2.15 ドイツの歴史家――感情を押し殺しているが、もはや黙ってはいない

 

R(ルドルフ):ここで、ふたたびドイツに関心を向けて、この国のメインストリームの研究者のあいだに、ホロコースト問題を真剣に受けとっている勇敢で誠実な人物がいるかどうかという問題を立てましょう。

 まず、ニュルンベルク近郊のエルランゲン大学で教鞭をとっていたメインストリームの歴史家故Hellmut Diwald教授博士を取り上げます。彼は1978年、『ドイツ人の歴史Geschichte der Deutschen』を出版し、ユダヤ人問題の最終解決に触れて、最終解決とは、第三帝国が制海権を失い、ユダヤ人の移住や追放が不可能となった段階での東部地区ゲットーへのユダヤ人の移送計画のことであったと説明しました。そして、今日解釈されているとことのホロコーストについては、次のように短くコメントしました[1]

 

「さまざまな文献が存在しているにもかかわらず、それに続く年月に実際に何が起こったのかについては、その本質的な諸点に関していまだ未解決である。」

 

 メディアからは憤激の咆哮が続きましたが、これについては、Armin Mohler博士とRobert Hepp教授博士が文書資料にもとづいて完璧に記録しています[2]。出版者は世論の圧力を受けて、この本の販売を停止し、著者に相談せずに、第二版では、問題のテキストを差し替えざるをえませんでした。これ以降、Diwald教授は右翼過激派の歴史家とみなされるようになりました。彼は、1990年代初頭に、ドイツの愛国政党「共和党」の綱領委員会に関与していたために、研究者としての名声は地に落ちてしまいました。もちろん、それは、学問的な理由からではなく、政治的な理由からでした。その後、公の場で彼がこのテーマについて発言したのは、次のコメントだけです[3]

 

「内部からであっても外部からであっても、別の利害関係のために、『アウシュヴィッツの嘘』に関連するすべてのことは、法律的にもっとも幅広く守られた盾の庇護のもとにある。」

 

 人は、一度炎に包まれるような経験をすると、二度目は、同じような経験におちいることを避けるために、たじろぐものです。しかし、Diwald教授は、少なくともこのテーマに関心を持ち続けていました。彼は、その死の直前に、ルドルフ報告を高く評価することで、今一度、自分がホロコースト論争に関心を抱いていることを明らかにしたのです。

 次に、ベルリン自由大学現代史教授エルンスト・ノルテ博士のことをドイツのメインストリームの歴史家としてとりあげたいと思います。1980年代に発表されたノルテの学説は、いわゆる「歴史家論争」の口火を切りました。本質的に、この「歴史家論争」の論点とは、民族社会主義のユダヤ人に対する犯罪の起源がロシアのボリシェヴィキ――その中には数多くのユダヤ人がいました――の虐殺にあるのかどうか、民族社会主義者の犯罪が他の犯罪と比較して、質的・量的にユニークなものであったかどうかについてでした[4]。のちに、ノルテはこの問題について、民族社会主義の犯罪を些細な意味合いにだけにおいてではなく――「歴史家論争」はある種のシャドーボクシングに似ている――ユニークなものであったとみなしていると答えています[5]。しかし、ノルテの本を注意深く読めば、彼がこの当時すでにヴァンゼー会議議事録を非常に胡散臭いものとみなしていたことだけではなく、ホロコーストというテーマについても、洞察力に富むコメントを残していることを脚注から知るでしょう[6]

 

目撃証言を検証するのに普遍的な基準が適用され、専門家証言が政治的な色合いから評価されることがなくなったときに、『最終解決』に関する学術的客観性を確保する土台が保証されるであろう。

 

 このようなコメントは、Diwald教授が10年もまえに指摘した内容とまったく同一です。ただし、賢明なるノルテ教授は、ホロコーストに関する疑問を本論の中では述べることをせずに、脚注の中に「爆弾」を紛れ込ませたのです。

 

L(聴衆):ノルテ教授が脚注の中で重大な疑問を提起しているとどうしてわかるのですか? ご自分の解釈にもとづいて、脚注のコメントを拡大解釈し、それを検証する機会をまったく提供していないのではありませんか?ノルテ教授は誠実な研究者です。彼があなたの学説に賛同しているとは思えませんが。

R:ノルテ教授のその後の出版物からわかります。彼の著作『論点Steitpunkte』は、その副題によると、「民族社会主義に関する現在と将来の論争」をあつかっていますが、1993年に出版されています。その中で、彼は、第二次世界大戦からホロコーストにいたる幅広いテーマで、修正主義の学説に触れています。そして、学問ではすべてが疑問の対象とならなくてはならないのだから、ホロコーストに関する学術的な疑問が処罰されるとすれば、そのことは学問の自由と抵触すると判断しています(308頁)。

 

「『すべてが疑問の対象とならなくてはならない』という基本的な公理を念頭におけば、『ホロコースト』と600万人の犠牲者という定説に疑いを抱くことは人々に対して軽蔑の念を持っている邪悪な精神の証であるとみなすべきである、そして、できればそれを禁止すべきであるという広く広まっている考え方は、いかなる状況の下であれ、学問としては受け入れられない。学問の自由という原則に対する攻撃として退けるべきである。」

 

彼は、エスタブリッシュメント側の研究書を調査したのち、次のような発見にいたりました(9頁)。

 

「私自身は、同時代のドイツ史家よりも『修正主義』からの挑戦をはるかに深刻に感じざるをえないにもかかわらず、エスタブリッシュメント側の研究書の中で修正主義という学派が非学問的なあつかわれ方をされているとの確信を抱くにいたった。すなわち、修正主義学派は、問答無用に否定されるか、その研究者が人格攻撃の対象となるか、さらに、多くの場合には、まったく黙殺されていたのである。」

 

 ノルテ教授は、修正主義学派が黙殺されているのは修正主義者の能力が欠けているためではないと、別のセンテンスの中で(304頁)述べています。

 

この本源的な修正主義はドイツでよりもフランスやアメリカでしっかりとした支持基盤を持っており、修正主義の先駆者たちがこのテーマを熟知しており、資料の解釈の面でも、資料批判の面でも、ドイツのエスタブリッシュメントの歴史家たちよりも優れた研究を生み出してきたことにも疑いの余地はない。」

 

 ですから、「最終解決」に関する論争については、その学術的研究が成功を収めてこなかったのは、ひとえにエスタブリッシュメント側であるというのが彼の結論です(319頁)。このために、学問的諸原則に厳格にしたがおうとするノルテは、1987年以降、修正主義者の学説と議論を理解しておこうとする課題を自分に課したのです。そのような作業をしていく過程で、ノルテは、自分が以前にはホロコーストについての目撃証言や自白を過信しすぎてきたことを認めるようになりました(79頁)。しかし、彼はこの当時彼が知っていた証拠や議論を徹底的に研究したのちに、定説のほうが正しく、ホロコーストの否定は客観的には不可能であるとの結論に達しています(87290297308頁)[7]。とはいうものの、ノルテは別の箇所では、大量殺戮の技術的不可能性に関する反論はまだ十分ではなく、議論に決定的な影響をおよぼすような重大な技術的・科学的疑問が存在するとも述べています(316頁)。

 ノルテはホロコースト修正主義者を「本源的修正主義者」と呼んでいますが、彼らの学問的貢献を評価しています。

 

「いずれにしても、本源的修正主義者は定説に挑戦することによって、エスタブリッシュメントの歴史学に、自分たちの結論を検証・深化させることを余儀なくさせた。ここに彼らの貢献があるといわなくてはならない。」(319頁)

 

それゆえ、目撃証言の信憑性・文書資料の証拠的価値・特定の事件の技術的可能性・数に関する情報の信憑性・事実の重要性に評価に疑問を呈することは、学問的に認められるだけではなく、不可欠でもある。そして、特定の議論と証拠を無視したり、禁止することによって、議論や証拠を抑圧してしまうことは、不当なことであるとみなさなくてはならない。」(309頁)

 

 ノルテの発言は、これが最終的なものではありませんでした。5年後、彼はフランスの左翼哲学者フランソア・フレ(Francois Furet)との共著『敵対的近さ(Feindliche Nahe)』をあらわしています。ここには、二人の往復書簡が掲載されていますが、ノルテの手紙の一部を引用しておきます[8]

 

「もしも、本源的修正主義の主張が、ホロコーストは国家の最高指導者が意図したかたちでの包括的・組織的絶滅という意味では存在しなかったという点で、正しいとすれば、…私は、民族社会主義とは『ボリシェヴィズムの歪んだコピー』ではなく、世界政治の中で防衛を強いられたドイツの生存闘争にすぎなかったと告白しなくてはならないでしょう。

どんな研究者であっても、自分の研究書には瓦礫しか残っていないことを喜んで認めたがらないはずである。ですから、私は、修正主義に、そのもっとも本源的なものに大きな関心を抱いているのである。」

 

L:この発言は傾聴に値します。このテーマに関心を向けてきたすべての歴史家たちは、このような姿勢をとるべきでしょう。

R:ノルテ教授は自分が偏見を抱いていたことを認めています。この点で尊敬に値します。さらに、ノルテ教授は、さまざまな論点に関して、伝統的な修正主義の所説にしたがった発言を行なっていますが、そのいくつかについては、あとであつかいましょう。

 

「まさに、このために、私は修正主義の挑戦を受けていると感じており、検事局や警察に修正主義者への法的処分をとることを求めている人々には組することができない。まさに、このために、私は、修正主義が学術的な論点を持っているのか、偽りの煽動にもとづいているものにすぎないのかという問題を提起せざるをえない。

 ここで、歴史家の一般的資質が働き始める。歴史家は、『修正』が学問の日々の糧であることを知っている。…歴史家は、いくつかの修正主義者の説が最終的にはかならずエスタブリッシュメントの歴史家によって認められるか、少なくとも議論対象となることも知っている。…

 大量殺戮は熱いスチームを閉ざされた部屋に注入すること、巨大な電気板の上で電気ショックを与えること、石灰を使うことで実行されたという主張が戦争中と戦争直後になされていたとは[大会[9]では]明言されなかった。」

 

「このような主張は黙殺されることによって、ユダヤ人の死体から作られた石鹸の噂と同じように、明らかに虚偽であると宣告されたのである。もっとも、ユダヤ人石鹸の話は、有名な映画監督の新聞広告のおかげで、最近のドイツでもふたたび姿を現しているが[10]。さらに、SS将校クルト・ゲルシュタインの自白は、1950年代にもっとも流布されていた証言だが、これも、正統派の研究者による資料集にはもはや掲載されていない[11]

 そして、よく知られていることであるが、誠実な研究者として認められているプレサックは、最近、アウシュヴィッツのガス室の犠牲者数を50万近くにまで下げている[12]

 私の知るかぎり、『修正主義者』が提起してきた主張は、このような個別的修正と本質的に変わることがない。すなわち、アウシュヴィッツ所長ヘスの最初の自白は拷問によって引き出された[13]、多くの目撃証人は、焼却棟から高い炎が立ち上っていたと証言しているが、それは妄想に他ならない、12400体を焼却する技術的前提が欠けている[14]、チフスが蔓延しているときに毎日300体ほどの自然死した死体を収容した焼却棟の『死体安置室』は必要不可欠な施設であり、この目的から離れて、大量殺戮のために使用されることはありないというのである。

 歴史家はこのような説に驚くことはない。大きな数字というものは、ヘロドトスの時代から、統計局によって作成されていない限り、疑問の余地があるものとみなさなくてはならないこと、またそのようにみなされてきたことを知っているからである。さらに、悲惨な状況におかれた群衆というものは、理解できないような事件に直面すると、多くの噂をばら撒いてきたし、今もばら撒いていることを知っているからである。…

 しかし、修正主義の所説が、野次馬的な煽動からはなれて、着実な議論を積み重ねていけば、基本的に正統な歴史の修正とみなされ、学術的な所説として受け入れられていくかどうかという問題は、まだ、明確ではない。だが、私は、そのように受け入れられていくと考えている。…」

 

 さらに、4年後、ノルテの著作Der kausal Nexusが登場しています。それは、歴史学における修正と修正主義についてですが、同じようなスタイルで話を進めています[15]

 

アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスの証言はニュルンベルク主要戦争犯罪者裁判の被告の内的精神を打ち壊すことに寄与したが、それは、拷問によって引き出されたものであった。それゆえ、西側諸国の法的基準にしたがえば、この証言は法廷では認められないものであった。いわゆるゲルシュタイン文書なるものは、数多くの矛盾、客観的に不可能なことを数多く抱えているがゆえに、価値のないものとみなさなくてはならない。目撃証言なるものは、非常に多くの場合、伝聞にもとづいているか、たんなる憶測にすぎない。数少ない目撃証人の話は、矛盾しており、その信憑性に疑いの余地がある。

 ドイツ国防軍は1943年にカチンの森で大量埋葬地を発見したが、このカチン事件以外に、専門家の国際委員会による調査が行なわれた事例はなく、その責任はソ連とポーランドの共産主義者にある。

 焼却棟の写真やチクロンB毒ガスの缶は、証拠としての価値をまったく欠いている。チフスに感染した大規模収容所には、焼却棟は不可欠の施設であり、チクロンBは、多くの人々が劣悪な衛生条件のもとで暮らしている場所では不可欠な『殺虫剤』であったからである。

 ガス室での大量殺戮は無数の証言と事実によって立証されているという定説に疑問を呈することは、まずもって認められなくてはならない。そうでなければ、この分野での学問は認められず、研究不能となってしまうからである。」

 

 ノルテは、もっとあとで、さらにはっきりと述べています[16]

 

「ガス処刑による大量殺戮が行なわれたのか、それとも不可能であるか、少なくとも、これまで考えられてきた規模ではありえなかったという主張は、自然科学の分析結果や技術的な事実にもとづいている。害虫駆除室と、もともとは『死体安置室』として設計されていた焼却棟の部屋でのシアン化合物の残余に関する化学的検証か専門家報告(ロイヒター、ルドルフ、リュフトル)である。また、焼却時間、石炭消費量などに関する非常に詳細なマットーニョによる研究である。これらの研究は、数百の自白や目撃証言が大量ガス処刑が行なわれたと証言していたとしても、このような大量ガス処刑は技術的に不可能である、自然の法則に照らし合わせても不可能であると主張しているが、これに対する反論は原則的に存在していない。…人文科学の研究者とイデオロギー的な批評家たちは、この分野では何も語りえていないのである。」

 

 ドイツのもっとも著名な日刊紙『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』は、この点について、次のように述べています[17]

 

「ヒルバーグと…ノルテは、有名なエリー・ヴィーゼルの目撃証言は細心の注意を支払って読まれるべきであるという点で一致している。ヒルバーグの近著Sources of the Holocaust[18]は、ゲルシュタインやヤン・カルスキといった著名ではあるが信憑性を欠いた多くの目撃証人とはこっそりと距離をとっている。」

 

L:ノルテは修正主義を受け入れたために、フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙での出版禁止というような、ひどいトラブルに遭遇しているのですね。でも、もうノルテの件から離れましょう。

R:わかりました。もう一人の高名なドイツ史家の話に移りましょう。フライブルクの軍事史研究所の所長を長くつとめたヨアヒム・ホフマン博士のことです。彼は1995年に刊行した『スターリンの絶滅戦争Stalins War of Extermination』の中で、自国における学問の自由に関して率直な見解を披瀝しています[19]

 

「ドイツ基本法の唱える『研究の自由』の精神と文言とは逆に、今日では、歴史学の著作を出版するまえに、その中に含まれているセンテンスの多くを『犯罪的内容』ゆえに修正しなくてはならない。これは非常に不名誉な事態である。」

 

 ホフマン博士は、ホロコーストの歴史叙述の中のいくつかの事柄が確定的な事柄ではないと、各所で述べています。ですから、「ドイツ人が実際に行なった虐殺もしくは関与したとされる虐殺」(172頁)というような表現を使っているのです。また、ソ連の初期の報告とニュルンベルク国際軍事法廷の判決では、アウシュヴィッツでのガス処刑が副次的にしかあつかわれていなかったという事実も論じています(181185頁)。「マイダネクで起ったとされているガス処刑」という表現もあります(182頁)。また、国際軍事法廷の審理には疑問の余地があると指摘し、ソ連はドイツによるとされる虐殺行為の文書資料を大量に偽造することで国際軍事法廷をミスリードしたと非難しています(188210頁)。彼は、ホロコーストの犠牲者総数、とくにアウシュヴィッツ収容所の犠牲者数を、「ソ連の宣伝の産物」と呼んでいます。ソ連は、「世論、とくにアングロ・サクソン諸国の世論に影響を与え、それを一定の方向に導こうとしていた」というのです(190334f頁)。1941年、ドイツの特別行動部隊[20]がキエフのユダヤ人34000名ほどをバービー・ヤール渓谷で大量殺戮したとされる事件がありますが、ホフマン博士は、この事件について「ソ連の犯罪がドイツ人のせいにされている」という章の中で、次のように正確にコメントしています[21]

 

「近年、数多くの航空写真が発見されているが、それによると、内務人民委員部が[カチンでのポーランド人大量殺戮の犠牲者のために]掘った明白な大量埋葬地とは異なり、バービー・ヤールの土地は、ドイツ軍占領時代の19391944年には、まったく人の手が入っていなかったと結論せざるをえない。」

 

L:それはどういうことなのですか?

R:巨大な大量埋葬地が存在し、死体の大量戸外焼却が行われたという目撃証言がありますが、それが間違っているということです。この問題については、3.10章でもっと詳しくあつかうつもりです。そのとき、また、ホフマン博士のテキストを引用することにします。これ以外にも、ホフマン博士は、終戦時の東ドイツ[22]の民族浄化による220万の犠牲者のことを「ドイツ人ジェノサイド」の犠牲者と呼んでいます(336頁)。彼は、ゲリラ戦争を「国際法的には不法な行為」と呼んでおり、そこでのパルチザン活動を「冷酷な計算にもとづいてソ連が始めた」行為とみなしています。そして、東部占領地区でのドイツ軍治安部隊の活動のことを「パルチザン活動に対する無責任な報復行為」と呼んでいます(338頁)。ホフマン博士は、ドイツ帝国が1943年にはじめたドイツ国防軍と「ロシア解放軍」との平等な共闘同志関係政策を、将来への展望をもたらしたはずである「ロシア・ドイツ両国民の友好」の端緒とみなしています(340f頁)

 ホフマン博士は修正主義的な落雷を投下していますので、当然のことながら、ホロコースト修正主義についても、定説とは異なった見解を披瀝しています(185頁)。

 

「最近、アウシュヴィッツ問題は、ドイツ内外のジャーナリズムのあいだでの激しい論議の対象となっている。この論議は論争者の政治的動機のために、論争としての適切な枠を超えてしまっていることも多く、白熱した様相を帯びているが、豊富な知識にもとづく知的な方法によっている。この論争は『公の』文献のあいだでというよりも、むしろいささか身を隠した出版物のあいだで行われている。…」

 

L:「身を隠した出版物」とは、何のことですか?

R:おそらく、修正主義者の出版物のことでしょうが、あえて明言はしていません。彼の発言を続けましょう。

 

「特定の思想や表現活動を禁止している公式の禁令がこの論争を妨害しており、この禁令に迎合する政治的密告者が、この論争を監視しているからである。しかし、この論争は現代のもっとも重要な問題にかかわっている。そして、この問題についての自由な論争を阻んでいる措置は、今日、どのように恐るべきもののように見えようとも、長くは続かないであろう。経験が教えていることは、多くのヨーロッパ諸国にあるような刑罰によって自由な歴史研究を妨げることができるのは一時にすぎない、歴史的真実は、身を隠した世界に生き残って、結局は勝利を収めるであろうということである。さらにアウシュヴィッツ問題に関していえば、この問題は、ユダヤ人に対する残酷な迫害と処刑についての『明白な』事実に関してではない。使われた殺戮メカニズムと迫害の犠牲者となった人々の数に関する問題なのである。この点では多くの発見がなされており、その意味で、これまでの定説の多くは修正されざるをえないのである。」

 

 ホフマン博士は、半ばタブーとなっているアウシュヴィッツの犠牲者数について、こう述べています(334頁)。

 

犠牲者の数は誇張されているという主張は、依然として不適切なものとみなされている。『ユダヤ人の損失がひどく誇張されているとの主張』は、今日でも刑事告発の対象となっているからである。こうした状況の中で、歴史家たちは大きな困難に直面している。歴史家たちは、歴史家としての真実に対する責務、すなわち、正確に犠牲者数を確定することという責務と、政治裁判・スパイ・密告者という抑圧というディレンマにおちいってしまうからである。」

 

L:ホフマンは、ドイツの検閲制度のために、トラブルにおちいったのですか?

R:本書の英語版で説明しているように、かろうじてトラブルから逃れました。急進的左翼政党である緑の党は、ホフマンに関するちょっとした調査報告書をドイツ国会でまとめましたが、告発は最終的には無効となりました[23]

 ザルツブルク大学(オーストリア)で近代史を教えているハインツ・マゲンハイマー博士は、ホフマン博士への攻撃との関連で、発言を求められています。彼は、第二次世界大戦時のドイツ国防軍のソ連攻撃に関する、ホフマン博士の修正主義的な傾向についてこう述べています[24]

 

「『修正主義者』との烙印を押されてしまうことは、研究者にとって、結局のところ不利益とはならないであろう。真実に忠実な歴史研究は、定説とされているテーゼに疑問を抱くかなくてはなりませんし、再調査を行なって、修正を受け入れなくてはならないからである。この意味で、『修正主義』とは、真実を確定していくにあたっての刺激である。」

 

L:というよりも、修正主義とは、塩という刺激をかけすぎており、歪曲と捏造によって知識というスープを台無しにしているのではないでしょうか。

R:それは、まったく間違っています。修正主義という用語は、ラテン語で見直すを意味するrevidereに由来しています。定説の再検討は、自然科学や工学と同じように、歴史学の帰属する社会科学でも、ごく普通のことです。

 学問とは、停止している状態ではなく、証拠の探求を介して知識を獲得していく過程なのです。調査研究によって新しい発見がなされたり、批判的な研究者によって誤りが見つけられたときには、これまでの定説は修正されるか、ときには、まったく廃棄されてしまうのです。

 ですから、修正主義とは、拡大鏡を使って、定説を批判的に再検討したり、定説に反する、もしくはその修正を要求する新しい証拠が存在しないかを検証することで、これまでの方法や所説を見直すことなのです。古い定説や概念を検証すること、それを反駁しようとすることは、学問の重要な構成要素です。主張や理論を厳しい反駁の場にさらすことが許されてこそ、主張や理論の信憑性が検証されるし、真実に接近することができるでしょう。この点については、哲学者のカール・ポッパーが、知識の修得の土台である認識論に関する標準的な著作の中で、的確に説明しています[25]

 

L:ポッパーはユダヤ人ですね。ポッパーは、自分の発言があなたに利用されていることを知ったとすれば、墓場の中でびっくりしてしまうことでしょうね。ホロコースト修正主義とは、間違った見解を修正することとはまったく関係ありません。ホロコースト修正主義を一般の修正主義と同じものとみなすことは、概念を不当に乱用しているのです。

R:ポッパーの主張の正しさが、彼や私の宗教的な傾向に左右されるとでもいうのでしょうか。古代ギリシアにおける科学的方法の始まりに関するポッパーの見解に触れておきたいと思います。彼によると、「ギリシア哲学が新たに付け加えたのは、神話をより『科学的な』何かに置き換えることではなく、神話に対して新しい姿勢をとった」ことなのです。

 

「新しい姿勢とは批判するという姿勢である。教条的なかたちで教義を押し付けるのではなく…、教義を批判的に議論するという姿勢が登場した。疑問が提起され、信憑性に疑いの目が向けられ、教義の真実性が問題とされるようになった。新しい点は、疑問を抱き批判することが、伝統的な理論、すなわち神話に代わって、学問的な伝統となり、理論を批判的に議論するという伝統が形成されるようになった。」

 

 だから、科学の真髄とはその内容ではなく形式なのです。もっとも重要な側面は、批判的な姿勢です。ですから、真剣に疑問を抱いて、批判的に議論しましょう。

 

L:西側文明の著名人に触れるのではなく、もっと簡単に説明することができませんか?

R:わかりました。例をあげましょう。私が重力の法則を信じていないとします。そのために、ありとあらゆる実験を行なって、すべての物理学が間違っていることを明らかにしようとしているとします。そのとき、そのようなことをするのは許されないと、あなたはおっしゃるのでしょうか?物理学者たちは私を刑事告訴するのでしょうか?

 

L:もちろん、そのようなことは言いません。ご自分の実験をおすすめくださいというでしょうし、物理学者たちもそう言うでしょう。

R:そのとおりです。自分たちが正しいと確信している人々は、自分たちの理論が再検証されることを恐れないものです。だとすれば、よく聞かされてきたように、ホロコーストが起ったと確信しているとすれば、その点を検証することにどのような問題があるのでしょうか?

 ホフマン博士の話に戻りますが、博士は、1995年に、ポッパーの指示に大まかにしたがいながら、私が出版した修正主義論文集『現代史の基礎』[26]に関して、専門家としてコメントしています[27]

 

「この論文集の中には、非常に説得的なものが数多くある。…概して言えば、ここで問題となっている論文集への寄稿論文は、そのテーマと関連文献についてしっかりと理解していることを示している。…ガウスが編集した論文集から受ける全体の印象は、その中身を認めなくてはならないということである。…この文書資料にもとづく丹念な研究書を抑圧してしまうことは、科学的・学術的な理解を求める正統な努力に対する、強制的な障害となってしまうであろう。」

 

L:すごい発言ですね。この専門家としての見解は何のために披瀝されたのですか。

R:この論文集を没収・破棄するために開かれたチュービンゲン州裁判所での裁判審理における弁護活動のためです。ホフマン氏はそのために、専門家の見解を明らかにしたのです。ノルテ博士も公判の中で、同じような専門家の見解を明らかにしています。しかし、この二人の著名な歴史家の発言によっても、裁判所がこの論文集を没収・廃棄することを止めることはできませんでした[28]

 

L:ノルテ氏の専門家としての見解は公表されたのですか?

R:私の知る限りでは、公表されていません。ただし、ノルテ教授は別の文脈で、自分の見解を次のように要約しています[29]

 

「エルンスト・ガウス(ゲルマール・ルドルフのペンネーム)が編集した論文集は、ほとんどすべての修正主義的な所説を網羅した集約的な著作である。…

 本書の流通は[ドイツでは]禁止されている。それは、いくつかの例外を除けば、自説に反する研究者と反論を的確に引用しており、正式の学術的体裁にもとづいた研究書である。そして、成功しているとはいえない方法や議論が不十分なために、『似非学術的』とみなされてきた。しかし、そのことだけで、『似非学術的』とみなすべきではない。学問とは正確さひいては真実と同一のものではない。虚偽が存在することを前提として、正確さと真実に近づこうとする努力なのである。」

 

L:とういうことは、この論文集は部分的にしか学術的ではないということですね。

R:『現代史の基礎』に対するノルテの反論がどのようなものであるかを知るには、ノルテの見解を読まなくてはなりません。私は彼の専門家報告を読んでいませんが、おそらく、彼の著作Streitpunkte[30]の中で述べているものと同じような趣旨の批判なのでしょう。いずれにしても、彼は、学問と研究の自由という基本的権利によって、この研究書が守られるべきであるという前提から出発しています。

 最後に、1980年代末から1990年代初頭にかけて、一連の興味深い研究を発表したことで「半修正主義者」として有名になった歴史家のことに触れたいと思います[31]1992年までベルリンで現代史を教えていたライナー・ツィテルマン博士のことです。彼は、定説の描く第三帝国像を批判するために、第三帝国をあつかう場合には、検事の告発のような、あまりにも一方的な非難が横行しているので、弁護士の立場をとることを歴史家として認めなくてはならないと主張しています。正確な歴史叙述を行なうために、弁護人が必要であるというのです[32]。もちろん、ツィテルマンは、イデオロギー、システム、ひいては犯罪までも弁護、正当化しようとしたわけではありません。容疑を晴らすような材料を提示する機会を要求しているだけです。

 

L:ツィテルマンのやり方が正しいとは思いません。もちろん、誰にも弁護活動を行なう権利はありますが、弁護を行なっていると公言することで、自分を守勢、弁明的な立場においてしまいます。

R:そのとおりです。誰にも、容疑を晴らすような証拠を探し求める権利はあります。しかし、今日のドイツ人に許されていないのは、まさに、そのような証拠を探し求める権利なのです。今日のドイツ人、ドイツ国民は、非常に衝撃的な政治的告発のもとにさらされ続けてきましたが、そのような告発に疑問を呈することは、投獄という脅迫によって禁止されているのです。

 実際には、学問のあらゆる分野で、研究者たちは、きわめて個人的・私的な損失予定表を持っています。政治的な損失予定表であるかもしれませんし、自分たちの名声、プライド、社会的身分の損失予定表かもしれません。研究者の資産が彼らの所説の流行に依存していることも多々あるのです。ホロコースト論争も、その他の学術論争とまったく異なることはありません。一番強烈な情緒的反応と、もっとも強力な政治的損失計算を呼びおこしているにすぎません。

 ですから、研究者という存在はすべて客観的足りうるとの想定のもとで、いずれは客観性が勝利を収めるであろうと信じることはナイーブすぎます。研究者も人の子ですし、その多くは先入観を抱いており、文化的環境のおかげで、社会的な環境も偏見をはらんでいます。これを避けることはできません。客観性を保証するには、特定の歴史時代を弁護するようなものも含めて、あらゆる思想が勝利を求めて自由に戦うことができるような思想のフリーマーケットが必要なのです。特定の思想が最終的に勝利を収めるには、批判から身を守ってくれるような法律や権威によって保護されることではなく、その説得性と正確さによって、多くの研究者を納得させることが必要なのです。それこそが学問の正確さを保証する唯一の方法です。

 ドイツ現代史において弁護側の立場を主張するツィテルマン博士の所説は、勝利を収めていません。むしろ逆の事態となっています。今日にいたるまで、ドイツの歴史をすべての点で告発することが、研究者の名を高め、ひいては彼らの利益を図ることになっており、反対に、ドイツ現代史の弁護をする研究者はすぐさま、追放され、いくつかのヨーロッパ諸国では刑事告発の対象となってしまうのです

 ここで話し合っている問題の中身を明確にするために、この点についての所説がどれほど間違っていたのか、そのために、ドイツ国民が全体として、どれほどの重荷を永遠に背負わなくてはならなくなったのかを明らかにしておきたいと思います。

 まず、さまざまなバリエーションがありますが、ユダヤ人の脂肪から作られた人間石鹸、囚人の死体からとった縮んだ首、人間の皮膚から作った電灯の傘などがあります。

 さらには、犠牲者数の水増しがあります。この数字は、あらゆる研究機関が勝手に捏造しており、それが虚偽だとわかったのちにも、通用することが認められています。

 最後に、大きなリスクを伴っていますが、虚偽の証言、間違った証言が行なわれたり、文書資料が捏造され、できる限りドイツの歴史をネガティブなものとするような操作が行なわれてきました。デムヤンユク事件とヴァンゼー会議議事録のことをいっているのですが、これ以外にも、多くの事例をあげることができます[33]。この講義の中で、そのような事例を紹介していきますが、そのことによって、なんとも簡単に、大衆の目が曇らされてきたのかも――大衆の多くは依然として、そのような事例に批判的な目を持っていません――、明らかにしておきたいと思います。容疑を晴らす証拠を発掘することは、バランスのとれた歴史評価のために非常に重要なのですが、ことが第三帝国の歴史におよびますと、適切ではない、ひいては非合法であるとみなされてしまっていますが、さまざまな事例を手短にふりかえっただけでも、この事実を認識できます。

 

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[1] Hellmut Diwald, Geschichte der Deutschen, 1st ed., Propylaen, Frankfurt/M. Berlin Wien, 1978, p. 165.

[2] Armin Mohler, Die Kampagne gegen Hellmut Diwald von 1978/79 Erster Teil: Die Rache der SS,  in: Rolf-Josef Eibicht (ed.), op. cit. (note 6), pp. 110-120; R. Hepp, op. cit. (note 6).

[3] H. Diwald, Deutschland einig Vaterland, Ullstein, Frankfurt/Main 1990, p. 72.

[4] See on this e.g.: E. Nolte, Das Vergehen der Vergangenheit, Ullstein, Frankfurt/Main 1987; Rudolf Augstein (ed.), Historikerstreit, Serie Piper 816, Piper, Munich 1987; R. Kosiek, Historikerstreit und Geschichtsrevision, 2nd ed., Grabert, Tubingen 1988.

[5] E. Nolte, op. cit. (note 263), p. 516.

[6] Ibid., p. 594.

[7] Cf. on this my response Im Streit mit Prof. Nolte, G. Rudolf, op. cit. (note 168), pp. 131-187.

[8] Herbig, Munich 1998, pp. 74-79; cf. G. Rudolf, Die ketzerischen Gestandnisse eines Holocaustologen,

VffG, 3(2) (1999), pp. 222-224.

[9] In Stuttgart, cf. note 151.

[10] Arthur Aze Brauner, Frankfurter Allgemeine Zeitung and Suddeutsche Zeitung, May 6, 1995.

[11] See chapter 4.5.2.

[12] See chapter 2.16.

[13] See chapter 4.5.4.

[14] See chapter 3.4.4.

[15] Ernst Nolte, Der kausale Nexus, Herbig. Munich 2002, pp. 96f.

[16] Ibid., p. 122.

[17] Frankfurter Allgemeine Zeitung, Oct. 7, 2003, p. L 37.

[18] R. Hilberg, Sources of Holocaust Research. An Analysis, I.R. Dee, Chicago 2001; cf. Jurgen Grafs review, Raul Hilbergs Incurable Autism,TR 1(3) (2003), pp. 344-350.

[19] Joachim Hoffmann, op. cit. (note 24), p. 24.

[20] パルチザンと戦うドイツ軍部隊

[21] Joachim Hoffmann, op. cit. (note 24), p. 215. Cf. the contribution by John C. Ball, Air-Photo Evidence

and Herbert Tiedemann, Babi Yar: Critical Questions and Comments, in: G. Rudolf, op. cit.

(note 44), pp. 269-282 and 501-528, resp. The Ukrainian daily Kiev Evening is said to have endorsed

these research findings in a report published in the Oct. 20, 1995, edition.

[22] ここで、〔東ドイツ〕という用語を使っているが、それは旧プロイセンの東部諸州(東プロイセン、シュレジエン、東ポンメルン)のことを指しており、今日では、ポーランドの一部となっている。今日、「東ドイツ」と呼ばれている地域(ザクセン・アンハルト、チューリンゲン、メクレンブルク、ブランデンブルク、西ポンメルン)は、1945年以前には、中部ドイツもしくは中央ドイツと呼ばれていた。

[23] Joachim Hoffmann, op. cit. (note 24), pp. 16-19; as well as personal communication by Dr. J. Hoffmann,

who saw to it that not a single word was changed in the English translation, because he had been

threatened that a revision of the content of this book could result in criminal investigation for stirring

up the masses.

[24] Junge Freiheit, Feb. 16, 1996, p. 7.

[25] Karl Popper, Objektive Erkenntnis, 4th ed., Hoffmann & Campe, Hamburg 1984; cf. also Claus Nordbruch,

Die selbsternannten Tugendwachter im Visier,Neuen Zurcher Zeitung, June 12, 1999

[26] See Ernst Gauss (ed.), op. cit. (note 256); Engl.: Germar Rudolf (ed.), Dissecting the Holocaust, op. cit.

(note 44).

[27] Joachim Hoffmann, Grundlagen zur Zeitgeschichte (Foundations of Contemporary History): Expert

Report about this Book, in G. Rudolf (ed.), op. cit. (note 44), pp. 563-566.

[28] AG Tubingen, verdict of June 15, 1996, ref. 4 Gs 173/95:論文集とそれに関するデータは廃棄されなくてはならない。出版者には罰金30000マルク(当時で20000ドルほど)を科す。本書の著者でもある編集者のゲルマール・ルドルフは、この裁判を逃れるために、亡命した。

[29] E. Nolte, op. cit. (note 298), p. 101.

[30] E. Nolte, Streitpunkte, o. cit. (note 263); cf. also my critique, op. cit. (note 290).

[31] Thus e.g. M. Prinz, R. Zitelmann (ed.), Nationalsozialismus und Modernisierung, Wissenschaftliche

Buchgesellschaft, Darmstadt 1991.

[32] R. Zitelmann, in U. Backes et al. (ed.), op. cit. (note 167), p. 32.

[33] 捏造されたラウシュニングとヒトラーとの会話、捏造されたヒトラーの日記、1933年の国会議事堂放火事件についての捏造文書資料。K. Corino, Gefalscht!, Rowohlt, Reinbek, Hamburg 1992; see also the large amount of historical lies and forgeries as continuously documented inthe German series by Heinrich Wendig, Richtigstellungen zur Zeitgeschichte, Grabert-Verlag, Tubingen 1990 and later.