2.14 前面に躍り出たオーストリア人[リュフトル事件]
R(ルドルフ):アウシュヴィッツの犠牲者数の減少をめぐる騒ぎが起ってから2年もたたないうちに、オーストリアで知的爆弾が炸裂しました。オーストリア技術者協会会長で資格ある技術者のヴァルター・リュフトルが、技術的な観点から、目撃証言が証言しているような大量ガス処刑の技術的可能性に疑問を投げかける論文を発表したのです[1]。リュフトルは技術者として純粋に技術的観点から論じていただけなのですが、メディアは、彼が「ナチのスローガン」を広めていると中傷しはじめ[2]、彼の退職を要求しました。最終的にリュフトルはこの要求にしたがいましたが、ドイツ最大の日刊紙『南ドイツ新聞』1992年3月14日の記事は、この件を次のように伝えています[3]。
「法廷専門家証人でウィーン工学会社CEOである59歳のリュフトルは、『ホロコースト――信仰と事実』という論文の中で、チクロンBという毒ガスを使った大量殺戮は、自然法則の観点から見ても、技術的・組織的前提条件が欠けていることを考慮しても、起りえなかった、焼却棟は構造的技術的理由からみても、大量の犠牲者を処理することはできなかった、死体自身が燃料になることはなく、その焼却には多くに時間とエネルギーが必要であったと論じた。さらに、リュフトルは、ディーゼル排気ガスを使ったユダヤ人の殺戮は『まったく不可能なこと』とみなした。」
さまざまなロビー活動集団が、「ナチス的行動」を非合法とするオーストリアの禁止法に抵触するとの理由で、リュフトルを告発しようとしましたが、それは失敗に終わりました[4]。
L(聴衆):リュフトルとは誰ですか。彼がこの論文を書くようになった動機はなんですか?
R:オーストリアは国土の面積の面でも人口の面でも大きな国ではありません。オーストリア技術者協会会長の職についている人物は、「上流社会」層に属するに違いありません。リュフトルは、宣誓専門家証人として数千の裁判で自分の分野に関する証言を行なっており、オーストリア共和国のもっとも著名な技術者の一人とみなされるようになりました。彼がこの論文を書くようになった動機は様々でしょう。リュフトル自身は、すでに1991年、彼の協会誌Konstruktivに掲載された論文の中で、間接的なアプローチではありますが、ガス室問題についての意見を披瀝しています。この論文の中で、彼はまず、この分野の専門家の証拠と証言証拠のどちらを重視すべきかという問題をたてています[5]。
「われわれは過去のケースから次のことを知っている。たとえ、46名の証人が何も聞かなかったと程度の差こそあれ断言したとしても、47番目の証人が何かを聞いたと証言して、その証言が専門家によって検証されたとすれば、こちらのほうが真実を語っているのである。
その一方で、焼却施設に関する公判では、技術的には不可能であるのに、『高い炎が高い煙突から吹き上げていた』という証言がまかり通っているのは奇妙な事態である。」
R:ホロコースト論争に詳しくない読者には、この文章が何のことを言っているのかほとんどわからないでしょう。ですから、もう少し掘り下げてお話します。1991年初頭、リュフトルはホロコースト修正主義の所説をすでに知っていました。ホロコースト修正主義を紹介したのは、右翼ジャーナリストのパンフレットであり、それは、リンツ(オーストリア)郊外のマウトハウゼン強制収容所のガス室の実在性に疑問を投げかけていました。このパンフレットはオーストリア連邦議会でも取り上げられ、憤激を呼び起こしました。1990年代初頭には、このパンフレットやその他の修正主義的出版物が広まりましたが、そのために、オーストリアでは、修正主義を効果的に退けることができるようにする特別法が公布されました。
ご存知のように、第二次世界大戦後、オーストリアは、ドイツとは違って賠償、追放、領土の喪失を免除されました。戦勝国がオーストリアを特別扱いにしたのは、オーストリアはヒトラーの最初の犠牲者であったという、オーストリアのいわゆる「生き残るための嘘」のおかげでした。この「生き残るための嘘」はオーストリアの政治風土と特別刑法の中に強い刻印を残しています。政治の面では、ドイツ文化や民族とのつながりを示唆するようなものに対する強いアレルギー反応があります。戦後、いわゆる「禁止法」が公布されましたが、それは、民族社会主義的行動と解釈できることすべてに対して、厳罰を要求したものです。ドイツ民族の再統一を求める行動は国際法にもとづくキャンペーンであり、民族社会主義的な目標ではなく、1945年までの国民あげての目標でしたが、禁止法にあっては、これはナチス的と解釈されて、禁止の対象となっています。
しかし、由々しき事態は、民族社会主義者による虐殺行為という事実の否定が懲役10年までの処罰の対象となることを定めた、3条の補足条項です(1992年春に公布)。オーストリアの禁止法は、オーストリア国民の民族自決権を否定するだけではなく、民族社会主義者による虐殺犯罪の否定――正確にはその内容に疑問を呈すること――も厳罰をもって処罰しているわけです。
多くの人々は、オーストリア議会で回覧されたパンフレットに対して憤激するだけでしたが、リュフトルはそれだけにはとどまらず、このパンフレットの主張が正しいかどうか検証しようとしました。その結果、彼は、それまでの定説に懐疑的となりました。パンフレットの筆者の方が、少なくとも部分的にではあるけれども正しいとの結論に達したのです。
リュフトルは議会での論争が始まってから、この分野での専門家証人として、オーストリアの裁判所が「自明の事柄」とみなしている事実に挑戦することが犯罪となってしまうのを防ごうとしていました。もしも、専門家証人が処罰を避けようとすれば、法廷で偽証せざるをえなくなってしまうからです[6]。オーストリア技術者協会会長として、歴史学的な問題がテーマとなったときに、自分たち技術専門家を沈黙させようとすることを防ぐ問題でもあるためでした[7]。
協会誌に掲載されたリュフトル論文は彼の研究成果です。それは、高い炎が焼却棟の煙突から噴出していたというアウシュヴィッツの囚人の証言についてでした。これらの証人の中には世界的に有名な心理学者でオーストリア市民のヴィクトル・フランクルもいました[8]。リュフトルはフランクルと接触して、彼が経験したと思われことが実際には起こりえなかったことをフランクルに納得させています[9]。
リュフトルはほかの技術者や自然科学者とともに研究を進めましたが、その研究成果は、その衝撃的な性格のために、ひとまずは公表されませんでした。しかし、情報のリークが行なわれたのです。リュフトルは「ナチス資料」を広めているという嘘がばらまかれ、彼に対する中傷キャンペーンが行なわれましたが、弁明の機会は与えられませんでした。とくに、リュフトルの友人の中にはそれまで親交を深めており、寛容な姿勢を期待できる政治家たちもいましたが、彼らも弁護の機会をリュフトルに与えませんでした。
脅迫、中傷、侮辱が続くと、従業員や顧客もリュフトルの仕事から身を遠ざけるようになりました。窮地を脱するには、会長職を辞し、しばらくのあいだ修正主義的な活動を停止するしかありませんでした。
また、あとでリュフトルの議論に戻ることにしますが、ここでは、一つの質問だけを提起しておきます。すなわち、政治家、メディアの寵児と宣誓専門家証人兼技術者協会会長のどちらの方が、技術的な分野では、能力を持っているとみなされるのかという質問です。
L:リュフトルには重大な誤りを犯す可能性がありますが、それでも、これは質問にもなりません。むしろ、何がリュフトルを駆り立てたのかという質問のほうが適切でしょう。道化師を利用して、あいまいなイデオロギー的目的を追求することもできますが、リュフトルには、「否定派」という烙印を押されることになる流砂の中に落ち込むことによって、利益を得ることなどまったくありません。ですから、リュフトルは、オーストリアの10000名の上層部の一員として、自分の技術的な知識にもとづく歴史学上の疑問から発する法的懸念を新法に投げかけたのだと思います。
R:まったくそのとおりです。リュフトル自身は、自分が技術的な理由から修正主義を公に支持することが、看過しえないほどの影響力を持つことを知っていました。
この問題との関連で、彼は、カタコンベ修正主義者を作り出すことに言及しています。すなわち、彼は高い評価を勝ち得ているので、誰も彼のことを民族社会主義者であると疑うことはありません。そのことを利用して、彼は、背景にしりぞきながら、直接的、間接的に、人々を修正主義に転向させます。しかし、修正主義者は迫害の対象となっていますので、彼らは古代ローマ時代のキリスト教徒のように地下活動を行なわなくてはならないというのです[10]。
L:リュフトルは自説を撤回してはいないのですね?
R:撤回していないどころか、彼は、修正主義者の雑誌Vierteljahreshefte
fur
freie GeschichtsforschungとThe Revisionistにたびたび寄稿しています[11]。
いわゆるリュフトル事件の続きとして、オーストリアでもっとも多い部数の新聞Neuen Kronenzeitung――オーストリア民族主義的リバタリアン的新聞――に掲載された記事から、二番目のセンセーショナルな事件が起りました。この新聞の編集長Richard NimmerrichterがStaberlというペンネームを使って、ホロコーストをテーマとした「大量殺戮方法」と題する記事を書いたのです。彼はこう記しています[12]。
「それ以降、ごく少数の専門家が、ガスを使った大量殺戮は技術的に不可能であることを証明してきた。…真実は単純であろう。ガス処刑されたのは比較的少数のユダヤ人だけであった。
それ以外の人々は、餓死したり、殺されたり、医療保護を受けなかったために、チフス・赤痢・発疹チフスで死んだり、凍死したり、消耗死したりした。…
生き残ったユダヤ人たちの第三世代は、キリスト教徒が2000年間もイエス・キリストの野蛮な十字架刑の記憶を培ってきたのと同じように、残酷にガス処刑されたヒトラーの犠牲者という殉教者神話を必要としているのであろう。しかし、ナチスはユダヤ人囚人の大半を別の方法で殺してきたというのが冷静な事実であろう。」
L:キリスト教徒にとっても十分あてはまる指摘ですね。
R:そのとおりです。いずれにしても、私はこの文章の内容すべてに賛成しているわけではありません。皆さんに知っておいていただきたいのは、一時的であるにせよ修正主義が公に登場していたときに、どのような議論が許されていたのかということです。もちろん、結局のところ、これらの記事は、編集長を「ナチ活動」の咎で訴追する告発状の根拠となり、予備的な犯罪捜査が行なわれましたが。同紙は、そのあとの号で、アメリカのユダヤ系歴史学教授アルノ・メイヤー博士の文章を引用して、自説を補強し、他のオーストリアのメディアによる中傷キャンペーンから自己防衛しました。あとで、メイヤー教授の文章を私も引用しておきましょう。しかし、その一方で、同紙は、アウシュヴィッツのガス室の実在とその大量使用を肯定するオーストリアのメインストリームの歴史家Gerhard Jagschitz教授博士の専門家報告を肯定的に扱っています。結局、Nimmerrichter氏も定説による解釈の線に戻っていったのです[13]。あとで、このホロコースト講義の中で、もう一度Jagschitz教授のことをあつかうことにします。
同じ頃、Richard Nimmerrichterによる「民族のしつけの鞭。ガス室はタブーではない」という記事が専門誌Osterreichische Journalistに登場しました[14]。
Kronenzeitung編集長に対する予備捜査は、1993年初頭に始まりました。事件の裏側ではある種の抗争が行なわれていたことは、R. Nimmerrichterの記事が示唆しています。彼は、ユダヤ人宗教共同体からの283頁の告発状の存在をほのめかしながら、「2行対283頁」という記事を書いています[15]。そこにはこうあります。
「検事Redtなる人物のことを私はまったく知らないが、彼には、憲法の諸原則をしっかりと追求するにあたって、ユダヤ人宗教共同体のような強力な組織の便宜をはかるようなことはしないという勇気が必要であった。」
ですから、1990年代初頭には、オーストリアでは、西側社会のタブーとなっている問題についてのちょっとした騒ぎが起っていたのです。
[1] Walter Luftl, Holocaust
– Glauben und Fakten, Manuskript,
[2] Reichmann, “Die
Nazispruche des Walter Luftl,” Wochenpresse/Wirtschaftswoche, no. 11,
1992; AFP, “Osterreicher bestreitet Holocaust,” Suddeutsche Zeitung,
March 13, 1992, p. 10.
[3] “Rucktritt nach
Zweifel an Holocaust,” Suddeutsche Zeitung, March 14, 1992; for the
complete text of this article see the appendix, p. 187.
[4] Cf.
Werner Rademacher, “The Case of Walter Luftl,” in: G. Rudolf (ed.), op. cit.
(note 44), pp. 61-84.
[5] W. Luftl, “Sachverstandigenbeweis
versus Zeugenbeweis,” Konstruktiv 166 (1991) pp. 31f.; for the complete
text see appendix, p. 186; cf. W. Luftl, “Die Feuerbestattung in der ersten
Halfte dieses Jahrhunderts,” Deutschland in Geschichte und Gegenwart 41(2)
(1993), pp. 14-16 (www.vho.org/D/DGG/Lueftl41_2.html).
[6] Cf. W. Luftl,
“Sollen Lugen kunftig Pflicht sein?,” Deutschland in Geschichte und
Gegenwart, 41(1) (1993), pp. 13f. (www.vho.org/D/DGG/Lueftl41_1.html).
[7] W. Luftl,
“‘Damoklesschwert’ uber dem Haupt eines Gutachters!,” Recht und Wahrheit,
November/ December 1992, p. 8.
[8] From Death-Camp
to Existentialism, Beacon Press, Boston 1959; Man’s Search for Meaning,
Beacon Press Boston 1962; The Doctor and the Soul, A.A. Knopf, New York
1965; Psychotherapy and Existentialism, Washington Square Press, New
York 1967; The Will to Meaning, World Pub. Co., New York 1969; The
Unconscious God, Simon and Schuster, New York 1975; The Unheard Cry for
Meaning, Simon and Schuster, New York 1978, On the Theory and Therapy of
Mental Disorders, Brunner- Routledge, New York 2004.
[9] Cf. W. Luftl,
Letter to the Editor, VffG, 6(3) (2002), p. 364; Frankl’s claims about
Auschwitz have been criticized by: Theodore O’Keefe, “Viktor Frankl uber
Auschwitz,” VffG 6(2) (2002), pp. 137-139; Elmar Schepers, “Viktor Emil
Frankl in
[10] Cf. W. Luftl,
Letter to the Editor, TR, 2(3) (2004), p. 353, as a reaction to another
Letter to the Editor, ibid., 2(2) (2004), pp. 233f.
[11] Cf. “Die Lugen
unserer Zeit,” VffG 5(3) (2001), pp. 325f.; “Der Fall Jedwabne und das
Verbotsgesetz,” ibid, pp. 337f.; “The Dachau Horror-Tale Exposed,” TR,
1(4) (2003), pp. 385f.; “The General in the Ice-Block,” ibid, pp. 386f.; “1972:
A Somewhat Different Auschwitz Trial,” TR 2(3) (2004), pp. 294f.; as
well as several other articles under pseudonym.
[12] Neue
Kronenzeitung, May 10, 1992, p. 2; for the complete text see p.
188.
[13] Neue
Kronenzeitung, May 24, 1992, p. 22.
[14] R. Nimmerrichter,
“Die Zuchtrute der Nation, Gaskammern sind kein Tabu,” Der Osterreichische
Journalist, no. 3, 1992.
[15] “2 Zeilen gegen 283 Seiten,” Neue
Kronen-Sonntagszeitung, Feb. 7, 1993, p. 11.