3.4 アウシュヴィッツ
3.4.1 アウシュヴィッツ工業地帯
図25第二次大戦中のアウシュヴィッツ
R(ルドルフ):まず、アウシュヴィッツの地理的な位置を紹介しておきます。アウシュヴィッツはポーランドの領域に所属しているのではありません。図25にありますように、上部シュレジエン工業地帯に隣接する町なのです。アウシュヴィッツはソラ川とヴィスワ(ドイツ名:ヴァイクセル)川の合流地点にあります。隣接する村ビルケナウは、オストラウとビエリッツ・ビアラ経由でボヘミアから来る鉄道がクラクフ・カトヴィッツ地区に向かう鉄道とつながる交差点にあります。1300年代から1919年まで、ビルケナウの西1キロメートルのところを流れるヴィスワ川は、ドイツのシュレジエンとポーランドとの境界、18世紀にポーランドが分割されてからはドイツのシュレジエンとオーストリアのガリツィア地方との境界となっていました。オーストリア・ハンガリー帝国時代、兵舎がアウシュヴィッツのある地点に建てられました。1919年、この兵舎は新しく創設されたポーランド軍の管轄下に入りました[1]。1939年にドイツ・ポーランド戦争が始まると、この兵舎はポーランド軍捕虜のための強制収容所に変わりました。今日、この収容所は「基幹収容所(中央収容所)」、あるいはもっと単純に「アウシュヴィッツT」と呼ばれています。アウシュヴィッツの町の南西にあり、ソラ川に隣接しています。
ドイツ占領下でアウシュヴィッツ地区は劇的に変化しました。戦前、アウシュヴィッツは西ヨーロッパの標準から見れば、遅れた農村でした。それが、高い質の産業インフラストラクチャーと近代的化学プラントをもつ近代都市に生まれ変わり、ドイツが引き揚げても、そのまま残りました。
L:アウシュヴィッツのドイツ企業がポーランドに利益になったとおっしゃりたいのですか?
R:産業インフラストラクチャーの発展に対するドイツの活動だけに目を向ければ、かなりの程度ポーランドの利益になったと思います。もちろん、この場合には、アウシュヴィッツ地区でのその他のドイツの活動のことには目を向けていませんが。第二次世界大戦中の出来事すべてが、肯定的に評価されるのか、否定的に評価されるのかということにも目を向けていませんが。
アウシュヴィッツ地区が急速に工業地帯と成っていった理由を理解するのは容易です。上部シュレジエンに隣接していること、鉄道の結節点に位置していること、ヴィスワ川とソラ川からの水が豊富であること、こうしたことのために、アウシュヴィッツ地区はドイツの化学産業が発展する理想的な場所となったのです。その上、イギリスからかなり離れていたので、1944年中頃まで、連合国の空爆がおよばない地区でした。
知っておかなくてはならないことは、ドイツにはほとんどかまったく石油資源がなかったことです。しかし、石油生産は軍需産業には不可欠です。ドイツはアラブとロシアの石油から遮断されてしまったので、すでに第一次世界大戦当時、石炭精製技術を発展させていました。この精製技術とは、ドイツのルール地方、ザール地方、シュレジエン地方に豊かに存在していた石炭をガス・液体炭化水素に変えるものでした。これは、人造ゴム、燃料、潤滑油生産などの石油化学産業の原材料としても利用されていました。
第二次世界大戦中、ドイツの石炭精製技術は、とくにルール地方、バーデン地方、アウシュヴィッツ地区で大規模に適用されていました[2]。石炭ガス化過程の最初のステップは、酸素の乏しい環境の中で湿った石炭を燃やすことで一酸化炭素を作り出すことです。ドイツに対する連合国の空爆の効果を調査した合衆国陸軍の分析は、ドイツにとってのこの技術の重要性を次のようにまとめています[3]。
「戦時中のドイツは、石炭、空気、水の上に建設された帝国であった。航空燃料の84.5%、自動車燃料の85%、ゴムの99%以上、濃縮硝酸――爆薬の基本素材――の100%、メタノールの99%が、石炭、空気、水という3つの材料から合成された。…石炭を発生ガスに変えるガス化施設が、この工業システムの中心であった。」
1944年春に連合国の偵察機が撮影したアウシュヴィッツの航空写真を見れば、これらの化学プラントの大きさがわかります[4]。IGファルベンAGは、アウシュヴィッツ強制収容所の強制労働を大規模に使うことによって、数年でこの地区に巨大な化学プラントを作り上げましたが、図25から大雑把なかたちですが、その様子がわかります。
戦後、連合国がドイツの特許を剥奪し、ドイツの科学者を連行し、ドイツの産業を解体したために、この石炭精製技術は破壊されてしまいました。戦勝連合国は、自力更生するドイツを恐れていました。また、安価な石油を利用することができたので、戦後のドイツでは、石炭精製技術が復活することはありませんでした。やっと、1970年の石油危機のときになって、石炭調査活動が、控えめな規模ではありますが、復活しました。
アウシュヴィッツの話に戻りましょう。IGファルベン化学プラント群はアウシュヴィッツでは最大の企業体でしたが、ドイツがこの地区の産業を発展させようとした唯一の事例ではありません。ドイツは、独ソ戦がはじまると、とくにソ連軍戦争捕虜を利用することで、新しい産業での労働力不足問題を解決できると考えました。このために、武装SSは、ビルケナウの町の西に、大規模な捕虜収容所の建設を計画したのです。今日、「アウシュヴィッツU」とか「アウシュヴィッツ・ビルケナウ」と呼ばれている場所です。
図26アウシュヴィッツ・モノヴィッツのIGファルベンAGの化学プラント(1944/45冬)[5]
L:しかし、ビルケナウは純粋絶滅収容所であったといわれているのではありませんか?
R:しかし、1941年10月には、そのような計画が存在しなかったことは確実です。初期の文書すべてがもっぱら戦争捕虜収容所とだけ述べています[6]。
L:収容所はずっと武装SSの管轄下にあったのですか?
R:はい。終戦まで、アウシュヴィッツの建設に責任をおっていた組織は、「武装SS・警察中央建設局」と呼ばれていました[7]。
L:だとすると、武装SSは、ドイツの右翼政治家が描くような、スノウ・ホワイトのマントを着て戦った兵士ではないのですね[8]。
R:それは、その人の歴史像によります。アウシュヴィッツその他の場所で起ったとされる大量殺戮が実際に起こったとすれば、武装SSは大量殺戮に関与したことになります。
ビルケナウは、ソラ川とヴィスワ川の合流地点の渓谷湿地帯にあります。アウシュヴィッツ地区の産業に多数の囚人が必要とされていくことに対応して、小さな労働収容所が上部シュレジエンに次々と作られました。全部で30ほどの衛星収容所がアウシュヴィッツ収容所組織と結びつき、作業現場近くで囚人労働者を収容していました。例えば、図25の地図からもわかるように、ハルメンゼ、ライスコ、モノヴィッツ居住区の近くに衛星収容所がありました。
これらの小規模な収容所で大量殺戮が行なわれたと主張している人々はいませんので、これらの収容所のことについては立ち入りません。大量殺戮が行なわれたという話どころではありません。まったく逆の話になっています。少しわき道にそれて、モノヴィッツの囚人であったヤコブ・レヴィンスキの証言を紹介しておきたいと思います。彼は、フランクフルトのアウシュヴィッツ裁判の前提となった尋問の中で、証言しています[9]。レヴィンスキは妻と一緒に移送されましたが、アウシュヴィッツで引き離され、その後ふたたび会うことはありませんでした。彼は、アウシュヴィッツ・モノヴィッツ収容所の宿舎を「人間にとっては十分な施設」と」描いています[10]。
「収容所の中には10人の女性が仕事をしている売春宿がありましたが、それを利用できるのはドイツ帝国の囚人だけでした。囚人たちは労働の対価として週150マルクを受け取り、それで、マスタード、塩漬けキャベツ、赤カブなどを買うことができました。…収容所には、かなり快適な衛生施設、入浴施設、シャワー室、優れた健康管理施設がありました。…食料としては、週3回の軍隊様式のパン3分の1ローフ、週4回の軍隊様式のパン2分の1ローフ、さらに朝には一杯のコーヒー、週5回の20グラムのマーガリンを受けとっていました。少量のマーマレード、一切れのチーズが配給されることもありました。午後の作業中には、栄養面では価値のない、いわゆるブナ・スープが出ました。夕方には、カブやキャベツの入ったもっと濃いスープが出ました。」
レヴィンスキによると、当初、12時間の重労働と不十分な栄養のために、収容所の死亡率は高かったのですが、その後、労働が軽減されたので、死亡率は劇的に低下しました。彼は、SS指導部についてこう述べています[11]。
「私たちの収容所の所長はSS上級突撃隊長ショットルでした。かれはダッハウ裁判で死刑を宣告されていますが、私たちの収容所に来る前に犯した罪でそうなったのでしょう。私たちの収容所の所長としては、死刑に値するような罪を犯していないからです。」
L:まったく悪意の感じられない、驚くべき証言ですね。この哀れな人物は、SSのおかげで妻を失っているのですよ。このような高貴な人物には脱帽です。
R:そのとおりです。このような証言を行なっている証人に敬意を表します。
1942年以降、アウシュヴィッツは西ヨーロッパ、中央ヨーロッパからのユダヤ人の移送センターとなりました。大量の移送集団が登録されないまま、ビルケナウ収容所を通過していったのです。ここから、周辺の収容所に割りあてられるか、別の労働収容所群に移送されていったのです。ビルケナウ収容所に残されて、そこで登録された囚人もいました。今日、ホロコースト正史は、ビルケナウに登録されなかったユダヤ人は「ガス室」に直接送られたと考えています。
連合軍がイタリアに上陸すると、上部シュレジエン工業地帯はアメリカ軍の爆撃機の射程内に入りました。このために、1944年春、アウシュヴィッツの工業生産は落ち込み、空爆のために建設活動も中断されたのです。
連合国の偵察機がこの当時撮影した航空写真には、収容所群が非常に詳細に写っています。なかでも、ポーランド人農夫が、収容所のフェンスに隣接する自分たちの畑を耕しているのも見て取ることができます。ですから、収容所で起っていることを秘密にしておくことはできなかったはずです[12]。数多くの乗客や貨物運搬者がアウシュヴィッツの鉄道結節点を通過していきましたが、アウシュヴィッツ地区のドイツ・プラントや工場では民間人や軍人とともに、多くの囚人が雇われていたという事実を彼らに隠しておくことは不可能か困難であったことでしょう。収容者たちは、他国の戦争捕虜やドイツ人民間人外国民間人と頻繁に接触しています。さらに、非常に多くの民間建設会社とその従業員が捕虜収容所・強制収容所の建物建設に従事しています。強制収容所から釈放された人々、休暇中の人々も絶えず接触していました[13]。
L:絶滅収容所からの釈放ですって?
R:絶滅収容所であったにせよ、なかったにせよ、アウシュヴィッツとビルケナウからの釈放の事例が存在したことは簡単に証明できます。例えば、アウシュヴィッツ博物館の出版物によると、26200名の登録囚人のうち1000名以上が釈放されており、3000名ほどが他の収容所に移されています[14]。
L:4000名ほどが大量殺戮を目撃したことになりますね。SSは、これらの囚人たちがアウシュヴィッツについて世界に何を語るかについてまったく無関心であったことになりますね。
R:しかし、これらの囚人は、アウシュヴィッツとビルケナウを去っていった囚人全体のごく一部です。釈放された囚人の公式の数は少なくとも1400名で、他の収容所に移された囚人の数は20万名ほどです[15]。
大量の人々がアウシュヴィッツで秘密裏に殺されたと主張している研究者は、自分たちが何を話しているのかについてたんに無知なだけです。彼らはアウシュヴィッツ地区の配置やそこでの日常生活が一体どのようなものであったのかについての知識をもっていず、状況の客観的現実についてまったく無知なのです[16]。ドイツ占領下の地域には、騒々しいアウシュヴィッツの町よりも、秘密裏に大量殺戮を行なうのに適した場所は、数千も存在していたのです。
[1] アウシュヴィッツの歴史についてはRobert van Pelt, Deborah Dwork, Auschwitz: 1270 to the Present, op. cit. (note 324), as well as J.-C. Pressac, op. cit. (note 251)を参照。
[2] Cf. esp.: W. Gumz, J.F. Foster (Battelle Memorial Institute), “A Critical Survey of Methods of Making a High BTU Gas from Coal,”
Research
Bulletin, no. 6, American Gas Association,
[3]
[4] Cf. the various air photos in John C. Ball, Air Photo Evidence, Ball Resource Services Ltd., Delta B.C., 1992 (www.air-photo.com)
[6] “Erlauterungsbericht zum Vorentwurf Neubau K.G.L. Auschwitz,” Oct. 30, 1941, RGVA 502-1-233, pp. 13-30. K.G.L. = Kriegsgefangenenlager = POW camp.
[7] Cf. Carlo Mattogno, The Central Construction Office
of the Waffen-SS and Police
[8] See for instance Franz Schonhuber, Ich war dabei, Langen Muller,
[9] Interrogation on Nov. 24, 1958, Staatsanwaltschaft
beim LG Frankfurt (Main), Strafsache beim Schwurgericht Frankfurt (
[10] Ibid., pp. 305, 305R; cf. in more detail G. Rudolf, “From the Files of the Frankfurt Auschwitz Trial, part 3,” TR 1(3) (2003), pp. 352-358, here pp. 356f.
[11] Staatsanwaltschaft…, ibid., p. 306; この証言は、ショットルについておなじように好意的な証言を行なっているゲルハルト。グランデによっても確証されている。cf. Staatsanwaltschaft…, vol. 7, p. 1058.
[12] Cf. J.C. Ball, op. cit. (note 457), pp. 51-53.(試訳J.ボール:航空写真と矛盾している12の「目撃証言」)
[13] アウシュヴィッツで仕事をしていた46の会社のリスト、ときには1000名を超える民間人従業員のリストを参照: C. Mattogno, op. cit. (note 460), pp. 51-56.
[14] Staatliches Museum Auschwitz-Birkenau (ed.), op. cit. (note 51), pp. 231.
Cf. Michael Gartner, Hans Jurgen Nowak, “Die
Starkebucher von Auschwitz,” VffG 6(4) (2002), pp. 425-436, here p. 430.
[15] The number of released inmates are partly unknown for 1940 and 1941; see
Franciszek Piper, Die Zahl der Opfer von Auschwitz, State Museum, Auschwitz 1993; cf. C. Mattogno, “The Four Million…,”
op. cit. (note 230), Part II: “Franciszek Piper and The
Number of Victims of Auschwitz,” pp. 393-399.
[16] 例えば、アメリカ合衆国の歴史家A.M. de Zayasは、連合国側が戦時中にユダヤ人の大量殺戮のことを知らなかったと強調し、その原因はドイツ政府が隠匿政策をとっていたためであったと説明している。A. M. de Zayas, “The Wehrmacht Bureau on war
crimes,” in The Historical Journal, 35(2),1992, pp. 383-399.