第二講:公の論争

2.1 共産主義者が異議を申し立てる!

R(ルドルフ):第二講を始めるにあたって、ホロコーストに関する批判的歴史学の父とみなすことのできるフランス人の歴史と地理の教師ポール・ラッシニエについてお話したいと思います。ラッシニエは、第二次世界大戦前、みずから共産主義者であることを公言しており、そのために、ドイツ国防軍がフランスを降服させたのちには、レジスタンス運動のパルチザン戦士として活躍しました。

 そして、彼は戦時中にドイツ占領軍に逮捕され、ブッヘンヴァルト強制収容所に送られたのです。

 

L(聴衆):ドイツ国防軍はパルチザンをその場で銃殺したのではないですか?

R:当時そして今日も有効な国際法によると、軍事法廷がパルチザンを銃殺することはまったく合法的でしたが、1943年、ドイツ国防軍は方針を変えました。あまりにも多くのパルチザンに対処しなくてはならなくなったためです。また、パルチザンを大量に射殺してしまうと、ドイツ占領軍に対する地元住民の反感が高まり、パルチザンが道徳的権威を手に入れて、地元住民からの幅広い支援を獲得することになってしまうからでした[1]

 占領軍に対する民間人の戦闘は確かに法律違反かもしれませんが、道徳的には理解できるものですし、占領軍が戦争に負けた場合には、栄光の戦いとみなされるのが常です。しかし、いずれにしても、この当時、ドイツ側はラッシニエや彼の仲間の囚人を、処刑するのではなく、軍需産業での強制労働力として利用することを選択しました。このために、ラッシニエは検疫のため数週間ブッヘンヴァルトに収容されたのち、ドラ・ミッテルバウ収容所に送られました。ここは、イギリスをミサイル攻撃するためのロケットが組み立てられていた収容所です。戦争末期には、彼はその他の囚人とともに、この当時かなり指揮系統が乱れてしまっていたSSによって、目的もなくあちこちに移されました。ラッシニエは、この移送の過程で意気消沈していたSS隊員が過度の暴力をふるったことについて記しています。そして、ラッシニエは看守の目を逃れて逃亡し、進撃してくるアメリカ軍によって解放されました[2]

 戦後、ラッシニエはフランス社会党の国会議員となりました。

 よく知られているように、戦争直後から、数多くの囚人たちが、強制収容所での自分たちの経験について記事や著作を公表しはじめました。

 そのような強制収容所物語の著者の一人にフランス人僧侶Abbe Jean-Paul Renardがいます。彼はこう記しています。

 

私は数千の人々が次々とブッヘンヴァルトのシャワー室にはいっていくのを見ました。シャワー室では、水のかわりに窒息ガスが出てきたのです。

 

 ラッシニエは自分の経験から、ブッヘンヴァルトにはガス室などなかったことを知っていたので、Abbe Renardに異を唱えると、彼はこう回答したのです[3]

 

これはいわば詩的表現なのです。

 

 作家となったもう一人の囚人はオイゲン・コーゴンです。戦時中、彼は政治囚で、ブッヘンヴァルト強制収容所ではラッシニエの同僚でした。ラッシニエはコーゴンの本[4]を読んだとき、そこに数多くの歪曲、誇張、嘘が描かれている――とくに収容所で多くの虐殺行為を行なった同僚の共産主義者たちの責任を塗りつぶしている――ことに驚いてしまいました。そのために、彼は、自分で本を書いて、コーゴンの話を批判したのです[5]

 

L:コーゴンは政治的に歪んだレンズのついたメガネをかけていたのですね。

R:コーゴン自身はその序文の中で、「自分の報告が囚人指導者に対する起訴状のようなものとなってしまうとの恐れを払拭するために」、原稿を彼らに見せたと記しています。

 コーゴンは、自分の本『SS国家』が政治的パンフレットにすぎないとの非難を投げつけられると、名誉毀損裁判を起こしましたが、結局、敗訴しました。その判決文はこう述べています[6]

 

「この告発[コーゴンの本は非学術的パンフレットである]は、原告が、強制収容所での人間の振る舞いについて、それが囚人指導者に対する起訴状になるべきではないとの思惑から、社会学的に評価しているという意味で、まったくの捏造であるとは思えない。

 …彼が起訴状を作り上げているのではないかという恐れを払拭するために自分の報告を読み上げた15名の代表者の中に、2名のソ連人、8名の共産党員がいたことを考えれば、共産主義者が犯した虐殺行為に触れてあるかどうかにかかわらず、この共産主義者サークルに対してお目こぼしするという配慮をしていたとの印象を受ける…。

 このような配慮は学術的著作には無縁である。純粋は学問とは、その分析結果があれこれの人物を不快にするかどうかという点を考慮するものではない。ご都合主義で書くべき内容が決められるならば、客観性が失われるからである。それゆえ、被告が、同僚の囚人として、『SS国家』は政治的パンプレットにすぎないとの意見を表明しても、言論の自由という憲法に保障されている権利を行使しているにすぎず、原告の人格的名誉をまったく毀損しているわけではない…。」

 

Lしたがって、コーゴンの本は、すべての責任を邪悪なSS隊員と共産主義者以外の囚人に押し付けた自分と同僚の共産主義者の責任を取り繕った本なのですね

Rそして、ドイツでは、まさにこのオイゲン・コーゴンが、ホロコーストに「光をあてる作業において」重要な役割を果たしたのです

 第二次世界大戦中ドイツは虐殺行為を行なった、とくにドイツはヨーロッパ・ユダヤ人を組織的に絶滅する政策を採用していたという話が、戦後広まっていきましたが、ラッシニエは、この問題に取り組んでいきます。彼は『ユリシーズの夢』の中では、火のないところに煙はたたないとの理由で、ガス室があったと考えていました。しかし、研究が進むにつれ、ユダヤ人絶滅計画など存在しなかったという結論を出し、その後の著作では、ユダヤ人が大量に殺されたガス室なども存在しなかったと主張するようになりました[7]1964年、彼は『ヨーロッパ・ユダヤ人のドラマ』の中で次のように記しています[8]

 

「過去15年間、ソ連に占領されていないヨーロッパで、ガス処刑を経験したと主張する証人が登場すると、そのつど、私は彼の証言を直接聞くために、この人物のもとをすぐに訪れました。しかし、いつも同じ結果でした。私は、手に書類挟みを持って、証人に詳しく質問しました。しかし、証人の答えはまったくの虚偽で、結局は、自分自身で経験してはおらず、収容所で死亡した友人からの話を伝えているにすぎないことを認めることになりました。このようにして、私はヨーロッパ各地を数千マイルも何度となく旅したのです。」

 

 ホロコースト正史に批判的な歴史学の著作に関心をもつ人々には、ラッシニエの著作を読むことをすすめます。しかし、ラッシニエの著作には誤りもあることを指摘しておかなくてはなりません。しかし、先駆者の著作であるかぎり、誤りがあることも避けられません。ラッシニエは第一次資料にはほとんどアクセスできませんでしたので、彼の著作には多くの欠落があります。このために、今日、彼と彼の著作を眺めてみると、彼の議論が説得的であるとか正確であるかという点よりも、彼自身の存在の方が興味深い点です。すなわち、フランスの共産主義者、パルチザン戦士、強制収容所の囚人が、ホロコースト正史の嘘や誇張にはじめて公に反対したという事実です[9]

 

L:これには驚きました。ナチやネオナチがはじめて反対したと思っていたからです。

R:それは広まっていますが、虚偽の決まり文句です。真実を復権せしめようとしたのは民族社会主義の犠牲者、民族社会主義の不倶戴天の思想上の敵なのです。

 

L:この人物のことを、敵の汚れたシーツをきれいにしたがっていると誰も非難できないでしょうね。

R:実は、議論が健全であれば、この議論を誰が唱えているかは重要ではありません。しかし、この問題に関しては、銃を持って前線にいた人物よりも、鉄条網の後ろにいた人物の発現の方を聞きたがるのもやむをえないと思います。一般的に言えば、対立する集団があった場合、その集団は自分たちのために、ある事件を消し去ったり、誇張したり、捏造したりすることに関心を抱くものです。

 ですから、批判的、修正主義的ホロコースト研究の父が急進的左翼、反ファシスト、強制収容所の囚人であったという事実は重要なのです。

 

L:ラッシニエはその批判的姿勢ゆえに困難に遭遇しなかったのですか?

R:もちろん遭遇しました。彼に対する刑事訴訟が計画されましたが、結局は中止されました。彼は、フランスのメディアでたえず中傷され、自分の著作以外には、ほとんど発言の場を与えられませんでした。しかし、彼の時代以降の批判的研究者に対する迫害と較べれば、軽いものでした。

 

目次へ

前節へ

次節へ

 



[1] Franz W. Seidler, Verbrechen an der Wehrmacht, vol. 1, Pour le Merite, Selent 1998, p. 127.

[2] For this see Paul Rassinier’s auto-biographical description in Passage de la Ligne, La Librairie francaise, Paris 1948; Engl.: The Holocaust Story and the Lies of Ulysses, 2nd ed., Institute for Historical Review, New Port Beach 1990.

[3] Paul Rassinier, Le Mensonge d’Ulysse, La Librairie francaise, Paris 1950, p. 133.(www.vho.org/dl/FRA/mu.pdf).

[4] Eugen Kogon, Der SS-Staat. Das System der deutschen Konzentrationslager, Verlag Karl Alber, Munich 1946 (Engl.: The Theory and Practice of Hell. The German Concentration Camps and the System behind them, Secker & Warburg, London 1950 / Berkley Books, New York 1998).

[5] Paul Rassiner, op. cit. (note 81), chapter V; Engl. see note 80.

[6] LG Munchen 1, 10th civil court (ref.: 10-0 409/58), judgment of Dec. 13, 1958.

[7] Paul Rassinier, Ulysse trahi par les siens (www.vho.org/dl/FRA/uts.pdf): Further critical remarks on false statements by former co-inmates; Le Drame des juifs europeens, (www.vho.org/dl/FRA/dje.pdf): critical analysis of Raul Hilberg’s book The Destruction of the European Jews (op. cit., note 39); Le veritable proces Eichmann ou les vainqueurs incorrigibles (www.vho.org/dl/FRA/vpe.pdf; Engl.: The Real Eichmann Trial or The Incorrigible Victors, Institute for Historical Review, Torrance 1976; www.vho.org/aaargh/fran/livres2/PRreal.pdf): critical analysis of the evidence on the extermination of the Jews on the occasion of the Jerusalem Eichmann trial; L’operation Vicaire (www.vho.org/dl/FRA/ov.pdf): Critique of the theater play The Deputy by Rolf Hochhuth on Kurt Gerstein and the role of the Vatican in the alleged cover-up of the Holocaust. See also the Engl. Language compilation of some of Rassinier’s works: Debunking the Genocide Myth, The Noontide Press, Torrance, CA, 1978.

[8] Paul Rassinier, Le Drame des Juifs Europens, Paris 1964, p. 79.

[9] Although it can be argued that the semi-revisionist books on the Nuremberg Military Tribunal by French author Maurice Bardeche, who called himself a fascist, predated those by Rassinier, although Bardeche wrote journalistic essays rather than scholarly works, and he did not doubt the extermination of Jews as such: Nuremberg ou la Terre Promise, Les Sept Couleurs, Paris, 1948, p. 187 (www.vho.org/dl/FRA/ntp.pdf); see also Nuremberg II ou les Faux-Monnayeurs, ibid. 1950 (www.vho.org/dl/FRA/nfm.pdf).