1.7 ホロコースト生存者

L(聴衆):ヤド・ヴァシェムが集めた名前は犠牲者の合計数とは異なっていると、なぜお考えなのですか?

R(ルドルフ):二つの観点、微視的観点と巨視的観点からお答えしましょう。

 最初に微視的観点から、すなわち関係者個人について考察してみましょう。あなたとあなたの家族が移送されたと想定しましょう。集合場所に到着すると、健常な男性は家族から話されて、どこか別の強制労働収容所に送られます。女子供は特別収容所に連れて行かれ、老人はさらに別の場所に移送され、性別ごとに分離された収容所に収容されます。収容所当局の要請や思いつきにしたがって、これらの人々はその後も繰り返し別の場所に移送されるかもしれません。戦争末期には、数が少なくなった収容所――まだ連合軍によって解放されていない――に集中しているでしょう。

 戦争直後まで生き残った人々は、別の場所に移動しており、そこからさらに、機会さえあれば、あらゆる地域に分散して行きます。自分たちの名前をそのままにしている人々もいるでしょうが、ユダヤ人であるとみなされることにうんざりしている人々は、新しい故郷で新しい名前を採用するでしょう。南アメリカではスペイン系の名前を、アメリカ合衆国では英語風の名前を、イスラエルではヘブライ系の名前をです。

 ここで質問します。これらの人々は自分たちの親族に何か起ったのか、どうやったら発見できるのでしょう?

 

L:ほとんど不可能です。今日であれば、インターネットを使って、何とかなるかもしれませんが。

R:たしかに、戦後数十年たった今日の方が何とかできるかもしれませんが、次の世代の人々にとっては、どのような親族をどのように探すべきであるかという新しい難題が登場することになります。

 地方新聞にはときどき「人間的な関心を引く」記事が掲載されますが、その中に、ホロコーストによって分散してしまった家族が、奇跡的に一堂に解することができたという記事があります。互いの親族が死んでしまっていると信じ込んでいた親族たちが、熱心な捜索の結果によってか、もしくはまったくの偶然によって、お互いを発見したという話です。アメリカの新聞からその記事を紹介しておきます[1]

 

「スタインベルク家は、かつてはポーランドの小さなユダヤ人村で繁栄していた。ヒトラーの死の収容所の前のことであった。今日、200名以上の生存者や祖先が、感謝祭の日に始まった特別な4日間の祝祭を分かちあうために、集まっている。カナダ、フランス、イギリス、アルゼンチン、コロンビア、イスラエル、少なくとも13のアメリカの町から、親戚たちが木曜日にやってきた。シカゴからやってきたイリス・クラスノフはこう語っている。『信じられないことです。3ヶ月から85歳までの5世代がここにいます。みんな歓声をあげながら、すばらしい時間を過ごしています。まったく、第二次大戦の難民連合のようなものです』。」

 

L:これらは個別的なケースですね!

R:そうでもあり、そうでもないのです。ごく少数のケースだけが知られるようになったという意味では、あなたのご意見は正しいのです。しかし、家族が奇跡的にふたたび集まったというような記事はおもに地方メディアの記事であることを忘れてはなりません。このような記事を誰が熱心に探しだしているでしょうか? 私が紹介した記事も、偶然見つけたものにすぎません。組織的な分析調査はまったく行なわれていません。家族が奇跡的にふたたび集まったとか、行方のわからなかった親族の身元が確認されたとかいう記事が、メディアの中にどのくらい登場しているのでしょうか? 失われた親族を発見するには、すでに述べたようにさまざまな困難が付きまといますが、その中で誰かを発見する可能性はどのくらいなのでしょうか? 互いが生存していること知らない親族たちが、奇跡的に再会したことを、a)偶然に知る、b)メディアの中の登場しているのを知る、c)直接、私たちの関心を引いて知られるようになる、こういったことがどの程度起るのでしょうか。

 

L:ホロコースト生存者たちは、戦後、自分たちの親族の情報を何とか手に入れようとしたのではないでしょうか。ルドルフさんが正しければ、ユダヤ人生存者たちが自分たちの親族を発見したという記事がもっと多くても良いはずですが。

R:この件についてはそんなに確信をもってお話できないのですが、例証として、有名な証人アーノルド・フリードマンの証言を紹介しておきます。彼は、アウシュヴィッツでの「悪業」を立証する証人として1985年の裁判に出廷したとき、弁護側(Q:)の質問に次のように答えています(A:)[2]

 

Q:西ドイツのアロルセンにある、赤十字国際追跡サービスのことを耳にしたことがありますか? お聞きになったことがありませんか?

A:ありません。

Q:戦後、ご自分の家族や親族のことを、当局を介して追跡しようとされましたか?

A:いいえ…。

Q:わかりました。ご家族の最後の運命については、個人的には知らないということですね。彼らがどうなったのかを、ご存じないのですね。

A:文書資料的証拠がまったくありませんから…

Q:[戦後かなりたってから人々が親族を発見するようになったのは、]第二次世界大戦後に、多くの人々がヨーロッパ各地に分散してしまった、すなわち、ロシア側に行った人もいれば、アメリカ側に行った人、イギリス側にいった人もおり、死んだと思われた人もいたためですね?

A:はい。

Q:そして、あなたはアロルセンの追跡サービスをご存じないのですね。

A:はい。

 

R:ですから、フリードマンは戦後、自分の親族のことを一度も問い合わせようとしていないのです。

 

L:彼のことを一般化することはできません。

R:そのとおりですが、終戦後、多くの生存者たちはホロコースト宣伝にのせられて、親族を探そうともしなかったかもしれないのです。

 どのくらいのユダヤ人家族が以上のような事情のために自分たちの親族を探そうともせず、自分たち以外は死んでしまったと誤解してしまったのかという問題は、世界各地のホロコースト生存者を統計学的に分析することで解決できるでしょうが、それも限定的でしょう。

 イスラエルには、ホロコースト生存者の世話をする公式団体Amchaが存在します。その資料によると、1997年の時点で、世界各地には834000名から960000名のあいだのホロコースト生存者がいました。Amchaはホロコースト生存者を次のように定義しています[3]

 

ホロコースト生存者とは、ナチ体制下にあった国、ナチ占領下にあった国、ナチ協力者の体制下にあった国で暮らしていたすべてのユダヤ人、および、この体制と占領から逃亡したユダヤ人と定義される。

 

Lかなり大雑把な定義ですね。この定義にしたがえば、1933年から1941年の大量移送の開始までに時期にドイツから移住したユダヤ人もホロコースト生存者となってしまいますし、ドイツ軍の侵攻以前に東方に逃亡したユダヤ人も生存者となってしまいます。

Rそのとおりです。このようにして、生存者の数を肥大化させることができます。とくに、彼らに対する補償を請求するにあたっては、この方が儲かるのです。

 

L:ホロコースト生存者の数は誇張されているということですか?

R1998年、Amchaがこの数字を公表した1年後、スイス・ホロコースト基金ユダヤ人会長Rolf Blochが声明を出しています。この団体はスイス銀行が支払うユダヤ人ホロコースト生存者への補償金について交渉しており、Blochは、依然として100万人以上の生存者が存在すると述べました[4]。そして、2000年には、イスラエル首相官邸は、100万人以上の生存者がいるとふたたび報じていいます[5]

 

L:ということは、この数字の背後には、政治的動機、金銭的動機がひそんでいるということですか

R:生存者の数はドイツ・イスラエル関係にとって心理的な意味ももっています[6]。ここで、興味深い質問です。もしも2000年に100万人のホロコースト生存者がいたとすれば、1945年にはどのくらいのホロコースト生存者がいたことになるでしょう?

 

L:その多くは1945年から2000年のあいだに自然死しているはずですから、1945年時点での数はかなり多かったことでしょう。

R:統計学的にいえば、2000年という時点で生存しているユダヤ人の年齢構成がわかれば、かなり正確な数字を出すことができます。保険会社は正確な平均寿命のデータを持っていますので、それを利用すれば、住民集団のもともとの数を復元できるでしょう。残念ながら、断片的な情報は別として、ホロコースト生存者の年齢構成についての正確なデータがありません。年齢構成についてのさまざまな推定にもとづいて、大雑把な計算をしてみました。その結果、1945年の時点で、350万から500万人のホロコースト生存者がいたことになりました[7]

 

L:合計何名のユダヤ人がいたのですか?

R:のちに民族社会主義者に支配下に入った地域で暮らしているユダヤ人すべてを含めると、800万人となります[8]

 

L:ということは300万から450万のユダヤ人が姿を消したということですか?

R:最悪の場合には。

 

L:それでも、恐るべき数字です。

R:ただし、そのうちのかなりの数は民族社会主義体制の責任ではありません。例えば、スターリンの収容所群島の中で姿を消したユダヤ人や、兵士、レジスタンス戦士として死んでいったユダヤ人たちです。しかし、ホロコースト生存者について、決定的な数を出そうとは思いません。算出もとになる統計学的根拠があまりにも小さすぎますし、分析結果の誤差も大きくて、そこから意味のある結論を引き出すことが難しいからです。

 ここで明らかにしたかったことは、戦後に、数百万人が世界各地に分散したことです。そうした人々の多くは、ある時期ヒトラーの直接・間接に支配下に入った地域で暮らしていたユダヤ人の少なくとも半分が実際には生き残ったにもかかわらず、自分たちの親族は殺されたと信じていたのです。ですから、前にお話した、家族の奇跡的再会というケースは決して奇跡でもなく、統計学的にはかなりの確立で生じるケースだということです。

一方、ヤド・ヴァシェムが集めた名前は、検証されえない申し立てにもとづいており、廃棄処分にすべきなのです。

 

L:しかし、何名のユダヤ人がホロコーストで殺されたのかということが依然としてわかりませんが。

R:私がこれについて断定的な回答をしないのは、わからないという単純な理由からです。もし、ご自分の見解をまとめたいのであれば、私が引用してきた研究書を研究してください。ここで明らかにしておきたかったのは、誰も実際には判っていないので、600万という数字には大いに疑問の余地があるということです。

 

L:もしわからないのでしたら、何を信じていらっしゃるのですか?

R:「信じる」という用語は、ここで使うべき適切な用語ではないでしょう。「ありそうなこととみなしている」のほうが適切です。そのような意味合いでしたら、約50万人という数字が真実に近いと考えています。

 

L:ドイツ当局に提出されている補償者数によって、生存者の数を見積もることができると思いますか?

R:きわめて、限られた範囲でです。西ドイツ国家が1949年に成立してから、西ドイツ当局は、第三帝国時代に迫害されたと主張する個々人と集団すべてに補償金を支払ってきました。2000年までで、ドイツは、現在のドルを基準とすると、1000億ドル支払っています。

 公表されているデータから集めた情報によると、請求者がユダヤ人であるかどうかは明らかではないけれども、1980年代末までに、500万件以上の請求が提出されています。さらに、個人集団、家族は集団的請求を提出することができ、損害の性質――肉体的損失、精神的損失、物理的損失――に応じて、たとえその損害が潜在的なものであっても、誰もが1回以上請求することができるのです[9]。ドイツ当局が望めば、もっと正確な数字を作成することができるかもしれませんが、この数字は、「誤用・乱用」を避けるために、公表されないでしょう。

 

L:しかし、百科事典に掲載されているデータはどうですか? 戦前と戦後のユダヤ人に関するデータを比較すれば…

R:そのような作業する場合には、注意しなくてはなりません。百科事典やその類の書物は、学術的に厳密な意味では信頼できる資料ではないからです。百科事典を典拠資料としたりすると、公式の歴史学からの反論の嵐に遭遇しますし、馬鹿を見ることになります。新聞や雑誌記事も同じことです。ジャーナリストが、自分たちのあつかっているテーマについて洞察力のある知識をもっていることなどほとんどないからです。

 

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[1] “Miracle meeting as ‘dead’ sister is discovered,” State-Times (Baton Rouge), Nov. 24, 1978, p. 8; see also Jewish Chronicle, May 6, 1994; “Miracles still coming out of Holocaust,” St. Petersburg Times, Oct. 30, 1992; “Piecing a family back together,” Chicago Tribune, June 29, 1987; San Francisco Chronicle, Nov. 25, 1978, p. 6; Northern California Jewish Bulletin, Oct. 16, 1992; cf. JHR, 13(1) (1993), p. 45.

[2] Queen versus Zundel, Toronto, Ontario, Kanada, January 11, 1985, interrogation of Arnold Friedman, pp. 355-450; here pp. 446f.

[3] Adina Mishkoff, Administrative Assistant Amcha, Jerusalem, email adina@amcha.org of Aug. 13, 1997, 16:17:20 CDT, to the mailing list h-holocaust@h-net.msu.edu; E. Spanic, H. Factor, V. Struminsky, “Number of Living Holocaust Survivors,” Amcha Press Release, PO Box 2930, I-91029 Jerusalem, July 27, 1997 (www.corax.org/revisionism/nonsense/19970813survivors.html).

[4] Handelszeitung (Switzerland), Feb. 4, 1998.

[5] Norman Finkelstein, “How the Arab Israeli War of 1967 gave birth to a memorial industry,” London Review of Books, Jan. 6, 2000.

[6] For example: The American Jewish Committee, “Holocaust survivors in Eastern Europe deserve pensions from the German Government,” open letter to the German federal government, signed by 83 U.S. Senators, New York Times, Aug. 17, 1997 (see VffG 1(4)(1997), p. 290; www.vho.org/News/D/News4_97.html#wiedergutmachung); Erik Kirschbaum, “Jewish leader urges Bonn to pay Holocaust claims,” Reuter, Bonn, Aug. 19, 1997; “Jewish group rejects offer to Holocaust survivors,” Reuter, Bonn, Aug. 24, 1997; “Jewish group to issue list of holocaust fund recipients,” Reuter, New York, Sept. 17, 1997.

[7] G. Rudolf, op. cit. (note 44), pp. 209-211.

[8] W.N. Sanning, op. cit. (note 41), p. 182.

[9] G. Rudolf, op. cit. (note 44), p. 208.