3.5.5 痕跡の捜索

L(聴衆):痕跡を誰も探さなかったのですか?

R(ルドルフ):ロシア人とポーランド人が調査しました。ソ連はまだ戦時中の1944年8月15-23日に調査しました。しかし、その報告書からは、トレブリンカが絶滅収容所であることを立証するような証拠が発見された話は出てきません。1944年8月24日の報告書では、率直にこう認められています[1]

 

「この人間焼却炉の痕跡と秘密を明らかにすることはきわめて難しい。」

 

 ニュルンベルク裁判がはじまると、この収容所はふたたび注目を集めたので、ポーランド人が独自の調査を行ないました。前にお話したポーランドの調査判事ジスワフ・ウカシキエヴィチ(Zdzisław Łukaszkiewicz)は、絶滅収容所があったといわれている地域を、1945年11月9-13日に発掘調査し、報告書を書いています[2]。しかし、ウカシキエヴィチでさえも何も発見できませんでした。

 彼は、目撃証言によると大量埋葬地があったはずの場所を発掘しましたが、まったく無駄でした。また、ガス室の土台も捜索しましたが、それも無駄でした。彼が発見したのは、「人の手が加えられていない地層」、燃え残った死体の一部だけでした。大量殺戮の証拠、ましてや数十万の人間の大量殺戮の証拠などまったくなかったのです

 いわゆる絶滅収容所地区でウカシキエヴィチが深さ数mの爆弾のクレーターを発見したことは注目に値します。ドイツ軍が撤退したあとの1944年の航空写真[3]にはこれらのクレーターは写っていないので、赤軍が占領後にこの地区に爆弾を落としたと考えられるのです。このために、ウカシキエヴィチが発見したのは完全な死体ではなく、散在する死体の一部にすぎなかったのです。

 

L:赤軍はなぜこの地区に爆弾を落とさなくてはならなかったのですか?

R:爆弾は数少ない腐乱死体を広い地域に分散させ、ここが「絶滅収容所」であったとの印象を作り出す恐ろしい効果を持っていたのです。

 

L:今日でも、調査することができるでしょうか?

R:絶滅収容所があったとされている場所はコンクリートが敷かれ、大きな石のブロックが記念碑として建てられています。発掘調査をするには、このコンクリートを砕かなくてはなりません。そして、そのようなことは、その実行以前に、歴史学の中で革命的変化が生じることが大前提でしょう

 

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[1] Investigation Report of Soviet and Polish Authorities, Document of August 24, 1944. GARF, 7021-115-9, pp. 103-110.

[2] Photocopy of this document reproduced in S. Wojtczak, op. cit. (note 634), pp. 183-185. Cf. the complete translation in C. Mattogno, J. Graf, op. cit. (note 198), pp. 84-86. See there also references to, and excerpts of, Łukaszkiewicz protocol as presented to the IMT, as well as about Łukaszkiewiczs research in the penal labor camp.

[3] U.S. National Archives, Ref. no. GX 12225 SG, exp. 259; the exact date of this photo is unknown. First published by John C. Ball, op. cit. (note 457), p. 87.