3.5.6 文書資料的証拠
L(聴衆):トレブリンカでは囚人は死ななかったのですか?
R(ルドルフ):もちろん、死にました。例えば、1943年秋、懲罰労働収容所でチフスが流行し始め、1943年11月12日から12月12日のあいだに、148名の囚人がチフスで死んでいます[1]。ウカシキエヴィチもこの犠牲者たちの埋葬地を発見しています。
L:SSはこれらの死体を焼却しようとはしなかったのですね?
R:そのとおりです。
L:大量殺戮説を立証する文書資料的証拠にはどのようなものがあるのですか?
R:トレブリンカについての現存の文書資料は非常に少ないのです。巨大な絶滅行為の土台となる計画、組織、資材の調達、人員、予算などの文書資料はまったくないのです。まったくないのです。
トレブリンカへの移送については、一連の文書資料が残っていますが、それとても、「疎開」とか東部地区への「再定住」と述べているだけです。
L:それは、殺戮のカモフラージュ言語なのではないですか?
R:ホロコースト正史はそう考えています。この時期、ユダヤ人に何が起ったのかについて、カナダのメインストリームの教授Eugene Kulischerは、興味深い人口学的研究を上梓しています。クーリッシャーは、詳しい研究調査の中で、多くの権威ある国際組織――そのすべてが第三帝国に敵意を持っていました――が提供するデータに依拠しています。クーリッシャーの結論はこうです[2]。
「ポーランドのゲットーは、ユダヤ民族の強制的東方移住の最終段階ではなかった。1941年11月20日、総督ハンス・フランクは、ポーランド系ユダヤ人は最終的にはもっと東方に移されると放送した。1942年夏以降、ドイツ占領下の東部地区のゲットーと労働収容所が、ポーランドと西ヨーロッパ・中央ヨーロッパからの移送者の目的地となった。とくに、ワルシャワ・ゲットーからの大量の移送が報告されている。多くの移送者はロシア戦線に近い労働収容所に送られた。その他は、ピンスクの湿地帯、バルト諸国、ベラルーシ、ウクライナのゲットーに労働者として送られた。」
クーリッシャーは絶滅収容所についてはひとことも述べていません。