1.8 永遠の真実など存在しない

R(ルドルフ):第一講を終えるにあたって、少々政治の話をしておきましょう。政治的な性質を持つ発言に何らかの意見を表明できるようにしていただきたいためです。私は「公式の歴史学」という用語を使いましたが、本来は、そのような用語は間違った名称です。民主主義社会では、官僚たちが何が真実で何が真実ではないのかを学問の分野で決定するわけではないからです。このようなことは全体主義国家の特徴です。不幸なことに、多くのヨーロッパ諸国、なかでも3つのドイツ語諸国は、刑法を使って特定の歴史観を強制しています。ドイツ刑法130条、オーストリアの禁止法3h条、スイス刑法241条は、民族社会主義体制の虐殺の否定を禁止しています。

L(聴衆):それには正当な理由があるのです!

 

R:どうしてそのようにお考えなのですか?

L:ナチスが犯した恐ろしい犯罪のあとでは、私たちには、このようなことが二度と起きないように監視する義務が課されているからです。

 

R:虐殺が犯罪である点には誰も反対していませんが。

L:しかし、そのように煽動したり、虐殺を大目にみようとする人々に対してすみやかな措置をとらなくてはならないのではありませんか?

 

R:ここで私たちが話しているのは歴史上の事実もしくは歴史学上の主張についてです。それは犯罪を煽動したり、犯罪を大目に見ることとはまったく関係がありません。

L:たしかにそうですが、これらの犯罪を低く見積もったり、ひいては犯罪自体を否定している場合です。そのようなことをする人は、人道に対する罪を看過したり、ひいてはそれがふたたび起る道を切り開きたがっているのです。本当のところは、修正主義は、民族社会主義からユダヤ人の殺戮という「緋文字」を消し去ることで、民族社会主義をまっとうな社会の中でふたたび認知させようとする隠れた道筋なのです。そのようなことを許してしまえば、そして、ファシズムをもう一度認知してしまえば、新しいナチの独裁がふたたび姿を現し、虐殺がもう一度起ることでしょう。そのようなことが起らないようにするために、ナチスを赦免する動きを全力で阻止しなくてはならないのです。

 

R:ホロコーストに関して根本的に異なる見解を口にする人であれば誰でも、民族社会主義者を赦免して、右翼独裁イデオロギーをふたたび導入しようとしているとおっしゃるのですね?

L:そうでなければ、誰もが疑っていない証拠すべてを否定するようなことをあえてするでしょうか?

 

R:乱暴な言い回しです。誤った推定にもとづいています。まず、あなたはホロコーストに関しては最終的な真理をもっているということになります。そのような確信はどこから来るのですか? ローマ教皇のような無謬性をあなたに与えているのは何ですか?

L:数千の歴史家たちが50年以上もまじめに研究しているのです。そんなに多くの人々が間違えるはずがありません。

 

R:だとすると、1000年間、地球は平面であると強調されてきましたが、それも間違いであるはずがないということになります。17世紀、ジョルダノ・ブルーノはこの件で火刑となり、ガリレオも破門されています。魔女は箒に乗って、悪魔と肉体関係を持っているという説はどうですか? これも数世紀間にわたって、事実としてあつかわれてきました。

L:まったく別のことです。

 

R:どうしてですか?

L:この場合には、科学的事実自体が無視されていますから。

 

R:ホロコースト正史派の歴史家によるホロコースト研究の場合には、そうではないとおっしゃるのですか?

L:もちろんです。あなたが、学問的原則をまったく欠いた修正主義のラベルで売り込もうとしている特許医薬品とは違います。

 

R:わかりました。それでは、これらの原則を考察してみましょう。もっとも基本的な原則、すなわち、いかなる研究者も作業仮説を提案することを許されるべきであり、いかなる分析結果も、原則的に許容されるべきであるという原則から始めましょう。

 そこでお尋ねします。第三帝国ではユダヤ人の組織的大量殺戮はなかったという説を提案することは、例えばドイツでは可能でしょうか、そして、研究の結果、このような説が正しいとの結論に達することが合法的でしょうか?

L:そのようなことは禁止されています。

 

R:そのとおりです。だとすると、ドイツの歴史家たちは、法律が認めている結論以外のどのような結論に到達できると思いますか?

L:しかし、法律的な禁止措置がない国々の歴史家たちも、数十年にわたって、同じに結論に達していますが。

 

R:そうかもしれませんが、そのようなことは関係ないのです。もし、学会全体、メディア、政治家、司法制度、そして世論が学問のもっとも基本的な原則を無視しているとすれば、学問の自由の制限や否定の犠牲者たちがどうして非学術的であると非難されているのか?というのが私の質問なのです。ホロコーストに関してであっても、魔女に関してであっても、地球の形状についてであっても、それに関する仮説や分析結果を非合法とすることを許容する歴史家たち――ひいては普通の人々も――は、まさにそのことで、学者としての地位を失い、学問の敵となっているのです!

L:私たちは学問に賛成であるとか反対であるとかを議論しているのではありません。私たちは、民主主義と人権をその敵から守っているのです。

 

R:特定の学説に賛成していない人は人権の敵であるとおっしゃるのですか?

L:民族社会主義を体裁の良いものとしようとする人々は、卑しい政治目的を達成する口実として学問を利用しようとしているので、学問の真の敵です。

 

R:あなたが修正主義者を非難しているのは、彼らが政治的理由で学問的に議論しているふりをしていると考えているためですか?

L:そのとおりです。それを似非科学といいます。

 

R:わかりました。この場合、あなたが正しいか間違っているかという問題は、ひとまず脇においておきましょう。修正主義者の所説をもう少々紹介してから、この問題をとりあげることにします。別の学問的原則、というよりも認識論的な原則を取り上げましょう。いかなる分析結果も絶対的かつ完璧な真理ではありえないという、疑問の余地のない事実のことです。あらゆる分析結果は、新しい証拠や解釈が提出されれば、修正されたり覆されたりするものです。学説というものは、原則的につねに反論にさらされなくてはならないのです。ホロコーストが学問の対象であるとすれば、このルールからはずれことはありえません。

L:しかし、似非科学を許容するということにはなりませんが!

 

R:ホロコーストを否定しようとする試みはすべて、政治的動機、すなわちヒトラーとその体制の名誉回復という動機にもとづいているとお考えなのですね?

L:そのとおりです。

 

R:ヒトラーの名誉回復、道徳的免責を直接・間接に進めてしまうようなことはすべて、政治的に許容できない、ひいては認められないとみなしているのですね?

L:ルドルフさんは、そのようなことをおやりではないでしょうね。

 

R:そのようなことは問題ではありません。あなたがどのような政治的見解を持っているのか、何を非道徳的とみなしているのかについては関心がありません。私が明らかにしようとしているのは、ヒトラーを道徳的に免責するかもしれない分析結果を生み出すことを、あなたが政治的に非難されるべきことである、それゆえ、許容できないことであるとみなしていることです。ですから、私の質問は、この問題でのあなたの動機は、政治的原則にもとづいているのか、学問的原則にもとづいているのかということになります。

L:もちろん、ナチスと戦うのは政治的なことです。

 

R:ありがとうございます。他人のことを政治的動機の咎で非難しておいて、その一方で、ご自分が政治的動機で動かされているのを正当化できるのは、どうしてなのですか?

L:私の政治的動機は高潔で、彼らの動機はそうではないからです。

 

R:ということは、あなたは他人が何を考えているかを裁定するだけではなく、その考え方を道徳的に評価できる能力を持っているということですね。

 ある学問が、ある分析結果を否定することができるのは、その否定が学術的な理由にもとづいている場合に限られます。非学術的な動機はそれこそ許容できません。これが学術研究のもうひとつの特徴です。そして、あなたはこれを支持しようとはしていません。科学者は自分の研究において、自分の分析結果が個々人や政治制度の道徳的姿勢にどのような効果を与えるかということから影響を受けるべきではありません。分析結果とは、正確で、一貫しており、証拠にもとづいて立証され、矛盾を抱えてはいないものでなくてはなりません。この点で、政治的見解などまったく関係ないのです。

 一例を挙げておきましょう。ある歴史家が、チンギス汗と彼のモンゴル帝国を道徳的もしくは政治的に支持するような分析結果を生み出すべきではないとの前提に立ったとすれば、どうなりますか?

L:馬鹿にされ、あざけりの対象となるだけです。

 

R:まったくそのとおりです。そのように馬鹿げた前提に立つ歴史家は、非学問的、ひいては反学問的な目的を持っているにすぎないからです。しかし、学問的には受け入れられないことですが、こと民族社会主義に関しては、馬鹿げた政治的議論が横行しているのです。このことは、私たちの社会がどのような状態にあるのかを示唆しています。あらゆる歴史学上の問題、科学的問題については、理性というものが適用されていますが、ことホロコーストというテーマに関してだけは、理性が放棄され、パラノイア的、精神病的な反応に置き換わっています。このことをどのようにお考えでしょうか? なぜ、ホロコーストというテーマをほかのテーマと同じように議論してはならないのでしょうか? ホロコースト異論派を黙らせることに大きな利害関係を持っているのは誰なのでしょうか? 私たちの多くは、このような人たちから長期にわたって洗脳されてきたので、「ホロコースト」とか「ユダヤ人」というボタンが押されると、すぐにわめきだす、パブロフの犬のごとく反応するようになっているのです。

 ホロコースト修正主義が科学的であるかそれとも似非科学的であるのかという問題については、修正主義とその反対者の方法、作業手順、所説を検討してからあつかうことにしましょう。ここでは、ホロコースト修正主義が、ある聴衆の方が話してくれたように、民主主義や人権にとって危険であるのかどうかという問題を考えてみましょう。

L:修正主義が、人権を認めないイデオロギーを奨励しているという意味でです。

 

R:ちょっと待ってください。ドイツが行なった虐殺事件を強調することは、民族社会主義ドイツとの戦いの中で、スターリンを利することがあったとはお考えになりませんか?

L:ファシストの虐殺行為を発見したことは、反ファシズム派の立場を道徳的に強めたに違いありません。

 

R:スターリンを助けましたか?

L:広い意味では、そうでしょう。

 

Rということは、民族社会主義は人間の組織的工業的絶滅を実行したという説は、明らかに民主主義と人権にとって危険であったイデオロギーと体制=ロシアの共産党独裁を手助けしたということになりますね。

L:しかし…

 

R:スターリンとソ連型全体主義的共産主義は、そのような危険を体現していたことを否定なさるのですか?

L:いいえ、…

 

R民族社会主義ドイツ労働者党がドイツで結成された1918年には、ロシアではすでに全体主義体制が成立しており、数十万人を殺戮していました。ヒトラーが権力を握ったとき、ロシアの全体主義体制は数百万を殺戮していました。領内のドイツ系少数派とロシア系少数派を仮借なく迫害し、民族浄化していた[1]ポーランドと、ドイツ・ソ連とのあいだで戦争が勃発した19399月までに、ロシアの全体主義体制は数千万を殺戮していました。さらに、ヒトラーがポーランド戦役後は何もしていなかったときに、スターリンはフィンランドを攻撃し、エストニア・ラトヴィアに侵攻してこれを併合し、ルーマニアから暴力的にベッサラビアを奪いました。しかし、全世界は、スターリンこそが世界平和と人類にとってより大きな脅威であるとみなすかわりに、ドイツに宣戦布告して、スターリンを無条件に支持することを決定したのです。この時点で、ひいては1941年夏まで、ヒトラーによる死者の数は、スターリンによる犠牲者の数と較べると、圧倒的に少なかったはずです。そして、今日では、中国やカンボジアのキリングフィールドの犠牲者も含む共産主義の犠牲者の合計は、数千万に及んでいるのです。

 どうして、共産主義体制、とりわけスターリンが悪の権化とされていないのでしょうか? どうして、ホロコースト正史を支配する共産主義者と左翼勢力が寛容に受け入れられ、反面、民族社会主義者は悪魔に等しい存在とみなされているのでしょうか? この裏にはどのような論理が隠されているのでしょうか? 実は、この裏には、まったく論理など隠されていません。一面的で、歪曲された虚偽の歴史情報に由来する非合理的な感情に突き動かされているだけなのです。客観的、理性的に考察すれば、民族社会主義を共産主義よりも邪悪であるとみなす理由はまったくないからです。むしろその逆です。

 ですから、あなたこそが、事実の理性的な分析ではなく、偏見と感情に動かされているという結論になります。この偏見と感情は非常に根強いので、事実を客観的に眺めることを妨げるだけではなく、事実を理性的に考察して結論を出そうとしている人々を否認するという姿勢を生み出しているのです。そして、自分とは異なる結論を出している人々が存在していることを恐れているのです。

L:私は、いかなる全体主義体制、ナチ体制も共産主義体制も擁護していません。ナチの虐殺行為は、共産主義を正当化すものではありません。民主主義を正当化しているのです。

 

R:すでに、述べたように、スターリンは大量虐殺を行なっています。また、自称民主主義者たちは、東ヨーロッパの諸国民をスターリンの強奪の手に引き渡し、ハンブルク、ドレスデン、広島、長崎を空襲して、多くの人々の生命を奪いました。このスターリンや自称民主主義者でさえも、ホロコースト正史に登場する大量殺戮とくらべれば、道徳的優位に立つことができるのです。ですから、ホロコースト正史は、スターリンやこうした自称民主主義者による大量殺戮をうまく隠してしまう恰好な盾になっているのです。

 少々脱線してしまいました。第二次世界大戦自体が大量殺戮なのですが、その中で起った大量殺戮事件について、道徳的な順位をつけようとするつもりはありません。私が明らかにしておきたいのは、もしも、道徳的政治的に非難されるべき制度によって利用・誤用されうるとの理由だけで、歴史学上の説や学説を放棄する、ひいては非合法と宣言しなくてはならないとしたら、一体どれほどの学説が手元に残るのか、その中で、無害な学説、乱用されない学説はどのくらい残るのかということです。

 もしも、修正主義が右翼全体主義イデオロギーによって歓迎されているがゆえに非難されるべきであるとするならば、同じように、ホロコースト正史は、はるかに危険な左翼全体主義イデオロギーによって歓迎されているとの理由で、非難されるべきなのではないのでしょうか?

 

L:ホロコースト正史とは何ですか?

R:第三帝国は、ガス室という道具を多用して、ユダヤ人を組織的・工業的に殺戮したと主張する学説で、ホロコースト修正主義の対極にある学説のことです。

 学説それ自体は、誰がそれを誤用しようとも、そのことに責任を負うものではありません。それは、分析結果を生み出した科学者、発見や発明を行なった人物が、その分析結果や発明が非道徳的に利用されたからといって、そのことに責任を負うものではないのと同様です。

 原子核をはじめて分裂させたオットー・ハーンは、広島の犠牲者に責任を負っているのでしょうか? グーテンベルクは、扇情的な記事の印刷に責任を負うべきなのでしょうか?

 

L:しかし、ここで問題としているのは、歴史学上の事実を否定して、同時にファシズムを賛美している修正主義者による具体的行動なのですが。

R:このような振る舞いをしている修正主義的研究者の名前をあげてください。一人でもかまいません。

 

L:エルンスト・ツンデルです。彼は民族社会主義者であることを自慢しています[2]

R:自慢しているかどうか知りませんが、ツンデルは修正主義的研究者ではありません。

 

L:そうなのですか。それでは、彼は何なのですか?

R:彼はデザイナー、編集者、政治活動家、平和主義者です。

 

L:あなたは仲間の修正主義者エルンスト・ツンデルとは距離を取っているようですね。高潔で純粋な学問にしかるべき敬意を支払えば、エルンスト・ツンデルのことをご自分よりも劣ったカテゴリーに入れることはできないはずですが。ツンデルも真実を探していました、嘘のジャングルの中を一歩一歩格闘しながら進んでいったのです。そして、そのために、多くの迫害に苦しんだからです。さらに、真実とみなしている知識を使って政治を行なうほうが、嘘を利用して政治を行なう――エスタブリッシュメントに属する人々がよく行なうのですが――よりも、はるかに善良で名誉あることだと思います。

R:私の話を誤解しています。私はツンデルのことよく知っていますし、政治的には一致しないとしても、彼のことを礼儀正しく親切で理性的な人物だと思っています。彼が、民族社会主義者と称しているとか、そのことを自慢しているとかいうことを彼から耳にしたことはありません。そして、ツンデルはファシズムを賛美しているわけでもありません。さらに、品位をもって政治を行なうほうが名誉あることであるというあなたのご意見に賛成しています。しかし、そのことで、ツンデルが研究者となるわけではありません。

 政治的な色合いについて考察してみましょう。ヘルマン・ラングバインとオイゲン・コーゴンはドイツ語諸国でのホロコースト正史派の重要な著述家で活動家ですが、二人とも共産主義者です。

L:それが何だというのですか? 何を証明したいのですか?

 

R:政治的スペクトルの双方に、政治的過激派が存在していることを証明しておきたいのです。ですから、一方だけに目を向けるべきではないのです。また、修正主義者の民族構成についても考えておかなくてはなりません。ドイツ人が多いと推測する人がいますが、まったく間違っています。数からいえば、フランス人が多いのです。私はドイツ人ですから、例外です。これとは逆に、完全なものではありませんが、著名なホロコースト正史派の研究者・促進者のリストをご覧ください。イツァク・アラド、ハナ・アレント、イェフダ・バウアー、リチャード・ブライトマン、ルーシー・ダヴィドヴィチ、アレクサンダー・ドナト、ジェラルド・フレミング、ダニエル・ゴールドハーゲン、アレックス・グロブマン、イスラエル・ガットマン、ラウル・ヒルバーグ、セルジュ・クラルスフェルト、シュムエル・クラコフスキ、クロード・ランズマン、デボラ・リップシュタット、アルノ・メイヤー、ロバート・ヴァン・ペルト、レオン・ポリャーコフ、ジェラルド・ライトリンガー、ピエール・ヴィダル-ナケ、ジョルジュ・ヴェレール、サイモン・ヴィーゼンタール、エフライム・ツロフ。全員がユダヤ人です。

 言うまでもないことですが、彼は第三帝国に大きな敵意を抱いており、同胞のユダヤ人の苦難を強調することに利害をもっています。したがって、ホロコーストについての彼らの著述は、明らかな目標にもとづいているのです。このことは、彼らの著作が最初から虚偽であることを意味しているのでしょうか?

L:もちろん、そうではありません。

 

R:それでは、同じことが修正主義者にもあてはまることになりますね。さらに、修正主義は、ユダヤ系の研究者の学説を、ユダヤ人であることから予想される見解や先入観のゆえに否定したりはしていません。

 しかし、政治問題を離れて、人権問題に戻りましょう。

L:ナチスが行なったことを考えてみると、このことがふたたび起らないように監視することがぜひ必要なのです。そして、そうするためには、ユダヤ人その他の少数派の不安をかきたててしまうようなことを禁止し、適切な措置をとることが必要なのです。とくに、ドイツ人は少数派に対して責任を負っています。

 

R:焚書や少数派への迫害がドイツでふたたび起らないようにするために、今、焚書を行い、少数派を迫害しなくてはならないというのですね。

L:そんなことを言ったつもりはありません。

 

R:おっしゃいましたよ。特定の本の焚書、特定の少数派への迫害を防ぐために、その他の本を燃やし、その他の少数派を迫害しなくてはならないと。

L:今日のドイツでは、本が燃やされ、異論派が投獄されているというのですね?

 

R:そのとおりです。今日のドイツでは、政治的・歴史学的異論派の著作が、犯罪の凶器として没収・破棄されています。それは多くの場合、焚書処分なのです[3]。共産主義者、エホバの証人、社会主義者として政治的・歴史学的異論派が強制収容所に送られることと、民族社会主義者、右翼過激派、修正主義者として投獄されることに、どのような違いがあるのですか?

L:馬鹿なことをおっしゃってはいけません。ナチス・ドイツと今日のドイツとは違います。今日のドイツでは、犯罪を犯してから投獄される前に、裁判にかけられますが、ナチス・ドイツではそうではありませんでした。

 

R:形式的な側面に関しては、あなたがおっしゃっていることは正しいのですが、今日のドイツでは、かつての同じような迫害を効果的隠蔽するために、その形式性が利用されているのです。これについては、最後の講義の中でもっと詳しく説明することになります。ナチス・ドイツと今日のドイツの制度が同じであるといっているわけではありません。今日のドイツ――そしてその他多くのヨーロッパ諸国――では、修正主義的な少数派と右翼民族主義者が、平和的に自分の見解を表明したとしても、その内容ゆえに迫害され、その著作が、焚書と少数派への迫害の再発を防ぐとの理由で焚書処分となっているという逆説的な状況に、関心を向けていただきたいのです。

 5.3節で、今日のドイツの検閲問題をさらに詳しく説明するつもりです[4]。この問題を終えるにあたって、ドイツ国民はまったく間違った教訓をもう一度学びつつあるといっておきたいと思います。過去に照らし合わせると、ドイツがとるべき唯一適切な姿勢は、人権を厳格かつ公平に保障することです。かつてナチス・ドイツは左翼勢力に人権を保障しませんでしたが、今日のドイツは、その反対側の勢力に人権を保障していません。この問題となると、ドイツは悪循環に陥っているのです。両極端のあいだで振り子が振れています。振り子を中央に戻すときです。

 少々瑣末なことをお話して、この講義を終わりたいと思います。人は修正主義者とし生まれ、育っていくわけではありません。人生の中できっかけがあって、修正主義者となるのです。言い換えれば、ほとんどすべての修正主義者は、それまでのドグマを疑い始める前には、ホロコースト正史を信じて疑っていなかったのです。修正主義者となっていくにはさまざまなきっかけがあることでしょうが、共通していることが一つあります。人間として、この疑問から目をそむけたり疑問を押し殺したりすることができなかったことです。回答を探し求めることこそが、精神の苦痛な状態からの救いであるがゆえに、疑問を抱くことは人間の精神固有の作業なのです。これこそが、動物と人間の根本的差異です。

 ですから、こうお尋ねしたいのです。疑うことを非難し、回答を求めることを刑法によって禁止しているような社会は、どのような人間を理想としているのかということです。

L:本来、社会は自己自身が啓発され、その構成員に、あらゆる点で批判的となって、上から伝えられることを額面どおりに受けとるべきではないと教育すべきでしょう。

 

R:そのとおりです。ドイツ人は、過去おいては無条件の服従がドイツ人を道に迷わせてしまったことを学ぶべきです。

L:ルドルフさんは、疑問への道に至る危険な道に入ってしまったのですね。

 

R:最終的な真実などというものはありえないのです。これが講義を終わるにあたって申し上げたいことです。真実をどこで探すべきか、どこで探すべきでないかを教え込もうとする人は、私たちの存在の人間的側面、私たちの尊厳から私たちを引き離しているのです。それゆえ、ホロコースト修正主義者を抑圧することは、まさに真実を探し求める人々を抑圧することであり、人権をあからさまに無視する古典的な抑圧の事例なのです。

L:たしかにそうかもしれません。しかし、ホロコーストに疑問を呈することは、それが学術的なスタイルで行なわれていようといまいと、多くのヨーロッパ諸国では禁止されています。まして、ホロコーストに反駁したり、否定したり、反論したりすることは――どのような表現でもかまいませんが――は、まったく禁止されています。

 

R:たしかに絶望的な状況かもしれませんが、心を慰めるものとして、専門家の見解を紹介しておきたいと思います。2000年、法律学の大学院生が、いわゆる「アウシュヴィッツの嘘」というテーマの法学博士論文をドイツで提出しました。聞くところによると、彼は修正主義にはっきりと反対する人物です。しかし、彼は、学術的な修正主義を犯罪とすることは人権侵犯であるとの結論に達したのです[5]。ドイツの司法界でも、ドイツ近代史のこの章を犯罪化することについては多くの批判が投げかけられています[6]。ドイツの政治家でさえもこの論争に参加し、批判的な発言をしています。元内務大臣ヴォルフガング・シャウブレは、当時ドイツユダヤ人中央会議議長であったイグナツ・ブビスとの対談の中でこう述べています[7]

 

「アウシュヴィッツの嘘が犯罪行為であるかどうか、民族社会主義のシンボルを禁止することが合法かどうかという問題については、次のことだけを申し上げておきます。抽象的な空間の場では、意見の表明を抑圧することが法的な観点からするとナンセンスであるのか、そうではないのかを議論できるに違いありません。にもかかわらず、私たちは抽象的な空間で行動しているのではなく、具体的な歴史的経験をあつかっているのです。このような法的措置が恒久的に適用されるとは思いません。純粋な法律的観点からすれば、この法律は問題を抱えています。ですから、この意味で、この法律には限界と制限があるのです。」

 

R:つまり、修正主義的歴史家に対する法的迫害は、法律的な理由から行なわれているのではないわけです。対応する法律は問題を抱えており、ナンセンスであるとみなされているのですから。私たちは、「歴史的な経験」についての議論を禁止するために、「歴史的な経験」を必要とするということになっているのです。

L:シャウブレの主張は一貫しています。異論派は過去のドイツでも迫害されたがゆえに、今日のドイツでも迫害されなくてはならないというのです。

 

R:そして、彼はまた、歴史学上の発言内容を、その発言内容ゆえに、自由に議論すべきではないとも主張しています。

L:つまり、歴史学上の異論派は、ドイツ憲法最高裁を含むドイツの裁判所が法律に違反しているがゆえに、非合法に投獄され続けていることになります。

 

R:しかし、少なくとも修正主義者か、犯罪者としてではなく、殉教者として、政治囚として監獄に向かっています。そして、このような事態は、遅かれ早かれ、ドイツの司法制度を破局に追い込むことでしょう。

 次の講義は、修正主義とは、精神的に劣った狂人によるナチ運動・イデオロギーであるといった、修正主義に関する神話の正体を暴露することになります。

 

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[1] For this see, e.g., Richard Blake, Orphans of Versailles. The Germans in Western Poland, 1918-1939, University Press of Kentucky, Lexington 1993.

[2] On Ernst Zundel see www.zundelsite.org.

[3] Abendzeitung (Munich), March 7/8, 1998: “Die Restexemplare werden gegebenenfalls in einer Mullverbrennungsanlage vernichtet.” (The remaining copies, will eventually be destroyed in a garbage incineration plant); with respect to R.J. Eibicht, Hellmut Diwald, op. cit. (note 6); www.germarrudolf.com/persecute/docs/ListPos58_d.pdf; ~_e.pdf) Cf. Zur Zeit (Vienna), no. 9/1998 (Febr. 27, 1998): “Vor 65 Jahren geschah solches noch offentlich, heute wird dies klammheimlich in einer Mullverbrennungsanlage erledigt.” (65 Years ago, this was done in public, today it is taken care of behind closed doors in a garbage incineration plant; ~/ListPos59_d.pdf; ~_e.pdf).

[4] Germar Rudolf, Eine Zensur findet statt! Redeverbote und Bucherverbrennung in der Bundesrepublik Deutschland, Castle Hill Publishers, Hastings 2005 (www.vho.org/D/ezfs; Engl. See www.vho.org/censor/D.html#GB); cf. also Claus Nordbruch, Zensur in Deutschland, Universitas, Munich 1998; Jurgen Schwab, Die Meinungsdiktatur, Nation Europa Verlag, Coburg 1997.

[5] Thomas Wandres, Die Strafbarkeit des Auschwitz-Leugnens, Strafrechtliche Abhandlungen, neue Folge, vol. 129, Duncker & Humblot, Berlin 2000; cf. the review by G. Rudolf, VffG 5(1) (2001), pp. 100-112 (German).

[6] Cf. e.g.: Theodor Leckner, in: Adolf Schonke, Horst Schroder, Strafgesetzbuch, 25th ed., Beck, Munich 1997, p. 1111; E. Dreher, H. Trondle, Strafgesetzbuch, 47th ed., update no. 18 on sec. 130; Stefan Huster, “Das Verbot der ‘Auschwitz-Luge,’ die Meinungsfreiheit und das Bundesverfassungsgericht,” Neue Juristische Wochenschrift, 1995, pp. 487-489; Daniel Beisel, “Die Strafbarkeit der Auschwitz- Luge,” Neue Juristische Wochenschrift, 1995, pp. 997-1000; Karl Lackner, Strafgesetzbuch, 21st ed., Munich 1995, update 8a on sec. 130; Hans A. Stocker, Neue Strafrechts-Zeitung, 1995, pp. 237-240; cf. also Manfred Brunner, Frankfurter Allgemeine Zeitung, Aug. 17, 1994; Ernst Nolte, ibid., Sept. 8, 1994; Ronald Dworkin, Tageszeitung, May 17, 1995; Horst Meier, Die Zeit, Sept. 15, 1995; H. Meier, Merkur, 12/1996, pp. 1128-1131.

[7] Frankfurter Allgemeine Zeitung, April 24, 1996, p. 41.