2.16 フランスでのスキャンダル[プレサック事件]
R(ルドルフ):ジャン=クロード・プレサックという名前を聞いたことがある人は手を挙げてください。10%ぐらいはいらっしゃるようですね。彼の名前からどのようなことを思い起こしますか。
L(聴衆):プレサックはアウシュヴィッツでの大量殺戮の技術を調査し、それに関する研究書を出版したフランス人薬剤師です。この本は、修正主義者の技術的議論を最終的に論駁しているために、メインストリームのメディアから賞賛されました。
R:プレサックは、この分野ではアマチュアの歴史家ですが、アウシュヴィッツについて、二つの研究書を著しています。最初の本は1989年に出版され、アウシュヴィッツに関する修正主義を最終的に論駁したものと喧伝されたにもかかわらず、ほとんど関心を呼び起こしませんでした。500頁以上にもおよぶこの本は、その紙型もきわめてたいそうなものであり、ごく少部数しか印刷されませんでした。そして、その大半が西側世界の主要な図書館に収容されました。プレサックがはじめて社会的な関心を集めたのは、このマンモスのような研究書の改訂・要約版とみなされる研究書『アウシュヴィッツの焼却棟、大量殺戮の技術』が出版された1993年のことです。
L:この本は独自の技術的方法を使って、修正主義を最終的に論駁していたために、プレサックは賞賛されたのですね。
R:マスメディアはそのように主張しました[1]。例えば、Burkhard Muller-Ullrichはドイツのニューズ・マガジンFocusにこう書いています[2]。
「これまで欠けていたのは、大量殺戮の技術的証拠であった。その多くが民族社会主義者であるプライベートな歴史家たちの国際グループは、犯罪を否定するか、それを『過小評価』しようとしたがっているが、彼らは、まさに技術的証拠の欠如を攻撃している。…プレサックのメリットは、修正主義者とアウシュヴィッツ否定派の異議申し立ての根拠をこの本によって掘り崩したことである。…アウシュヴィッツ否定派は、一つの収容所で一日に数千名を大量ガス処刑することは技術的に不可能であると主張してきたが、プレサックはこの論点の反駁に成功しており、ノルテでさえもこの説得的で争う余地のない反駁については知らなかった。」
また、Harald Eggebrechtもドイツ最大の日刊紙『南ドイツ新聞』の中で、同じようなことを書いています[3]。
「アウシュヴィッツの大量殺戮装置は技術的には不可能であるとの似非科学的な主張に支えられながら、アウシュヴィッツのガス室のでユダヤ人の絶滅を否定する恥知らずなネオナチ的主張が復活していたために、ふたたびアウシュヴィッツでの大量殺戮を立証することが必要となっていた。…プレサックは、すべての文書を丹念に分析し、文書の中の数行から恐ろしい事件が起ったことをつかみ出して、それを立証した。…前述したように、本書は興奮を呼び起こすものでも、受け入れがたい人々、恥知らずな人々、冷笑家、エルンスト・ノルテ[4]の類の相対主義者の攻撃を直接に撃退することを意図したものでもない。相対主義的な立場に立つ人々は、修正主義者の議論と理論を学術論争として真剣に受け入れるべきであると主張しているが、そのような主張をする人々は誰であれ、『アウシュヴィッツの嘘』を信じ、ナチス時代をドイツ史に統合可能な時代として受け入れようとする人々なのである。」
L:簡単にいえば、これらの批評家たちの発言は、ホロコーストを否定する有効な主張はないけれども、そのような主張を最終的に論駁する人物が登場したと述べているわけですね。
R:きわめて奇妙な話ですね。では、この論駁を検証してみましょう。この中で、プレサックの本を読んだ方がいらっしゃいますか?前に出てきてください。ありがとうございます。プレサックの本をお読みになったのですね。
L:はい、感銘を受けました。
R:わかりました。ここにあります。この本に掲載されている参考文献の中から、焼却棟・ガス室・処刑施設に関する技術書からの引用が一つでもありますか。もしくは、プレサック自身が行なった技術的計算が一つでもありますか。ありましたら教えてください。10分間待ちます。よろしくお願いします。
L:わかりました。そうしてみましょう。
R:そのあいだ、Eric Conanの話をしましょう。修正主義に強く反対しているフランス人ジャーナリストです。プレサックについての鳴り物入りの宣伝が終息してから半年少々後、コナンは、フランス最大の日刊紙ルモンド紙にアウシュヴィッツ収容所の状況についてこう書いています[5]。
「もう一つのセンセーショナルな話題:共産党当局が残した捏造にどのように対処すべきか?1950年代、1960年代、廃棄されたか別目的に改築されたいくつかの建物が、再建されて本物として展示されたが、多くの誤りをおかしていた。殺人ガス室として展示されることもあった害虫駆除ガス室については言うまでもない。否定派はこうした逸脱行為から大きな恩恵を受けており、そこから妄想を作り出してきた。焼却棟Tの話が典型的である。最初のガス室は焼却棟の死体安置室に作られた。1942年初頭に短期間稼働しただけであった。ガス処刑に必要なゾーンの封鎖が収容所の業務を妨げたためであった。このために、1942年4月末、ガス処刑はビルケナウに移され、そこで、ユダヤ人犠牲者に対する工業的規模でのガス処刑が実行された。その後、焼却棟Tは外科手術室を持つ防空シェルターに改築された。アウシュヴィッツ博物館が1948年に開設されると、焼却棟Tはオリジナルと推定される[ママ]状態で再建された。しかし、そのすべてが捏造である[6]。ガス室の大きさ、ドアの配置、チクロンB投入口、炉――生存者の証言にそって、まったく新しく作り直された――、煙突の高さなどである。…今のところ、このような事態が続いており、見学者には何も語られていない。非常に込み入った出来事だからであるが、将来は、明らかにされるであろう。」
L:アウシュヴィッツの見学者が見ているのはオリジナルのガス室ではなく、再建されたものであるということなのですか?
R:少なくとも、オリジナルと「推定された」条件にしたがって、再建されたことになっています。
L:しかし、見学者には、これはオリジナルなガス室であると話されているのですね。
R:少なくとも、少し前までは、本物であると話されていました。
L:私たちは嘘をついてきた、私たちは嘘をついている、私たちは嘘をつき続けるであろうというモットーにしたがっているのですね。
R:1年後に出版された研究書の中で、二人のメインストリームの歴史家が、戦後に行なわれた「再建」は実際とは異なっているとの見解を公にしています[7]。
「ロシア人は1945年に収容所を発見したが、そのときの現状に対して追加措置や削除措置がとられてきた。囚人受け入れ施設は削除されたが、そのことは、焼却棟Tを今日の収容所博物館の北東周辺の外側に再建することで埋め合わされた。煙突とガス室を持つ焼却棟は、収容所見学ツアーの荘厳な終着点となっている。見学者には、目にしている焼却棟が戦後の再建であるとは話されていない。戦後に、アウシュヴィッツが博物館となったとき、収容所全体の歴史を一つの地区にまとめ上げるという決定がなされた。大量殺戮が行われた、悪名高い焼却棟は、2マイル離れたビルケナウの廃墟の中にある。委員会は、焼却棟が見学ツアーの終わりに必要であると感じ、その結果、ビルケナウの焼却棟の歴史を代弁するものとして、焼却棟Tが再建された。この簒奪計画はかなり入念であった。ビルケナウの究極的なシンボルである煙突が作り直された。ガス室にチクロンBを投入するための4つの開口部が設置された。3つの炉のうち2つがオリジナル部品を使って作り直された。こうした作り直しを示している標識はない。印も付けられていない。ガイドたちも、見学者をこの建物に案内して、この建物の中で何が行われたのかを説明するときに、作り直しの件については沈黙している。」
L:なんとも気の抜けた話ですね。再建したとしても、それに反対する理由は内容に思いますが。
R:証拠を提示するためではなく、ここでも認められているように、宣伝目的で再建が行われているとすれば、それは非難するに値します。この「再建」なるものがどの程度本物に近いものであるかについては、あとで明らかにしましょう。1996年にフランスで起ったことを議論するための話の前提にすぎません。前に申し上げたように、フォーリソン教授は、その批判的研究方法のおかげで、フランスでは大きな成功を収めていました。プレサックは、フォーリソンの研究を、自分が研究を始める刺激とみなしていました。「ロイヒター報告」やその後の法医学的調査はすべて、フォーリソンの研究から生まれたものでした。引用したコナンの話は、フォーリソンが10年前に発見したことを追認しているにすぎません。
1996年1月、フランスで信じられないことが起りました。左翼の政治活動家として有名な二人のフランス人のうち、一人はホロコースト修正主義の信奉者であることを宣言し、もう一人は、修正主義者にも言論の自由を認めるべきであると主張し始めたのです。
前者は、1960年代と70年代にフランスのもっとも活動的な共産主義者であったロジェ・ガローディです。彼は、すでにフォーリソンの本を出版していた左翼系出版社からイスラエルの政治の創設神話に関する本を出版しました[8]。この本のある章で、ガローディは完全に修正主義的観点からホロコーストのことをあつかっています。ガローディがこの本の件で攻撃されたとき、同年4月に、Henri Grouesが公に彼を支持しました。Grouesは、故マリア・テレサの男性フランス人版であるAbbe Pierreとしてのほうがよく知られています。数か月にわたって、フランスのメディアでは、ガローディが修正主義を支持していること、Abbe Pierreが自分の友人のための言論の自由を求めていることが話題となりました[9]。
1996年6月27日、フランスの週刊誌L’Evenement du Jeudiの見出しは「ホロコースト――修正主義者の勝利」というものでした。
この当時、この勝利は破局とみなされていましたが、実際には、勝利でも何でもありませんでした。修正主義者の主張がいつものように誇張されたり、歪曲されたりして伝えられたにすぎないからです。修正主義者には発言の機会が与えられませんでしたし、それどころか、中傷キャンペーンの中で、ふたたび悪魔のようなあつかいを受けて、その言論も抑圧されたのです。この事件はAbbe Pierreの発言撤回で終わりましたが[10]、フランス以外の地域では、ほとんど反響を呼びませんでした[11]。
L:二人は刑事告発されたのですか?
R:Abbe Pierreはされませんでしたが、ガローディは罰金160000フラン、執行猶予付きの9ヶ月の懲役刑を科せられました。にもかかわらず、ガローディはフランス語以外の外国語で出版することができました。その中では、想像がつきますように、アラビア語版が一番好評でした。アラビア語版は百万単位で販売され、ガローディはアラブの主要メディアのインタビュウを受け、英雄・殉教者とされました。
L:ということは、ガローディは発言を撤回しなかったのですね。
R:していません、むしろ逆です。自分たちが不当に迫害を受けていると気づいたときに花咲く性格というものがあります。ガローディもそのような人々に属しているようです。ガローディ/アベ・ピエール事件は、当初は表面上は気づかれなかった影響を持っていました。例えば、フランスのメインストリームの歴史家で修正主義の反対者Jacques Baynacは、1996年9月2日に、したがって事件が終息してから2ヶ月以上も後になって、沈黙を破っています。彼は、修正主義に関する学問的な研究の中で、この事件は「修正主義者に有利な方向に雰囲気を変え」、一方、修正主義の反対者はおちこんで、パニック状態が起っていると書いています。彼は、これまで歴史家たちは修正主義者の挑戦に尻込みし、この問題をアマチュア歴史家のプレサックに委ねてしまったと指摘しています。彼はこう述べています[12]。
「科学的歴史家にとって、目撃証言は歴史ではない。それは歴史の材料にすぎない。一人の目撃者の証言は重要なものではなく、大量の目撃者の証言も、確固とした文書資料によって立証されていなければ、重要なものではない。誇張でも何でもないのだが、科学的歴史学の前提条件とは、文書資料がなければ、事実は証明されえないというものである。…
文書資料の優位性を放棄すれば、歴史学の科学性を否定することになり、すぐさま、歴史学は虚構となってしまうであろう。文書資料の優位性を維持すれば、資料的な痕跡の欠如ゆえに殺人ガス室の実在性を直接証明することは不可能であることを認めざるをえないであろう。」
L:このフランス人歴史家は、目撃証言だけでは歴史学にとって不十分であり、ガス室の実在を証明できないことを認めているのですね。
R:そのとおりです。
L:「痕跡の欠如」とは何を意味しているのですか?
R:彼自身の説明では、「文書、痕跡、その他の物的証拠の欠如」のことです。彼は、歴史家たちが修正主義者の議論と直接対決することに尻込みしてしまったことを認め、殺人ガス室には科学的に立証しうる証拠が存在しないことを暴露してしまったので、多くの敵を作ってしまうに違いありません。
L:陶片追放されてしまうということですか?
R:そうです。でも、今のところ何も起っていません。さて、プレサックの本の中に技術的な引用や計算があるかどうか調査してくれているボランティアの方に戻りましょう。何か発見しましたか?
L:率直に言えば、まったく発見できません。
R:技術文献から引用は一つもないですか?
L:はい。
R:計算もないのですか?
L:もちろん、この本すべてを読み通すことはできませんが、ざっとみたところ、計算をあつかった箇所は見当たりません。もし、そのような箇所があれば、文章だけを掲載している箇所とは書式が異なっているでしょうから。
R:そうでしょうね。別に驚くべきことではありません。それがプレサックの研究書の本質なのですから。この本は、修正主義者の技術的な議論と取り組んで、それを論駁したということになっていますが、詳しく検討してみると、まったく、そのような課題を果たしていないことがわかります。ちなみに、プレサックは技術論文を一つだけ引用しています。ドイツ語版の41f頁のところで、近代のシアン化水素害虫駆除施設に関する技術論文を引用しています[13]。しかし、引用した目的は、アウシュヴィッツ収容所の文書資料の中で発見したこの論文が[14]、SSがアウシュヴィッツのブンカー2の「殺人ガス室」に近代施設と同じような設備を設置したがっていた証拠であることを論証するためでした。
L:でも、技術的議論をしているわけですね。
R:この場合、技術的議論とは、近代の施設の作動方法と、いわゆる殺人ガス処刑で使われるようになった作動方法とを比較することになるはずですが、プレサックはそんなことはやっていません。いわゆる殺人ガス室にそのような装置を備えるということに関する配慮が存在したことをほのめかすような証拠はまったくありません。ですから、プレサックの主張にはまったく根拠がないのです。妄想をたくましくしているにすぎません。いずれにしても、プレサックは、この種の無責任な妄想話が得意なのです[15]。
言い換えれば、メディアとエスタブリッシュメントの歴史家たちがアウシュヴィッツの技術専門家として持ち上げたプレサックは、よく調べてみると、大法螺吹きであることがわかったのです[16]。
L:しかし、プレサックは、アウシュヴィッツの犠牲者を数十万も下方修正して、70万人程度に減らしていますね。この点は評価すべきではないのでしょうか[17]。
R:しかし、アウシュヴィッツ博物館はこの数字を認めていません。プレサックの意義に関しては、修正主義の執念深い敵Robert Redekerを引用しておきましょう。彼は、フランスの哲学的月刊誌Les Temps Modernesでこう述べています[18]。
「修正主義は、その他の理論のような理論ではない。それは破局なのである。…破局とは時代の転換である。…修正主義とは神話の終焉を意味する。…われわれの神話の終焉を意味する。」
「プレサックの本『アウシュヴィッツの焼却棟:大量殺戮の技術』は、修正主義者の敗北を意味するどころか、その逆説的な勝利を意味している。(恐ろしい規模での犯罪の存在を肯定する)明白な勝利者たちが敗北し、(修正主義者とそれに同伴する否定派という)明白な敗者が舞台の前面に登場している。彼らの勝利は目に見えないものであるが、確固としたものである。…修正主義者が議論の中心に立ち、方法を決定し、自分たちの覇権を強固なものとしているのである。」[19]
R:Les Temps Modernes編集長クロード・ランズマンも同じような考えを述べています[20]。
「修正主義者の議論に反駁することによって、彼らの議論が合法化され、修正主義者の議論があらゆる論争の出発点となってしまう。修正主義者がすべての領土を占領するであろう。」
[1] Cf. my critical observation: “Pressac and the
German Public,” and Serge Thion’s observations about the reaction in
[2] Burkhard Muller-Ullrich, “Die Technik des Massenmordes,” Focus, no. 17, April 25, 1994, pp. 116ff.
[3] Harald Eggebrecht, “Die Sprache des Unfasbaren,” Suddeutsche Zeitung, April 29, 1994.
[4] Reference to Nolte’s book Streitpunkte, cf. chapter 2.15.
[5] “Auschwitz: la memoire du mal,” L’Express, January 19-25, 1995; cf. also
the comments by Robert Faurisson: “Sur Auschwitz,
lentement, la verite reprend ses droits,” Feb. 4, 1995
(www.vho.org/aaargh/fran/archFaur/1995-2000/RF950204.html)
[6] フランス語原文は “Tout y est faux”
[7] Robert van Pelt, Deborah Dwork, Auschwitz: 1270 to the Present, Yale University Press, New Haven and London 1996, pp. 363f.; cf. C.
Mattogno, “Architectonical Bunglings of Two
Plagiarizers,” in: G. Rudolf, C. Mattogno, Auschwitz: The Case against
Insanity, op. cit. (note 9).
[8] Les Mythes fondateurs de la
politique israelienne, La Vieille Taupe, no. 2, Paris 1995; Engl.: The Founding Myths of Modern Israel, Institute for Historical Review,
Costa Mesa, CA, 2000
(www.vho.org/GB/Books/tfmomi/index.html). ガローディはフォーリソンの研究を基本的に剽窃しているが、彼の名前を一度もあげていない。
[9] Cf. R. Faurisson, “Bilanz der Affare Garaudy/Abbe Pierre,” VffG, 1(1) (1997). pp. 9-18 (Engl.: www.vho.org/aaargh/engl/FaurisArch/RF961101engl.html).
[10] La Croix, July
23, 1996.
[11] 2003年7月8日、ヨーロッパ最高裁判所もこの判決を認めた。ヨーロッパ最高裁によると、修正主義者の所説はユダヤ人への憎悪を呼び起こしてしまうがゆえに、言論の自由という権利の保護を受けないというのである。Cf. VffG 2(2) (1998), p. 163, 3(1) (1999), p. 118 (www.vho.org/News/D/News1_99.html)
[12] Jacques Baynac, “Comment les historiens deleguent a la
justice la tache de faire taire les revisionnistes,” Le Nouveau Quotidien, Lausanne, Sept. 2, 1996, p. 16; Baynac, “Faute de
documents probants sur les chambres a gaz, les historiens esquivent le debat,” ibid., Sept. 3, 1996, p. 14; cf. R. Faurisson, “An Orthodox Historian Finally Acknowledges: There is No Evidence for
Nazi Gas Chambers,” JHR 17(4) (1998), pp. 24-28.
[13] Gerhard Peters, E. Wustinger, “Entlausung mit
Zyklon-Blausaure in Kreislauf-Begasungskammern Sach-Entlausung in
Blausaure-Kammern,” Zeitschrift fur hygienische Zoologie und
Schadlingsbekampfung, 32(10/11) (1940), pp. 191-196;
special reprint.
[14] RVGA 502-1-332, pp. 86-90. The paper
reached the Auschwitz Construction Office on July 3, 1941.
[15] Cf. the revisionist critique of Pressac
in: G. Rudolf (ed.), Auschwitz: Plain Facts, op. cit. (note 9).
[16] Re. criticism of Pressac’s first book (note 251) cf.
Robert Faurisson, JHR, 11(1) (1991), pp. 25-66; ibid., 11(2)
(1991), pp. 133-175 (www.vho.org/aaargh/engl/FaurisArch/RF9103xx1.html);
Enrique Aynat, “Neither Trace nor Proof,” ibid., pp. 177-206; re. a fundamental critique of Pressac’s method
[17] Cf. the data in Table 5 on p. 120 of the present book.
[18] Robert Redeker, “La Catastrophe du Revisionnisme,”
Les Temps
Modernes, no. 568,
November 1993,
pp. 1-6.
[19] R. Redeker, “Le Revisionnisme invisible,” ibid., no. 569, December 1993, pp. 127-134.
[20] Le Nouvelle Observateur, Sept. 30, 1993, p. 97.