3.3 ユダヤ人問題の「最終解決」[コード言語説批判]

R(ルドルフ):まず、ここでテーマから少し外れて、私がここで触れようとしていない問題、すなわち、民族社会主義の収容所制度全体の歴史を簡単に触れておこうと思います。これらの収容所にはさまざまなカテゴリーの囚人が収容されましたが、そこから反題すると、民族社会主義者の収容所のもともとの目的は、政治的反対派を隔離して再教育することにあったことがわかります。

 

L:絶滅によって再教育するのですか?

R1933年初頭の共産党の禁止に続く、初期の収容所の歴史について触れているのです。この当時、囚人の組織的な殺戮は行なわれませんでした。この点についての異論はありません。この時期、これらの政治犯を何とかして民族社会主義に転向させようとしました。しかし、政治的な理由から政府に反対している人々は普通、十分な教育を受けた知識人あり、一方、これらの収容所に勤務して、囚人を教育しようとしていたSS隊員は、かならずしも教育水準の高い人々ではありませんでした。ですから、政治的再教育を目指した初期の試みがほとんど成功しなかったとしても驚くべきことではありませんでした。抑圧的な措置はむしろ逆効果であり、ドイツ政府の経済政策と対外政策の成功の方が、人々を支配するには功を奏しました。その後、矯正不能な犯罪者と反社会分子を隔離するために、収容所は利用されるようになりました。1938118日のいわゆる「水晶の夜」のあとに、ユダヤ人たちが、ユダヤ人であるとの理由で収容所に収容され始めました。しかし、その多くはすぐに釈放されたのです。いわゆる「ユダヤ人問題の最終解決」への転換、収容所への大量移送は、1941年夏の独ソ戦の開始以後のことでした。

 

L:ということは、ルドルフさんは、「最終解決」が存在したこと、反駁しえないこととして認めているのですね。

R:もちろんです。私たちの講義の本当のテーマに近づいています。民族社会主義者たちが「最終解決」というとき、それは非常に明確な内容でした。よく知られているように、当初から民族社会主義者たちがドイツからのユダヤ人の排除を支持していました[1]。すべての歴史家の見解が一致していますが、第三帝国のユダヤ政策はロシア侵攻の直前まで絶滅政策ではありませんでした。むしろ、できるかぎり多くのユダヤ人をドイツ影響下の地域から移住させることが奨励されていたのです[2]。このために、ゲーリングは、「あらゆる手段を使ってユダヤ人の移住を奨励すること」を目標とする「ユダヤ人移住中央国家局」の設置をハイドリヒに委任したのです[3]。しかし、1940年初夏にはじまるドイツの領土的征服は、状況を劇的に変えました。ポーランド、フランス、その他の諸国にいた大量のユダヤ人がドイツの管轄下に入り、その一方で、戦争のために移住は困難となっていきました。このために、1940624日、ハイドリヒはドイツ外務大臣リッベントロップに、「領域的解決」を全体的問題にあげることが必要であると伝えています[4]。そして、外務省はこの指示にこたえて、ドイツ影響下の地域に生活するすべてのユダヤ人をマダガスカルに移住させるというマダガスカル計画を作成したのです[5]

 

L:なぜマダガスカルなのですか?エキゾティックでファンタスティックですら思えますが。

R:マダガスカルはフランスの植民地で、フランスの敗戦以後は、「交渉の対象」となったからです。これに対して、パレスチナはイギリスの支配下にありました。さらに、民族社会主義者は、イスラエルを創設して、潜在的な同盟者であるアラブを自分たちの側から遠ざけてしまうことに関心を抱いていませんでした。事実、マダガスカル計画は真剣に検討され、悪名高いヴァンゼー会議の決定によって放棄される1942年まで、完全に捨て去られませんでした[6]

 いわゆる「最終解決」を導入したのは、1941731日のゲーリングの指令でした。ドイツ国防軍が独ソ戦の緒戦で大勝利を収め、ソ連邦の崩壊が目前に迫っている時期のことでした[7]

 

1939124日の布告により、すでに、貴官に対して、時勢に即した最も望ましい解決としてユダヤ人問題を、移住という形で処理する任務を委ねておいたが、これを補足するため、本官はここに貴官に次のことを委任する、すなわち、ヨーロッパのドイツ勢力圏内において、ユダヤ人問題の全面解決を図るために必要な一切の準備を、組織的、実際的、物質的に整えること。

 これに関し、他の中央官庁の権限に抵触する場合に限り、各中央官庁はこれに協力しなければならない。

 次に本官は貴官に対し、ただちにユダヤ人問題の、懸案となっている最終解決の遂行のため組織的、実際的、物質的な準備措置に関する全体計画を提示されることを委任する。」

 

L:殺戮についてはまったく触れられていませんね。

R:そのとおりです。殺戮とはまったく逆のことが触れられています。すなわち、1939114日から1941年夏までの政府の政策は、移住と移送を目指していたのです。ハイドリヒのもともとの任務は、新しい指令と代わったのではなく、「補足された」、すなわち、領域的に拡大されたのです。1939年の時点では、ハイドリヒの活動はドイツ帝国に限定されていましたが、1941年夏以降には、ほぼヨーロッパ全土に拡大されたのです。ゲーリングの指令が指示していることは、ヨーロッパのドイツ影響下の地域からすべてのユダヤ人を移住・疎開させる拡張計画を作成せよということだったのです。

 

L:ゲーリングはマダガスカルを目的地と考えていたのですか、それとも、ロシアことを考えていたのでしょうか?

R:これについては文書では触れられていません。ゲッベルスの日記によれば、すでに19418月に、ヒトラーはユダヤ人を東部地区に移住させることを話しています[8]。その後、ロシアを移住目的地とする案は、ますます頻繁に登場してきます[9]

 ユダヤ人をロシアに移送する決定が下された理由の一つは、1941828日にソ連が、17世紀18世紀にヴォルガ川流域地方に移住してきていた300万のドイツ人を敵性国民としてシベリアに移住させる決定を下したことだったかもしれません。この大量移送は非常に野蛮なかたちで進められました。非常に多くのドイツ人がこの過程で死亡したと推定されています[10]。この民族浄化政策に対するドイツ政府の反応は、ドイツのラジオ局へ指令からも見て取ることができます。民族社会主義的ドイツ政府は「ユダヤ的ボリシェヴィズム」のキャリアに対して、報復すると威嚇しているのです[11]

 

「ボリシェヴィキが声明しているように、ヴォルガ・ドイツ人に対する措置がとられた場合には、中央ヨーロッパのユダヤ人もドイツ政府が支配する東部地区に移送されるであろう。…ヴォルガ・ドイツ人に対する犯罪が現実のものとなれば、ユダヤ人はこの犯罪の報いを何回も受けなくてはならないであろう。」

 

L:ドイツ政府は最終解決を報復の一種とみなしていたのですか?

R:少なくとも、ドイツのラジオ宣伝が訴えていたことはそうでした。しかし、ドイツ政府は、スターリンがヴォルガ・ドイツ人の移送を計画し開始した1941828日よりも前に、ユダヤ人の強制的再定住を計画していたのです。さらに、1941年には、スターリンのテロ機関は、「ユダヤ的」と呼べるものではありませんでした。スターリンの暴力的粛清は1938年に、ソ連政府でのユダヤ人の優位を打ち砕いていたからです[12]。連帯責任を科するやり方が許されないだけではなく、ユダヤ人はもはやソ連で優位な立場を占めていなかったという点からも、中央ヨーロッパのユダヤ人を報復の対象としたことは最悪の選択でした。

 マダガスカル計画が最終的に放棄されたのはヴァンゼー会議以後19422月でした[13]。しかし、ユダヤ人を東部地区に移送する決定はもっと前にされていたに違いありません。ヒムラーは19411023日に、「ユダヤ人の移送をすぐに中断しなくてはならない」と命じているからです[14]。その翌日の19411024日、警察局長クルト・ダリューゲは、「ユダヤ人は東部地区、リガとミンスクの周辺地方に移送される」というユダヤ人疎開指令を出しています[15]。翌日、すなわち19411025日、ヒトラーは総統本営での会話の中で、戦争が起きた場合のヨーロッパ・ユダヤ人の根絶を予言した1939130日の国会演説のことに触れています[16]。ヒトラーはさらに、ヨーロッパ・ユダヤ人をロシアの湿地帯に移送するというもっと劇的な政策にまで触れています[17]

 

L:ヒトラーが最終解決政策内容の変更を命じたのは194110月のようにみえますが。

R:そうだと思います。領域的解決を指示する文書が次々と出されています。1941116日、ハイドリヒは「最終解決」を準備する指令に触れていますが、最終解決命令は1939年に受け取ったものであり、「移住や疎開」として特徴づけています[18]。「領域的最終解決」の新しいゴールがヴァンゼー会議で話し合われました。その重要な一文はこうです[19]

 

「今後は、ユダヤ人問題の解決を一段と進める処置として、従来のごとく移住せしめる代わりに、あらかじめ、総統の許可を得た上で、ユダヤ人を東部地区に移送すること。

 この措置は、たんなる回避策ともいえるが、来るべきユダヤ人問題の最終解決のために重要な意味を持っている体験が、ここにすでに集積されているのである。」

 

L:この一文によると、戦時中に起ったことは最終解決ではなく、回避策にすぎないというのですね。

R:議事録を読むかぎりではそう判断できますし、この時期の多くの文書にある内容とも一致しています。いくつかの例をあげておきます。

 

        1940815日、ヒトラーは戦争が終わったのちに、ヨーロッパのユダヤ人は移送されるべきであると述べている[20]

        19411017日、外務省ドイツ課長マルチン・ルターは、「戦後のユダヤ人問題の最終解決に関する包括的手段」を議論する文書を作成している[21]

        1942125日、ヴァンゼー会議の5日後、SS全国指導者ヒムラーは、強制収容所監督官リヒャルト・グリュックスにこう書き送っている[22]。「次の数週間で、強制収容所に10万のユダヤ人男性と5万までのユダヤ人女性の導入をアレンジすること。強制収容所は、次の数週間で、大きな経済的任務を遂行することを求められるであろう。

        1942年春、ドイツ内閣官房長ハンス・ハインリヒ・ラムマースは、ヒトラーが「ユダヤ人問題の最終解決を戦争が終わるまで延期したがっている」と文書に記している[23]

         1942430日、SS経済管理中央本部長オズヴァルト・ポールは、こう報告している[24]。「戦争は強制収容所の仕組みを決定的に変えてきており、囚人の配分に関する収容所の責任を本質的に変えてしまった。治安維持、再教育、予防措置を目的とする囚人の収容はもはや第一義的ではない。焦点は経済的な側面に移った。まず戦争目的のための(兵器産業)、ついで平時の目的のためのすべての囚人労働力の利用が、第一義的となってきている。これを実現するには、強制収容所を、初期の一面的な政治的形態から、経済的な必要に合わせた組織に徐々に変えていかなくてはならない。」

         1942624日、ヒトラーは総統本営で、戦争が終わったのちには、「ユダヤ人が町から出てきて、マダガスカルその他のユダヤ人民族国家に移住するまで、次々とハンマーで町をたたいていくという自分の立場を厳格に守る」と述べている[25]

         1942821日、マルチン・ルターは民族社会主義のユダヤ人政策をこうまとめている[26]。「権力奪取後のドイツのユダヤ人政策の原則は、あらゆる手段をつかってユダヤ人の移住を促進することにあった。現在の戦争は、ヨーロッパでのユダヤ人問題を解決する機会と義務とをドイツに提供している。…言及されている総統の指示[ヨーロッパからすべてのユダヤ人を排除せよという19408月のヒトラーの決定]にもとづいて、ドイツからのユダヤ人の移送が始まった。同時に、ユダヤ人に対する措置を取っている諸国の国民であるユダヤ人も移送されるべきであると論じられた。…東部地区に移送されたユダヤ人の数は、当地での労働力の需要を満足させるには十分ではなかった。

         19429月、「占領下の東部地区の経済行政」のための「緑の地図」では、「ユダヤ人問題は戦後にヨーロッパ各地で全面的に解決される」、それゆえ、それまでは、すべての措置は、「部分的措置」にすぎない、ユダヤ人に対する「暴力的措置」は「ドイツ人にとって無益なものであり、あらゆる手段を使っても避けなくてはならない」と述べられている[27]

         194295日、パリ治安警察のホルスト・アーネルトは、「ユダヤ問題の最終解決」との関連で、「労働目的のためのユダヤ人の移送」が始まる予定であると記している[28]

         1942916日、オズヴァルト・ポールは、軍需大臣シュペーアとの会談の一日後、SS全国指導者ヒムラーに、ドイツ帝国のすべての囚人は軍需生産に徴用されると報告している[29]。「このために、東部地区に移住予定のユダヤ人の旅行は中断され、軍需産業で働かされることになります。」

         194212月、内閣顧問ヴァルター・メーデルは、民族社会主義のユダヤ人政策を「東部地区に移送することで帝国からユダヤ人を徐々に解放すること」とまとめている[30]

         19421228日、強制収容所監督官グリュックスは19の収容所の所長に次のような指令を出している[31]。「収容所の医師団は、自分たちの持っているあらゆる手段を使って、収容所での死亡率がかなり低くなるようにするであろう。…収容所の医師は、以前よりも注意深く、囚人の栄養状態に配慮し、収容所長の行政的措置に対応しながら、改善策を提案すべきである。こうしたことは、紙の上だけではなく、収容所の医師団によって定期的に監察されるべきである。…SS全国指導者は、収容所の死亡率を是が非でも低くするように命令している。

        19431026日、オズヴァルト・ポールはすべての強制収容所所長に次のように書き送っている[32]。「ドイツの軍需産業の分野では、過去2年間に実行された改善努力のおかげで、強制収容所は戦争の中で決定的に重要となった。われわれは無から、比類の無い兵器工場を建設してきた。今、われわれは全力を傾けて、すでに達成されている生産レベルを維持するだけではなく、それをさらに改善しなくてはならない。そのことは、作業場や工場が今のまま残っているかぎり、囚人の労働力を維持し、高めることによってのみ可能であろう。再教育政策が採用されていた初期の時期には、囚人が有益な仕事をするかどうかは問題とならなかった。しかし今では、囚人の労働能力は重要であり、収容所長、連絡所長、医師団のすべての権限は囚人の健康と効率を維持するために拡大されるべきである。偽りの同情からではなく、われわれは囚人たちの手足を必要としているからである。囚人たちはドイツ民族の偉大なる勝利に貢献しなくてはならないのだから、われわれは心から囚人の福祉に配慮しなくてはならない。私は、病気のために労働できない囚人を10%以下に抑えることを第一の目標としたい。責任ある部署にいる人々は、いちがんとなってこの目標を達成すべきである。それには以下のことが必要であろう。1)適切な栄養供給 2)適切な衣服供給 3)すべての自然保健措置の利用 4)仕事の実行には必要ではない作業をさけること 5)報奨の奨励

 

L:ルドルフさんの話が正しいとすると、民族社会主義者の高官たちが戦前・戦時中にユダヤ人の絶滅について言及していたことはどのように説明されるのですか?

R:ヒトラーの非公式の会話の中での話し、それも絶滅について言及していませんが、その発言を除けば、ここで引用したのは官僚機構の文書です。その他の官僚機構の文書も含めて、物理的絶滅に触れているものは一つもありません。日記や演説、戦後の回想録を見ると、状況は少し異なります。原則的に、そこであつかわれているのは、関係証人の文書証言です。次の講でもこの問題をあつかいますが、ここでは、告発されている側の自白を検証する予定です。

 

L:しかし、「疎開」とか「移送」が殺戮のコード言語であるとしたら、公式文書は嘘をついているのではありませんか?[33]

R:この場合には、論理的な問題に遭遇します。1941年中頃までは、「移住」、「疎開」、「移動」、「移送」という単語が文字通りの意味を指し示していました。この点については見解の相違はありません。だとすれば、1941年中頃以降に公式命令を受け取った人々は、これらの用語が、その意味するところとはまったく異なった意味、すなわち大量殺戮という意味をもつコード言語に突然変わったことをどのようにして理解することができたのでしょうか。周知のように、第三帝国時代の政府役人は忠実で従順であるとみなされています。彼らは、命令を文字通りに、疑問をはさまず実行することを求められていました。事実、忠実ではない振る舞いは厳しく罰せられました。囚人たちを移送して、軍需産業に従事させよという命令が出されて、この命令を受け取った役人が、囚人たちを殺してしまったらどのようなことになるでしょうか。命令を発した人々は、命令を受け取った人々に、突然、命令を解釈し直して、命令が指示しているのとはまったく別ことを遂行しなくてはならなくなったことを、一体どのようにしたら理解させることができるのでしょうか

 さらに、命令を発した人々は、命令を受け取った人々に、命令を解釈しなおさなくてもよい場合に、解釈しなおすことをどのように中断させることができるのでしょうか。

 

L:命令受けとる人々に、まったく別の命令を発しなくてはならなかったことでしょう。

R:そのとおりです。問題は単純です。「最終解決」には、コード言語を明確に定義する、その再解釈の方法を指し示す文書がまったく存在しないのです。もっとも、殺戮命令は秘密にしておかなくてはなりませんし、当初は、そのことでコード言語が必要となるかもしれません。

 

L:殺人犯が、自分たちの犯罪を、コード言語というかたちであるにせよ、すべて書き留めていたとすれば、まったく馬鹿な話しとなります。ですから、コード言語は使われなくなったでしょう。殺戮命令は口頭で出されるか、命令の連鎖を介して伝達されるでしょう。

R:上司が文書命令とはまったく異なった命令を口頭で出したとします。ただそれだけの理由で、最終解決に関与した数千の人々が、まったく質問を発することもなく、大量殺戮に関与していったという話になってしまうのでしょうか。そんな話にはならないでしょう。

 

L:そのとおりです。

R:もし、あなたが社長から、会社のコンピュータを別の建物に移せという命令を受け取ったとします。そして、あなたの部局の直接の上司が、ボスはコンピュータを粉々にすることを求めていると秘密に命令したと述べたとします。そしたら、あなたは斧を手にして、コンピュータ・ルームに出かけ、すべてを燃やし尽くしてしまうでしょうか?

 

L:・・・・

R:さらに、当時は、許可されていない殺人に対する処罰は、戦争遂行努力のサボタージュに対する処罰と同じく、死刑でした。第三帝国時代には厳罰制度が存在していたことを考えると、命令違反も厳罰の対象となると考えられていたと思います。

 今日まで、ユダヤ人の大量殺戮を命じる文書も、コード言語をいつどのようにして解釈し直すのかを明らかにしている文書も一つも発見されていません。この事実はホロコースト正史にとってはまったくの頭痛の種でした。

 こうした命令や指令の官僚制的な痕跡すら発見されていないのです。この犯罪は、人類史上最大のジェノサイドであったといわれています。600万人が3年間にわたって、ヨーロッパ各地でこの犯罪に巻き込まれ、数多くの役所や役人がこれに関与してきたというのです。第二講で、この問題を第三帝国でのテレパシーによる命令伝達で説明しようとする、ヒルバーグ教授の馬鹿げた解釈を紹介しておきました。

 ユダヤ人大量殺戮というおぞましい命令は、文書にまったく書きとめられてもいず、すべての文書資料とはまったく矛盾する内容で、まったく官僚制的な痕跡を残さずに、各部門に広まっていったことになっています。このような奇怪な命令を実行するためには、まさにテレパシーが必要であったことでしょう。

 だからこそ、コード言語説はまったく馬鹿げているのです。しかし、この問題はひとまず脇において、1941年中頃以降に強制収容所では何が行なわれていたのかを直接に検討しましょう。まず、もっとも悪名高いアウシュヴィッツからはじめましょう。

 

目次

次節

 



[1] For Hitlers early statements see: E. Deuerlein, Hitlers Eintritt in die Politik und die Reichswehr, Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte, 7 (1959), p. 204, R.H. Phelps, Hitlers grundlegende Rede uber den Antisemitismus, in: Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte, 16 (1968), p. 417.

[2] Summarized by Ingrid Weckert, Jewish Emigration from the Third Reich, Theses & Dissertations Press, Chicago 2004. Cf. also Francis R. Nicosia, The Third Reich and the Palestine Question, Univ. of Texas Press, Austin 1985.

[3] NG-2586-A.

[4] T-173.

[5] Magnus Brechtken, Madagaskar fur die Juden. Antisemitische Idee und politische Praxis 1885-1945, Studien zur Zeitgeschichte, vol. 53, 2nd ed., Oldenbourg, Munich 1998; Hans Jansen, Der Madagaskar- Plan. Die beabsichtigte Deportation der europaischen Juden nach Madagaskar, Herbig, Munich 1997; cf. the review by Ingrid Weckert, “‘Madagaskar fur die Juden,’” VffG 3(2) (1999), pp. 219- 21.

[6] Cf. Wulf von Xanten, Die Wannsee-Konferenz,VffG, 1(2) (1997), pp. 60-69.

[7] NG-2586-E. PS-710;ドイツ外務省のマルチン・ルターは、ゲーリングの指令は上記のNG-2586-J1940624日のハイドリヒの手紙の結果であると考えている。

[8] Cf. Martin Broszat, Hitler und die Genesis der Endlosung. Aus Anlas der Thesen von David Irving,Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte, 25 (1977), p. 750.

[9] Steffen Werner quotes a long list of such documents: Die 2. babylonische Gefangenschaft, 2nd ed., Grabert, Tubingen 1991 (www.vho.org/D/d2bg; Engl.: www.vho.org/GB/Books/tsbc); cf. also the summary by Carlo Mattogno, Jurgen Graf, Treblinka, op. cit. (note 198), pp. 179-201.

[10] Ingeborg Fleischhauer, Das Drittte Reich und die Deutschen in der Sowjetunion, Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgart 1983.

[11] Fleischhauer, “‘Unternehmen Barbarossa und die Zwangsumsiedlung der Deutschen in der UdSSR,Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte 30 (1982), pp. 299-321.

[12] Cf. on p. 33 of the present book.

[13] Letter by Franz Rademacher, Auswartiges Amt, Referat D III (Jewish Affairs), to Harold Bielfeld, Head of AA Pol. X (Africa and Colonial Affairs), Feb. 10, 1942, NG-5770 and Akten zur Deutschen Auswartigen Politik 1918-1945, Series E, vol. 1, p. 403.: 「総統はユダヤ人はマダガスカルではなく東部地区に移送されると決定した」(www.vho.org/GB/c/RW/inconmad.html)

[14] T-394: SS全国指導者兼ドイツ警察長官は、ユダヤ人の移送をすぐに中断すべきである」と命じた。

[15] PS-3921.

[16] ヒトラーが絶滅の意図をもっていた証拠としてたびたび引用されてきた。しかし、イェフダ・バウアーによると、この演説は、激高したときになされた不明瞭な内容の演説であった。ヒトラーのそれ以外の演説は、彼がこの当時ユダヤ人を絶滅する意図をもっていたこととは矛盾した内容であるからであるJews for Sale? Nazi-Jewish Negotiations, 1933-1945, Yale University Press, New Haven 1994, p. 35f.; cf. my review: VffG 1(1) (1997), pp. 45f.

[17] Henry Picker, Hitlers Tischgesprache im Fuhrerhauptquartier, Seewald, Stuttgart 1963, Oct. 25, 1941. ヒトラーが親密な友人たちと交わした非公式の会話の中には、これと似たような話が数多く登場しているが、いずれも、東ヨーロッパその他にユダヤ人を再定住もしくは移送する件についてである。1941: Aug. 8-11; Oct. 17; Nov. 19; 1942: Jan. 12-13; Jan. 25; Jan. 27; Apr. 4; May 15; June 24.

[18] PS-1624.

[19] NG-2586-G. Cf. chapter 2.13. in this book.

[20] Memo by Luther for Rademacher of Aug. 15, 1940, in: Documents on German Foreign Policy 1918- 1945, Her Majestys Stationery Office, Series D, Volume X, London 1957, p. 484.

[21] Politisches Archiv des Auswartigen Amtes (Berlin), Politische Abteilung III 245, ref. Po 36, vol. I.

[22] NO-500.

[23] PS-4025.

[24] R-129.

[25] Henry Picker, op. cit. (note 435), p. 456.

[26] NG-2586-J.

[27] Richtlinien fur die Fuhrung der Wirtschaft in den besetzten Ostgebieten (Grune Mappe), Berlin, September 1942. EC-347. IMT, vol. XXXVI, p. 348.

[28] Centre de Documentation Juive Contemporaine, vol. XXVI-61.

[29] Pohl report to Himmler of Sept. 16, 1942, on armament works and bomb damages, German Federal

Archives (Bundesarchiv) Koblenz, NS 19/14, pp. 131-133.

[30] NG-4583.

[31] NO-1523.

[32]Archiwum Muzeum Stutthof, 1-1b-8, pp. 53ff.

[33] コード言語説の古典は、コーゴンたちの著作にまとめられている。この本にはドイツ語版ではEnttarnung der verschlusselten Begriffe”、英語版では“A Code Language” という序論が付いている。