3.5.2 凶器

R(ルドルフ):すでに指摘しましたように、目撃証言によると、トレブリンカではさまざまな殺戮方法が採用されていましたが、今日のホロコースト正史の記述の中には、トレブリンカでの凶器についてのこのような混乱を発見することはできません。ノルテ教授が指摘したように、ホロコースト正史文献は、ドグマと化した記述とは矛盾する目撃証言を検閲・削除しているからです。目撃証言の語る処刑方法の一つに真空室がありますが、単純な石の壁の内部で死を呼び起こすほどの真空状態を作り出すのは技術的に不可能なのです。壁は外からの圧力に負けてしまい、建物自体が崩壊してしまうからです。戦時中や戦後の目的証言の中で、圧倒的に多いのは、トレブリンカの蒸気スチーム室での殺戮です。

 

L(聴衆):今度は、サウナが大量殺戮の凶器とされたのですね?

R:そのとおりです。非常に興味深いことに、アウシュヴィッツ[1]やその他の場所に囚人用のサウナがありました。これが噂の源になったのでしょう。この件について、イギリスのホロコースト正史家ライトリンガーはこう指摘しています[2]

 

「人間を蒸気で絶滅することは困難である…」

 

 このために、ホロコースト正史文献では、蒸気スチーム室も次第にディーゼル・エンジンガス室に取って代られていきました。ディーゼル排気ガスが凶器だというのです[3]

 トレブリンカのガス室についての目撃証言は多くの自己矛盾を抱えており、そこから論理的な結論を引き出せる代物ではありません[4]。ですから、トレブリンカのガス室の技術についての詳細な議論は省略しようと思います。しかし、トレブリンカにまつわる不可解な話のことに触れておきます。3つの処刑室しかなかった最初の「ガス室」建物の負担が過重となったために、10個のガス室を追加した大きな建物が建設されたという話から出てくる不可解な点のことです。『ホロコースト百科事典』によると、古い建物のガス室の広さの合計は(3×4×4u=)46uで、新しい建物の方は(10×8×4u=)320uです。ですから、1942年11月以降、トレブリンカ収容所には(48u+320u=)368uの大量処刑場があったことになります。1942年11月を境とする大量処刑場の面積の比率は48u:368u、すなわち1:7.66となります。

 ホロコースト正史によると、トレブリンカでは1942年10月までに、694000人が殺されましたが、その後殺されたのは、「わずか」187390人です[5]。それゆえ、1942年10月を境とする犠牲者数の比率は、1:0.27です。もしも、3つの小さなもともとの「ガス室」が1942年まで100%フル稼働されていた(そうでなければ、大きなものを建てる必要はないはずですから)と仮定すると、1942年11月以降の13個のガス室の利用率はわずか(0.27÷7.66=)3.5%なのです(表13)。

 

13:トレブリンカのガス室の利用率

時期

部屋数

面積

犠牲者数

利用率

1942年10月末まで

3

48u

694000

100%

1942年11月以降

10

368u

187390

3.5%

 

L:ということは、この新しい10個の大きな「ガス室」は必要なかったのですね

R:まったくそのとおりです。時期ごとの大量殺戮の規模と、そのときの絶滅能力の拡張には矛盾があるのです。ですから、大きなガス室を建設したという話は、事実にもとづいているのではなく、虐殺宣伝にもとづいているのです。3つの「ガス室」だけでは、その悪行が不足であると考えられたのです。民族社会主義者が地獄の使者であるという宣伝は、もっと多くの「データ」で補強されなくてはならなかったのです

 

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[1] 害虫駆除建物BW5a cf. note 601.

[2] Gerald Reitlinger, op. cit. (note 119), p. 149, footnote.

[3] Cf. for this C. Mattogno, J. Graf, “Chapter II: The Development of the Idea of Treblinka as an Extermination Camp,” op. cit. (note 198), pp. 47-76.

[4] この詳細に関心を抱く読者にはC. Mattogno, J. Graf, op. cit. (note 198), pp. 116- 21, 133-138; as well as A. Neumaier, op. cit. (note 209).

[5] Y. Arad, op. cit. (note 198), pp. 392-397.