2.2 旧ドイツ帝国領内のガス室
R(ルドルフ):イギリス首席検事ショークロス卿はニュルンベルク国際軍事法廷で、次のように述べています[1]。
「アウシュヴィッツ、ダッハウ、トレブリンカ、ブッヘンヴァルト、マウトハウゼン、マイダネク、オラニエンブルク[=ザクセンハウゼン]のガス室と炉の中で大量生産様式で行なわれた殺戮」
これらの収容所の殺人ガス室での大量殺戮に関する話は、ブッヘンヴァルト収容所囚人であったCharles
Hauterの証言のような目撃証言にもとづいています。彼はこう述べています[2]。
「機械的な装置にまつわる強迫観念は、絶滅に関係すると、文字通り豊かなものになっていった。絶滅は急速に行なわなくてはならなかったので、特別な産業様式が必要とされた。ガス室はこの必要にさまざまなやり方でこたえた。比較的洗練されたガス室は、多穴性の資材からできた支柱で支えられていた。ガスはそこから放出され、壁を通ってしみでてきた。きわめて単純な構造のガス室もあった。しかし、すべてのガス室の外観は豪勢であった。建築家たちが、喜んでガス室を設計し、それに関心を集中し、審美的な感覚のすべてをそれに与えたことは容易に見て取ることができた。ガス室は、収容所の中で愛情をもって建設された唯一の建物であった。」
フランス政府の想像力は、ブッヘンヴァルトのガス室を描くにあたってとくに豊かでした。公式文書はこう述べています[3]。
「細部にいたるまで、すべてが周到に準備された。1944年、ブッヘンヴァルトでは、移送者を直接ガス室の送り込むことができるように、鉄道線路が延長された。死体を焼却炉に直接送り込むことができる床をもつガス室もあった。」
L:しかし、前節で、ブッヘンヴァルト収容所にはガス室はなかったとおっしゃいましたね?
R:そのとおりですし、今日では、すべての歴史家が認めている事実です。しかし、終戦直後には、事態は少々異なっていたのです。別の事例をあげましょう。マウトハウゼン収容所最後の所長フランツ・ツィエライスの自白の件です。彼は腹部を三箇所撃たれましたが、病院に送られるかわりに、マウトハウゼンの囚人ハンス・マレサレクから、瀕死の状態で尋問を受けました。ツィエライスは「死の床」での自白の中で、次のように証言したといわれています[4]。
「SS集団長グリュックスは、病弱な囚人を集めて、大きな施設で彼らをガス殺するように命じた。そこでは100万から150万人が殺された。問題の地域はハルトハイムと呼ばれ、パッサウ方向に10kmのところにある。」
L:この瀕死の人物は死にかけており、治療を受けさせてもらえないばかりか、かつての自分の囚人から「尋問」されているのですね。このような人物の「自白」の信憑性を誰が信じるのでしょうか?
R:今日では、誰も信じていません。しかし、戦争直後、ニュルンベルク裁判のときには、このような自白の信憑性は認められたのです[5]。ちなみに、ガス室であったとされているハルトハイム城の一室の広さは、280平方フィートです[6]。
L:なんですって。100万人以上がこの城の小部屋で殺されたのですか?
R:そのとおりです。ツィエライスもしくはマルサレクによれば、第二次世界大戦のヨーロッパの戦場でのアメリカ軍の戦死者の3倍から5倍の人々が、この小さな部屋の中で殺されたのです。
このような噴飯ものの話にやっと疑問が寄せられたのは、ほぼ15年後のことでした。1960年代初頭、ドイツのメディアを嵐が駆けめぐりました。政治的右派の活動家が、ダッハウの殺人ガス室――ガス室として見学者に展示されています――の実在性に公に疑問を呈したのです。ジャーナリストはショックを受け、告発せよとの叫び声があがりました[7]。しかし、それ以上にはなりませんでした。当時のドイツの歴史学者たちが、ダッハウでの殺人ガス処刑の実在性に確信をもっていなかったためでした。例えば、ドイツ連邦現代史研究所のマルチン・ブロシャート――のちに同研究所所長となります――は、ドイツの週刊誌Die
Zeit編集長に手紙を送り、その中でこう述べています[8]。
「ダッハウでも、ベルゲン・ベルゼンでも、ブッヘンヴァルトでもユダヤ人その他の囚人はガス処刑されなかった。ダッハウのガス室はまったく『完成して』おらず、稼働していなかった。数十万の囚人が旧ドイツ帝国領内のダッハウその他の強制収容所で死亡しているが、彼らは、とくに破局的な衛生・物資補給状態の犠牲者であった…。ガス処刑によるユダヤ人の大量絶滅は1941年42年にはじまり、もっぱら占領されたポーランド領内のいくつかの地点で(旧ドイツ帝国領内ではない)、すなわち、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、ブク河畔のソビボル、トレブリンカ、チェウムノ、ベウゼッツで行なわれた。ここでは――ベルゲン・ベルゼン、ダッハウ、ブッヘンヴァルトではない――、シャワー室や害虫駆除室に偽装された大量絶滅施設が設置されていた…。
マルチン・ブロシャート、現代史研究所、ミュンヘン」
L:旧ドイツ帝国とは何のことですか?
R:1937年12月31日時点の国境でのドイツ、すなわち、オーストリア、ズデーテン地方、メーメル地方を併合する以前のドイツのことです。
L:ブロシャートは矛盾に陥っていますね。もしダッハウに絶滅施設が設置されていないとすれば、ダッハウの大量絶滅施設が完成されていなかったと述べることがどうしてできるのでしょうか?
R:この矛盾は、この問題についての歴史家たちのあいだでの意見の不一致を象徴するような矛盾なのです。しかし、このような見解を抱いているのはブロシャートだけではありません。1993年1月24日、有名な「ナチ・ハンター」サイモン・ヴィーゼンタールもブロシャートの見解に組しました。彼は、合衆国の雑誌『星条旗』(185頁)にこう書いています。
「ドイツ国内には絶滅収容所がなかった、したがって、アウシュヴィッツ、トレブリンカその他の収容所で行なわれたような大量ガス処刑は行なわれなかったことは事実です。ダッハウではガス室が建設中でしたが、完成しなかったのです。」
しかし、二人とも他の研究者の見解とは食い違っているのです。例えば、
この分野の権威とみなされている研究者たちが1983年に出版した著作の見解です[9]。この著作の編集者代表はオイゲン・コーゴンです。
L:ラッシニエが宣伝家であることを暴露した人物ですね。
R:それに、ルードヴィヒスブルクにある民族社会主義犯罪調査中央局長アダルベルト・リュッケルルです。
L:どのような組織なのですか?
R:ドイツの公式の「ナチ・ハンター」機関です。そして、第三の編集者が、共産主義者であり、アウシュヴィッツ委員会議長のヘルマン・ラングバインです。
L:なんとも「客観的な」グループですね!
R:ここでは、この編集者グループが客観的であるかどうかには立ち入りません。この著作では、旧ドイツ帝国領内のノイエンガムメ、ザクセンハウゼン、ラーフェンスブリュックには殺人ガス室が実在して、数百ひいては数千の犠牲者がここでガス処刑されたとされていることが問題なのです。公的な著作が、旧ドイツ帝国領内の収容所では大量処刑施設が設置されていたと述べている一方で、公的なドイツ現代史研究所が、このような施設はこれらの収容所には設置されなかったと述べているのです。どちらかが間違っているはずです。
ダッハウに関しては、この著作の編集者たちは、ガス室が実在したと想定していますが、次のような留保条件をつけています[10]。
「ダッハウ強制収容所で毒ガスによる殺戮が行なわれたかどうかはまだ確証されていない。」
さらに、旧ドイツ帝国領内にあるザクセンハウゼン、ダッハウ、ラーフェンスブリュック収容所は今では博物館となっていますが、そこでは、ガス室があったとされている場所が展示されています。ダッハウ強制収容所のガス室にいたっては、オリジナルと考えられている状態のままで展示されています。
L:オリジナルと考えられているですって?
R:現在の状態がオリジナルであると証明している文書資料がまったくないからです。さらに、ダッハウのガス室は完成されなかったはずであるのに、今日展示されているガス室は完成されています、誰がそれを完成させたのでしょうか?
ラーフェンスブリュック強制収容所には「ガス室の場所――1945年12月−1945年春」という記念板があるだけです[図版は省略した]。
L:戦後、目撃証人やひいては政府の役人が実在したと証言したガス室のうちいくつかは、例えばブッヘンヴァルトのガス室は実在しなかったことでは意見の一致を見ており、旧ドイツ帝国領内のその他の収容所に実在していたかどうかは議論されているということですね。
R:そのとおりです。ただし、ホロコースト正史の主流は1980年代以降、これらガス室は実在したと主張するようになっています。これらの収容所にはガス室は存在しなかったと広く認められたとすれば、どのような事態となるでしょうか? 多くの証人が嘘をついており、政府の役人・裁判所・調査委員会の結論が虚偽であるということになってしまいます。このような大規模な嘘を認めてしまえば、さらなる疑問の洪水があふれ出てくることを止めることはできなくなるでしょう。ポーランドにあった東部地区収容所のガス室の証拠も、旧ドイツ帝国領内にあったとされるガス室の証拠と同じようにまったく根拠薄弱なものです。だとすると、東部地区収容所にはガス室が実在したなどと主張し続けることができるでしょうか。修正主義者の地すべり的勝利を阻止するためには、たとえどんなに疑わしいものであっても、ドグマをその中身すべてとともに、あらゆる手段を使って、支えなくてはならないのです。
[1] IMT,
vol. 19, p. 434.
[2] Charles Hauter,
“Reflexion d’un rescape” in: De l’Universite aux camps de concentration.
Temoignages strasbourgeois, 2nd. ed., Belles-Lettres,
[3]
Mark Weber, “
[4] Documents PS-1515,
May 24, 1945; PS-3870, April 8, 1946, IMT, vol. 33, pp. 279-286; cf.
Hans Marsalek, Die Geschichte des Konzentrationslagers Mauthausen, 2nd
ed., Osterr. Lagergemeinschaft Mauthausen,
[5] See
IMT, vol. 11, pp. 331f.
[6] Hans
Marsalek, Die Vergasungsaktionen im Konzentrationslager Mauthausen, Wien
1988, p. 26.
[7] See the description
by Erich Kern, Meineid gegen Deutschland, K. W. Schutz Verlag,
[8] Die
Zeit, Aug. 19, 1960, see Ill. 24 in the appendix, p. 185.
[9] E. Kogon, H.
Langbein, A. Ruckerl et al. (ed.), Nationalsozialistische Massentotungen
durch Giftgas, S. Fischer Verlag, Frankfurt 1983 (the Engl. version will
subsequently be quoted if not indicated otherwise: Nazi
Mass Murder, Yale, New Haven 1993). Similar in
Wolfgang Benz, Legenden Lugen Vorurteile, dtv, Munich 1992, pp. 200-203. In it Hellmuth Auerbach from the
German official Institut fur Zeitgeschichte lists the gas chamber victims as follows: Mauthausen: 4,000 (Zyklon
B, Gas trucks CO); Neuengamme: 450 (Zyklon B);
Sachsenhausen: several thousands (Zyklon B); Natzweiler: 120 to 200 (Zyklon B); Stutthof: more than a thousand (Zyklon B);
Ravensbruck: at least 2,300 (Zyklon B).
[10] E.
Kogon et al., ibid., p. 202.