2.10 間違えられたイヴァン雷帝[デムヤンユク事件]
R(ルドルフ):もう一度、合衆国の状況をとりあげたいと思います。ヨーロッパと比較すると、多文化的な合衆国では、人権ははるかに制度的なアイデンティティの土台を形成しています。このために、合衆国の世論は、法的な基準の適応を維持するために、かなり監視の目を光らせています。
1986年、合衆国市民ジョン・デムヤンユクが、第二次世界大戦中に、トレブリンカ絶滅収容所で数十万のユダヤ人を殺害したとの嫌疑をかけられて、イスラエルに引き渡されました。しかし、1980年代末、デムヤンユクがイェルサレムで、きわめて疑わしい証拠、ひいては捏造された証拠にもとづいて有罪を宣告されることが明らかになると、イスラエルが虚偽の事実を利用してデムヤンユクを有罪しようとしているので、デムヤンユクの送還を取り消すべきであることを要求する声が合衆国で高まりました。こうした声によると、合衆国は、合衆国市民に対して、イスラエルでの裁判では保証されていない権利が保障されるように、法の保護下におかれるように保証する義務を負っているというのです。著名人の声はこの要求以上でした。パット・ブキャナンはこうした著名人の先頭に立った人物でした。1980年代、ブキャナンは合衆国大統領レーガンの側近であり、共和党の大統領候補者選びでは、ブッシュ現大統領の対立候補でした。
1986年、このブキャナンは、デムヤンユク裁判をドレフス事件になぞらえ[1]、その4年後、デムヤンユク裁判控訴審が行なわれていたときに、次のような見解を披瀝しました[2]。
「終戦後、『ホロコースト生存者に対する強制収容所の心理的・医学的影響』についての1600の医学論文が書かれてきた。このいわゆる『ホロコースト生存者シンドローム』には、『殉教と英雄精神についての集団妄想』も入っている。イェルサレムでの20000人の生存者の証言のうち、半分は、裁判では利用できない、信憑性を欠いたものとみなされた。
死のマシーンも信用できない妄想の一つである。戦時中、ワルシャワ・ゲットーの地下政府は、トレブリンカのユダヤ人は電気処刑されているとか、スチーム処刑されているとロンドンに報告している。」
L(聴衆):この話は知りませんでした。
R:大半の収容所での大量殺戮のために使われた凶器の種類は、歴史家たちが特定の凶器が使用されたことに合意するまでは、さまざまでした。これについては、トレブリンカ収容所に関する3.5節で詳しくあつかいます。ブキャナンの論文に戻ります。
「…しかし、イスラエルの法廷は、85万人を殺害した凶器は、ソ連軍戦車のディーゼル・エンジンで、そこから死の部屋に排気ガスが送り込まれたと結論している。フィンケルシュタインは1945年に、20分で全員が死亡したと宣誓証言している。
だが、問題はこうである。ディーゼル・エンジンの排気ガスは、人を殺すのに十分な一酸化炭素を排出しない。環境保護局はディーゼル自動車やトラックの排気ガス検査を求めていない。1988年、97名の若者が、400フィートの地下のワシントンのトンネルに迷い込み、2両の列車がディーゼル排気ガスを車に流し込んでいたが、45分後に無傷で姿を現した。すなわち、デムヤンユクの大量殺戮のための凶器は人を殺すことができないのである。」
L:ディーゼル・エンジンの能力が、デムヤンユクの有罪無罪と何の関係を持っているのですか?
R:あとで、この問題に立ち戻ります。ただ、ここで次のことだけは指摘しておきたいと思います。すなわち、ジョン・デムヤンユクも関与したとされるトレブリンカ収容所での70万から300万人のユダヤ人犠牲者大量ガス処刑は、捕獲したソ連軍戦車のディーゼル・エンジンからの排気ガスによって行なわれたといわれています[3]。しかし、ここでは、この話には信憑性があるかどうかという問題、ブキャナンがこの大量殺戮シナリオの技術的脆弱性に疑問をよせてていることが正しいかどうかという問題については、議論しません。
ここで関心を呼び起こしたいのは、次のことです。まず、例えばドイツで、このような見解を述べた著名な政治家が、その2年後に、国民政党の首相候補になる可能性、ひいては現実的な展望を手に入れることができると、皆さんは想像できるでしょうか? しかも、ブキャナンはこの時披瀝した見解を撤回してはいないのです[4]。
L:ドイツでは、このような見解を披瀝した政治家は、法的なもめごとに巻き込まれ、政治の舞台からすみやかに姿を消すでしょう。結局、この政治家は、そのような見解を披瀝することで、多くの収容所での大量殺戮を否定しているとみなされるのですから。
R:ブキャナンがなぜこのような見解を披瀝するにいたったのかを理解していただくために、デムヤンユク事件を簡単にまとめてみます。
合衆国へのウクライナ人移民は、冷戦中に、モスクワの指導を受ける共産主義者グループと独立グループとに分かれていました。共産主義者グループは、『ウクライナからのニュース』という新聞を当時発行していました。この新聞の目的は、ウクライナからの反共民族主義的グループを中傷することでした。このウクライナ民族主義者たちは第二次世界大戦中、「ドイツのファシスト」と協力していたというのです[5]。この目的を追求する一つの手段は、ウクライナ人による戦争犯罪を暴露して、亡命ユダヤ人のあいだに紛争の種を撒くことだけではなく、その社会的名声をおとしめることでした[6]。中傷と歪曲・捏造された証拠によって政敵を粉砕するというソ連のやり方は、よく知られています。1980年代中頃には、西ドイツの内務大臣もこのやり方について警告しています[7]。ですから、1970年代中頃に、アメリカ合衆国政府が、デムヤンユク事件での共産主義的ウクライナ亡命者の仕掛けた罠に引っ掛かってしまったのはなおさら驚きです。
1975年、当時、親モスクワ派の『ウクライナからのニュース』誌につとめていたマイケル・ハヌシアクが民族社会主義者に協力したウクライナ人70名のリストを合衆国政府機関に渡しました。その中には、当時合衆国市民として、オハイオ州クリーブランドで暮らしていたジョン・デムヤンユクという名も入っていました。ハヌシアクは、デムヤンユクがソビボルとフロッセンブルクの収容所に勤務していたというダニルチェンコなる人物の告発状も提出しました[8]。この告発状と身分証明書のファキシミリ――デムヤンユクがトラヴニキ収容所で看守としての訓練を受けていたこと、上記の2つの収容所に勤務していたことを証明しているとされていた――によって、合衆国移民局は、デムヤンユク事件に関心を向けることになりました。1976年、合衆国司法省は、デムヤンユクが移民文書に虚偽を記載した咎で、彼から合衆国市民権を剥奪しようとしました。その間、イスラエルでは、デムヤンユクの写真を見せられると、彼がトレブリンカの「イヴァン雷帝」であると証言する証人が登場してきました。1976年にカーター大統領の下で設立されたナチ・ハンティング機関特別調査局(OSI)が、1979年、デムヤンユク事件を引き継ぎました。1984年、デムヤンユクは、ハヌシアクが提出した収容所身分証明書をおもな根拠として、合衆国市民権を剥奪され、イスラエルにはそのような措置をとってくれと請求する権利もなかったにもかかわらず、デムヤンユクをイスラエルに送還したのです。
L:どうして、そのような権利がなかったのですか?
R:被告人は、その市民権を持っている国家もしくは犯罪が行なわれた当時市民権を持っていた国家、もしくは犯罪の現場となった国家に送還されるのであり、この場合には、ソ連かポーランドに送還されるのです。犯罪が行なわれた当時、イスラエルはもちろん存在していませんでした。
イェルサレムでの刑事裁判のとき[9]、デムヤンユクの弁護側専門家Dieter Lehnerは、収容所身分証明書が偽造であることを暴露しましたが[10]、そのことは西ドイツ連邦犯罪調査局(Bundeskriminalamt, BKA)の調査結果と一致しています。イスラエル当局は、1987年にドイツ政府機関からこの間の情報を提供されていましたが、イスラエル法廷はこの調査結果を握りつぶしました。イスラエル首席検事はこう反応しただけです[11]。
「トレブリンカであれ、ソビボルであれ、ほかのどこかであれ、デムヤンユクは人を殺した、これが私にとって確実なことです。」
そして、連邦犯罪調査局によると、SS身分証明書が偽造であるとの反論には、こう答えています。
「われわれはわれわれ自身の専門家の見解によって支持されており、その見解が説得力のあるものであるとみなしている。」
stern 1992年3月5日、198ff頁 |
殺人犯人の烙印 連邦犯罪調査局(BKA)は、イヴァン・デムヤンユクのSS雇用身分証明書なるものが偽造であるとイスラエルに警告したにもかかわらず、亡命ウクライナ人は処刑されようとしている。 …この裁判での唯一の文書資料的証拠、すなわちデムヤンユクのSS雇用身分証明書はソ連によって提供されたものであるが、ヴィスバーデンの連邦犯罪調査局の専門家によると、偽造文書である。その上、この事実は、1987年2月に裁判が開かれる以前に、イスラエル当局に知らされていた。 トレブリンカの21名の看守は公判ではたがいに別個に、イヴァン・マルチェンコという名のウクライナ人がイヴァン雷帝なのであって、イヴァン・デムヤンユクがイヴァン雷帝ではないと証言した。 イェルサレムの首席国家検事Michael Shadekは、自分の提出した証拠に対する疑問を気にかけてはいない。「トレブリンカであれ、ソビボルであれ、ほかのどこかであれ、デムヤンユクは人を殺した、これが私にとって確実なことです」というのである。 偽造ではないかという連邦犯罪調査局の懸念については、Der STERNに「われわれはわれわれ自身の専門家の見解によって支持されており、その見解が説得力のあるものであるとみなしている」と説明している。 |
しかし、ドイツ当局は、偽造されたトラヴニキ身分証明書に関して不可解な役割も果たしています。
Munchner Merkur 1992年3月26日木曜日 |
デムヤンユク:イヴァン雷帝ではなく間違えられたイヴァン ドイツ連邦当局、偽造された証拠についての情報を隠匿。 …わが紙は、この「文書」がまったくの偽造であることを暴露した歴史家Dieter Lehnerの専門家報告のことを報道した。一例を挙げれば、身分証明書の写真の出所は合衆国移民局のファイルであり、何と撮影されたのは1947年であった。… 一方、連邦当局が事件に関与していることも明らかとなった。過去5年間、政府の上層部は、この真実が公にならないように監視していたからである。…犯罪調査局の専門家報告がよく知られるようになったとき、ボンの首相官邸もこの事件に関与するようになった。デムヤンユクの弁護側はだまされ、犯罪調査局の専門家報告の存在は隠された。首相官邸はレーナーと犯罪調査局の報告のことを知っていたにもかかわらず、虚偽の道筋が付けられた。犯罪調査局が検証したのは身分証明書ではなく、写真であったとかいうように。 しかし、この話も虚偽である。…連邦犯罪調査局は、公には沈黙を守ることを余儀なくされた。犯罪調査局長は、「専門家としての良心は政治的局面にしたがわなくてはならない」というファイル・メモを残している。 |
バイエルンの週刊誌Munchner Merkurの記事によると、ドイツ連邦首相官邸は、Dieter Lehnerと西ドイツ犯罪調査局の専門家報告の存在をデムヤンユクの弁護団から隠すように配慮していましたし、また、上層部からの命令で、犯罪調査局はできるかぎり公には沈黙を保つように強いられたのです。さらに、イェルサレムの法廷に出頭することになった犯罪調査局の専門家は、ごく限定的な証言だけをするようにドイツ政府から強いられ、身分証明書の修整されたパスポート写真とデムヤンユクの顔の特徴が似ていることだけを指摘しました。このために、イェルサレム裁判では、この身分証明書が本物であるという印象が作り出されたのです。犯罪調査局長、法医学専門家ヴェルナー博士は、偏った専門家としての見解を披瀝していますが、彼は、西ドイツ政府の振る舞いを、この当時のファイル・メモの中で、こう特徴づけています[12]。
「専門家としての良心は政治的局面にしたがわなくてはならない」
身分証明書の写真は、1947年に撮影された合衆国移民文書からのデムヤンユクの古い写真であり、身分証明書用に修正されたものであることがわかりました。
デムヤンユクの収容所身分証明書が特別調査局にとってどれほど重要であったのかは、特別調査局がイスラエル当局とともに、多くの証人を説得して、この偽造文書の信憑性を確証させようとしていたことからもわかります[13]。
SemitTimes 1992年春特別号 |
イギリス人歴史家N. Count Tolstoyの序言 イェルサレムでのデムヤンユク裁判の専門家証人 「Lehner氏の記事の載ったSEMITTIMES特別号は二重の悪を防ぐであろうと誓う。すなわち、われわれの誰にでも降りかかってくるような悪、人道自体に反する悪である。すでにソロモンの時代から、法律違反は自然の秩序に対する違反とみなされていた。真実と正義がなければ、名誉と信頼は破壊され、嘘が勝利を収めることによって、道徳的基準の正統性が、混沌とした恣意性にまで退化してしまう。 |
L:合衆国政府は、ソ連、ドイツ、イスラエル政府と共謀して、真実に反する陰謀を企てたことになりますね!
R:そうです。神話を維持しようとする国際的な陰謀です。イスラエル人弁護人Yoram Sheftelの本は、イスラエルでのデムヤンユク裁判がまったく見世物裁判であったことを明らかにしています。ぜひご一読ください[14]。
結局のところ、生存者の目撃証言だけが、デムヤンユクへの告発のもとになる、裁判証拠だったのです。しかし、検事側証人の証言すべてが信用できないものであることが、裁判中にわかってきました。この証言はたがいに矛盾しており、また、証人自身がその証言内容にはまったく価値がないと思わせるほど老衰していたからです。にもかかわらず、デムヤンユクは、虐殺の咎で死刑を宣告されました。
この裁判の見世物裁判的性格は、客観的な観察者にはまったく明らかであったので、合衆国では、この滑稽な正義=裁判に抗議する声が高まっていきました。イスラエルは、法の支配にしたがって旧合衆国市民を裁く意図も能力も持っていないのだから、イェルサレム裁判の判決は破棄されるべきであり、デムヤンユクは再送還されるべきであり、合衆国市民権は回復されるべきであるというのです。すでに、言及したパトリック・ブキャナンに加えて、合衆国下院議員James V. Traficantも積極的に活動した人物でした[15]。
ブキャナンは、大統領候補であり、メディアでも有名であったので、彼がデムヤンユクのために力を尽くしていることは多くの関心を集めました。1992年、彼は、デムヤンユク事件とトレブリンカ事件に関する自分の見解を合衆国のテレビで公にしました。そして、トレブリンカは、数十万のユダヤ人が集められて、数千人が殺された恐ろしい場所であると述べたのです[16]。
L:数千人ですって? 5000人とか7000人というのですか?
R:それは解釈の問題です。ここで指摘しておきたいことは、ブキャナンは、トレブリンカでは大量殺戮は起りえなかった、それゆえ、デムヤンユクおよび告発されているその他の人々は無罪であるという結論にいたる証拠を、修正主義者の孤独な狼から提示され、またデムヤンユクの弁護側もこの証拠を利用したということです[17]。ブキャナンの立論を見ますと、彼独自の見解が多くはないことがわかりますが、いずれにしても、当時、ホロコースト・ロビーに対する寒風が吹いていたのです。当時世界中を駆けめぐったロイヒター報告はアウシュヴィッツ伝説の土台を掘り崩していました。デムヤンユク裁判では、ホロコーストの生存者が次々と信頼できない証人であることが暴露され、著名なアメリカ人が修正主義者の立場を公にとっていたのです。
デムヤンユク裁判に対する世界中の批判が高まることによって、その盾の陰に隠れて、例えば、Stern とMunchner Merkurの記事に見られるように、ドイツのメディアでさえも、慎重に言葉を選びながらですが、このテーマをとりあげはじめたのです。
ですから、この当時、もっとも教条的なホロコースト正史派でさえも、ホロコーストに関する目撃証言の信憑性に疑問を寄せていたのも驚くことではありません。例えば、1986年、The Jerusalem Postは、ヤド・ヴァシェム館長シュメル・クラコフスキとのインタビュー記事を載せていますが、クラコフスキは、文書館にある目撃証言の多く――大半とはいいませんが――が信頼できないものであると述べています[18]。
「多くの生存者が、『歴史の一部』となろうとして、自分たちの想像力を働かせたままにしていると、クラコフスキは述べている。『多くの人々は、虐殺を目撃したと主張する現場にはいなかったし、友人や通りすがりの人物から耳にした情報に頼っていた』というのである。文書化されている大量の証言にある場所や日付が専門的歴史家の考証に耐えられず、その証言が不正確であることがわかった。」
1986年、デムヤンユク裁判と同じような文脈で、もっとも高名なホロコースト研究者の一人、ユダヤ系アメリカ人政治学者ヒルバーグは、「[ホロコースト生存者の]回想や報告の大半には、数多くの誇張、検証されていない噂話、先入観、党派的な攻撃や弁明が含まれている」[19]というユダヤ人研究者Samuel Gringauzの話しを確証している。
L:この見世物裁判はイスラエルにとって裏目に出ることも予想されたのではないですか?どうして、そのような危険を冒そうとしたのですか?
R:馬とその乗り手の名前をあげてくれたことで、ドイツ系ユダヤ人雑誌SemitTimesに感謝しなくてはなりません。この雑誌の記事によると、イスラエルは、占領地域とガザ地区でのパレスチナ人に対する犯罪から関心をそらすために、ユダヤ民族の苦難に関する衝撃と憤怒のサーカスを今ひとたび必要としていたのです。
L:しかし、この問題はこの講義のテーマとどのような関係があるのですか?
R:イスラエルが衝撃と憤怒のサーカスを今ひとたび必要としていたという事実のおかげで、その他の国々での裁判が憲法の保障する裁判原則と矛盾した裁判を行なうようになったのかを検証すべきなのです。ここでも、SemitTimesがヒントを与えてくれています。やはりイェルサレムで行なわれたアイヒマン裁判がデムヤンユク裁判のモデルとみなされていました。ドイツでの裁判についてはあとで触れることにします。しかし、あなたのご質問には十分な根拠があります。文書の偽造や信憑性のない目撃証言という事実は、ホロコーストの全体像に当てはまるのではないでしょうか? だからこそ、ホロコーストに関するどの文書資料、目撃証言にも懐疑的に接するのが適切なのです。もし、皆さん方が私に対してと同様に、メインストリームのメディアや歴史家たちに懐疑的となるように説得できれば、私としては、この講義の目標の大半が達成されたことになるのです。
1990年代初頭、国際的な圧力が高まっていました。このために、1993年夏、イェルサレムの控訴審は一転して、証拠不十分との理由でデムヤンユクを釈放しましたが[20]、これは驚くべきことではありません。
L:結局、イスラエルでも、法の支配が復讐への渇望に勝利をおさめたのですね。
R:死刑判決と釈放との隔たりはあまりにも大きすぎるので、肩をすくめて日常の仕事に戻るというように見過ごすことができるものではありません。デムヤンユク事件は、死刑や懲役判決を出した同じような裁判と異なっていません。あとで明らかにするように、目撃証言がたがいに矛盾を抱え、技術的に不可能な内容を抱えていることは、デムヤンユク裁判ではじめて明らかになったわけではないからです。目撃証言の抱えた矛盾や技術的不合理性を、はじめてうまく追及できたのが、デムヤンユク裁判であったのです。しかし、すべての証人が偽証し、それが誤審をもたらしたと裁定されたとすれば、偽証を行なった証人たちに非難の声が向くはずではないでしょうか? イスラエルであれ、ドイツであれ、ポーランドであれ、同じ証人が出廷し、同じように疑問の余地のある証言が行なわれた裁判があったとすれば、もう一度裁判をやり直すべきではないでしょうか? しかし、そのようなことはまったく行なわれなかったのです。沈黙というマントが、この厄介な問題に対して広げられただけだったのです。
L:デムヤンユクは合衆国に再送還されたのですか?
R:はい、1998年に。しかし、2002年、特別調査局はふたたび彼の市民権を剥奪し、2004年に、合衆国最高裁はこの決定を認めました。そのあと、彼の出生国ウクライナへの移送手続きがはじめられました。
Cleveland Jewish Newsは、デムヤンユクの「悪事」を立証するために利用された証拠について、こう述べています[21]。
「[デムヤンユクの有罪を立証する文書]のうちでもっとも著名なものは、デムヤンユクの写真と身体的特徴を記載したトラヴニキ身分証明書である。」
したがって、ほぼ30年間の戦いののちに、デムヤンユクは振り出しに連れ戻されたのです。今度は、世論の支援がありません。
[1] The Plain Dealer
(Cleveland/Ohio), Oct. 1, 1986; cf. H.P. Rullmann, Der Fall Demjanjuk,
2nd ed., Verlag fur ganzheitliche Forschung und Kultur, Struckum 1987, p. 26
(www.vho.org/D/dfd/). アルフレド・ドレフスはユダヤ系フランス人将校であった。彼は、フランスのメディア、政府機関、司法制度によって、1870/71年のプロイセン・フランス戦争の敗北の生贄の羊とされた。ドレフスは裏切りの咎で告発されたが、マス・ヒステリーという雰囲気の中で行なわれた裁判は、見世物裁判に他ならなかった。For this, see Emile Zola’s famous essay “J’accuse,” L’Aurore,
Jan. 13, 1898; Emile Zola, Alain Pages, The Dreyfus Affair: J’accuse and
other Writings, Yale University Press, Yale 1998.ドレフスは最終的には釈放された。
[2] Pat Buchanan, The
New York Post, March 17, 1990, p. 26; here quoted from a later issue of The
New Republic: Jacob Heilbrunn, “Absolving Adolf,” The New Republic,
Oct. 18, 1999(www.tnr.com/archive/1099/101899/heilbrunn101899.html)
[3] For an overview on
the orthodox history of that camp cf. Alexander Donat (ed.), The Death Camp
Treblinka, Holocaust Library,
[4] Cf.
M. Weber, “Pat Buchanan and the Struggle for Truth in History,” JHR 18(3)
(1999), pp. 2f.
[5] H.P.
Rullmann, op. cit. (note 196), pp. 76.
[6] Cf. the cases of
Karl Linnas, Frank Walus, and Fedor Fedorenko, H.P. Rullmann, op. cit. (note
196), pp. 87, 96ff., 164; U. Walendy, HT no. 25, Verlag fur Volkstum und
Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1985, pp. 35 (Walus); Walendy, HT no.
34, ibid. 1988, p. 14 (Linnas).
[7] Information
of the German Federal Minister for Internal Affairs, Innere Sicherheit,
no. 1, Bonn, March 20, 1985.
[8] H.P.
Rullmann, op. cit. (note 196), pp. 76f., acc. to News from Ukraine.
[9]
[10] Dieter Lehner, Du
sollst nicht falsch Zeugnis geben, Vohwinckel, Berg am See, undated; cf.
H.P. Rullmann, op. cit. (note 196), pp. 103ff.
[11] stern,
March 5, 1992, pp. 198ff.
[12] On these events cf.
A. Melzer, “Iwan der Schreckliche oder John Demjanjuk, Justizirrtum?
Justizskandal!,” SemitTimes, special edition, Dreieich, March 1992, esp.
pp. 3, 13, as well as Munchner Merkur, March 26, 1992.
[13] H.P.
Rullmann, op. cit. (note 196), pp. 118ff., 174ff.
[14] Yoram Sheftel, The
Demjanjuk Affair. The Rise and Fall of the Show Trial, Victor Gollancz,
London 1994. Cf. also “Morderische Augen,” Der Spiegel, no. 31, Aug. 2,
1993, pp. 103ff. (Ger. & Engl.: www.ukar.org/spiegel2.html).
[15] Under the
impression of the Demjanjuk affair Traficant turned into a rebel against the
U.S. political establishment, which then started to persecute him relentlessly.
[16] This
Week with David Brinkley, ABC television, Sunday, Dec. 8, 1991.
[17] T. Skowron
(=Miroslaw Dragan), Amicus Curiae Brief, Polish Historical Society,
Stamfort CT 1992 (www.vho.org/GB/c/AmicusCuriaeDemjanjuk.html).
[18] Barbara Amouyal,
“Doubts over Evidence of Camp Survivors,” Jerusalem Post, Aug. 17, 1986;
in a letter to the editor, Krakowski stated that he had admitted only “very
few” testimonies to be inaccurate. However, he did not deny the many reasons he
had given Amouyal, why these “very few” testimonies are inaccurate; Jerusalem
Post, Aug. 21, 1986.
[19] Jerusalem Post.
International Edition, June 28, 1986, p. 8, with reference to S. Gringauz,
“Some Methodological Problems in the Study of the Ghetto,” in Salo W. Baron,
Koppel S. Pinson (ed.), Jewish Social Studies, vol. XII, New York 1950,
pp. 65-72.
[20] See the daily media on July 30, 1993.
[21] Cleveland Jewish News, May 31, 2004.