第三講:物的証拠と文書資料的証拠

3.1 証拠の定義

 

R(ルドルフ):ここで、ホロコーストとこの論争のことをしばらく忘れて、証拠一般についてお話しましょう。その方がうまく検証できるからです。

 

L(聴衆):「証拠」をどのように定義しますか?犯罪の告発はいつ証拠となるかということです。

R:基本的に、証拠とは、論理的基準と形式的基準という二種類の基準を満たさなくてはなりません。まず論理的基準をとりあげましょう。証拠となるような告発は、「Aが真実であるのはBが真実であるためであり、Bが真実であるのはAが真実であるためである」というような循環論法にもとづいていてはいけません。

 循環論法は、その核心部分に至るまえに、循環の中にいくつかの環をはさむことによって巧妙となります。さまざまに枝分かれしてしまうことで、見分けることが難しくなることもあります。次に、犯罪の告発は基本的に、いつでも反駁の対象となることを許していなくてはなりません。ですから、「Aは、証明できないために、もしくは証明できないにもかかわらず、真実である」というような犯罪の告発は認められないのです。

 

L:「Aは、証明できないために、もしくは証明できないにもかかわらず、真実である」と主張する人などはいないと思いますが。

R:それがそうでもないのです。証拠がないことは告発を反駁しているのではなく、証拠が破壊されてしまったことを証明しているというのです。第二講でそのような事例を紹介しておきました。このような告発は論理的に反駁不能であり、それゆえ、認めることはできません。この事件の証拠は失われたのではなく、そもそも存在しえなかったという主張をとりあげてみましょう。この主張によると、証拠が存在すると主張することは、このような証拠が間違って解釈されているか捏造されていることを証明しているにすぎないということになります。この事件にはまったく痕跡がないという主張は論理的に反駁できないがゆえに、このような主張を認めることはできません。

 

L:具体的な事例を紹介できますか?

R:もちろんです。ホロコースト論争では、幾度となくこの種の似非議論にお目にかかります。民族社会主義者は自分たちの犯罪を隠すために、大量殺戮を指し示すような文書資料を残すことはなかったというのです。

 

L:でも、大量殺戮の実行犯は自分たちの犯罪の証拠を意識的に残しておくとは考えられないので、この種の主張は正しいのではないでしょうか。

R:基本的に正しいご指摘です。メイヤーやその他のホロコースト専門家も同じような考え方です。民族社会主義者は証拠をまったく残さなかったか、もしくは、証拠が破棄されるように注視していたというのです。しかし、このような考え方に信憑性があるとしても、そのことは、犯罪や事件に証拠がないことを正当化できるわけではありません。もしも、証拠がないことが、犯罪の証拠の代わりとして認められるとすれば、どのような人物であっても、刑事告発の対象とすることができるからです。

 最後に、論理的な観点からしても、証拠はそれが示唆していることと反対のことを立証していると主張することも認めるべきではありません。

 

L:どういうことですか?

R:「われわれはAなる人物をBという場所に連れて行って、そこで働かせるであろう」と述べている文書があったとしても、この文書は、Aなる人物が殺されたという主張を立証しているわけではありません。

 

L:あたりまえのことです。

R:そのとおりですが、そうでないこともあるのです。ホロコースト正史によると、民族社会主義者の文書が「Xなる場所からのユダヤ人が強制労働のために東部地区に移送される」と述べていたとすれば、これは、彼らが労働者として移送されるのではなく、殺されることになっている証拠であるというのです。この文書はそれが述べているのと異なったことを意味しており、文書の中の表現は「コード言語」として「解釈」されなくてならないというのです。

 

L:しかし、大量のユダヤ人が移送され、その後の彼らの痕跡が失われていることは事実ですね。

R:そうかもしれませんが、誰かの所在の証拠が欠けていることは、この人物が特定の時期に特定の場所で特定の方法で殺されたことを証明しているわけではありません。

 

L:コード言語が使われた証拠があるのではないでしょうか?

R:そのような証拠があれば、そのような解釈を認めることができるかもしれません。でも、解釈という作業を一般化することはできません。勝手にすべてのことを解釈しなおすことができるからです。あとで、もっと詳しくこの似非論理を検討することにします。

 さて、証拠の形式的基準という問題に移りましょう。この基準によると、証拠は物理的検証の対象とならなくてはなりません。例えば、わたしたちは、証拠として引用される典拠資料を探すことができなくてはなりません。科学実験の場合には、それは第三者によって繰り返されるか、再現されなくてはなりません。ですから、実験が行なわれた環境を正確に伝えることが重要なのです。化学的計算やその他の論理的議論の形式に関していえば、それは特定の法則と規則に対応していなくてはならず、あらゆる専門学問には独自の規則があるという点を念頭におきながら、第三者によって繰り返されなくてはならないのです。さらに、証拠は同じような証拠によって立証・確証されなくてはなりません。evidentiary context」として知られていることです。

 

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