3.4.2 大量殺戮現場

R(ルドルフ):アウシュヴィッツで何が起ったのかを把握するには、基本的に二つの方法があります。オリジナルの典拠資料にあたって、数千の文書資料と目撃証言を分析する方法と、このテーマに関する究極の権威と称している――アウシュヴィッツのポーランド国立博物館のことですが――機関が出版している本にあたる方法です。

 もちろん、大半の人々は後者の方法を選ぶことでしょう。前者の方法を選ぶ時間と金がある人はほとんど存在しないでしょう。ですから、アウシュヴィッツ国立博物館が出版している文献を手短に概観しておきたいと思います。博物館によるアウシュヴィッツ正史と絶滅過程がどのようなものであるのか、手短に概観しておきます。それは次のようなものです[1]

 

 1941年夏、収容所長ヘスは、収容所をユダヤ人絶滅の遂行のためにアレンジせよとの口頭命令を受け取った。すでに19419月、中央収容所の建物地下室で、殺虫剤チクロンBによるシアン化合物を使って数百のソ連軍捕虜に対するガス処刑が行なわれた[2]。次の週に、中央収容所の焼却棟の死体安置室が殺人ガス室に改築された。チクロンBを屋根から下の部屋に投入するために、コンクリートの天井に穴を置けるという改築であった。このガス室は1941年末後に稼働を始め、1943年初頭まで使われた。

 犠牲者の「選別」は、中央収容所の前の鉄道線に隣接する場所で行なわれた。労働可能な囚人は収容所に収容され、労働不可能な囚人は直接「ガス室」に送られた。犠牲者の死体はガス室の隣の部屋で焼却された。その部屋にはもともと二重炉室[3]燃焼炉が置かれていた(のちに三つとなった)。

 1942年前半、ビルケナウ収容所の外にある二つの古い農家がガス室に改築された。「ブンカー1」もしくは「ブンカー2」と呼ばれた。「赤い家」、「白い家」と呼ばれたこともあった。これらの部屋は1943年初頭まで稼働した。19445月、ハンガリー系ユダヤ人の移送に伴って、このうちの一つ(ブンカー2)が、殺人施設としてふたたび稼働するようになった[4]

 これらのブンカーの犠牲者は数メートルの深さの壕の中で、薪によって焼却された。溶け出した人間の脂肪が柄杓で回収され、発火燃料として利用された。

 1942年夏、それぞれ対照形に配置された二組の焼却棟、合計4つの新しい焼却棟をビルケナウに建設する計画が作成された。そのうちの二つには二つの地下死体安置室があり、一つが脱衣室として、もう一つがガス室として使われた。さらに、焼却棟UとVには、5つの三重炉室炉があり、合計15炉室となる。焼却棟WとX[5]には地上部分に死体安置室があり、8炉室を備えた炉と「ガス室」として使われた3つの小さな部屋があった。これらの焼却棟は、19433月から6月のあいだに次々と稼働し始めた。焼却棟WとXは、建築上の欠陥のために、すぐに稼働停止した。焼却棟Wは修復されることはなく、焼却棟Xが修復されたのは戦争末期のことであった。焼却棟UとVの炉は1944年末まで、停止期間をはさみつつも、稼働し続けた。焼却棟UとVの地下ガス室では、中央収容所の焼却棟と同じように、建設が終了してからコンクリートの屋根に穿たれた穴を介して、チクロンBが投入された。地上に設置されてきた焼却棟WとXのガス室には壁に小さなハッチがあり、そこから殺虫剤が投入された。換気設備を備えていたのは焼却棟T、U、Vのガス室だけであった。だから、焼却棟WとXのガス室、二つの農家では毒ガスを強制排気することはできなかった。

 

L:申し訳ありませんが。

R:ちょっとお待ちください。話を最後まで続けさせてください。

 

19445月まで、犠牲者の選別は中央収容所の鉄道線で行なわれていたが、その後、ビルケナウに建設された新しい降車場で行なわれるようになった。

 ガス室送りとなる犠牲者には、衛生上の理由から、シャワーを浴び、衣服の害虫が駆除されると説明された。犠牲者の一部は建物や部屋で、一部は戸外で服を脱いだ。石鹸やタオルを渡されることもあった。そのあと、彼らはガス室につれてこられた。ガス室には、犠牲者を欺くために偽のシャワーヘッドが備えられていることもあった。ドアが閉じられると、害虫を駆除するのに十分な量の殺虫剤が室内に投入された。数分後、全員が死亡した。約15分後、ドアが開けられ、いわゆる「特別労務班員」がガス室から死体を除去する作業を始めた。ガスマスクを付けていることも、付けていないこともあった。彼らは死体から髪の毛を切り、金歯を抜き出した。そのあと、死体を焼却炉か焼却壕のところに運んでいった。炉には死体が詰め込まれ、一つの炉室に8体が押し込まれることもあった。炎と黒煙が焼却棟の煙突や壕から立ち上っていた。燃える死体からの煙と悪臭があたりに立ち込めていた。19445月から9月には、少なくとも10000名のユダヤ人が毎日殺戮された。死体の大半は戸外の壕で焼却された。

 

L:これらのガス室には一時に、何名の犠牲者が押しこめられたと考えられているのですか?

R:目撃証言はまちまちです。焼却棟UとVの地下死体安置室1の面積は210u(2260平方フィート)ほどですが、少なくとも1000名の犠牲者が一時に処刑されたということになっています。2000名の犠牲者、ひいては3000名の犠牲者という数を上げている証言もあります。

 

L:1平方フィートに2分の1人から12分の1人がいることになりますね。2平方フィートのスペースに3人を立たせることができるのでしょうか? ぎゅうぎゅう詰めにしなくてはなりません。

R:きわめて論理的な問題点です。次のような情景となります。1000名の男女+子供が390u(4200平方フィート)の脱衣室にはいります。各人に与えられたスペースは60cm×60cm2フィート×2フィート)で、そのスペースの中で服を脱がなくてはなりません。経験の教えているところでは、人間というものは、バスに乗って、もっと多くの乗客を乗せてあげようとして自発的に詰めようとするような場合を除いて、自発的に詰めようとはしないものです。

 

L:そうした場合でも、多くの時間がかかります。人間というものは、何が必要であるかを知らされて、自発的に協力しようとしないかぎり、他人のためにスペースを開けようとしないものです。まして、この場合には、数百の見知らぬ男女の前で、全裸となるように命じられているのです。そのような作業がうまくいくはずはありません。

R:そのとおりです。人々を一つのドアから長方形の部屋の中に送り込み、その中にきっしりと詰め込むには、リハーサルが必要です。裸の人々がガス室の中に送り込まれるとき、同じ問題が発生します。ガス室は脱衣室よりも小さいので、犠牲者たちはさらに詰め込まれなくてはならないからです。最初に部屋に入ったグループは、この100フィートの長さの部屋の一番奥のほうに規則正しく、壁に向かって整列しなくてはなりません。次のグループが最初のグループの前にやはり整列し、部屋が満杯となるまで、このような作業を続けるのです。完璧に振り付けが行なわれたとしても、少なくとも30分はかかることでしょう。

 

L:一体どのようにしたら、1000名の裸の人々を、まったく裸の他人と肌を接するまで詰め込むことができるのでしょうか?

R:わかりませんが、練習と規律が必要でしょう。兵士、それも服を着た兵士であれば、数週間練習すれば、できるようになるかもしれません。しかし、この兵士たちが裸で、しかも女性兵士の前で整列しなくてはならないとすれば、うまくいくかどうかわかりません。

 

L:そうですね。馬鹿げていますね。結局のところ、このような状況の下では、SS隊員がこれからシャワーを浴びに行くと説明したところで、その話を信用する犠牲者は一人もいないでしょう。隣の人の足が自分の足の隣にあり、向きを変えることもできない状況で、シャワーを浴びることなどできるでしょうか。まして、身をかがめて、身体を洗うことなどできません。

Rまったく馬鹿な話です。技術的問題、文書資料的問題に立ち入らなくても、論理的なレベルで殺人ガス処刑説が非常に胡散臭いことが明らかになりました。これまで大量処刑説を概観してみましたが、それを締めくくるにあたって、アウシュヴィッツでの殺戮手段に関する最初の記事を紹介しておかなくてはなりません。それはソ連の宣伝家ボリース・ポレヴォイ[6]が『プラヴダ』紙に寄稿したもので、今日定説となっている殺戮手段とはまったく異なっているものです[7]

 

「昨年、赤軍がマイダネクの恐るべき、おどろおどろしい秘密を全世界に暴いたとき、アウシュヴィッツのドイツ人は犯罪の痕跡を消し始めた。彼らは、収容所の東側にあったいわゆる『古い埋葬地』の土をならし、電気コンベアベルトを壊し、その痕跡を消した。そこでは、数百の人々が同時に電気処刑され、その死体はゆっくりと動くコンベアベルトの上に投げ捨てられ、溶鉱炉のてっぺんにまで運ばれて、そこに捨てられ、完全に焼却された。残った骨は、粉引きミルに運ばれて粉々となり、周辺の農場に送られたというのである。」

 

 もちろん、コンベアベルトを使った電気処刑、溶鉱炉での焼却という話は、まったく根拠のないソ連の虐殺宣伝にすぎません。この話はすぐに歴史のごみための中に姿を消し、1942年から主張されていた、もっと「信用のある」話、すなわちガス室物語がそれに取って代わりました。このガス室物語が、どの程度信用のおけるものであるのか、これを次節で検証してみましょう。

 

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[1] Danuta Czech et al., Auschwitz, nationalsozialistisches Vernichtungslager, Staatliches Museum Auschwitz-Birkenau, Auschwitz 1997.

[2] 文書資料的な根拠にかけているこの最初のガス処刑に関する証言には多くの矛盾がある。Mattogno, Auschwitz: The First Gassing, Theses & Dissertations Press, Chicago 2005 (www.vho.org/GB/Books/atfg).参照(試訳:アウシュヴィッツでの最初のガス処刑:神話の誕生(C.マットーニョ)

[3] 炉室とは燃焼炉の中にあり、死体が灰となっていく燃焼室のことである。一つの炉室しかない燃焼炉もあり、いくつかの炉室を持つ燃焼炉もあった。アウシュヴィッツには二重炉室炉があり、ビルケナウには三重八炉室炉があった。

[4] 紙面の関係で、ここでは、これらのブンカーについてこれ以上あつかうことはできない。この建物に関する目撃証言には矛盾が多く、SS多使用した建物として実在したのかどうかについても、既存の文書資料にもとづいて、そのようなかたちでの実在が反駁されている。C. Mattogno, The Bunkers of Auschwitz, Theses & Dissertations Press, Chicago 2004 (www.vho.org/GB/Books/tboa).

[5] For a side view and a floor plan see Ill. 123, pp. 329, taken from my expert report, op. cit. (note 415), p. 135; also J.-C. Pressac, op. cit. (note 251), p. 401.

[6] ポレヴォイについてはDon Heddesheimer, “‘Nothing Has Been Invented: The War Journalism of Boris Polevoy,JHR, 21(1) (2002), pp. 23-38.

[7] Boris Polevoy, The Factory of Death at Auschwitz,Pravda, Febr. 2, 1945 (www.fpp.co.uk/Auschwitz/docs/Pravda020245.html); see R. Faurisson, Auschwitz, Facts and Legend,JHR, 16(4) (1997), pp. 14-19.