

117fは、SS将校が囚人を拷問しているといわれている二つの写真です。ヘッセン州政府は、1996年に、共産主義的な東ドイツの1958年の虐殺写真から取り出したものであることを認めています[16]

 

L:しかし、そのことは、このような拷問が行われなかったことを証明しているわけではありませんね。

R:そのような告発が本物であるとみなすとすれば、まず、そのことが立証されなくてはなりません。立証責任は検事側にあるのです。しかし、私はSSが囚人たちを丁重に扱ったと主張しようとしているわけではありません。ここでお話しておきたいことは、歴史家たちやメディアが真実に関心を持っているのではなく、意図的に捏造を広めようとしていることです

 

119:大きい方=偽造写真、小さい方=1948年のオリジナル写真

 

 次の例は、オラニエンブルク通りにあるベルリンのシナゴーグについてです。図119は、1938年にいわゆる「水晶の夜」」に燃えさかるシナゴーグの写真として広く広まっている写真です。このポグロムの時期に、多くの放火事件があったことを誰も否定してはいません。しかし、このシナゴーグはこのポグロムのときには被害を受けませんでした。このシナゴーグが炎に包まれている写真がなかったので、細工がなされました。戦後(1948年)に当時のシナゴーグが撮影され、そこに炎と煙が付け加えられたのです。この捏造が見破られたのは1990年のことでした[17]。そして、1998年には犯人も見つかりました[18]

 ドイツ国防軍に対する展示会の写真には多くの捏造があることが暴露されましたが[19]、その後、この種の捏造は暴露され続けています。

 

120と121:左側=オリジナル写真、右側=サイモン・ヴィーゼンタールセンターの偽造写真:煙がフェンスポストから出ている。

 

この話を締めくくるにあたって、不誠実きわまりないアウシュヴィッツの嘘を紹介しておきます。図121は、1991年にサイモン・ヴィーゼンタールセンターが自分のサイトに次のようなキャプションを付けて掲載していた写真です。

 

「これらの主人たちは奴隷労働に向かっているが、その友人や家族の多くはガス処刑されて、焼却棟の炉で焼却された。その煙が背景に見える。」[20]

 

 1944年初に撮影されたオリジナルの写真には煙は写っていません(図120)[21]

 

L:煙突から煙が吐き出されていたという目撃証人の話を本当のことにしたい熱心なホロコースト信者がいるのでしょうね。

R:そのとおりなのですが、不運なことに、焼却棟の煙突の代わりにフェンスポストから煙が出てしまっているのです。ドイツに敵対的な捏造を行なう人々には、誰をも愚弄する自由があるようです。

 

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[1] Imperial War Museum, Horror 9 BU 3744.

[2] Ibid., Horror 8 BU 4092.

[3] U.S. Army Audio-Visual Agency, SC 206191.

[4] A. Ruckerl, NS-Prozesse, 2nd ed., C.F. Muller, Karlsruhe 1972, pp. 122ff.

[5] Chuck Yeager, Yeager. An Autobiography, Bantam Books, New York 1985, p. 79f.

[6] Alan Moorehead, “Belsen,” in: Cyril Connolly (ed.), The Golden Horizon, Weidenfels and Nicholson, London 1953, pp. 109ff.; see also Mark Weber, op. cit. (note 133).

[7] M. Broszat, Studien zur Geschichte der Konzentrationslager, Schriftenreihe der Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte no. 21, Stuttgart 1970, pp. 194f.; cf. U. Walendy, HT no. 34, Verlag fur Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1988, p. 37.

[8] Life, May 21, 1945.

[9] Cf. dazu Mark Weber, “‘Extermination’ Camp Propaganda Myths,” in: E. Gauss (ed.), Dissecting the Holocaust, 1st ed., Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2000, pp. 285-309 (www.vho.org/GB/Books/dth/fndWeber.html).

[10] Norbert Frei, Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte, 35 (1987) pp. 385-401, here p. 400.

[11] Cf. Jorg Friedrich, Der Brand, Propylaen, Frankfurt 2002; J. Friedrich, Brandstatten. Der Anblick des Bombenkriegs, Munich 2003; cf. Maximilian Czesany, Europa im Bombenkrieg 1939 – 1945, 3rd ed., Stocker, Graz 1998.

[12] APMO, negative no. 278; J.-C. Pressac, op. cit. (note 251), p. 422.

[13] A high resolution copy of this picture will be posted on the internet along with this book at www.vho.org/GB/Books/loth; see also the analysis of these photos by C. Mattogno, op. cit. (note 486), chapter 7.

[14] H. Eschwege (ed.), Kennzeichen “J,” Deutscher Verlag der Wissenschaften, East Berlin 1981/ Roderberg, Frankfurt/Main 1979, p. 185; cf. p. 173.

[15] Helmut Eschwege, op. cit. (note 783), p. 266.

[16] W. Ayas, D. Krause-Vilmar, “Mit Argumente gegen die Holocaust-Leugung,” in Polis, Schriftenreihe der Hessischen Landeszentrale fur politische Bildung, Wiesbaden 1996, pp. 22f.; with reference to H. Obenaus, “Das Foto vom Baumhangenein Bild geht um die Welt,” in: Stiftung Topographie des Terrors Berlin (ed.), Gedenkstatten-Rundbrief no. 68, Berlin, October 1995, pp. 3-8.

[17] Heinz Knobloch, Der beherzte Reviervorsteher. Ungewohnliche Zivilcourage am Hackeschen Markt, Morgenbuch-Verlag, Berlin 1990.

[18] Berliner Morgenpost, Oct. 10, 1998, p. 9.

[19] Cf. Udo Walendy, “Do Photographs Prove…,” op. cit. (note 782), pp. 260-264.

[20] http://motlc.wiesenthal.com/gallery/pg22/pg0/pg22035.html; cf. VffG 3(2) (1999), p. 240. I saved a copy of this webpage in my site in case the SWC removes or changes its forgery: www.vho.org/News/D/SWCForgery.html

[21] Serge Klarsfeld, op. cit., (note 588), no. 165.