3.8 ヘウムノとガス車
R(ルドルフ):Stephane Courtoisは、10月革命以後の共産主義者による世界各地でのテロルを詳しく明らかにしています[1]。彼らは政治的反対派をテロルによって弾圧するために、ありとあらゆる手段を使いました。ソ連の政治的異論派ピョートル・グリゴレンコはその『回想録』の中で、1930年代末、囚人たちが「黒い渡り鳥」と呼ばれていた囚人輸送車に乗り込んでいくのを独房から目撃した友人の話に触れています。この車が約15分後に戻ってくると、「看守がドアを開けた。黒煙が噴出した。死体が折り重なるように地面に倒れかけてきた」というのです[2]。
ベルク(バーク)によると[3]、1993年春、アメリカ合衆国で、ソ連をあつかった4部構成のテレビ番組「怪物:血に飢えたスターリンの肖像」が放映されました。第2部「スターリンの秘密警察」の中で、KBG将校アレクサンドル・ミハイロフは、囚人を殺すためのガス・トラックがイサイ・ダヴィドヴィチ・ベルクによって発明され、KGBの前身であるソ連内務人民委員部は第二次世界大戦前からすでにモスクワで、政治的異論派を殺害するために使っていたと述べています。
L:ディーゼル排気ガスでは人を殺すことはできないのではないですか?
R:興味深いことに、ソ連はフォードのトラックをライセンス生産していまして、それはこの当時、ガソリン・エンジンでした。ソ連はカチンでポーランド軍将校を大量殺戮していましたが、ドイツがそれを発掘して対ソ宣伝に利用したのは1943年4月以降のことです。前にもお話しましたように、イギリスはこの宣伝に対する対抗策をすぐに実行しましたが、ソ連も同じように、対抗宣伝を行ない始めました。スターリングラート陥落以降、東部戦線は西に移動し、ソ連が多くの地域を占領したために、ソ連はドイツ軍兵士を戦争犯罪で告発できるようになりました。このような裁判が1943年7月14−17日、ウクライナのクラスノダルで開かれ、ドイツ軍と協力したウクライナ人が法廷の前に引き出されました。この裁判では、ドイツ軍が「殺人車」のディーゼル排気ガスを使って無垢なソ連市民を殺戮したとの告発がなされました[4]。
この裁判は典型的な見世物裁判でした。被告は自分たちの罪を認め、自分たちが犯罪者であると熱狂的に主張し、まるで、彼ら自身がスターリンの処刑人であるかのような宣伝目的の証言を行なったのです[5]。
この証言の核心は、今でもホロコースト正史の骨格を形作っています。ロシア戦線およびポーランド、ユーゴスラヴィアで活動したドイツの特別行動部隊は、密閉されたディーゼル・トラックの中で、排気ガスを貨物ボックスに流し込むことによって、多くのユダヤ人を殺したというのです。
二番目の裁判は1943年12月15−17日にハリコフで開かれました。3名のドイツ軍兵士とウクライナ人労働者が告発され、死刑を宣告されました[6]。ここでも、密閉されたトラックの中でのディーゼル排気ガスによる大量殺戮が告発されたのです。
L:この裁判では、物的証拠、文書資料的証拠が提出されましたか?
R:いいえ。芝居がかった目撃証言と熱狂的な自白だけです。今日にいたるまで、いわゆるガス車の痕跡は一つもありません。写真ですら一つもありません。図103のようなドイツの戦時中のトラックの写真が展示されることがありますが、その写真の出どころは明らかではなく、しかも、戦時中のドイツのトラックの写真にすぎません。
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図103:「クルムホフ(ヘウムノ)絶滅収容所とケーニッツ近くでユダヤ人の絶滅のために使われたガス車」。ジェラルド・フレミングによるこのキャプション[7]は虚偽であるが、それを明らかにしたのは1988年、イングリッド・ヴェッカートであった。損傷を受けたドイツのトラックの写真の出どこは不明である[8]。 |
表20:ヘウムノの犠牲者数 |
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L:しかし、ガス発生車の写真はかなり残っていますね。
R:そのとおりです。ガス発生車両の写真です。排気ガスではありませんが、その燃料ガスは非常に毒性の高いものです。しかし、ガス発生車の写真が大量殺戮の証拠として提出されたことはありません。戦争末期のドイツでは、ほぼすべてのトラックがガス発生装置を装備していました。このガス発生車を大量殺戮の証拠として提出することは、ドイツは自国も含めて全世界をガス処刑しようとしていたと示唆することになってしまうからです。
ドイツの修正主義的歴史家イングリッド・ヴェッカートは、ガス車についての分析結果をまとめ、この問題についての数少ない文書資料を批判的に検討しています[9]。この資料の核心は、“Sonderwagen”(special car)、 “Sonderfahrzeug” (special vehicle)、 “Spezialwagen”もしくは“S-Wagen”に触れている文書です。
L:またもやコード言語ですか!
R:いいえ、ドイツ軍用に生産されていたすべての車両は「特別車両」と呼ばれていたのです。“S-Wagen”とは通常の後輪駆動の車両を指し、これに対して、四輪駆動の車両は“A-Wagen”と呼ばれていたのです。
ドイツのガス車神話の中の特別なケースは、大量殺戮がディーゼルガス車を使って行なわれたとされているポーランドのヘウムノです。ヴェッカートは、すべての資料を検証して、ホロコースト正史の矛盾とその中身の不可能性を明らかにしています[10]。
ホロコースト正史の混乱を明らかにするために、表20に、ヘウムノでの犠牲者数の諸説をまとめておきました。
L:ヘウムノで法医学的調査が行なわれたことがあるのですか?
R:ありませんが、航空写真が発見されています。それによると、ヘウムノ周辺には、いわれているところの大量埋葬地など存在していません[11]。
[1] Stephane Courtois
et al., The Black Book of Communism,
[2] Piotr Grigorenko, Erinnerungen, Bertelsmann, Munich 1981, pp. 275f., first
mentioned by Udo Walendy, “Das
verbrecherische System,” HT no. 48, Verlag fur Volkstum und Zeitgeschichtsforschung,
Vlotho 1991, pp. 35f.
[3] F.P. Berg, “
The Diesel Gas Chambers: Ideal for Torture…,” op. cit. (note 646), pp. 465.(試訳:ディーゼル・ガス室―拷問には理想的な代物、殺人には馬鹿げた代物―(F.
P. ベルク))
[4] Pravda,
Invaders and
their Accomplices in
House, Moskau
1943; cf. also the indictment of the Soviets at the IMT, vol. VII, pp. 571-576
[5] Cf. Arthur Koestler,
Der
Yogi und der Kommissar, Bechtle,
[6] Cf. the Soviet publication on that: Ignatz Fedorovich Kladov, The People’s Verdict,
[7] Gerald Fleming, Hitler
and the Final Solution,
[8] Cf. the letter by Yad
Vashem to I. Weckert from
[9] I. Weckert, “The
Gas Vans: A Critical Assessment of the Evidence,” in: G. Rudolf (ed.), op. cit.
(note 44), pp. 215-241. (試訳:ガス車:証拠の批判的評価(I.
ヴェッカート))
[10] I. Weckert, “What Was Kulmhof/Chelmno?,” TR, 1(4) (2003), pp. 400-412.(試訳:クルムホフ・ヘウムノ収容所をめぐる諸問題(I. ヴェッカート))
[11] R. Krege, M. Dragan, in preparation.