2.18 世界的な関心[リップシュタット、アーヴィング、サック]
R(ルドルフ):1993年、ユダヤの宗教研究とホロコーストに関するアメリカ人教授リップシュタットが、『ホロコーストの否定:真実と記憶に対する攻撃』[1]と題する書物を出版しました。彼女ははじめて、修正主義者の政治的背景と動機について彼女なりの見解を明らかにし、修正主義者のいくつかの説に対処しようとしました[2]。
L(聴衆):この本はおすすめだと思いますが。
R:論点が政治的な論争に絡んでいることをみぬければ、そうかもしれません。
L:この本にはどのような政治論争が絡んでいるのですか?
R:例えば、リップシュタットは、その多くがドイツ人ではない修正主義者をドイツびいきだと非難し、この姿勢を否定的にあつかい、修正主義者の姿勢をひとまとめにして、それを反ユダヤ主義、人種差別主義、右翼過激主義だと裁定しています[3]。このような内容の文章は、アメリカ人の読者にとっては、とりたてて意味のあるものではないかもしれませんが、ドイツ語に翻訳されますと、極端な意味合いを持ち、不快なものとなります。すなわち、リップシュタットは、ドイツ人に敵意を持つ人物が善良な人であるとの考え方を提唱しているような印象を受けます[4]。さらにリップシュタット教授は、ホロコーストのユニークさの記憶をドイツで維持していくことがきわめて重要であると考えている理由を説明しています。
L:適切なのではないでしょうか。
R:論争の余地がある点です。リップシュタット氏の言葉を引用しておきましょう[5]。
「ドイツも『絶滅』の犠牲者であったとすれば、ホロコーストがその他の悲劇の寄せ集めとはまったく異ならなかったとすれば、自国内に亡命地を求めるすべての人々を歓迎するというドイツの道徳的義務の程度は、低くなるであろう。」
政治的動機は別として、一体どのような資格で、アメリカ人の宗教学教授が、ドイツ人はあらゆる亡命者を受けいれる道徳的義務を科されており、亡命といったテーマとはまったく関係のない修正主義に関する本の中で、そのようなことを述べることができるのでしょうか?
最後に、民族社会主義も歴史的な現象であり、ほかの時代の現象と同じように、道徳的な留保条件なしで学問的に研究されるべきであるというノルテの主張に対するリップシュタットの反応も問題です[6]。リップシュタットはノルテの主張に批判的なだけではなく、ノルテのような主張を抑圧しようとするドイツの歴史学会の監督者となりたがっているようです。例えば、彼女はこう述べています。
「われわれは、自分の専門分野の中で、ラインの護り手となるような訓練を受けてこなかった。しかし、われわれが行わなくてはならないのはまさにこのことである。」
L:たしかに、学問の自由を風変わりに理解していますね。この文章から判断する限り、リップシュタット氏は、ドイツ人にはほかの民族より劣った権利を与えながら、対処すべきであると主張しているようですね。
R:まさに、リップシュタットはそのような言い回しをしています。しかし、この本についての実際の論争は、この本の中で、人種差別主義者、反ユダヤ的ホロコースト否定派と描かれたイギリス人歴史家アーヴィングの件をめぐって起りました。アーヴィングは、その研究書のおかげでもっとも成功した現代史家とみなされてきましたが、リップシュタットがその名声を落としめたことに対して防衛措置をとり、彼女と彼女の本を出版したイギリスの出版社を告発したのです[7]。
L:そして、この裁判で完敗してしまったのですね。それ以降、修正主義者の所説は、最終的に反駁されてしまったとみなされたのですね。[8]
R:そう言われていますが、まったくそうではありません。裁判であつかわれたのはアーヴィングの説であって、修正主義者の説ではなかったからです。両者は同じものではありません。アーヴィングの専門は第二次世界大戦とその時代の人物であり、それについての研究書を出版しています。しかし、ホロコーストに関する論文、ひいては著作を発表したことはまったくありません。彼は、このテーマに関心を持ったことはなかったと繰り返し述べていますし、私が1996年に彼のもとを訪れたときにも、修正主義者の本を一冊も読んだことはないと話してくれました。さらに、彼は裁判の予備審問のときにも、修正主義者を専門家証人として召喚することを拒みました。その結果、彼のおかれた状況は壊滅的となりました。裁判では、世界各地のホロコースト・ロビーからの集中的な議論と対決しなくてはならなかったからです。敗訴は避けられないものでした。しかし、このことは、修正主義者の敗訴を意味するわけではありません。
L:結局、アーヴィングよりもテーマのことについて知らない判事が、判決を出したのですね。もしも、問題となっているホロコーストがたとえ部分的であっても、論駁されているとの判決を下したとしたら、この判事のキャリアはどのようなものとなっていたでしょうか?容易に想像がつきます。また、歴史的真実が判事によって裁定されるとすれば、われわれがいるのはどこであるのでしょうか?
R:ドイツにいることになるのです。冗談はさておき、アメリカ歴史家協会前会長Carl Deglerの言葉を引用しておきましょう。彼は、リップシュタット教授によってこう述べたと引用されています[9]。
「歴史家の歴史研究と叙述の背後にある『動機』を問題にし始めれば、歴史家が従事している研究すべてを危険にさらすことになる。」
リップシュタットは、アーヴィングやホロコースト修正主義歴史家の政治的動機を長々しく、際限もなく告発・非難していますが、この文章は、そのような告発・非難に対する的確なコメントとなっています。このような告発・非難は個人的な姿勢を覗き込み、言論の自由を抑圧することに他ならないのです。
ここで指摘しておきたいことは、ホロコースト修正主義が世界中のマスメディアの中でもっとも注目を集めるようになったのがアーヴィング・リップシュタット裁判のときのことだったという事実です。いくつかの例をあげておきましょう。最初の事例は、『ロサンゼルス・タイムズ』2000年1月7日号のキム・マーフィーの記事「ホロコースト否定の危険?」です。彼女はこうはじめています[10]。
「ゲルマール・ルドルフという名の若いドイツ人化学者が、1993年にアウシュヴィッツの壁から漆喰の断片を採取して、それを研究所に送って分析させた。ナチの収容所長たちが毛布や衣服を燻蒸させた害虫駆除室からは大量のシアン化水素ガスの痕跡が発見された。一方、人間ガス室とされる部屋からの痕跡は1000分の1以下であった。
シュトゥットガルト大学の博士候補ルドルフは、第二次世界大戦時のヨーロッパのもっとも有名な死の収容所では、大量のユダヤ人がチフス、飢餓、殺人で死亡したが、ガス室で死んだものは誰もいなかったと結論した。
第三帝国時代の将軍から委託されたこの分析論文が公表されたとき、ルドルフは有名なマックス・プランク研究所を解雇され、彼の博士号も撤回された。彼は禁固14ヵ月に処され、彼の主人は彼を追い出したので、彼は亡命し、その妻は離婚を求めた。
アウシュヴィッツのガス室が実在したとするさまざまな科学的証拠があるとの主張がある一方で、アウシュヴィッツのガス室が存在しなかったことを立証する物理的証拠を持っていると主張する高度な訓練を受けた化学者としてのルドルフの存在は際立っている。
過去10年間、ガス室は実在しなかったという説の支持者たちは、ソ連の解体以降に利用できるようになった数10万の第三帝国の文書資料や日記を丹念に分析した。彼らはガス室の建築構造を分析した。彼らは、収容所の生存者の話の中にある矛盾と、信じることができないような細かい点に焦点をあてて分析した。そして、学会からはほぼ全面的に嘲笑されたにもかかわらず、ノースウエスタン大学やリヨン大学のアカデミシャン[11][12]から、その研究の品質保証書を手に入れている。」
R:マーフィーの記事はのちに、アーヴィングの知るところとなり、彼のその後の裁判にも登場しました。彼女の発言は双方から取り上げられましたが、それはきわめて異例なことです。5ヵ月後、キム・マーフィーは、マスメディアからの初めてのレポーターとして修正主義者の会議に出席し、その発言者を公平に紹介し、その発言を公平に引用した、歪曲されていないレポートを書きました[13]。
イギリスのメディアはアーヴィング裁判をきわめて詳しくレポートしています。『ロンドン・タイムズ』はアーヴィング裁判の予備審問の時期の1月12日に、こう書いています[14]。
「ここで問題となっているのは、エゴを肥大化させた個人の虚栄心ではない。20世紀の歴史の中でもっとも暗黒な事件が実際に起ったのかどうか、それとも政治的な動機を持ったユダヤ人の妄想の産物であったのかどうかである。」
『コリア・ヘラルド』はこの裁判を遠い西側文明の鏡であるとみなしています[15]。
「この裁判は西側のアイデンティティ、心理、自己イメージの核心に関係している。戦勝連合国、すなわち、イギリス、アメリカ、旧ソ連にとって、ヒトラーとの戦いは、道理にかなった話となっている。すなわち、光と闇、善と悪、進歩とファシズムの巨大な戦いとされてきたのである。もちろん、実相はもっと複雑であるが、連合国は自分たちの宣伝を信じ込むようになったからである。」
『アトランティック・マンスリー』の2月号は、アーヴィング裁判について、修正主義の反対者が書いた長文の記事を掲載しています。それはこう述べています[16]。
「今、アイヒマンの逮捕からほぼ40年後に、ホロコーストはふたたび裁判の対象となった。…アーヴィングは、多くのユダヤ人が死んだことを否定していない。彼が否定しているのは、ユダヤ人がガス室で殺されたこと、ヒトラーがヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅を直接命令したこと、ユダヤ人の殺戮が第二次世界大戦のその他の虐殺とかなり異なるものである点である。もちろん、多くの偏狭な右翼は同じような主張をしてきた。アーヴィングの件が特異なのは、彼のホロコースト観が、イギリスとアメリカの指導的歴史家によって尊重、ひいては賞賛されてきた研究書の中に登場していることである。」
L:どのようにして、このような説を唱えている歴史家が、世界中でベストセラーとなった本の著者となることができたのですか?
R:1988年まで、彼はホロコーストについては常識的な考え方をしていましたが、『ロイヒター報告』を読んでから、見解を変えました[17]。1989年には、自分の序文をつけて『ロイヒター報告』の高価版を出版しています[18]。序文にはこうあります。
「歴史叙述とは異なり、化学は厳密な科学である。…悲劇的な今世紀の終わりまで、ナチスがアウシュヴィッツで『ガス室』を使って人を殺したと信じている、もしくは信じる以外に考えることがない度し難い歴史家、政治家、作家が存在する。しかし、こうした人々は、ガス室とみなされてきた建物の中には十分な量のシアン化水素化合物の痕跡がなぜ存在しないのかを、近代史の批判的な学徒である私に説明しなくてはならない。繰り返しておくが、法医学的化学は厳密な科学である。ボールは彼らの側にある。
ディヴィッド・アーヴィング、1989年5月」
L:社会的ハンセン病患者か職業的なハンセン病患者となるための処方箋ですね。
R:彼自身はどちらになるかを予測していなかったでしょう。比喩的に言えば、アーヴィングは、歴史家として信念のために、金銭的自殺行為(ハラキリ)、社会的自殺行為(ハラキリ)を行ったのです。いずれにせよ、これほど世論の関心を修正主義に向けたのは彼がはじめてでした。
しかし、この時であっても、修正主義者は発言することができず、多くの場合に、いつものように、悪口を投げかけられただけです。
「悪魔の」修正主義に対する一時的な覗き見趣味が横行しましたが、その結果として、発行部数60万のアメリカの高級誌Esquireの2001年2月号に11頁の記事が載りました。
「ブンカーの内部」と題するこの記事(98-140頁)を書いたのはジョン・サックでした[19]。彼は、第二次世界大戦後のポーランド占領下の東ドイツでの強制労働収容所におけるドイツ人の大量殺戮をあつかった『目には目を』の著者として有名です[20]。
L:この本はドイツでは廃棄処分とならなかったのですか。
R:当初、Piper出版社から出版される予定でしたが、サック氏がユダヤ人グループの憎悪のターゲットとなりましたので、出版社が配本の前に、すべてを廃棄してしまいました。しかし、その後、別の出版社が出版しました[21]。
L:サックは反ユダヤ主義者なのですか?
R:いいえ、彼は2003年に死にましたが、ユダヤ系でした。彼の「過ち」は、戦後の東ドイツの収容所で、ユダヤ人看守たちが無実のドイツ人を無差別報復殺戮の対象としたことを明らかにしたことです。
アメリカの修正主義者Robert Countessは、サックの本の好意的な書評を書き、それをサックに送りました。それがもとで、二人の友情関係が進み、サックはアメリカの修正主義者たちと知り合って、修正主義者の大会に参加することができたのです[22]。ガス室とホロコーストの実在を信じているこのユダヤ系の作家は、「悪意のある」修正主義者についてこう述べています[23]。
「ホロコーストについての姿勢は別にしても、彼らは愛想が良く、開放的で、知的でした。彼らの目は、人を寄せ付けないような確信の炎で燃えているわけでもなく、彼らの口は、厳しい憎悪でねじまがったレモンでもありませんでした。彼らはナチスでもネオナチでもなかったのです。」
「同時に、精神衛生的な側面について、憎悪の念について話そうとしました。ホテルでは、私は憎悪の念をまったく感じませんでした。むしろ、ユダヤ人たちがドイツ人について話しているときの憎悪の念のほうが強いと思ったくらいです。エリー・ヴィーゼルは、『あらゆるユダヤ人は、ドイツ人に対する憎悪の念――精力的な憎悪の念――の余地を、自分の存在のどこかに残しておくべきである』と述べていますが[24]、このホテルでは、このようなことをほのめかしたりする人物は誰もいませんでした。ショックを受けた教授が世界ユダヤ人会議議長のエドガー・ブロンフマンに『あなたは数千のドイツ人を憎悪するように、すべての世代に教えこんでいる』といったことがあります。すると、ブロンフマンは、『いや、数百万のドイツ人を憎悪するように、すべての世代に教えこんでいるのです』と答えました。このホテルでは、このようなことを言った人物は誰もいませんでした。ユダヤ人に対する憎悪は、ドイツ人に対する憎悪と似ています。『ヒトラーの意図的な死刑執行人』[25]の1頁ごとに登場するようなドイツ人に対する憎悪と似ています。このような憎悪の念をここではまったく見かけませんでした。」
サックは、修正主義者(「否定派」)が長年主張してきたいくつかの説が正しいことも認めています。
「このように圧倒的な証拠に対して、ホロコースト否定派の人々は――そして、この点では彼らは正しいのですが――、アウシュヴィッツ所長の自白は拷問を受けたあとのものである[26]、その他の証言も、偏見、噂、誇張、途方もない記述で満ちていると論じて、戦後5年経ってからのユダヤ人雑誌のユダヤ人編集者の記述を引用しています。否定派の人々は――またも、この点では彼らは正しいのですが――、ベルゲン・ベルゼン、ブッヘンヴァルト、その他すべての収容所の所長、医師たち、SS、ユダヤ人が、これらの収容所には青酸ガス室があったと戦後に証言していますが、今では、すべての歴史家がこのことを否定していると述べています。」
サックは、修正主義者への迫害についても沈黙していません。
「休日の重なる終末でしたので、土曜日、日曜日、月曜日には16人の講演がありました。ホロコーストとアウシュヴィッツ絶滅機構を信じていないために、法的に告訴されている人々が6人いました。こうしたことを誰かの耳に入れるのは、ドイツだけではなく、オランダ、ベルギー、フランス、スペイン、スイス、オーストリア、ポーランド、イスラエルでも法律違反なのです。イスラエルでは、神の否定は懲役1年なのに、ホロコーストの否定は5年なのです。講演者の一人アーヴィングは、アウシュヴィッツの青酸ガス室の一つは戦後にポーランド人が作ったレプリカであるとドイツで公に発言した罪で、18000ドルの罰金処分となっています。レプリカであることは真実ですが、ドイツでは、ホロコーストの件で真実を語ることは弁護にならないのです。」
L:その後、サックはどうなりましたか?
R:例えば、リップシュタットは、彼のことをネオナチ、反ユダヤ主義者と呼び、『ホロコースト否定派』よりもたちが悪いと非難しました。結局のところ、世間一般の考え方によると、修正主義者とその友人たちは、同情に値する犠牲者ではなく、非人間的な悪魔のような存在として描かれなくてはならないのです。まさにこのような理由から、キム・マーフィーは『ロサンゼルス・タイムズ』の紙面に修正主義者への迫害の記事を掲載することは許されない、と編集長から伝えられたのです。マーフィーは、前述した二つの記事の中で公平な報道をしたために、アラスカに「左遷された」のです[27]。
[1] Deborah E.
Lipstadt, Denying the Holocaust: The
Growing Assault on Truth and Memory, Free Press,
[2] リップシュタットは基本的にプレサックの研究に依拠している。see her notes 1-29 to her appendix on pp. 231f.
[3] Ibid.:(74頁)「転向者の熱意を持ちながら、彼[ハリー・エルマー・バーンズ教授]は、孤立主義者、政治的に親ドイツ的な目的を追求する人々の側に移り、その後、その陣営に生涯とどまった。」(83頁)「ホロコーストに対するバーンズの見解、イスラエルに対する彼の姿勢のルーツは、彼に深く根ざしたドイツびいきと修正主義的歴史研究を超えている。そのルーツは反ユダヤ主義の中に見出すことができる。」(91頁)「ドイツ系アメリカ人グループの中の活動的なメンバーとして、バッツはドイツ人とナチス・ドイツの熱心な擁護者であった。」(92頁)「バーンズは熱心な親独派であったがファシストではなかった。」(127頁)「バッツの本は、公平な学術性という外見にもかかわらず、きわめて下品はネオナチ集団が発行しているホロコースト否定パンフに登場する伝統的な反ユダヤ主義、ドイツびいき、陰謀理論と同じような表現にあふれている。」(138頁)「歴史評論研究所の存在を知っている人々の大半は、それをホロコースト否定派、ネオナチ、ドイツびいき、右翼過激派、反ユダヤ主義者、人種差別主義者、陰謀理論家の寄せ集め集団として退けてきた。」
[4] Deborah E. Lipstadt, Betrifft: Leugnen des Holocaust, Rio Verlag,
[5] Deborah E.
Lipstadt, Denying…, op. cit. (note
340), p. 213.
[6] Cf. Ernst
Nolte, op. cit. (263, 287).
[7] Cf. the trial at Bench Division, Royal Courts of
Justice, Strand, London, David John Cawdell Irving vs. (1) Penguin ooks
Limited, (2) Deborah E. Lipstadt, ref. 1996 I. no. 113 (www.holocaustdenialontrial.com/);
cf. G. Rudolf, “The Pseudo-Architect,” in: G. Rudolf,
C. Mattogno, Auschwitz:
The Case against Insanity, op. cit. (note 9); see also online:
vho.org/GB/Contributions/RudolfOnVanPelt.html and …/CritiqueGray.html.
[8] R.J. van
Pelt (cultural historian, expert witness during the Irving trial), The Case for Auschwitz…, op. cit. (note
140); (cf. critique by G. Rudolf, “A Case for Sane Historiography,” in:
G. Rudolf, C. Mattogno, Auschwitz:
The Case against Insanity, op. cit. (note
9)); D. D. Guttenplan (journalist, trial observer), The Holocaust on Trial: History, Justice and
the David Irving Libel Case, Granta Books,
London 2001
(cf. my review G. Rudolf, VffG 6(4) (2002), pp.
479f.); Richard J. Evans (historian, expert witness during the Irving trial), Lying About Hitler: History, Holocaust, and the David
Irving Trial, Basic Books, New York 2001.
[9] Deborah E. Lipstadt, op. cit. (note 340), p. 198.
Even Prof. Lipstadt agrees with that, ibid., p. 199: “But on
some level Carl Degler was right: Their motives are irrelevant.”
[10] Cf. online www.germarrudolf.com/persecute/docs/ListPos111.pdf,
www.latimes.com/news/nation/updates/lat_libel000107.htm.
[11] Reference to Prof. Dr. Arthur R. Butz and his work
The Hoax of the Twentieth Century, op. cit. (note 27).
[12] Reference
to Prof. Dr. Robert Faurisson, cf. note 149.
[13] “Noted Holocaust revisionist Joins
Irvine Conclave,” Los
Angeles Times, May 30, 2000; for reactions to this see: IHR, “Thirteenth
IHR Conference: A Resounding Success,” JHR, 19(3)
(2000), pp. 2-11.
[14] Times, Jan. 12, 2000, p. 3; for more clippings on the trials media coverage see
www.fpp.co.uk/docs/press/index.html
and Greg Raven, “Media Coverage of the
Irving-Lipstadt Trial,” Journal of Historical Review 19(1) (2000), pp. 40-52; ibid., 19(2) (2000), pp. 47-53.
[15] Korea Herald, Feb. 25,
2000 (www.fpp.co.uk/docs/trial/KoreaHerald250200.html).
[16] D.D. Guttenplan, “The Holocaust on Trial,”
The Atlantic Monthly, 285(2) (2000), pp. 45-66 (www.fpp.co.uk/docs/trial/guttenplan/atlm1.html).
[17] Cf. for this
[18] Fred A. Leuchter, The Leuchter Report, British edition, op. cit. (note
163),
[19] Online at www.germarrudolf.com/persecute/docs/ListPos62.pdf.その試訳:「否定派の巣窟にて」
[20] John Sack, An Eye for an Eye, Basic Books,
[21] Auge um Auge, Kabel Verlag, Hamburg 1995; cf. Richard H. Curtiss’ report on how Sack is censored in the U.S. as well, The Washington Report On Middle East Affairs, June/July 1997, pp. 37, 62; cf. G. Rudolf “John Sack und die Gaskammern,” VffG 3(1) (1999), pp. 94f.
[22] Cf. R.H.
Countess, “John Sack in Memoriam,”
TR 2(2) (2004), pp.
214f.
[23] Cf. the
entire article at www.germarrudolf.com/persecute/docs/ListPos62.pdf.
[24] Elie Wiesel, chapter 12: “Appointment
with Hate,” Legends of
Our Time, Schocken Books, New York, 1982, starting at p. 142.
[25] Knopf, New York 1996; cf. the critiques by Ruth
Bettina Birn, “Revising the Holocaust,” The Historical Journal, 40(1) (1997), pp. 195-215;
Norman Finkelstein, “Daniel Jonah Goldhagen’s Crazy’ Thesis – A Critique of Hitler’s Willing Executioners,” new left review, July 1997, pp. 39-87; Norman G.
Finkelstein, Ruth Bettina Birn, A
Nation on Trial: The Goldhagen Thesis and Historical Truth, Metropolitan Books,
New York 1998. Cf. the review by R.A. Widmann, “Holocaust Literature vs.
Holocaust Scholarship: Finkelstein, Goldhagen, and Holocaust Revisionism,”
TR, no 1, Nov. 1999, pp. 17f.; cf. Martin Kott, Goldhagen in der Qualitatspresse. Eine Debatte uber “Kollektivschuld” und “Nationalcharakter”der Deutschen, UVK-Medien, Konstanz 1999.
[26] Robert Faurisson, “How the British Obtained
the Confessions of Rudolf Hoss,” JHR 7(4) (1986), pp. 389-403.
[27] Peronal communication from Mrs. Murphy. However,
in 2005 she won a Pulitzer Price for her reporting from