3.4.7 厄介なチクロンB投入穴[穴がなければホロコーストもない]
R(ルドルフ):さて、建築上の問題、もっと正確にいえば、毒ガスを「ガス室」であったとされる部屋の中にどのように投入したかという問題に移ります。しかし、ホロコースト正史がこの問題についてどのように語ってきたのかをひとまず無視して、理性と論理の法則に従いたいと思います。次のように考えてください。死体安置室として設計された地下室を持つ焼却棟があり、その死体安置室を処刑室と使おうとすることにします。ビルケナウの焼却棟UとVで起ったのはまさにこのことです。不運なことに、死体安置室を処刑室として使おうと思いついたのは、焼却棟がほぼ完成してからのことでした。
L(聴衆):これらの焼却棟の建設が始められたのは、1942年秋のことですが、そのときすでに、大規模なユダヤ人の絶滅が別の建物を利用して、すでに1年間も行なわれていたのではないでしょうか?
R:ホロコースト正史を信じるとすればそのとおりです。
L:しかし、これらの地下室をガス室として使うと考えたときには、すでにその建設が終わろうとしていたとすれば、まったく間抜けな話ですね。
R:そのとおりです。これがまず不合理な点の第一点です。進みましょう。この地下死体安置室は床がなく、2フィートの厚さの土の層が下にあるだけです。
L:これらの死体安置室はなぜ地下に作られたのですか?
R:クールな状態に保っておくためです。死体を保管する場所としてこの部屋を利用するとすれば、きわめて合理的です。また、熱を発する炉室からも離れていました。地下室の天井は3層からなっています。鉄筋コンクリートの厚い層、その上にタールの防水層、その上にコンクリート・スクリードと呼ばれた、防水層の上に乗っているコンクリート板です。さらに、この地下室には、死体安置室用に設計された換気システムも設置されていました。新鮮な空気は、長い壁の上にある、通風ダクトとつながる屋根の多くの穴を介して吸入され、古い空気は床近くの排気口を介して排出されました。新鮮な空気と古い空気用のダクトは焼却棟の別々の区画にあり、屋根裏から簡単にアクセスできます。図62、63が地下の様子です[1]。
図62(上):アウシュヴィッツU(ビルケナウ)の焼却棟Uと焼却棟V(対称形)の死体安置室T(「ガス室」)の平面図
a:死体安置室T(「ガス室」)30×7×2.41m
b:死体安置室U(「脱衣室」)49.5×7.9×2.3m
c:死体安置室V(のちに分割された)
d:死体を地上の炉室に運ぶエレベーター
e:換気口
f:コンクリートの支柱
g:コンクリートの梁
h:のちに付け加えられた地下室への入り口
1―3:ルドルフ報告のためにサンプル1-3が採取された場所
図63(下):アウシュヴィッツU(ビルケナウ)の焼却棟Uと焼却棟V(対称形)の死体安置室T(「ガス室」)の立体図 @:換気口 A:吸気口 B:地面
さて、ここで質問です。もし、皆さんが建築家であったとすれば、チクロンBから放出される毒ガスを、できるかぎりすみやかにかつ均等にこの地下室に注入するには、どのような改造を行ないますか?
L:新鮮な空気を均等に供給するために設計されたダクトがあるのですから、そこに毒ガスを混ぜることができるように改造します。
R:そのための改造の可能性はありますか?
L:ガスをゆっくりと放出するチクロンBを使いたいとすれば、入ってくる空気がチクロンBの上を通ってガスを拾い上げていくことができるように、新鮮な空気のダクトの中の籠にチクロンBを入れておくようにすべきです。屋根裏から空気吸気ダクトにアクセスすることが簡単であるので、問題は生じません。
L:そのようなやり方をすれば、換気装置を切って、空気ダクトからチクロンBの籠を簡単に取り出すことができるので、毒ガスを「遮断」することができるようになります。
L:さらに、これはささやかな改造なので、吸気ダクトの中に小さな跳ね上げ扉をつけるだけですので、ほとんど改造の痕跡を残しません。
R:皆さんは本物の専門家のようですね。経験を積んだ大量殺人者ではありませんよね。SSがそのようには問題を解決しなかったことが問題なのです。家に窓をつけるのを忘れてしまったために、太陽に光の詰まった袋を家の中に運んで、家の中を明るくしようとした『シルダの町の人々』という寓話がドイツにありますが、SSはそのように振る舞ってしまったのです[2]。
冗談はさておいて、何が起こったのかについてのホロコースト正史=ポリティカル・コレクトネス版によると、SSは次のように行動しました。
まず、2フィートの厚さの土を地下室の屋根から取り除きました。ついで、ハンマーと鑿を使って、4箇所で穴を開けました。
L:でも、馬鹿げていますね。薄いコンクリートの層にハンマーとのみで穴を開ければ、いたるところでひび割れしてしまいます。
R:これが、二番目の不合理な点です。さらに、SSはタールの防水層を取り除きました。
L:とすると、雨水が地下室に入ってきてしまいますね。これが三番目の不合理な点です。
R:そして、SSは、目撃証言によってばらつきがありますが、1フィートから2フィート半四方の四角形の穴を4つ開けたことになっています。
L:厚い鉄筋コンクリートを穿ったのですか?コンクリートに穴を開けることを楽しんでいたとしか思えません。これが四番目の不合理な点です。そして、この破壊的な作業によって、チクロンBの投入がいくぶんか簡単になったというのですね。
R:そのような話となっています。
L:コンクリートの穴に粗雑に開けられた穴をどのように密閉したのでしょうか?防水シールも破壊されていたので、雨が降れば、雨と泥が地下室に侵入してきたでしょう。
R:水と泥の侵入を防ぐもっとも良い方法は穴の回りに小さな煉瓦の投入口柱を造り、それをタールで防水することでしょう。タールで防水した木製のシャフトでも一時しのぎにはなるでしょう。
L:チクロンBがこの小さな投入口柱を介して、下にいる人々の上に注がれたということになっていますが、全員が死亡した後に、どのようにしてガスの放出を止めたのでしょうか?
R:そんなことは考えられもしなかったのです。ですから、チクロンBは死体のあいだにあって、楽しげにHCNガスを放出し続けたことでしょう。
L:これが五番目の不合理な点ですね。
R:この問題については、「鉄網挿入装置」(Drahtnetzeinschubvorrichtung)と呼ばれる代物が存在していたのかどうか、論争が行なわれています[3]。たがいに組み合わされた鉄のメッシュの柱のようなものであったというのが定説です。この濾し器のような装置を使って、チクロンBを地下室に落とし、そのあとで引き上げることができたというのです[4]。
L:数百の人々が殺された中に鉄網柱ですか?
R:この用語は少々誤解をまねくかもしれませんね。鉄の薄板で出来ていたといわれています。
L:そうに違いありません。数百の人々が絶望的なパニックにおちいっているのですから、壊されないように、硬い鋼鉄製でコンクリートに固定されていなくてはなりません。
R:そのとおりです。目撃証人ヘンリク・タウバーによると、死に直面していた犠牲者たちは実際に、室内のすべての装置を破壊しています[5]。
「ガス処刑される人々は、ガス室の中で、電気設備を破壊し、ケーブルを引き抜き、換気装置を壊した。」
ここでの話は焼却棟Uを中心にしています。殺人ガス室として使われたといわれているその死体安置室が、比較的よく保存されているからです。戦争末期、地下室はダイナマイトで爆破され、その爆発によって、天井の支柱は吹き飛ばされてしまいました。屋根が崩れ落ちたとき、これらの支柱は屋根に穴を穿ち、多くはコンクリートの中央梁に沿って、屋根をいくつかの部分に分解してしまいました。それ以降、地下室の多くは、後述するいくつかの変更を除いて、その大半がそのまま残されました。ですから、今でも、犯罪現場を検証できるのです。これまで検証してきたことを踏まえますと、どのような証拠が発見できると思いますか?
L:非常に多くの証拠です。これが六番目の不合理な点です。
R:どのような証拠ですか?詳しく話してください。
L:まず、目撃証言が伝えている大きさの、鉄筋をきれいに切断した、4つの4角形の穴です。
それから、もし石造りであったとすれば、小さなシャフトや投入口柱の残骸も探すことでしょう。これらの投入口柱がコンクリートとくっついている穴の周辺のモルタルやコンクリートも探すことでしょう。
L:しかし、この投入口柱が木製であれば、何も残っていないでしょう。
L:しかし、石造りであれば、穴から少し離れたところのコンクリートいたとタールを取り除いて、この投入口柱のためのスペースを作っておかなくてはならなかったでしょう。いずれにしても、投入口柱を作るために、オリジナルのタール層の周りをシールドしなくてはならなかったことでしょう。
L:本当に薄い金属板の挿入シャフトでしたら天井と床にくっつけなくてはならなかったでしょうし、これらのシャフトが支柱のそばにあったとすれば、支柱にもくっつけなくてはならなかったでしょう。そして、これらの薄い金属柱がコンクリートにくっつけられていた場所を、今日でも発見できるはずです。
R:わかりました。では、この地下死体安置室の屋根を見てみましょう。このような痕跡の調査をはじめて行なって、分析結果を報告書にまとめたのは、スウェーデンの修正主義者ディトリーブ・フェルデラーです。1980年、彼はこう報告しています[6]。
「明らかに、詐欺師たちは伝説にかたちだけの関心を向け、ガス室2[焼却棟Uの死体安置室1]の屋根に二つの穴を穿ったに違いない。しかし、大きな穴は粗雑・乱雑に穿たれたので、コンクリートの鉄筋は剥き出しで飛び出ており、モルタルも粗雑に削られている。」
L:穴はあとで穿たれたと考えられるのですね。
R:そうです。フェルデラーの次に調査したのは私です。そして、その分析結果を1993年に発表しました。それをここでまとめておきます[7]。
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図64:焼却棟Uの死体安置室1(「ガス室」)の屋根にあるチクロンBの投入口とされている穴、今日でもアクセスできる地下室への入り口 |
図65:焼却棟Uの死体安置室1(「ガス室」)の屋根にあるチクロンBの投入口とされている穴。I鉄筋が取り除かれていないのがわかる。それはたんに後ろ側に曲げられているにすぎない。 |
私は1991年にこの屋根を調査したとき、やはり2つの穴しか発見できませんでした。フェルデラーが述べているような穿った印がそれぞれに残っていました。図64と65からもわかるように、幾何学的に粗雑なかたちをしています。その他すべては、コンクリートの中の不規則な亀裂にすぎません。支柱と中央梁によって屋根にあけられた穴です。この穴のどれ一つとして穿たれた痕跡を残しておらず、十字に交差する鉄筋が取り除かれていません。
L:二つの穴とは少なすぎますね。
R:それだけではありません。図65の穴では、鉄筋は切断されており、後ろに曲げられているのです。この穴を投入穴として使うことはできません。完成しておらず、密閉もシールドもされていませんし、その近くに柱やシャフトもありません。ホロコースト正史派の人々でさえも、この穴はチクロンB投入穴とはまったく関係ないと考えています。
L:では、一体何なのですか?
R:この穴は、戦後に屋根に開けられたものでしょう。ソ連もしくはポーランドの調査委員会は地下室の中を見ようとしたのですが、入り口が残骸で埋もれてしまっていたので、穴を開けたのでしょう。穴は、戦後、すなわち地下室がダイナマイトで爆破されたあとに作られたことを示す証拠があります。コンクリートは穴が作られた時期を私たちに語りかけてくれています。少なくとも、それを示唆してくれています。私はこの件について、建築専門家のヴァルター・リュフトルと話し合いました。彼は、裁判所が任命した専門家で、信用のある技術者です。彼は、1991年の晩夏、この問題についてアドバイスしてくれましたが、以下がその主旨です。
「もしも、一つかそれ以上の穴が、建設が終わったのちにこのコンクリートの屋根に開けられたとすれば、屋根は弱くなり、鉄筋構造も壊れてしまうでしょう。その後地下室がダイナマイトで爆破されたとすれば、屋根の亀裂は穴を通っていくでしょう。爆破では恐ろしいほどの力が作用し、その力の緊張は、力が作用する方向が曲がっていく点で最大値に達しますので、亀裂はもっとも弱いところで形成されるのです。建設作業が終了したのちに作られた穴には、このことがとくにあてはまります。このような穴は、屈折しやすい板の中では、もっとも弱い点なのです。
焼却棟UとVの地下室では、爆発力は上方に向かい、屋根をひどく損傷させます。板の亀裂と断絶はこの穴の周辺を通っており、この穴を通過しているのではありません。建築工学の法則によると、この事実は、この穴が屋根の爆破後に作られたことを科学的に立証しています。」
L:言い換えれば、屋根はオリジナルではなく、戦後に手を加えられたということですね。
R:残念ながらそのとおりです。変更の程度はわかっていません。しかし、ポーランド人のローマン・ダヴィドフスキ教授による専門家報告は、終戦時の屋根の状態を示唆しています。1946年から1947年にかけて、アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスに対するスターリン主義的な見世物裁判がクラクフで開かれましたが、その1946年9月26日の公判に、この専門家報告が提出されました。ダヴィドフスキは、地下死体安置室が殺人ガス室として使われていたことを示唆するようなありとあらゆる「犯罪の痕跡」を列挙しています。その中には、そこで発見されたものも入っていました[8]。しかし、マットーニョによると、ダヴィドフスキ報告は屋根の穴にはまったく触れていないのです。ダヴィドフスキが地下室を検証したときには、穴がまだ作られていなかったので、彼は穴については触れていないのです。裁判所が独自の調査を実施し、当局が地下の内部に入るために穴を開けたときに、穴が作られたというのです[9]。
図64の穴の端にある穿った印は、図65の穴の端にある印とよく似ているので、この二つの穴は同じ時期に作られたと考えることができるでしょう。
L:何ということでしょう、おぞましいですね。これらの地下室は、いわゆる大量殺戮のたった一つの物理的証拠だというのに。物理的証拠を勝手にいじくりまわすことがどうして許されたのでしょうか。凶器の銃を発見した犯罪捜査官が銃身の中を引っかいて傷を付けるようなものです。銃身の中の溝は指紋のようなもので、それを傷つけてはならないのです。ここでも同じことがいえます。この屋根のオリジナルな状態、とくに穴が存在したかどうかという問題は、地下室が大量殺戮の現場であったかどうかを判断するにあたって、きわめて重要です。ポーランド人かソ連人が戦後にこの屋根に穴を穿ったことが明らかであるとすると、この屋根は証拠としての価値を依然としてもっているのでしょうか?
ドイツ人が開けたとされる穴とポーランド人・ソ連人が開けた穴とをどのようにして区別するのでしょうか?破局的な状況です。物理的証拠を破壊してしまったのですから。
R:アウシュヴィッツ博物館には、誰がいつどのような理由でこの穴を作ったのかを明らかにする文書があるはずです。しかし、それは公表されていません。
L:もともと穴などなかったことを示しているからですね。
R:そのように確信しています。こうした状況については、メインストリームの文化史家ファン・ペルト教授も確認しています。ペルト教授は2.18節で触れておいたように、アーヴィング裁判に建築の専門家証人として出廷しています。その専門家報告にはこうあります[10]。
「今日、[焼却棟Uの死体安置室1の屋根の上で]鉄網柱と投入口柱とつながっている4つの小さな穴を、コンクリート板の残骸に発見することはできない。しかし、それが存在しなかったことを意味しているのだろうか。知ってのとおり,1944年秋に、ガス処刑が中止されたのちに、ガス処刑に関係するすべての装置――針金網柱と煙突を含む――は取り除かれた.屋根板の4つの小さな穴だけが残ったことであろう。この点に関しては定かではないが、柱があった場所にガス室の天井のそこに何らかの型枠を取り付けて,なかにコンクリートを注いで,屋根板を復元したであろうということは論理的であろう。」
R:まず、ここでペルト教授はごまかしているのです。「ガス処刑の装置」が取り除かれたという証拠はまったく存在していないからです。ペルトは、このまったく根拠のない虚偽の説にもとづいて、今度は、終戦時に、SSが、将来の研究者を欺くために穴をふさぎ、そのあとで地下室全体を爆破したと述べています。
L:まったくナンセンスです。もし屋根を爆破しようとしていたのであれば、なぜ、それに先立って穴をふさいだのでしょうか?穴をふさぐというような修復作業についての証拠が存在していますか?
R:いいえ。そして、穴を新鮮なコンクリートでふさぐという作業がなされたことを隠すことはできないでしょう。そのような穴の痕跡はすぐに見つけることができるからです。
でも、実際にはそのような穴は存在しないのです。そして、ペルト教授の見解は、今日、少なくとも、そのような穴が実在した証拠は存在しないという意味で、修正主義者と一致しているのです。
2000年5月にアーヴィング・リップシュタット裁判が結審したのちに、アーヴィング氏にメールでコンタクトした証人のことをお話ししたいと思います。Paul Barfordという名の技術者で、同僚とともに、アウシュヴィッツ収容所を維持・復元するにあたって、博物館当局に協力してきました。博物館サイドはアーヴィング裁判のときにこっそりと穴を検証していましたが、彼はこの件をアーヴィングに伝え、次のように述べています。
「私は、さまざまな角度から焼却棟Uの地下ガス室の壊れた屋根を30分間調査しました。しかし、目撃証人が存在したと述べている4つの穴の存在の証拠をまったく発見することはできませんでした。これらの穴の物理的証拠が存在していないことに困惑しています。」
L:私たちは、チクロンBをいわゆるガス室にどのようにして投入したのかという問題にふたたび戻ってきてしまいました。結局のところ、吸気シャフトにハッチをつけてそこにチクロンBをおくという最初の仮説が適切なのではないでしょうか。
R:その場合には、すべての目撃証言か虚偽であると宣告しなくてはなりません。そして、そうすることは、地下室のガス室が実在したとする唯一の「証拠」である目撃証言を捨て去ってしまうことになります。さらに、「ホロコースト」に関するすべての目撃証言には信憑性がないということになります。ですから、フォーリソンは、「穴がなければ、ホロコーストもない」という結論に早々と達していたのです[11]。
この結論に対して、ホロコースト正史派はすばやく反応し、二つの論文の中で、修正主義者の挑戦を受けて立ちました。その一つはCharles Provanの個人的研究で[12]、もう一つは世界的に有名なメインストリームの研究誌Holocaust
and Genocide Studiesに登場しました[13]。
L:ということは、修正主義者の議論がいつも黙殺されているというのは本当ではないのですね。きわめて気位の高い団体の中でも、まじめに受けとられているのですね。
R:そのとおりです。マットーニョはProvanの個人的な研究を精査しています。そして、Provanが発見したと思い込んでいるすべての穴がダイナマイトでの爆破の結果生じたものであると批判しています。マットーニョは、Holocaust and Genocide Studiesに掲載されたDaniel Kerenとその同僚の研究[14]に対しても詳しい回答を用意しました。いくつかの論点を要約しておきます。
まず、Holocaust and Genocide Studiesの論文は、Provanの研究に対するマットーニョの批判をまったく無視しています。そして、この論文の筆者たち自身も次の諸点を認めています。
・
この穴のどれ一つとしてオリジナルの設計時点では計画されておらず、コンクリートの注入時に作られたこと、しかし、われわれが扱っているのはコンクリートへのそのあとの損傷であること
・
すべての穴は支柱に隣接しており、このことは、屋根が爆破されて崩落したときに、支柱がその穴を作ったこと
・
犯罪を示唆する鉄網挿入装置が固定されていなくてはならない連結点の痕跡はまったく残っていないこと
屋根および写真を綿密に検討すると、以下の諸点が明らかです。
・
現存の穴と亀裂の周囲から、コンクリート・スクリードや防水隔離層が取り除かれていないこと
・
穴を穿った痕跡が、前述の二つ(図64)をのぞいて、どの穴にも発見されないこと
・
穴の周囲に投入口柱用のモルタルやコンクリートの痕跡がまったく存在しないこと
・
発見されている穴や亀裂は四角形でもなく、幾何学的な形もしておらず。しかも、鉄筋が取り除かれていないこと。
L:でも、少なくとも屋根に穴はあるのですね。
R:はい、しかし、区別する基準がない場合、爆破によってできた穴とそれ以前から屋根にあった穴とをどのようにしたら区別できるのかという問題が決定的です。言い換えれば、Daniel Kerenとその同僚たちは、オリジナルの穴と爆破によってできた穴とを区別することはできないという主張をしていますが、この主張にもとづけば、オリジナルのチクロンB投下穴が実在したという説は、いかなる反証も免れることができてしまうのです。しかし、そのような議論は、まったく非科学的ですし、その非科学性は以下の諸点から証明されています。
1. 二つとはいわないまでも、一つの穴は、屋根が破壊されたのちに作られた。捏造者たちでさえも、明らかに不満足な環境のもとで、「証拠を作り出そう」としながら、そこで作業を進めた。
2.
ダイナマイトで爆破されるまえの屋根の上に穴が存在した証拠はまったくない。状況証拠はすべて、穴は爆破によって作り出されたと示唆しており、爆破される前に穴が存在していたという説は、論理的に認めがたい。
3.
爆破以前に穴が存在しており、その穴は目撃証言が述べているような特徴をもっており、建築技術と安全の観点にも適合するものであったとすれば、これらの穴は、屋根がダイナマイトで爆破されたあとでも見分けができるような痕跡を残しているはずである。そのような痕跡を発見することはできないので、目撃者は偽証していることが立証されている。
この話を締めくくるにあたって、Holocaust and Genocide Studies誌の三人の著者は意図的に写真を間違って解釈するという手段にもうったえているということを指摘しておきたいと思います。このことは、戦時中に撮影された地下室の地上写真からも明らかです。焼却棟Uが完成する直前の1943年2月10日頃に撮影されたこれらの写真の一つにはいわゆるガス室の屋根の上にいつかの物体が写っています(図66)[15]。
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図66:ビルケナウの焼却棟Uの写真、1943年2月 |
図67:図66の拡大写真、3つの物体の幅は、50cmから75cmである。さらに、影も様々であり、さまざまな場所にあったこと、おそらく、さまざまな形状・資材であったことを示している |
図67の拡大写真から、次のことがわかります。
・ これらの物体の幅は異なっていること
・ これらの物体の影の色は異なっていること
・ これらの物体は隣接しており、4つの投入口柱は屋根の上に均等に配置されていたという説と矛盾していること(図68)
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図68:焼却棟Uの死体安置室1の横断面。物体の遠近法消尽線、すなわち、交差線上にある物体の推定位置 |
図69:Kerenたちが読者をミスリードするためにぼかした拡大写真。左側の三番目の物体は無視されている[16]。 |
さらに、Daniel Kerenによる拡大写真(図69)の質は劣っているので、物体の幅を確定しにくい。彼らは、屋根には小さな投入口柱が均等に配置されていたという説と矛盾してしまうために、右から数えて三番目の物体を無視している。
図70:図66とほぼ同じアングルから1943年1月20日に撮影された焼却棟Uの写真。謎の物体は写っていない[17]。
さらに、1943年1月20日に撮影された地下室の屋根の写真(図70)にはまったく物体が写っていません。
L:チクロンB投下柱ではないとすると、この物体は一体何なのですか?
R:この時期、焼却棟の建設は最後にさしかかっていましたので、例えば、屋根の上におかれた建築資材だったのでしょう。
焼却棟についての議論に結論を下すにあたって、ホロコースト正史の不合理な論点に皆さんの関心を向けたいと思います。すでに指摘しておきましたように、ホロコースト正史は、焼却棟UとVは、建設の最終段階になってはじめて、殺人用に設計し直されたと主張しています。そして、このような殺人計画の状況証拠として、1942年晩秋と冬になされた設計変更を強調しています。しかし、あとで立証するように、これらの変更にはまったく犯罪的な要素はなく、殺人目的で変更が行なわれたわけではありませんでした。ここで焦点をあてておきたいのは、もしもホロコースト正史が主張しているように、SSが1942年の晩秋に焼却棟の設計を変更しはじめたとするならば、彼らが、1943年1月にコンクリートが注ぎ込まれた焼却棟Uの死体安置室1の鉄筋コンクリートの屋根を、最初からチクロンB投下穴を備えているように的確に設計していなかった事実をどのように説明することができるかということです。
L:間抜けなSSにはなんでもありなのです。
R:しかし、間抜けだとすれば、効率的な大量殺戮を実行することもできないし、6年にわたって、全世界を相手に戦争することのできないでしょう。
次に、中央収容所の古い焼却棟についてお話したいと思います。この屋根にもチクロンBの投入のために穿たれた4つの四角形の穴があったという話になっています。ただし、これらの穴に鉄網柱がついていたという説はないのですが。
L:犠牲者の頭の上に直接投げ込まれたという話になっています。
R:そのとおりです。図71は、「Leichenhalle(死体安置室)」と記されている部屋が殺人ガス室として使われていたとされる時期のこの焼却棟の平面図です[18]。
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図71:中央収容所=アウシュヴィッツTの焼却棟Tのオリジナル設計の平面図 1:前室 2:配列室 3:洗浄室 4:死体安置室(「ガス室」) 5:炉室 6:石炭貯蔵室 7:骨室 |
L:でも、死体安置室に直接入る入り口がないですね。
R:そのとおりです。外から死体安置室に直接入る入り口はありません。犠牲者は、配列室、洗浄室、ひいては炉室を通ってから、死体安置室に入らなくてはならなかったのです。
L:死体のそばを通っていくことになりますね。それでは、犠牲者たちが疑心暗鬼になり、非協力的となってしまいますね。
R:まったくです。4つの穴がこの死体安置室の屋根に穿たれたという話になっています。この部屋に換気システムが存在したという文書資料は長らく発見されてきませんでした。ですから、アウシュヴィッツ博物館長ピペルは、このようなシステムはなかったと考えています。彼はこう述べています[19]。
「焼却棟Tにはまったく換気装置がなかった。ドアが開かれ、ガスは対流によって排出された。」
L:しかし、死体安置室には外とつながるドアがありませんね。
R:何ということでしょう!
L:換気システム無しで、どのようにして死体安置室を稼働させることができるのですか?
R:悪臭が残るかもしれませんが、ガス室よりは簡単です。
L:毒ガスではなく、悪臭にすぎないからですね。
R:そのとおりです。反対に、シアン化水素は無臭ですが、高い毒性を持っています。
しかし、最近、換気システムが存在したことを明らかにする資料が、マットーニョによって発見されました[20]。政治部長(マキシミリアン・グラブナー)からSS新建設局長あての1941年6月7日の手紙には、こうあります[21]。
「適切な換気システムを焼却棟死体安置室に設置することがぜひとも必要です。今まで使われてきたシステムは、二番目の炉によって役に立たなくなりました。…現在のような温かい天気のもとでは、換気システムがなく、新鮮な空気を送り込めないという状況はとくに際立っています。…ですから、二つの換気扇、一つは排気用、もう一つは吸気用の二つの換気扇を死体安置室に設置していただきたいのです。排気用の換気扇には、煙突にダクトを追加しなくてはなりません。」
ですから、SSはこの死体安置室に機能的な排気システムを設置したことがわかります。マットーニョが公表した文書資料は、死体安置室からの汚染された空気は主要煙突へと導かれることを明らかにしていますが、新鮮な空気がどのようなかたちで取り込まれたのかはわかりません。おそらく、屋根の穴からでしょう。
L:それでは、SSはこれらのいわゆる処刑室すべてに換気装置を設置したのですね。それ以外のことは考えられませんね。
R:そのとおりです。それ以外の証言は、虚偽の証言としてしりぞけなくてはならないでしょう。
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図72: 1944年に防空シェルターに改築されたのちの、アウシュヴィッツT中央収容所の焼却棟Tの平面図。 1: 気密室 2: 作戦室; 3:旧洗浄室、今は便所つきの防空シェルター; 4: 防空シェルター; 5: 旧炉室 |
1944年、1943年以降稼働を停止していた中央収容所の焼却棟は、図72[22]が示しているように、SS用の防空シェルターに改築されました。存在していたとの仮定の話ですが、チクロンB投下口はこの時にふさがれたということになっています。
防空シェルターへの改築作業をリストアップした文書がありますが[23]、屋根の古い穴をふさいだ件にはまったく触れていず、壁の中に新しく作られたガス気密窓・ドア・穴を設置する件には詳しく触れています。
「ガス気密ドア、窓シャッター、窓の設置、暖房炉、および換気出口、吸入穴、パイプのために石壁に開口部を作ること」
L:この文書によると、改築以前には、壁にはガス密閉ドア・窓・穴がなかったみたいですね。
R:死体安置室の換気システムの一部分として新鮮な空気のダクトのための穴が存在していた――それだけでは防空シェルターの各種の部屋には不足であったのでしょう――と思われますが、それ以外の穴はなかったと解釈するのが妥当でしょう。
改築が終わるまで、以前の死体安置室の部屋に外から直接アクセスすることはできませんでした。改築によって設置された気密室は、現在、「犠牲者の入り口」と詐欺的に呼ばれています[24]。
L:だとすると、犠牲者はどのようにしてガス室に入っていったと考えればよいのでしょうか?
R:「ドアがなければ、絶滅もない」とフォーリソンが手際よく表現しています。
L:旧炉室につながるドアが防空シェルターの平面図(図72)に記載されていますが、このドアはこの建物が焼却棟として機能していたときにすでに存在していたのですか?
R:図73によると、ドアの開き方は別ですが、1940年から1942年の図面から存在していたことがわかります。しかし、防空シェルターに改築されたとき、このドアと壁の開口部は取り除かれたので、図72の平面図には欠陥があります。
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図73: アウシュヴィッツの焼却棟Tの死体安置室(下部)と炉室(上部)とのあいだの回転ドア。この図面が作成されたのは1942年4月10日であるが、それは、死体安置室が殺人ガス室として使われていたとされている時期である[25]。 |
L:回転ドアか二つのドアがあったのですね。
R:そのとおりです。
L:ガス室の設置は終わっていたはずですが、回転ドアはガス気密構造ならびに人々のパニックに耐えられる構造にはなっていません。いわゆるガス室へのドアは、数百の死体が内部からブロックしていますので、開かなかったでしょう。
R:良く観察されていますね。
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図74: 戦後の変更後の今日のアウシュヴィッツT/中央収容所の焼却棟Tの平面図[26]。 1: 「ガス室」; 2:チクロンBの投下穴 ; 3: 便所の排水口; 4:死体安置室と洗浄室の旧隔壁; 5:防空シェルター用の換気シャフト; 6: 今日では「犠牲者の入り口」と呼ばれている気密室; 7:骨室, 8: 石炭室; 9:再建された炉; 10:炉室への新しい通路(間違った場所にある、オリジナルの場所は点線)11:古い炉の残骸; 12:まがいものの煙突 |
図74は、現在の焼却棟の平面図です。これと防空シェルターのレイアウト(図72)を比較すると、ポーランドの博物館当局が戦後行なった変更を見て取ることができます。博物館当局は、これが「ガス室」の正確な復元であると主張していますが、古い焼却棟のオリジナルレイアウト(図71)と比較すると、そうではないことがわかります。
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旧死体安置室から旧炉室への入り口は、1944年に防空シェルターへの改築のときに作り直された。しかし、炉室への新しい入り口は間違った場所にある。
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オリジナルの洗浄室と死体安置室=「ガス室」は別個の部屋であるが、それを隔てる隔壁が間違って取り除かれている。このために、「復元されたガス室」はオリジナルの死体安置室よりも大きくなっている。
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防空シェルターに入るための気密室を介した入り口はまったく取り除かれていない。
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煙突につながっていない非稼働の焼却炉は、古い炉の色々なパーツを使って復元されたものである。
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新しい煙突が作られたが、炉とはつなげられていない。
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チクロンB投入穴を発見することができなかったので、新しく穴を作り、それに小さな木造投入柱とハッチを設置した。しかし、屋根にあるこれらの穴の間隔は、大きくなった新しい「ガス室」のサイズに一致している[27]。
L:しかし、前にあった穴の場所がわからないということなどがどうして生じたのでしょうか。鉄筋コンクリートの屋根にある穴を跡形もなく消し去ることなど不可能なはずですが。
R:実際には、以前のふさがれた穴を示すいくつかの点がありますが、それらは円形であり、目撃証人が主張しているような四角形ではないのです。そのうちに一つはオリジナルの死体安置室の屋根の外にあります[図75の4]。ふさがれている穴は、屋根のスペースに対して均等に配置されてもいません(図75)。
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図75:洗浄室と外科室を持つ焼却棟Tの死体安置室の平面図(オリジナル状態)。A、B、C、Dは戦後に作られた、現在の屋根の穴の場所[洗浄室と死体安置室の隔壁を取り除いたあとの現在の「ガス室」の屋根にマッチしている]。1、2、3、4は防空シェルター時代の換気と暖房ダクト用の穴の場所(現在は塞がれている)[28]。 |
L:チクロンBの投入用ではないとすると、何のための穴だったのですか?
R:引用した文書に登場する穴に違いありません。防空シェルターの各部屋に換気システムと暖房排気パイプ用のダクトを設置するために作られたのです。アウシュヴィッツ博物館当局は、これが彼らの考えている「ガス室」の穴とはマッチしていないので、「復元」の過程でふさいでしまったのでしょう。
L:またもや、「穴がなければ、ホロコーストもない」ですね。
R:まったくそのとおりです。ですから、まえにも紹介したように、Eric Conanは、[「アウシュヴィッツ博物館が1948年に開設されると、焼却棟Tはオリジナルと推定される状態で再建された。しかし、そのすべてが捏造である。ガス室の大きさ、ドアの配置、チクロンB投入口、炉――生存者の証言にそって、まったく新しく作り直された――、煙突の高さなどである。…今のところ、このような事態が続いており、見学者には何も語られていない」]と述べるにいたっているのです。
1994年、アメリカの修正主義者ディヴィッド・コールはユダヤ帽をかぶりながらという冗談めかしながら、アウシュヴィッツについてのドキュメンタリー・ビデオを撮りました。
L:コールはユダヤ人ですね?
R:彼の両親はユダヤ人ですが、彼自身はユダヤ教徒ではありません。彼は、博物館の女性ガイドが「復元された」「ガス室」を本物のガス室としてコールやその他の見学者に紹介している場面を撮影しています。次に、この当時博物館長であったピペルにインタビューしています。ピペルは、多くの不合理な点や矛盾した点を突きつけられて、見学者に展示されている「ガス室」が本物ではないことを、カメラのまえで認めています。ですから、コールは、博物館当局が来る年も来る年も、数百万の見学者に嘘をつき続けている場面を捉えたことになります[29]。
L:とくに性質の悪いアウシュヴィッツの嘘ですね。
R:そうですが、ヨーロッパの法律はこの嘘を処罰の対象とみなしていないのです。
[1] J.-C. Pressac, op. cit.
(note 251), pp. 319-329. この図面に記載されている数字は、私がサンプルを採取した場所である。
[2] 万事において、考えられる中でもっとも馬鹿げたことやってしまう想像上の町シルダについてのドイツの童話。
[3] この焼却棟の何と別の死体安置室である死体安置室2の装備品目録に記載されている「4 Drahtnetzeinschubvorrichtungen」にもとづいている。cf. J.-C. Pressac, op. cit. (note 251), p. 430.
[4] クラクフでのヘス裁判のときに、ミハル・クラがこのような考え方を証言した。files, vol. 2, pp.
99f.
[5] J.-C. Pressac,
op. cit. (note 251), pp. 483f.
[6] Ditlieb
Felderer, “Auschwitz Notebook Part 2: Lids and
Openings,” JHR
1(3) (1980), pp. 255-266, here p. 265.
[7] Cf. updated in G. Rudolf, op. cit.
(note 415), pp. 113-134.
[8] Hos trial, vol. 11, p. 45.
[9] C. Mattogno, “‘No
Holes, No Gas Chamber(s),’” TR 2(4) (2004), pp. 387-410.
[10] Pelt Report,
introduced in the
[11] 1994年の歴史評論研究所大会で唱えられた。
[12] C. Provan,
op. cit. (note 490).
[13] 556 D. Keren,
J. McCarthy, H.W. Mazal, op. cit. (note 490).
[14] Carlo Mattogno, “The Openings for the
Introduction of Zyklon B,” 2 parts, TR 2(4)
(2004), pp. 411-436.
[15] J.-C. Pressac,
op. cit. (note 251), crematory II, p. 340, taken between Feb. 9-11, 1943; also
in D. Czech,
op. cit. (note 510), p. 454.
[16] D. Keren et
al., op. cit. (note 490), pp. 80.
[17] From D. Czech, op. cit. (note 510), p.
398, and J.-C. Pressac, op. cit. (note 251), p. 335.
[18] J.-C. Pressac,
op. cit. (note 251), pp. 151, 153.
[19] D.D. Desjardin, “My Visit to Auschwitz-Birkenau, May 30-31, 1996,” Interview with F. Piper (www.vho.org/GB/c/DDD/ndddausch.html).
[20] C. Mattogno,
[21] RGVA, 502-1-312, p. 111, cf. C. Mattogno, ibid., Dok. 9.
[22] J.-C. Pressac,
op. cit. (note 251), p. 156.
[23] “Herstellung der fur die Beheizungsofen,
sowie fur die Ent- und Beluftung erforderlichen Mauerdurchbruche und Schlauche,”
Letter of the head of Air Raid Shelters Auschwitz, Aug. 26, 1944, RGVA
502-1-401; cf. also “Erlauterungsbericht zum Ausbau des alten Krematoriums als Luftschutzbunker fur SSRevier mit einem
Operationsraum im K.L.Auschwitz O/S. BW 98M,” RGVA 502-2-147.
[24] J.-C. Pressac,
op. cit. (note 251), pp. 131f.
[25] “SS-Neubauleitung, K.L. Auschwitz – Krematorium,”
Nov. 30, 1940; RGVA, 502-1-312, p. 135; “Bestandsplan
des Gebaudes Nr. 47a B.W. 11, Krematorium,”
[26] J.-C. Pressac,
op. cit. (note 251), p. 159.
[27] Ibid., p. 133.
[28] Taken from Carlo Mattogno,
op. cit. (note 557), p. 269; here a slightly corrected version.
[29] “David Cole Interviews Dr. Franciszek Piper,
Director, Auschwitz State Museum,” VHS Video, distributed by CODOH, P.O.