3.4.4.焼却棟

L(聴衆):焼却棟の煙突から煙の雲が出ていないことは、焼却棟が使われなかったことを立証しているわけではありませんね。それらは使われることを目的として建設されたのですから。設計が優れていたので、煙を出さなかったのかもしれません。

R(ルドルフ):あなたのご意見は、これから検討しようとする問題、すなわち、アウシュヴィッツの焼却棟は、しばしば語られているように、数十万の犠牲者の死体を焼却する能力を実際に持っていたのかどうかという問題にかかわっています。

 アウシュヴィッツの焼却棟の燃料は石炭でしたので、その煙突はその他の石炭燃料施設と同じように煙を排出したと推定しなくてはなりません。

 

46:ビルケナウの焼却棟Uの煙突に付いた煤堆積物[1]

 

 ビルケナウの焼却棟Uの煙突の写真(図46)をご覧ください。煙突のふちが煤けています。ですから、ここから煙が出ていたことがわかります。しかし、厚い煙の雲で収容所全体、地区全体を覆うほどができるような大量の煙を排出していたわけではありません。

 また、アウシュヴィッツの焼却棟から煙が出ているところを写していた写真は一つしかないことも指摘しておかなくてはなりません。すなわち、1944820日の写真に写っている焼却棟Vの煙突です。これらの煙突は稼働していれば煙を出していましたが、1944年晩春と夏には、

ほとんど稼働していなかったことを証明しています。

 

L:近くにあるIGファルベンの石炭精製プラントの方が、焼却棟よりも多くの煙を排出していたのではないでしょうか?そして、風が吹き続けていなければ、渓谷に多くの煙がたまってしまって、問題が生じたのではないでしょうか?

R:さらに、化学プラントからの悪臭もあるでしょう。当時、このような作業に対する公害規制措置は、今ほど厳しいものではありませんでした。

 アウシュヴィッツには悪臭が漂っていたという証言の中にも真実が含まれています。もっとも、その悪臭の原因は別のものでしょうが。

 

L:煙突から炎が噴出していたということについてはどうですか?

R:この問題については、すでにヴァルター・リュフトルを引用しておきました。さらに、イタリアの修正主義的研究者マットーニョ氏が、この問題を文書資料にもとづいて、包括的に解決しています。彼の実験は、最悪の条件であっても、炎が焼却棟の煙突から噴出するなどありえないことを立証しています。

 その理由は、炉から煙突の頂上までの煙ダクトが30m100フィート)ほどであったという単純な事実です。石炭はほぼ炎を発することなく燃えます。ですから、とくに炉室に人間の死体以外に、可燃性の液体やガスなどがない場合には、炎がこのような長い距離を移動することなどありえないのです[2]

 

L:わかりました、炎が出ることはなく、わずかの煙が出るだけなのですね。しかし、炎と煙というだけでは、焼却効率を推定することはできません。

R:炎を噴出す煙突という問題は、目撃証人の信憑性を裁定する上で重要な要素です。証人たちが自分たちの証言の劇的効果――しかし、信憑性には欠けている――を高めようとしているのかどうかを知る上で重要なのです。

 正しく指摘されているように、煙と炎が出ていたという事実からは、焼却棟の効率、焼却された死体の数を知ることはできません。

 数を決定するには、焼却棟の能力、すなわち、焼却棟が一定時間でどれだけの死体を焼却できるかどうかを知っておかなくてはなりません。多くの場合、正史派の歴史家たちは、私が第二講で引用したEllic Howeの宣伝著作にしたがっているだけです。すなわち、「焼却棟」は一日3000体ほどを焼却しているという数字をあげているのです。内容がひどくまちまちな目撃証言に加えて、SSの管理文書もこのような能力の証拠としてしばしば引用されています。それは、アウシュヴィッツの焼却棟全体の一日の処理能力を4756体としているのです[3]。この数字にもとづくと、1年半の稼働期間で、最大の処理能力は約260万体になります。

 

L:何と、この数に焼却壕で焼かれた死体の数を付け加えれば、400万人という数になりますね。この文書は本物なのですか?

R:研究者のあいだでも意見が分かれています[4]。しかし、とくに重要というわけではありません。

 

L:といいますと?

R:そんなに急がないでください。もしも、旧型のフォルクス・ワーゲンの最大速度が時速320マイルであり、一年で270万マイルを走行できると述べている「文書」を発見したとすると、この文書のことをどのように評価しますか?

 

L:このような文書の作者はジョークを述べているのだと思います。

R:どのような理由からそのように判断したのですか?

 

L:フォルクス・ワーゲンの技術データからです。

R:そうでしょうね。では、アウシュヴィッツの焼却棟についても同じような筋道をたどって検証してみましょう。

 ただし、この問題にはすでに優れた研究がありますので、ここでそれを繰り返そうとは思いません。1990年代初頭から、独立したイタリア人技術者フランコ・ディアナ博士とイタリアの修正主義的歴史家マットーニョ氏がアウシュヴィッツで捕獲された数千のSS文書――焼却棟の炉を建設した会社とその発注・維持を担当したSSの文書――および焼却炉一般とこの当時のモデルに関する専門的研究書・商業出版物を分析しています。ディアナとマットーニョはこの文書にもとづいて、非常に具体的な計算をしています[5]。『シュピーゲル』紙の主任編集者であったドイツの左翼急進派のジャーナリストフリツォフ・マイヤーでさえも、2.21節で触れた論争書の中で、これらの科学的分析結果に依拠しているほどです。ここでは、彼らの研究の分析結果をまとめておきましょう。

 

7:アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の特徴

 

焼却棟UとV

焼却棟WとX

燃焼室ごとの石炭消費(理想)

一時間15.5kg

一時間11.7kg

燃焼室ごとの石炭消費(実際)

一時間22kg

一時間16kg

一体あたりの必要時間

1時間

1時間

燃焼室の数

30

16

一日最大稼働時間

20時間

20時間

一日最大死体処理数

600

320

稼働日数の合計

888

276

最大処理能力の合計

532800

88320

 

L600000体以上ですね。大量殺戮が計画されていたことをたしかに示しています。

R:そんなに急がないでください。「ブンカー12」が開設された1942年初頭の時点で、アウシュヴィッツは大量殺戮現場となったというのが定説です。しかし、この時点では、4つの新しい焼却棟を建設するという計画はまだ登場していませんでした。この時計画されていたのは一つの焼却棟だけです。焼却棟Uのことですが、それは、中央収容所の旧焼却棟が閉鎖されることになっていたので、その代替物として計画されていたのです。1942年夏に、収容所でチフスが蔓延し[6]、一日500名の囚人が死亡する事態となった以降に、3つの焼却棟を追加して建設するという計画が出てきたのです[7]。これが、焼却棟の能力を大きく拡大しようとした背景でした。さらに、ヒムラーは、1942717日、18日にアウシュヴィッツを訪れたとき、収容能力を200000名にまで拡大するように命じました。10倍の拡張です[8]。収容人口が1000%も増えてから、チフスの疫病が蔓延したとすれば、どのような事態になると思いますか?

 

L:恐るべき事態が発生しており、囚人たちがハエのように死んでいる場所に、人々を送り込むことなど考えられませんね。

R:モラルの面から考えれば、そのような移送に反対するのが当然です。実際には、アウシュヴィッツへの移送は、疫病が蔓延してからも続けられました。ただし、アウシュヴィッツでは疫病が蔓延していたために、移送者の大半はアウシュヴィッツには登録されず、別の場所にすぐ運ばれていきました。

 

L:何の罪もない人々をそのような危険に無謀にもさらしてしまうことは、怠慢による殺人と呼ぶことのできる行為です。

R:そのとおりです。数千名を怠慢によって殺してしまったのです。しかし、焼却棟の処理能力の数に戻りましょう。表7の数字は、理論的な最大値のために、誤解を生み出します。たとえていえば、時速80マイルの旧式のワーゲンをとりあげて、一日20時間を最高速度で走行すれば、1年半で900000マイルほどを走りきることができるというようなものです。

 

L:最高速度で長時間走行すれば、エンジンがもたないと思いますが。

R:同じように、燃焼室も、いつも最大能力で稼働させれば、長くもちません。

 ですから、実際の焼却数を見積もるために、二つのパラメーターを考えておこうと思います。

 その一つは、炉の耐火煉瓦の耐久性です。ビルケナウの炉を建設したトップフ社は耐火煉瓦の耐久力を3000回の焼却と考えていました。それは、この当時では標準の50%増しでした[9]。ビルケナウの焼却棟を稼働・維持させていたのが未熟練で敵意を抱く人々、すなわち囚人たちであることを考慮すると、トップフ社の見積もりは、非常に楽観的な最大値であることがわかります。3000回の焼却が終わると、耐火煉瓦は取り替えられるのですが、それは、焼却棟全体をオーバーホールするのと同じような費用と時間を必要としました。ワーゲンのエンジンを新しいものに積み替えるような作業です。アウシュヴィッツ中央建設局の文書資料は、一本の釘やねじも記載するような非常に詳細なものですが、ビルケナウの焼却棟の炉の耐火煉瓦を取り替える作業が行なわれたことを記載している文書は一つもないのです。ですから、焼却棟の耐久能力の最大値(46燃焼室×3000回=138000体)を超えることはなかったという結論となります[10]

 アウシュヴィッツ死亡者名簿という文書資料がありますが、これは1941年から1943年のデータまでしかカバーしていません。このデータを収容所の全期間にあてはめると――当然、ガス処刑やその他の殺人による死者は除外されますが――、アウシュヴィッツ収容所当局が記録している「自然死」した死者の数と、先ほどあげた、焼却棟の実際の処理能力とは近い数字となるのです。

 ビルケナウの新しい焼却棟の利用状況を知るための、もう一つのパラメーターは、収容所に搬入された石炭の量です。19422月から194310月までの記録文書が完全に残っています。表8がそれです[11]

 

8:アウシュヴィッツの焼却棟への月ごとの石炭搬入量

1942

トン

1943

トン

2

22

1

23

3

39

2

40

4

39

3

144.5

5

32

4

60

6

25

5

95

7

16.5

6

61

8

31.5

7

67

9

52

8

71

10

15

9

61

11

17

10

82

12

39

合計

1032.5

平均

30

平均

80

 

 まず、関心を向けていただきたいのは、一つのそれこそ驚くべき事実です。中央収容所の6燃料室焼却棟が稼働していた19422月から19432月までの時期(この当時この焼却棟だけが稼働していたのですが)、石炭の月消費量の平均は、約30トン、燃焼室あたり5トンであるという事実です。非常に多くの石炭が搬入されたのは19433月ですが、それはこの当時稼働しようとしていた焼却棟UとWを乾燥させ、前もって暖めるためでした。

 さらに、この当時蔓延していたチフスのために、まだ焼却されていない死体の山が残っていたはずですので、この時期の初めには、焼却棟は中断なく稼動していたはずです。

 新しい焼却棟が稼働し始めたときに、石炭消費量が2.5倍にしか増えていないことは、燃焼室がほぼ8倍に増えていることを考えると驚くべきことです。さらに、新しい焼却棟は古い焼却棟よりも効率的あったはずですので、すべての作業を請け負わなくてはならなかった古い焼却棟とは異なって、そんなに激しく稼働しなくてもよかったはずです。言い換えれば、SSが作り上げた新しい焼却棟の能力はオーバーキャパシティであり、その能力は使われることはなかったのです。

 一体の焼却に必要な石炭消費量を20kgとすれば[12]、合計で1032.5トンの石炭の搬入量を記した文書資料のある21ヶ月間で、51625体を焼却することができたはずです。そして、この数字は、アウシュヴィッツの死亡者名簿に登録されている数の犠牲者を焼却するのに必要な石炭の量と一致しているのです。

 

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[1] APMO, Neg. no. 20995/460.

[2] Cf. C. Mattogno, Flames and Smoke from the Chimneys of Crematoria,TR, 2(1) (2004), pp. 73-78.

[3] RGVA, 502-1-314, p. 14a; cf. E. Kogon et al. (ed.), op. cit. (note 96), p. 157; Brigitte Bailer-Galanda, Wolfgang Benz, Wolfgang Neugebauer (ed.), Wahrheit und Auschwitzluge, Deutike, Vienna 1995, p. 69; J.-C. Pressac, op. cit. (note 251), p. 247; Komitee der antifaschistischen Widerstandskampfer in der DDR (ed.), SS im Einsatz, Kongress-Verlag, Berlin 1957, p. 269; Der Spiegel no. 40/1993, p. 151.

[4] Cf. Manfred Gerner, “‘Key Document is a Forgery,’” TR, 3(3) (2005), in prep.; C. Mattogno, “‘Key Document an Alternative Interpretation, ibid.

[5] C. Mattogno, I forni crematori di Auschwitz. Studio storico-tecnico con la collaborazione del dott. ing. Franco Deana, 2 vols., in preparation. An English translation is planned to be published by Theses & Dissertations Press.

[6] The first known document proving the extended plans is a construction draft of crematories IV & V of Aug. 14, 1942, drawing no. 1678, APMO, negative no. 20946/6

[7] Cf. for this the Sterbebucher, op. cit. (note 51)

[8] Letters by Bischoff to Amt CV of the SS-WVHA, Aug. 3 & Aug. 27, 1942. GARF, 7021-108-32, pp. 37, 41.

[9] R. Jakobskotter, Die Entwicklung der elektrischen Einascherung bis zu dem neuen elektrisch beheizten Heislufteinascherungsofen in Erfurt,Gesundheits-Ingenieur, 64(43) (1941), pp. 579-587, here p. 583.

[10] これに、中央収容所の旧焼却棟の6燃焼室の最大処理能力24000体が加わる。

[11] APMO, D-AuI-4, segregator 22, 22a.; cf. J.-C. Pressac, op. cit. (note 251), p. 224.

[12] 中央収容所の古い二重燃焼室炉の石炭消費量は、ビルケナウの新しい焼却棟の石炭消費量よりも幾分か多かった。