2.22 マーザー教授の『捏造と虚偽』
R:ヴェルナー・マーザー教授博士は、第三帝国とくにアドルフ・ヒトラー個人に関して、世界で一番能力のある歴史家といわないまでも、一番博識の歴史家の一人とみなされています。彼の本の多くは外国語にも翻訳されていますが、そのリストには圧倒されます[1]。
L:マーザー教授も自分たちの側に組しているとおっしゃるのではないでしょうね。
R:マーザー教授は、彼の著作『ヒトラーとスターリンに関する捏造、伝説、真理Falschung, Dichtung und Wahrheit
uber Hitler und Stalin』の中で、ホロコースト修正主義について語っていますが、彼の見解はたしかに好意的はありません。しかし、彼は、修正主義者の研究に真剣に格闘していません。彼は、古い修正主義者の研究を引用していますが、引用の仕方には欠陥があり、そのことは、彼が修正主義者の研究を読んでいないことを示しています。この意味で、マーザー教授は、第三者を介して知った知識にもとづいて修正主義を論じ、それを広めているにすぎません[2]。
マーザー教授の本から引用する前に、マーザー教授は、ヒトラーが命令したユダヤ人の大量殺戮が存在したという基本的な仮説から出発しており、いわゆる絶滅収容所での大量ガス処刑が事実であるとみなしていることを指摘しておくことが適切でしょう[3]。
L:だとすれば、ここで彼について時間を費やす必要はないのではありませんか。マーザーはホロコーストの専門家みなされているわけもないし、ホロコーストに関する研究書を著しているわけでもないのですから。
R:マーザーがホロコーストに関する研究書を著していないのは、能力がないからではありません。私や私の友人との会話の中で、マーザーは、正確さと真実という倫理観にしたがって、事実を書くことによって刑事訴追の対象となるか、それとも、嘘をつかなくてはならないのかというディレンマにおちいることを避けるために、このテーマについては書くことができないと話しています。そして、不幸なことに、刑事訴追に対象となる勇気を持ち合わせていないので、このテーマについては沈黙することを選んでいるというのです。
不幸なことに、このような姿勢は、舟を座礁させないようにとの社会的法的な圧力にさらされている西側諸国の歴史家、とくにドイツの歴史家には一般的なのです。マーザー教授の次のような発言は、そのことをほのめかしています。
「ユダヤ人の絶滅は、現代史の中でももっとも研究が進んだ分野であるとみなされているけれども、…実際にはそうではない。この分野全体が依然として未知の領域なのである。それは、・・・のためばかりではなく、ドイツ人の歴史家たちがこれらの恐ろしい出来事をとりあげることをためらい、長年にわたって描かれ続けてきた全体図とは矛盾してしまうような詳細な事実を掘り下げることを差し控えてきたためでもある。」(332頁)
マーザーは、ドイツ人の歴史家がためらってきた理由を、刑事訴追や迫害の恐れであったと説明しています。
「ダモクレスの剣が、論争の余地のある歴史上の時代を『本当はこのようであった』というように描く歴史家たち、公的に確立されている思想的ガイドラインを歴史の捏造とみなしている歴史家たちの頭上にぶら下がっている(ドイツだけではないが)。」(220頁)
L:ドイツの裁判所の判事たちは、自分たちが法律的なテロルを使ってドイツの歴史家たちをためらわせている、脅えさせているというテキストを読んだとき、何を考えているのでしょうか。自分たちが「正義」を執行しているというように気楽に考えているはずがありませんが。
R:判事たちはテキストを読んでいないと思います。もし読んでいたとしても、錯乱した人物、極端な見解を抱く人物による「特異な見解」としてテーブルから払いのけることでしょう。あるいは、判事たちも歴史家と同じような圧力を受けているのかもしれません。
多くの国々ではそのような状況にあるので、歴史家の多くは、ホロコーストについては10フィートの竿を使っても触れようとしません。それ以外、ホロコーストについて言及する研究者のあいだには、無条件にタブーにしたがって、公式見解をオウム返しにする人々がいます。また、刑事訴追や迫害を恐れずに、自分たちの見解を率直に語り、嘘をついたり、沈黙をまもるのではなく、投獄される危険をおかす人々もいます。こうした人々は修正主義者と呼ばれています。
マーザー教授は高齢になって、退職したために、少しばかり、姿勢を変えたに違いありません。先に紹介した本の中で、はじめて少々の勇気を持って、ホロコーストという地雷原に足を踏み入れているからです。いくつか引用しておきましょう。
まず、マーザーはホロコーストの犠牲者数に関する、疑問の余地のある根拠を検証しています。彼は、1945年8月24日のスイスの新聞『ベルナー・タークヴァハト』があげている2600万人という犠牲者数[4]から、もう一つのスイスの新聞『バーゼラー・ナハリヒテン』(1946年6月13日)のあげている150万人の犠牲者数――この二つの資料は修正主義者によってたびたび引用されてきました――を並立させています(333頁)。そして、さまざまな権威があげてきたアウシュヴィッツ収容所の犠牲者数を読者に突きつけ[5]、1990年に、公式のアウシュヴィッツの犠牲者数400万から100万ほどに下方修正されたことも指摘しています。そして、反ファシストは嘘をついてきたというポーランド人ジャーナリストのエルネスト・スカルスキの告白を引用しています。
さらに、マーザーは、私が出版している修正主義雑誌Vierteljahreshefte fur freie
Geschichtsforschungを引用しています。もっとも、その際、私の雑誌に対して難癖をつけることをためらってはいませんが[6]。しかし、そうすることで、自説を援用するために修正主義者の文献を引用したメインストリームの歴史家としては、ヨアヒム・ホフマンとフリツォフ・マイヤーにつぐ、三番目の人物になったのです。ですから、マーザー教授が「ショア[ホロコースト]研究をタブーの支配から解放した件で」マイヤーに感謝しているのも驚くことではありません(335頁)。
ここで、ホロコースト物語の起源についてマーザー教授がどのような見解を抱いているのかを明らかにする文章を引用しておきます。注意深くお聞きください。
339頁で、マーザー教授は、アウシュヴィッツのガス処刑物語がどのようにして生まれたのかについて、説明しています。
「400万人というスターリンのドグマは、あらゆる文献の方向性を決定付けた。こうした文献の作者は、スターリンのこのガイドラインを守ることだけに関心を抱いており、『典拠資料』なしでこれを証明しようとしただけではなく、イリア・エレンブルクの妄想的な数字にしたがって、それを訂正しようともした。…彼もその他の年代記作者も、スターリンが唯一関心を向けていたことは、自分と自分の機関工作員たちが世界中の人々の目の前で、人道に対する罪を犯した犯罪者としてさらされてしまうことを、彼自身の誇張と人為的な基準によって防ぐことであった点を理解していなかった。戦後になっても、(ソ連国内で死亡したために)ソ連から帰還できなかった200万人のユダヤ人がいたが、スターリンは、彼らをナチス体制の犠牲者としてしまった。それは、非常に不誠実なやり方であったが、そうしたことは、研究書の作者の多くにとってたいしたことではなかった。」
マーザー教授はドイツ軍がソ連による虐殺行為を発見した文脈の中で、連合国による虐殺宣伝をとらえかえしています。ドイツ国防軍は、独ソ戦の開始以来、ソ連による残酷な虐殺行為のあとを占領した大都市で発見してきました。ソ連軍は急いで撤退するにあたって、ウクライナ、ロシア、バルト諸国の町の監獄に収容していた多数の反政府派を数十万単位で屠殺していきました。ドイツ軍は、町に入ると、腐った死体の散乱した監獄を発見しました。ドイツはこの発見を使用して、ヨーロッパの青年が共産主義の脅威と戦うようにアピールしました。このアピールは、ドイツ軍が、ソ連による20000名ほどのポーランド人エリート死体の大量埋葬地――カチンその他――を発見したときにとくに成功を収めたのです[7]。数年間にわたって、ドイツは、100万以上の外国人義勇兵を対ソ戦に動員することに成功しましたが、この軍隊は、人類史の中で、外国と戦う最大の義勇兵部隊でした。
連合国は、こうしたドイツの宣伝の成功に対抗するために、同じような大量虐殺物語を必要として、それを苦労して作り上げ、それを利用して、ドイツを非難しました。341頁に、マーザーは、イギリス心理戦争局、すなわちイギリスの嘘工場のボスであったEllic Howe[8]が、1943年のカチンの大量埋葬地の発見直後から、次のような捏造された内容のポスターをポーランド各地にばら撒いたことを個人的に認めていることを伝えています。
「[総督府は]、ポーランドに住むすべての民族集団委員会がアウシュヴィッツ訪問ツアーを組織することを[命令した]。このツアーは、ポーランド民族を大量絶滅するために使われている方法が、ボリシェヴィキが使っている方法と較べると、非常に人間的なものであることを検証するためである。ドイツの科学は、この分野でヨーロッパ文明の奇跡を成し遂げている。面倒な攪拌棒を使った残酷な虐殺の代わりに、アウシュヴィッツでは、ガス室、蒸気室、電気板などが使われている。数千のポーランド人がこの装置によってすみやかに死んでいっており、そのことはドイツ民族の名誉となっている。焼却棟は毎日3000名を処理できることを指摘すれば十分であろう。」
L:ここにも、蒸気室や電気装置が登場してきています。イギリスによる捏造なのですね。
R:少なくともこの場合には。このポスターの中で、イギリスは、カチン(「ボリシェヴィキが使っている方法」)とドイツの虐殺行為というイギリスの主張を結び付けています。しかし、このポスターは、カチンの大量埋葬地の発見をめぐって成功を収めたドイツの宣伝に対抗するために行なわれた多くの宣伝工作の一つにすぎませんでした。マーザーはこう指摘しています。
「1943年3月23日、イギリス情報部が運営していたポーランド語のラジオ放送局『スヴェート』は、東部地区においていた工作員ステファン・カルボンスキによるでっち上げの話――ドイツ人はアウシュヴィッツの焼却棟で、毎日3000名、『おもにユダヤ人』を焼却している――を、対抗宣伝目的で発表した。ドイツの放送局は1943年4月13日に、大量殺戮によるポーランド人犠牲者の最初の発掘死体について、3000名という数字を発表していたが、『プラウダ』は4月15日、この3000名という数字が表に出ることを精力的に妨害しようとした。すなわち、『プラウダ』はカチン事件の責任をドイツに押し付けようとしていた。」(343頁)
マーザーは、この対抗宣伝が連合国の戦争遂行努力にとって重要であった理由も説明しています。
「イギリス情報部が、このような宣伝目的の嘘を取り繕った決定的理由は、カチン事件に関する、事実によって立証されていたドイツ側の宣伝に対抗しなくてはならなかったからであった。イギリス側は、赤軍がカチン事件の責任者であったこと、スターリンが虚偽の情報操作を行なっていたことを知っていたにもかかわらず、ソ連側の嘘を取り繕おうとした。しかし、スターリンに味方して、自分たちの情報を無視したのはイギリスだけではない。アメリカも同じことをした。ロンドンにあった合衆国戦争情報局は、『ポーランドその他の占領諸国でのドイツ人の犯罪を誇張する』ように決定している。もしもイギリス側が、イギリス情報部が1941年夏以降に知っていたこと、その後の時期に知ることができるようになったことを公表していたとすれば、ユダヤ人の絶滅についての諸局面を明らかにすることに貢献したことであろう。しかし、それと同時に、同盟国であるソ連邦を中傷することになってしまったであろう。スターリンは、1940年3月5日の命令で、信憑性の無い宣伝物語を発明し、ソ連軍の犯罪をドイツ国防軍の犯罪としてしまうことで、カチン事件に関する宣伝目的の嘘を何とかして定着させるように指示していたからである。さらに、イギリス側は、ソ連による歴史の偽造を信憑性のある情報として公に広めた責任を負わざるをえなかったであろう。」(342f頁)
L:カチンその他でのスターリンの大量虐殺を覆い隠すために、イギリスとアメリカはガス室という虚偽の話を捏造しそれを広めたのですね。
R:そのとおりですが、ガス室宣伝は、カチンの大量埋葬地が発見された1943年春よりも前に始まっています。ですから、この宣伝には別の起源があるのです。マーザーもこう強調しています。
「1942年5月か6月、アウシュヴィッツの地下運動は、ロンドンに報告を送ることにはじめて成功した。その中には、『ガス室』での『最近の』『ガス処刑』に関する箇所も発見できる。1942年8月25日、イギリス情報部は、これらのポーランド人から、病人がガス処刑されているとの情報を入手した。8月29日、SSが1200名の囚人を収容できる、ガス処刑用の二つの特別な部屋を建てた、1942年8月までに、30万人がすでに殺されたとの情報を入手した。このような数字が、まったく現実的ではない空想的な数字であることは誰にもわかるにもかかわらず、イギリス人たちはこの数字をそのまま受け入れた。」
ここでマーザーは、イギリスがドイツの暗号無線を解読していたとほのめかしています。強制収容所所長は、その暗号無線を使って、収容所の囚人の数をベルリンに報告していたのです。ですから、イギリス側は、30万人の犠牲者という話が嘘であることを知っていました。そのごく一部だけがアウシュヴィッツに移送されているにすぎなかったからです。
またマーザーは、ロンドンに虚偽の宣伝情報を送った「アウシュヴィッツの地下運動」の正体についても説明しています。
「ドイツの敵は、アウシュヴィッツとそのあとに建設されたビルケナウ強制収容所について際限なく誇張した宣伝を繰り広げたが、その宣伝は、アウシュヴィッツにいた共産党系の囚人たちの秘密報告のデータや情報にもとづいていた。彼らは、収容所での出来事に関する自分たちの話を、ラジオを介して、クラクフ経由でロンドンに送っていた。共産党の機関工作員ブルーノ・バウムは1949年に、『われわれが、当時世界中に広まったアウシュヴィッツに関する宣伝の大半を執筆した』と述べている[9]。」(342頁)
ですから、連合国情報部の高級将校たちが、アウシュヴィッツその他からの虐殺報告を事実にもとづいているものとみなさなかったのは驚くべきことではありません。マーザーはこう述べています。
「こうした宣伝目的の話は、人々の関心を引くために、ひどく誇張されていたが、そのことに関しては、連合国『合同情報委員会』議長ヴィクター・キャヴェンディッシュ・ベンティンクも認めているほどである。彼は、1943年8月に開かれた委員会の席上で、ガス処刑に関するポーランドとユダヤ人からの情報は捏造されており、ドイツ人が死体の脂肪から石鹸を製造したと非難する第一次世界大戦中の対ドイツ虐殺宣伝のようなものであると説明している。『われわれは、まったく証拠をもっていない虐殺物語に信憑性を与えてしまうことで、ドイツ側を告発するわれわれの立場を弱くしてしまっていると思う。…ポーランド人をガス室の中で死に追いやっているとの情報に関しては、そのようなことが行なわれているとの証拠が存在すると思っていない』というのである。」(342f頁)
ご覧のとおり、マーザーの文章には、宣伝、虚偽、捏造に対する非難が数多く登場しています。
L:マーザーは、自著の題名『捏造と伝説』によって表現したかったのは、まさにこのことなのですね。
R:マーザーの本は42章から成り立っていますが、その多くが、ヒトラーに関する伝説と捏造に関してです。ホロコーストに関する章はそのうちの三つにすぎないのですが、それぞれが、もっとも議論を呼ぶテーマ、恐るべき虚偽と関係したテーマをあつかっています。
L:この件以外に、マーザーは虚偽を立証するために、どのような議論を展開しているのですか?
R:彼は、いくつかの有名な目撃証言を批判的に検証していますが、紙面の関係から詳しい内容ではありません。アウシュヴィッツでの大量殺戮の歴史的証人としてしばしば引用されてきた目撃証人アルフレド・ヴェツラー、ルドルフ・ヴルバ、フィリップ・ミューラーについてマーザーがどのように述べているのかを引用しておきます。
「ヴェツラーとヴルバの提供した情報は、他の囚人たちの話を寄せ集めたものであった。この二人は、ガス処刑やガス室を見たことがなかったからである。彼らの提供している情報は、例えば、共産主義者の同志フィリップ・ミューラーが話してくれたことであった。[連合国]がヴェツラーとヴルバから知ったことは、『伝聞』にもとづく情報であった。さらに、この二人を、信頼できる情報伝達者とみなすこともできない。ヴルバは明らかに物事を誇張しようとしているし、ヴェツラーは…詩人を自称するような人物となったからである。」(344頁)
「『目撃証人』ヴェツラーとヴルバだけが、囚人の解放のために軍事力を利用するという目的を達成しようとして話を作り上げたわけではない。…彼やヴルバは、この目的を達成するためには、宣伝目的な話し、嘘、捏造を正当なものとみなした。」(346頁)
この一文は、ヴェツラー/ヴルバの証言に対する簡潔ではあるが、非常いて厳しい批判に続いている。マーザーは、アウシュヴィッツの「事実の提供者」フィリップ・ミューラー――マーザーは彼の1979年の本を、プレサックを引用しつつ[10]、「真実の物語にもとづいた小説」(345頁)とみなしている――の不正確な点だけではなく、際限のない誇張も非難している。
また、ミクロス・ニーシュリは、マーザーの脚注145の中で次のようにさらされている。
「ニーシュリは、1947年に共産党政権下のルーマニアで出版された本の中で、…ひどい嘘をついている。」(348頁)
ガス室の主要目撃証人たちが嘘をついたり、誇張したり、捏造した理由について、マーザーはこう説明しています。
「彼らは、法の支配の下にある国家というような状況で証言したのではなく、尋問官による心理的・物理的な圧力を受けながら証言したのである。」(348f頁)
L:物理的圧力とは何でしょうか?
R:そんなに多くの解釈の余地はないと思いますが。マーザーがアウシュヴィッツのガス処刑証言についてどのように考えているかは、次のような表現を使っていたことでまとめられると思います。すなわち、「『伝聞』にもとづく情報」、「誇張」、「詩人を自称する人物」、「宣伝目的版、虚偽、捏造」、「尋問官による心理的・物理的な圧力を受けながらの証言」などです。
L:マーザー教授はホロコースト専門家とみなされていないのに、世界的に認められているホロコースト専門家は目撃証人についての彼の評価を受け入れるのでしょうか?
R:この件については、本講義の最後の節で詳しく検討しましょう。マーザー教授はヒトラーと第三帝国に関する世界的に認められた専門家です。彼の発言を無知にもとづくものとして簡単にしりぞけることができるでしょうか。彼が、ドイツで社会的・刑事訴追的な迫害の脅威に直面しているにもかかわらず、このような主張を行なっているとすれば、それには彼なりの理由があるのでしょう。マーザー教授は、ホロコーストに関する章の末尾に、「[ホロコースト正史物語]の矛盾に驚いてしまうのは、稀なことではない」と記していますが、この文章は、迫害の恐怖がなければ、彼がどのようなことを発言するかを示唆しています。
[1] For a comprehensive list of Maser’s books see the
entries in the German National library (http://z3950gw.dbf.ddb.de/)
and the Library of Congress (catalog.loc.gov/).
[2] Cf. on this my review “ The Courage of a Secure Retiree,”
TR 2(4) (2004), pp. 455-466.(試訳:歴史家マーザーと歴史的修正主義)
[3] W. Maser, op. cit. (note 100), chapter on the Wannsee Conference, pp.
300-307, and on the Holocaust, pp. 308-351; cf. p. 353.
[4] Cf. the 26 million figure quoted at the
beginning of this book, p. 15, and in note 236.
[5] W. Maser, op. cit. (note 100), pp. 334: Andrei A. Smirnov (IMT),
[6] Maser’s footnote 73, op. cit. (note 100), p.
334: “Vgl.
VffG, 5. Jg., H.4, Dez. 2001, pp. 369,
[7] Cf. Franz Kadell, Die Katyn Luge, Herbig,
[8] Cf. Ellic Howe, The Black Game. British Subversive Operations against the
Germans during the Second World War, M. Joseph,
[9] Bruno Baum, Widerstand in Auschwitz,
[10] In Maser’s footnote 125 (note 100), p. 345, acc.
to J.-C. Pressac, op. cit. (note 251), p. 181.