3.6 ベウゼッツとソビボル

R(ルドルフ):さて、次の「絶滅収容所」、すなわちベウゼッツに想像力を膨らましながら、飛びましょう。この収容所に関する情報をまとめるにあたって、私が依拠したのは、この収容所に関する現存の資料すべてを批判的に検証しようとした研究です[1]

 300万人とはいわないまでも、その多くがユダヤ教徒である、少なくとも30万人が、1942年3月から12月のあいだに、この東ポーランドの地で殺されたという話です。

 

L(聴衆):同じような話を耳にしたことがありますが。

R:そうです、それがことの本質です。繰り返しを避けて、手短にまとめておきます。

 

 

 表16が、犠牲者数のリストですが、コメントは必要ないでしょう。ベウゼッツについても、さまざまな殺戮手段が登場しています。ディーゼル・ガス室、石灰、電気、真空室です。死体は、やはり巨大な薪の山で焼却され、残っていないというのです。

 

L:基本的に、トレブリンカの物語と同じですね。

R:全体としてはそうですが、明らかな相違もいくつかあります。ベウゼッツでは、ディーゼルが凶器として登場してくるのはかなりあとのことです。もともと、電気室についての証言が数多くありました。もっとも詳しく、かつもっとも有名なものは、Stefan Szendeの証言ですが、一部を引用しておきます。

 

「何ヶ月も働き、建設しなくてはなりませんでした。…数十万の労働時間がそれに費やされ、数万トンの貴重な資材が、ベウゼッツに人間碾き臼を作るために必要でした。…人間碾き臼はおよそ7平方キロメートルの広さでした[2.7平方マイルほど]…。ユダヤ人を満載した列車がトンネルを通って地下の処刑室に入っていきました。そこでユダヤ人は降ろされました。…

 裸のユダヤ人は巨大なホールに連れてこられました。数千名が一時にこれらのホールに入ることができたのです。窓はなく、下降可能な金属床でできていました。数千のユダヤ人を載せた床がその下にある、水だめに降りていきましたが、金属床の上に立っている犠牲者の全身が水につかるほどではありませんでした。金属床の上に立っているユダヤ人がお尻のところまで水につかった時点で、強力な電気が水中に流されました。しばらくして、全員が死にました

 それから、金属床が水から引き上げられ、その上には処刑された死体が横たわっていました。別の電気ケーブルのスイッチが入ると、金属板は灼熱の焼却棺桶となり、すべての死体が灰と化しました

 大きなクレーンが巨大な焼却棺桶を引き上げ、灰を除去しました。巨大な工場煙突が煙をはきだしていました。」

 

L:この巨大地下工場の痕跡はまったく残っていないでしょうね。

R:もちろんです。文書資料も、物的痕跡も残っていません。ベウゼッツの高電圧処刑についての、こうしたおどろおどろしい証言は、今では虚偽として否定されています。ホロコースト正史派の歴史家たちも故意にそれらを無視していいます(ノルテのコメントを参照)。

 

L:このような証言は、ベウゼッツで起ったことの真実の半分も語っていないのですね。

R:トレブリンカと同じように、その断片も語っていないのです。例えば、殺されたユダヤ人の脂肪から石鹸を作ったとされるベウゼッツの石鹸工場についての証言もあります。そして、輸送中に移送者を殺す石灰、真空室といったその他の殺戮手段はこっそりと放棄されました[2]

 ディーゼル・エンジン物語は、SSの保健・衛生に責任をおっていた鉱山技師クルト・ゲルシュタインが職務でベウゼッツを訪れ、ディーゼル・エンジンのガス処刑を目撃したという、彼自身の証言のおかげで、姿を現しました。次の講義でゲルシュタインのことをあつかうつもりです。

 

L:ベウゼッツでは法医学調査が行なわれたことがありますか?

R:最初の調査は1945年10月に行なわれました。その後、1997年と1999年に行なわれましたが、もちろん、後者の方がはるかに徹底的でした。収容所の跡地全体から5m間隔でサンプルが採掘され、それは2227例にもなりました[3]。これらのサンプルのうち、236例が、33の異なった、きわめて不規則な形に、手の入った地層が存在していることを明らかにしました[4]。このうち、137例がそのデータを公表するに値するほど「適切なもの」であったそうです。しかし、そのうちわずか6例だけに、人体の残余物が混じっていました。手の入った地層からのサンプルのわずか3%、採取されたサンプル全体の0.3%にすぎません。死体の発見された最大の地層の厚さは75cm(2.5フィート)にすぎません。ごく一般的に発見されたのは、薄い灰の層が砂質の豊かな土と交じり合ったものでした。

 

L:このことは、ベウゼッツで人間が死亡して、その死体が焼却されたことを立証しているのではないでしょうか?

R:そのとおりです。誰もそのことを否定してはいません。しかし、そのことは、ここで行なわれたことの規模や、死因を明らかにしているわけではありません。ですから、もっと詳しく結果を分析しなくてはなりません。採掘調査によると、約21000㎥の土に手が加えられていました。ホロコースト正史によると、ベウゼッツでは死体の焼却は殺戮が終了してから始まったことになっていますので、600000体がこの区画で処理されたことになります。

 

17:ベウゼッツの大量埋葬地の特徴、説と発見

 

発見

死体数

600000

???

必要スペース

100000㎥

21000㎥

埋葬地の大きさ

100m×25m×12m

40m<10m<5m

埋葬地ごとの容積

22750㎥

 

埋葬地ごとの死体

136500

散乱

埋葬地の数

4.5

33

表面積の合計

11250u

6000u

バックダーツ

110000㎥

23100㎥

死体の重さ

27000000kg

 

容積

27000㎥

 

焼却期間

1942年12月-1943年3月、121日

1日あたりの死体

4959体

 

1日あたり必要な木材

570937.5kg

 

必要木材合計

9450000kg

 

木材の灰

7560000kg、22235㎥

 

人間の灰

1350000kg、2700㎥

 

超過容積

35000㎥

 

収容所での灰の蓄積の高さ

56cm

 

 

 トレブリンカと似たような図17をあげておきます。左側は大量埋葬地と大量焼却に関する目撃証言からのデータ、右側は採掘されたサンプルからのデータです。

 

L:この表によると、いわゆる犠牲者の21%だけが、発見された壕にマッチした数ですね。約126000人ですが、それは、ベウゼッツでの犠牲者数に関するプレサックの見積もりにもマッチしています。

R:これらの埋葬地が灰で一杯であれば、そうなのでしょうか、灰で一杯ではないのです。灰と混じった土なのです。

 

L:しかし、使われなかったとすると、ベウゼッツにはなぜそんなに多くの壕があるのですか?

R:この謎を解く鍵は、1945年から1965年にかけて、収容所に起こったことにあります。ポーランド人研究者アンジェイ・コラ(Andrzej Kola)はこう記しています[5]

 

「戦後、地元住民は宝石類を探していた。発掘調査の対象となっている建造物のある地層が乱れているのは、彼らが熱心に穴を掘ったためである。このために、発掘研究者が埋葬壕の正確な大きさを算定することが難しくなっている。」

 

 すでに1946年4月11日、検事Zamoscは、何人かの目撃証人が確証したことをこう説明しています[6]

 

「この当時、収容所は、貴重品を探し求める周辺住民によってまったく掘り返されていた。このために、灰や人体の一部、木材、黒焦げになった骨が地上に姿を現した。」

 

 言い換えると、試験採掘で発見された壕は、大量埋葬地であっただけではなく、戦後の宝探しによる発掘の名残でもあったのです。ですから、壕は、大きさ、形、向き、中身、位置、配置、地層の組成の面でまったくばらばらだったのです。

 もしも、採取されたサンプルの少なくとも90%には人体の一部や灰が含まれていなかったとすると、これらの壕に埋められていた死体の最大数=126000体も、少なくとも10分の1に減らさなくてはならないのです。126000体という数は、これらの壕全体に死体が詰め込まれて埋葬されていたという前提から導き出されているからです。

 

L:126000人というベウゼッツでの大量殺戮の数字は、現実的に考えると、せいぜい数万だというのですね?

R:あるいは、数千でしょう。また、ベウゼッツでの死者の死因は疫病や消耗などなのでしょうから、「大量殺戮」というよりも「大量死」と呼ぶほうが適切でしょう。これらの法医学調査は、たんに犠牲者数を減らす以上の結果をもたらしました。イギリスの情報機関は1943年1月1日のSSの暗号無線を解読していますが、それによると、434500名のユダヤ人がベウゼッツに移送されたことになっています[7]。ところが、126000名以下しかベウゼッツに埋めることができないとすると――実際には、もっと少ないでしょうが――ベウゼッツに埋められなかった大半のユダヤ人には何が起ったのでしょうか?ベウゼッツで殺されたのではないことは明らかです。

 

L:別の場所に移送されたのでしょう。

R:そのとおりです。つまり、ベウゼッツは通過収容所であったという修正主義者の説は正しいのです。ところで、試験採掘が行なわれているときに、ガス室の残滓の捜索も行なわれました。しかし、目撃証言が伝えているものに似た建物の痕跡はまったく発見されませんでした。発見されたのは、集合式車庫の残滓です。

 

95:ベウゼッツの修理ピットのある車庫の残滓[8]

 

L:車庫ですか?

R:そのとおりです。修理ピットがあるので、車庫と考えられるのです。

 

L:採掘によって埋葬地の場所が確定されてから、その大量埋葬地を掘り起こして、その中身を検証したことがありますか?

R:驚くべきことに、ないのです。

 

L:でも、それが、埋葬地の正確な大きさとそこに埋められている犠牲者の数を確定する唯一の方法なのではありませんか?

R:数千の死体やその残滓を含む巨大な大量埋葬地が存在しないことが明らかとなると、現場への関心が薄れてしまったようです。いずれにしても、ベウゼッツに記念碑が建てられました[9]。そのことは、今後、死者の魂をわずらわせるような調査はもはや行なわれないこと、悲しみ、祈り、すすり泣く時期であることを告げています。

 

L:文書資料はベウゼッツについてどう言っているのですか?

R:発見・公開されている資料は非常に少ないのですが、ベウゼッツは当初は労働収容所で、ユダヤ人に対する規律は厳しかったと述べています。ユダヤ人は虐待され、病人や衰弱者が射殺されることもあったというのです。しかし、こうしたやり方は、強制労働や移送がテーマとなっているときには普通に使われる言語の中に組み込まれていますし、ベウゼッツでは組織的絶滅が行なわれたという説とも矛盾しています。もしも、すべてのユダヤ人を殺すことを考えていたとすれば、どうして、わざわざ病人と衰弱者を連れ出して、処刑するなどという手間をかけるのかということです[10]

 

L:ポーランドの町ソビボルの近くにあったとされる絶滅収容所はどうですか?

 

18:ソビボル犠牲者数に関する3つの数字

 

R:今のところ、ソビボルについては詳細な批判的分析はありませんが、トレブリンカに関する研究書の中で、マットーニョとグラーフがソビボルのことに触れています。発見されている文書使用によると、この収容所はドイツの移送・強制労働政策から生まれたものです。

 

96:「絶滅収容所」とされている6つの民族社会主義者の収容所、ヘウムノ、トレブリンカ、ソビボル、マイダネク、ベウゼッツ、アウシュヴィッツの場所。ヘウムノはその中でもっとも小さく、「もっとも重要ではなかった」。[11]

 

 最後に、ここでとりあげた3つの収容所すべてが、図96にあるように、ドイツ占領地区とソ連占領地区の境界線上にあることを指摘しておきたいと思います。この地理上の位置からわかることは、これらの収容所が、「東部地区」へのユダヤ人の移送のための通過収容所であったことです。注目すべきことに、ソ連の鉄道は、ヨーロッパ諸国の中では、唯一例外的に、広軌を使っていました。ですから、東部地区への移送列車はヨーロッパとソ連との境界線上で、いったんヨーロッパ式の貨車から人々を降ろし、ロシア式の貨車に乗り移らせなくてはなりませんでした。私の知るかぎりでは、このことをはじめて指摘したのは、修正主義的研究者Steffen Wernerのユダヤ人の移送に関する研究です。だからこそ、多くの目撃証言が、その移送が中断されたときに実行された害虫駆除とシャワー措置、すなわち保健・衛生措置のことに触れているのです。そして、今日、ホロコースト正史はその措置のことを、大量殺戮を欺くための手段と偽って描いているのです

 

L:しかし、ルドルフさんが引用しているヴェルナー氏が述べているように、数十万ひいては数百万のユダヤ人がベラルーシに移送されたとすれば、今日、彼らはどこにいるのですか

R:3つの文書資料を引用させてください。最初は、ニュルンベルク裁判でのソ連のルデンコ将軍による起訴状の読み上げです。ドイツ側は、ソ連から撤退するにあたって、数十万の労働不能な女子供と老人を収容所に残していったというのです[12]。ソ連の首席検事スミルノフは、ベラルーシにあったこれらの収容中についてのもっと詳しい文書資料をニュルンベルク法廷に提出しています[13]。マットーニョは、東部地区に移送された「ユダヤ人の最終目的地」についての情報を提供している文書資料を集めています[14]。フランス系ユダヤ人の地下新聞Notre Voixは、1944年に次のような記事を載せていますが、これは問題の解決にとくに役に立ちます[15]

 

「ありがとう。フランスのユダヤ人すべてを喜ばすメッセージがラジオ・モスクワで放送されました。私たちの誰もが、パリから移送されていった兄弟、姉妹、親戚を持っています。8000名のパリ・ユダヤ人が、栄光ある赤軍によって死から救われたことを思い起こせば、私たちは深い喜びを覚えます。…ソ連軍の攻勢が始まったとき、彼らすべてがウクライナにいたのです。彼らは赤軍によって歓迎され、現在、全員がソ連にいます。」

 

L:多くのユダヤ人が実際に東部地区に定住したというヴェルナーの説は、正しいのですね。しかし、それだけでは、私の質問に対する答えになっていません。

R:終戦とともに、これらのユダヤ人の一部は、亡命ユダヤ人の流れに乗りながら、西側に向かいました。別のグループはスターリンの処刑人によって収容所群島に連行され、その多くがそこで死にました。残りは、ソ連各地に分散したのでしょう。移送されてきたユダヤ人の正確な運命を確定するのは難しいでしょう。たしかに、まだまだ研究の余地があるのです。

 

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[1] C. Mattogno, Be􀃡􀄪ec in Propaganda, Testimonies, Archeological Research, and History, Theses & Dissertations Press, Chicago 2004 (www.vho.org/GB/Books/b).

[2] Cf. for this chapter 1 “Literary Origins and Development of the Alleged Methods of Murder” in C. Mattogno, op. cit. (note 694), pp. 9-34.

[3] A. Kola, Be􀃡􀄪ec: The Nazi Camp for Jews in the light of archeological sources: Excavations 1997-1999, The Council for the Protection of Memory and Martyrdom, United States Holocaust Memorial Museum, Warsaw-Washington 2000.

[4] My subsequent description is based on C. Mattogno’s analysis of Kola’s paper, ibid.: C. Mattogno, op. cit. (note 694), Chapter IV, “Be􀃡􀄪ec in Polish Archeological Research (1997 to 1999),” pp. 71-96.

[5] A. Kola, op. cit. (note 715), p. 65.

[6] ZStL, 252/59, vol. I, pp. 1227; cf. pp. 1119, 1132-1133, 1135.

[7] Peter Witte, Stephen Tyas, “A New Document on the Deportation and Murder of the Jews during ‘Einsatz Reinhardt’ 1942,” in Holocaust and Genocide Studies, no. 3, Winter 2001, pp. 469f.; cf. C. Mattogno, op. cit. (note 694), pp. 103, 127.

[8] A. Kola, op. cit. (note 715), p. 56.

[9] Jewish Telegraph Agency, June 3, 2004; cf. TR 2(3) (2004), p. 359 (www.jta.org/page_view_story.asp?strwebhead=Belzec+memorial+opens&intcategoryid=5).

[10] C. Mattogno, op. cit. (note 694), chapter V, “ Documented History of the Be􀃡􀄪ec camp,” pp. 97-108.

[11] Taken from Christian Zentner, Der grose Bildatlas zur Weltgeschichte, Unipart, Stuttgart 1982, p. 522.

[12] IMT, vol. VII, p. 196, Feb. 8, 1946.

[13] IMT, vol. VII, pp. 635ff., Feb. 19, 1946; cf. document USSR-4, not included in the IMT document volumes.

[14] C. Mattogno, J. Graf, op. cit. (note 198), chapter VIII.6., pp. 253-261.

[15] Notre Voix, no. 71, April 1944; reproduced in: A. Raisky, David Diamant, Charles Ledermann, La

presse antiraciste sous l’occupation hitlerienne, U.J.R.E., Paris 1950, p. 179.