3.4.5. 戸外壕での焼却

L(聴衆):大量殺戮の犠牲者は焼却棟ではなく戸外で焼却されたのではないでしょうか?

R(ルドルフ):それは、フリツォフ・マイヤーの説です。この場合には、SSが余裕を残した処理能力を持つ焼却棟を使わないで、別の方法に頼った理由を説明しなくてはなりません。戸外焼却は、大量のエネルギーが放熱と対流のために失われてしまうという単純な理由から、炉での焼却よりもはるかに非効率です[1]

 

L:しかし、大規模な戸外焼却が行われた証拠は航空写真には存在しないと立証されたのではないですか?

R:そのとおりです。しかし、それは19445月初頭以降の時期です。それ以前の写真はありません。1944年までにすでに埋められてしまった壕が存在したと仮定することもできます。

 

L:いくつかの写真に写っている長方形の区画のことですか。

R:それも一つの例です。もしそのような壕が存在していたとすると、12年後に撮影された写真では、その実在を覆すことはできません。

 

L:壕での焼却についてもう一つ質問があります。ビルケナウ収容所周辺地域が、あなたのおっしゃるとおりに湿地帯であったとすると、地下水に妨げられることなく、数mの深さの壕を掘ることができたのですか?

 47:ビルケナウ収容所の」死体焼却壕が掘られたとされる地点に近い場所の地下水、ビルケナウの排水システムが作動している1997年に撮影。

R:それが、戸外焼却説を反駁する有力な論点なのです。二人の専門家がそれぞれ別個にこの問題を研究し、ビルケナウ収容所内部と周辺の地下水のレベルが、1941年から1944年には地下12フィートであったことを明らかにしています。すなわち、深い壕を掘れば、水で満たされてしまうのです[2]

 

L:では、水に浸かった死体をどのように燃やすのですか?

RSSの黒魔術を使ってでしょう。

 

L:馬鹿なことをおっしゃらないでください。大量殺戮を否定しているだけではなく、冗談も口になさるのですね。

R:ほかに、うまい説明がありますか?

 

L:地下水のレベルが排水システムのおかげで低くなっていたというのはどうですか?

R1944年の時点で、収容所自体には排水システムが完備されていましたが、1942/1943年に行なわれたとされる壕での焼却は、改良された区画から離れたところで行われたに違いありません。さらに、排水システムが建設されたのは1942年以降です。しかし、1944年に存在していた排水システムが収容所の地下水レベルを下げることができたとしても、せいぜい3フィート以下でしょう。ですから、この説に組しない方が良いと思います。

 

48(上)と49(下):チフスの犠牲者を埋めたと思われる、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所近くの古い埋葬地

 

 実際の問題としていえば、1942年秋にビルケナウで戸外焼却が行われたというのはありうることだと思います。チフスが蔓延した同年夏には、古い焼却棟は、煙突に大きな障害が出たために数ヶ月間活動停止していました。チフスの犠牲者の死体数千が、地下水レベルの高いために深く掘れていない埋葬地に埋められたのでしょう。航空写真に写っている長方形は、そのような埋葬地だったのかもしれません。図4849にありますように、そのような大量埋葬地とみなされる場所が、ビルケナウ収容所の近くに三箇所ありました。チフスの犠牲者の死体は、地下水の腐敗を防ぐために、数週間か数ヵ月後に掘り起こされたのでしょう。ビルケナウには焼却棟がなく、中央収容所の古い焼却棟が稼働停止していたので、収容所当局は、戸外で焼却しなくてはならなくなったのでしょう。1942917日の文書がありますが、その中で、ビルケナウの新しい焼却棟の計画に関与した設計技師のヴァルター・デヤコは[3]「特別施設の設置についてブローベルSS大佐と話し合ったこと」を伝えています。この「特別施設」とは戸外での焼却のことでしょう。デヤコは「圧搾機」のことにも触れていますが、それは燃えつきていない残余物を砕く装置のことだったに違いありません[4]

 メインストリームの歴史家たちがアウシュヴィッツの標準的な事件史として引用する『アウシュヴィッツ・カレンダー』は、大量殺戮については目撃証言だけに依拠しているのですが、それによると、すでに埋められていた死体を掘り起こして焼却することは、1942921日から11月のあいだに行われたことになっています[5]

 

L:腐乱死体の掘り起こし、悪臭、薪の上での焼却、残余物の粉砕という恐ろしい仕事のことを述べている目撃証言がありますね。パウル・ブローベルは戸外焼却の専門家としてたびたび登場しています[6]。これらの証言が真実だと思いますか?

R:このような記述の信憑性については疑問を抱いています。でも、あなたのあげている証言は、ガス室で殺されたとされている囚人の死体の焼却について触れているのです。ガス室での殺人と死体の焼却とは別のことなのですが。ブンカーでのガス処刑と戸外焼却は、1941年から1942年にかけての晩冬もしくは1942年春に始まったとされています。ですから、19429月に、この施設の建設計画を学ぶために同じような施設を視察したというのは、時期的に遅すぎるのです。言い換えれば、戸外焼却施設を調査したというデヤコの手紙自体が、大規模な戸外焼却が19429月以前にはじめられていたという説を反駁しているのです。

 

L:しかし、この時期に始まったという説を反駁しているわけではありませんね。

R:そのとおりです。しかし、戸外焼却の実施の背景となっているのは、この当時ビルケナウでチフスが蔓延していたことなのです。

 

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[1] Cf. for this Carlo Mattogno, Combustion Experiments with Flesh and Animal Fat,TR, 2(1) (2004), pp. 64-72.

[2] Michael Gartner, Werner Rademacher, Ground Water in the Area of the POW camp Birkenau,TR, 1(1) (2003), pp. 3-12; Carlo Mattogno, Open Air Incinerations in Auschwitz: Rumor or Reality?, ibid., pp. 14-17.

[3] Cf. W. Luftl, 1972: A Somewhat Different Auschwitz Trial,TR 2(3) (2004), pp. 294f.

[4] NO-4467; RGVA, 502-1-336, p. 69; cf. Ill. 124 in the appendix, p. 330.

[5] Danuta Czech, Kalendarium der Ereignisse des Konzentrationslagers Auschwitz-Birkenau 1939 1945, Rowohlt, Reinbek 1989, p. 305 (Engl.: Auschwitz Chronicle, 1939-1945, H. Holt, New York 1990).

[6] G. Reitlinger, op. cit. (note 252), pp. 144, 146f.; Raul Hilberg, op. cit. (note 39), pp. 389, 977; E. Kogon, et al. (ed.), op. cit. (note 96), p. 60-62, 134, 169; I. Gutman (ed.), op. cit. (note 112), article Aktion 1005, vol. 1, p. 11; Steven Paskuly (ed.), Death Dealer. The Memoirs of the SS Kommandant at Auschwitz, Da Capo Press, New York 1996, p. 33f.; cf. Dokument NO-4498b of the IMT, as well as Paul Blobels confessions, NO-3842, 3947.