2.3 ザクセンハウゼンにガス室など存在しない

R(ルドルフ):ザクセンハウゼンは首都ベルリンの郊外北にあります。建物の土台が発掘されており、その一つがガス室として使われたとされています。ザクセンハウゼン強制収容所の衛生保健施設の残滓に付けられている記念プレートには、「ガス室と頸部射撃施設」とあります。

 

 

L(聴衆):それでは、ガス室があるとされている建物を解体したのは誰なのですか?

R:ザクセンハウゼンでは、東ドイツの共産主義者のフォルクス・ポリツァイ(人民警察)が1952年にこの建物を解体しました[1]

 

L:言い換えると、彼らは、ナチスのとてつもない邪悪さと自分たちの主張の正しさを立証することができる唯一の証拠を破壊してしまったのですね?

R:そのとおりです。

 

L:むしろ、彼らは自分たちの悪意の証拠を破壊してしまったのではないでしょうか。

R:そこで何が破壊されたとしても、それは証拠なのです。証拠が消え去り、何も証明できなくなってしまったのです。ドイツの歴史学会の重鎮ヴェルナー・マーザー教授博士は、それ例外の理由からも、ザクセンハウゼンにガス室が実在した証拠はきわめて疑わしいと指摘しています。彼は、1947年のソ連軍事法廷の裁判記録を引用していますが、それを見ると、被告たちは、熱狂的かつ誇りを持って囚人の大量殺戮に取り組んでいたことを法廷の前で自白するように、裁判以前にあらかじめ訓練を受けていたことがわかります[2]。被告たちのこのような振る舞いは、彼らが事前に洗脳されていたことを示唆しています。

 

L:拷問されていたということですか?

R:肉体的にというわけではありませんが、少なくとも、精神的な拷問は受けていたでしょう。ニュルンベルク裁判のとき、ソ連首席検事スミルノフは、この収容所では84万人のソ連軍捕虜が殺されたと述べています[3]。もちろん、彼は自分が嘘をついていることを知っていました。ソ連側はこの収容所の死亡者記録を手に入れており、その中では、194045年のあいだに死亡者囚人は20000人であると記録されているからです[4]

 19456月、ソ連委員会は殺人ガス室に関する報告書を作成していますが、それによると、このガス室の広さは83平方フィートです[5]

 

L84万人の囚人が83平方フィートの部屋の中で殺されたのですか?

R:スミルノフは、全員がガス処刑されたとは言っていません。

 しかし、ソ連側が殺人ガス室に関する専門家報告の中に記していることは、第三帝国のほぼすべての収容所に設置されていた、シラミを駆除するための害虫駆除室に関する記述なのです[6]。これらの害虫駆除室には衣服だけが収納されるのですから、当然、そんなに広くないのです。

 

L:ということは、ソ連側は、ザクセンハウゼンの害虫駆除室をガス室であるという嘘を喧伝したということですね

R:そのとおりです。マーザー教授は、ザクセンハウゼンのガス室についての囚人の証言も、ソ連が提出している証拠も信用できないと述べています。Harry Naujoksの本『ザクセンハウゼン強制収容所での私の生活19361942年』の322頁にはこうあります[7]

 

19433月、Station Zにガス室が建てられた。」

 

LNaujoksが強制収容所にいたのが、本の表題どおり1942年までであるとすると、1943年に建設された建物のことをどのようにして知ったのでしょうか?

R:鋭い質問です。この本は、Naujoksの死後の1987年に、Pahl-Rugenstein出版社から出版され、奥付によると、「Ursel HochmuthMartha Naujoks、ドイツ連邦共和国ザクセンハウゼン委員会によって編集」されています。

 

L:ということは、この部分は委員会かNaujoksの未亡人によって付け加えられたのでしょうか?

R:そうかもしれません。囚人団体の大半がそうなのですが、ザクセンハウゼン委員会も共産主義者やその他の左翼急進派によって支配されてきましたし、今も支配されています。また、ケルンのPahl-Rugenstein出版社も、左翼急進派の文献の出版で有名です。

 

L:ルドルフさんは反左翼宣伝を行なっていると思っていないのですか?

R:まったく思っていません。左翼・右翼の良し悪しの判断を下しているわけではないのですから。しかし、この本がどのような政治的潮流から出ているのかを指摘しておくことは許されるし、指摘しておくべきだと思います。ラッシニエによる最初の修正主義の本が出てきたのと同じ潮流からです。

 ザクセンハウゼンのガス室問題は、戦後ソ連側の囚人となって、ザクセンハウゼン収容所に宣伝目的で「ガス室」と「頸部射撃」施設を建設させられたというドイツ軍兵士の目撃証言が存在していることを考慮すると、いっそうデリケートな問題となります。

 なかでも一番重要なのはGerhart Schirmer退役大佐の証言です[8]

 

「勝利者である連合国は、戦争直後に、なぜ強制収容所にガス室を作ったのであろうか? アメリカ人が、ダッハウでそうしたように。これについて、納得のいく説明ができるであろうか。いずれにしても、私は囚人たちとともに、それまでには存在していなかったガス室と頸部射撃施設をオラニエンブルク(ザクセンハウゼン)のロシア収容所に『喜んで』建設した。」

 

L:ソ連側はなぜ1952年にガス室を解体したのでしょうか?

R:事態は少し込み入っています。マーザーは、戦争直後のソ連側のザクセンハウゼン強制収容所図面にはガス室は記載されていないので、Schirmerと彼の同僚の証言には疑問の余地があると指摘しています[9]

 

L:でも、ソ連側は戦後、ザクセンハウゼン強制収容所を異論派に対する強制収容所として利用したのではなかったのですか?

R:まったくそのとおりです。その状況は、民族社会主義者時代よりも劣悪であったといわれています[10]

 

L:そうすると、ソ連側が収容所図面を作成したのは宣伝目的ではなく、収容所の管理のためだったかもしれませんね。もしソ連側が、ガス室が存在しないことを知っていたのであれば、彼らが収容所図面に捏造の手を加えなかったとしても驚くべきことではないでしょう。

R:いずれにしても、もしも、戦前にガス室がザクセンハウゼン強制収容所に存在していたとすれば、それはすべての図面に記載されているはずであり、ソ連側も1952年には解体しなかったことでしょう。そして、ガス室が存在したとされる焼却棟を解体してしまったことは、スターリン主義者ザクセンハウゼンで犯した共産主義者の犯罪の痕跡を消し去るという観点から、考察されなくてはなりません。

 Schirmer証言は、もう一つの問題を提起していますが、それについては第四講で扱います。Schirmer証言自体は、その他の、たがいに矛盾する証人の証言よりも信頼できるというわけではないのです。目撃証言を別の目撃証言で納得のいくまで反駁することはほとんど不可能なのです。

 

L:しかし、証言のすべてが質的に同じ価値ではないのではありませんか。少なくともSchirmer証言は強要や洗脳の結果出てきたものではなく、彼自身もイデオロギー的な宣伝を受けているわけではありません。

R:左翼からの影響は受けていないとしても、右翼からの影響は受けているかもしれません。とくに、彼は第三帝国の兵士であったのですから。

 

LSchirmerはナチだったのですか?

R:わかりません。彼は終戦時にソ連軍の捕虜となったときには中佐でした。その後、西ドイツ空軍に勤務し、最終的には大佐にまでなりました。彼の上官の見解では、したがって、ドイツ連邦政府の見解では、彼は、戦後のドイツの民主主義憲法に忠実であるとみなされていたことになります。Schirmerがザクセンハウゼンに関する証言を公表してから、ドイツ政府当局の見解は大きく変わりました。しかし、Schirmerはチュービンゲン州裁判所の決定によって、「民衆煽動」の咎で刑事訴追され、彼の著作は没収されました。焚書処分となったということです[11]

 

L:でも、どのような理由からですか?

RSchirmerは、ドイツの収容所に存在したとされているガス室は、戦後、ドイツの解放者によって建設されたと証言したからです。

 

Lことの本質は、今日でもドイツ政府当局は、ロシアとドイツのスターリン主義者たちが、拷問、洗脳、見世物裁判、偽造によって作り上げ、世界中に広めていった歴史的「真実」を刑法を使って守ろうとしていることです。

R:ドイツ政府当局の振る舞いについては、あとで検討することにします。Schirmerは刑事訴追するとの脅迫にもかかわらず、自分の証言を公表しました。彼は、自発的にそのようにしたに違いありません。いずれにしても、マーザー教授は、Schirmer証言を信頼できるものとみなしています[12]

 

「ソ連側が1945年秋にガス室の建設を命じたという事実は、ソ連側検事当局が非常に誇張して発表した収容所の犠牲者数――その当時終わろうとしていたニュルンベルク裁判で公表され、世界中に広まった数字――と結びついていたに違いない。ソ連側はザクセンハウゼンを占領した直後から、捕虜としたSS将校に、ドキュメンタリー映画[13]の中で、収容所にガス室が存在したと証言させていた。しかし、ガス室であると認めるように強要された場所は、まったくガス室とは関係がなかった。」

 

L:しかし、ニュルンベルク裁判が終わったのは1946年ですね。

R:そのとおりです。ここでマーザーは時系列を逆にしているのです。アメリカ側は1945年春にダッハウ収容所を占領すると、ダッハウの「ガス室」をセンセーショナルに喧伝しましたが、ソ連側は、このアメリカの熱狂的な宣伝に刺激されて行動を起こさなくてはならなくなったというのが事実です。

 

目次へ

前節へ

次節へ

 



[2] W. Maser, Falschung, Dichtung und Wahrheit uber Hitler und Stalin, Olzog, Munich 2004, pp. 355f.

[3] IMT, vol. 7, p. 586.

[4] GARF, 7021-104-2, pp. 52ff.

[5] GARF, 7021-104-3, p. 7.

[6] Cf. Carlo Mattogno, “KL Sachsenhausen,” VffG 7(2) (2003), pp. 173-185 (Engl. in preparation for

publication in The Revisionist).

[7] Harry Naujoks, Mein Leben im KZ Sachsenhausen – 1936 - 1942. Erinnerungen d. ehemaligen Lageraltesten, edited by Ursel Hochmuth, Martha Naujoks, and Sachsenhausen-Komitee for the Federal Republic of Germany, Roderberg – Pahl-Rugenstein, Cologne 1987; quote acc. to W. Maser, op. cit. (note 100), p. 356.

[8] Gerhart Schirmer, Sachsenhausen – Workuta, Grabert, Tubingen 1992, pp. 37, as well as his sworn affidavit on pp. 49f.

[9] W. Maser, op. cit. (note 100), pp. 356, 358-361.

[10] Ibid., pp. 358; cf. Gunter Agde, Sachsenhausen bei Berlin. Speziallager Nr. 7, Aufbau-Taschenbuch-Verl., Berlin 1994; Adrian Preissinger, Todesfabriken der Kommunisten, Verl.-Gemeinschaft Berg, Berg am See 1991.

[11] AG Tubingen, ref. 4 Gs 937/02, of Aug. 21, 2002. The case against Schirmer was closed because the statute of limitation had expired.

[12] W. Maser, op. cit. (note 100), pp. 358.

[13] Chronos-Film, Berlin-Kleinmachnow: “KL Sachsenhausen.”