1.6 600万人が消え去ってしまったのか?
L(聴衆):事実関係に戻りましょう。ホロコーストでは何人のユダヤ人が死んだとお考えですか?
R(ルドルフ):私自身は第一次資料にもとづいて研究したことがありませんので、他人の研究に頼らなくてはなりません。第二次世界大戦中のユダヤ人の損失というテーマに関する研究書を探してみれば、このテーマについて二つのモノグラフしかないことがわかります。
L:でも、ホロコーストのおもな研究書は犠牲者数を記載していますね。
R:そのとおりですが、これらの研究書では犠牲者数が記載されているだけで、証明されていません。例えば、ホロコースト正史派の専門家ヒルバーグの『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』に登場している数字と、もう一人の正史派の専門家ルーシー・ダヴィドヴィチの『ユダヤ人に対する戦争』に登場している数字を比較して見ましょう。
表1:場所ごとのホロコースト犠牲者数 |
||
場所 |
ヒルバーグ[1] |
ダヴィドヴィチ[2] |
アウシュヴィッツ トレブリンカ ベウゼッツ ソビボル チェウムノ マイダネク |
1000000 750000 550000 200000 150000 50000 |
2000000 800000 600000 250000 340000 1380000 |
収容所合計 |
2700000 |
5370000 |
その他の場所 |
2400000 |
563000 |
ホロコースト合計 |
5100000 |
5933000 |
両者ともホロコーストでのユダヤ人犠牲者数を500万から600万のあいだに設定しています。しかし、大量殺戮が行なわれたとされる場所ごとの数字を比較してみると、まったく一致していないことがわかります。表1をご覧ください。このような表を、ほかのホロコースト正史派の歴史たちの研究書を使って作ることができますが、数字は非常にばらばらとなってしまいます。しかし、個々の数字がばらばらになってはいても、合計の数字は基本的に同じ数字になっています。不思議なことです。どれ一つとして、信用できる典拠資料にもとづいて算出された数字ではないのです。
ですから、第二次世界大戦中のユダヤ住民の損失という人口学的なテーマだけに焦点をあてている、二つの本だけに戻ることにします。
1983年にWalter N. Sanning別名Wilhelm
Niederreiterが書いた修正主義的研究書『東ヨーロッパ・ユダヤ人の分散』[3]と政治学者ヴォルフガング・ベンツ教授博士が1991年に編集した『民族虐殺の規模(Dimension des
Volkermords)』[4]です。サニングが、ヨーロッパ・ユダヤ人の説明できない損失の規模を30万としているのに対し、ベンツは、ホロコースト正史にしたがって、600万ほどとしています。
L:驚くほどの違いですね。どちらの本をおすすめですか?
R:今日では、ベンツの本のほうが標準的とみなされています。サニングの本よりもかなり幅広い資料を使って書かれています。
L:ということは、やはりユダヤ人の死者は600万人なのですね。
R:先走らないでください。一歩一歩進んでいきましょう。ベンツの本は修正主義的な研究に対する反駁を意図したものですが、サニング説を直接、真剣に取り上げて分析しようとしていません。サニングは脚注の中に一度だけ登場しているだけですし、それも、中傷されているだけです[5]。
L:まったく学術的なアプローチではないですね。
R:そのとおりです。ベンツは、修正主義者の所説を反駁するためにこの本を出版したと公言しているだけになおさらです。もしも、ある説を反駁しようとするにあたって、その説を適切に紹介せず、ただそれを抑圧して、自説に反対する研究者を中傷することだけに終始するならば、明らかに、非学術的なアプローチです。修正主義者の所説を紹介・検討していないために、二つの研究書を並べて、そこであつかわれている人口統計を比較しなくてはならないのです。私がやったことはまさにこのような分析でした[6]。
その分析結果を要約しておきます。まず、ホロコーストの犠牲者についての両者の定義がまったく異なっていることがわかりました。サニングは、民族社会主義者の迫害政策にしたがった直接の殺戮によって死亡した犠牲者を犠牲者の数に入れていこうとしているのに対して、ベンツは、赤軍兵士として戦死したユダヤ人、ソ連の移送と強制労働収容所での犠牲者、死亡率が出生率を上回ったときの数、改宗による差を含む、ヨーロッパでのすべてのユダヤ人の損失をホロコーストとみなしているのです。
さらに重要な事実は、ベンツは第二次世界大戦中に生じた住民移住をまったく無視していることです。この移住は、このテーマについて統計学的な考察するにあたっては、隠れた重要問題なのです。ベンツは、ヨーロッパからイスラエルへのユダヤ人の移住、アメリカ合衆国への移住をまったく無視しています。これは、第二の「出エジプト」とも呼ばれ、第二次世界大戦前に始まっていましたが、1941年に中断され、1945−47年にピークに達しました。また、ベンツは、東ヨーロッパ内部でのユダヤ人の移動――数多くのポーランド系ユダヤ人が、ドイツ軍の侵攻以前にソ連に逃れています――については非常に手短にしかあつかっていません。一方、サニングは、約100万のユダヤ人が1941年、1942年に、ソ連によってシベリアに移送されたと断言しています。
L:スターリンはユダヤ人をシベリアに移送したというのですか?
R:そのとおりです。サニングは ドイツとの戦争が勃発したとき、50万から100万のユダヤ人が東方に移送されたと述べているユダヤ人慈善団体があげている数字を引用しているのです。スターリン自身も、1937年と1938年に起った「大粛清」時代に、ユダヤ人をひどく攻撃しています。一例として、ソ連のテロル機関NKVD(内務人民委員部)上層部の民族構成を、NKVDの内部資料にもとづいて比較してみましょう。紙面の節約のために、ロシア人とユダヤ人に関する数字だけをあげておきます[7]。
表2:内務人民委員部上層部におけるユダヤ人の割合 |
|||||||
民族 |
1934、7,10 |
1936、10,1 |
1937、5,1 |
1938、9,1 |
1939、7,1 |
1940、1,1 |
1941、2,26 |
ロシア人 |
31.25% |
30.00% |
31.53% |
56.67% |
56.67% |
64.53% |
64.84% |
ユダヤ人 |
38.54% |
39.09% |
37.84% |
21.33% |
3.92% |
3.49% |
5.49% |
L:でも、ユダヤ人は宗教集団であって、民族集団ではないのではないでしょうか?
R:これは、ユダヤ人自身が数千年間も議論しており、私たちもここですぐに解決できない論点です。内務人民委員部がユダヤ人を民族集団としてリストアップしているのは、ユダヤ人自身がそのように主張していたためでしょう。
L:ソ連のテロル機関の指導的地位の40%ほどは、もともとユダヤ人が占めていたのですね。ユダヤ人は、ソ連の全体人口ではどのくらいの割合でしたか?
R:戦前、ソ連の総人口は2億ほどで、ユダヤ人は400万人ほどですから、2%になります。
L:テロル機関でのユダヤ人の割合が非常に高いことは、「ユダヤ・ボリシェヴィズム」という神話の根拠になっていますか?
R:まったくそのとおりです[8]。ただし、このような異常事態は、戦争が勃発したときには消えていましたが。ベンツとサニングに戻りましょう。ドイツ・ポーランド戦争ついで独ソ戦が始まると、ポーランドとソ連のユダヤ人は東方への逃亡や移送によって、移住していきましたが、サニングはこの件について多くの資料を提示しています。ベンツはこの問題をまったくあつかっていないので、彼はこの件でサニングと論争するつもりがなく、このテーマを省くことを選択したと考えざるをえません。
犠牲者を算出するにあたってベンツが採用した方法は、関連諸国で戦前最後に行なわれた人口調査にもとづくユダヤ人の数と、戦後初めて行なわれた――ただし、終戦後数年経過していますが――人口調査にもとづくユダヤ人の数の差を計算することです。
この時、ベンツは、数百万のユダヤ人が合衆国、イスラエルその他の国々に移住していた事実を考慮していませんし、ユダヤ人であると主張した場合には迫害の恐れがあるので、ソ連の戦後の人口調査は、キリスト教徒であるかユダヤ教徒であるかという宗教的帰属問題に関するかぎり、まったく信用できないという事実も検討していません。すなわち、1959年と1970年に、ソ連国内でわずか200万人だけがユダヤ人であると称していたという事実は、わずか200万人だけが戦争を生き残ったということを意味しているわけではないのです。わずか200万人だけが、きわめて反宗教的・反シオニスト的国家の中で、ユダヤ教を信仰しているとあえて主張しているということを意味しているにすぎないのです。
L:ベンツはソ連の統計資料を額面どおり受け取っているのですね。
R:はい、まったく留保条件をつけていません。彼が選んでいる言葉を詳しく見てみると、ベンツはスターリンが宥和政策をとっており、ヒトラーから突然攻撃されたと考えていることがわかります。平和を愛するソ連は突然、いわれのない攻撃を受けたという月並みな言い回しは、共産主義者の宣伝教科書そのままです。ベンツは、ソ連がポーランドを貪り食い、フィンランドを侵略し、ベッサラビアを併合し、エストニアとラトヴィアを呑み込んだという厄介な事実を看過しているのです。
L:言い換えれば、ベンツはソ連がやろうとしていたことに関しては、驚くほど無批判的な立場をとっているということですね。
R:この場合には、そのような考え方があてはまります。ベンツと彼の共著者たちが見せている奇妙な姿勢を説明するのにも役に立ちます。二つの事例、フランスとポーランドを例にとって、この点を明らかにしてみましょう。
1942年前半に約75000名のユダヤ人がフランスから移送され、その大半がアウシュヴィッツに向かいました。この事実については異論がありません。これらの人々の運命についてあつかった標準的な研究書は、これらのユダヤ人のうち2500人だけがフランスに帰国し公式に登録された、したがって、移送者の97%は殺されたと述べています[9]。ベンツもおおむねこの数字を受け入れています[10]。
L:戦後になってフランスで生存者として登録したユダヤ人だけが、フランスから移送されてユダヤ人の中で、生存者と計算されているということですね。
R:そのとおりです。
L:どこか別の場所に移住した人々はどうなるのですか?
R:その点が問題です。スウェーデンの人口統計学者Carl
O. Nordlingは、このテーマに関する研究論文の中で[11]、フランスから移送されたユダヤ人の大半はフランス人ではなく、52000名が、ドイツ、オーストリア、チェコスロヴァキア、ポーランドひいてはベネルックス諸国から逃亡してきた他国民であり、それ以外のユダヤ人の大半も帰化したばかりであり、そのことは彼らの大半が亡命者であることを意味するということを明らかにしています。
新ドイツ的なヴィシー・フランス政府がフランスから追放することに賛成したのは、フランス国籍を持っていないか、最近取得したばかりの人々についてです。大半のフランス系ユダヤ人は移送されなかったのです。
ここで64000ドルの質問です。追放に熱心なフランス政府当局によってアウシュヴィッツに移送された非フランス系ユダヤ人のうち何名が、戦後にフランスに帰国し、生き残ったユダヤ人として公式登録したでしょうか?
L:彼らの帰国先としては、パレスチナとアメリカ合衆国のほうが魅力的であったと思いますが。
R:彼らの大半にとって、その方が良かったはずです。フランスはフランスから移送されたユダヤ人の大半にとっての帰国先ではありませんでした。彼らがフランスに帰国しようとする理由がありません。ですから、フランス系ユダヤ人の犠牲者を算出しようとするベンツの方法は、きわめて恣意的なのです。
L:これらのユダヤ人の大半が生き残ったとおっしゃりたいのですか?
R:いいえ。フランスから移送されたユダヤ人の運命は、『アウシュヴィッツ死亡者記録』によってかなりたどることができます。この記録は、収容所で死亡したすべての登録囚人をリストアップして、収容所当局が保管していた文書資料です[12]。すべてが現存しているわけではなく、1943年末までで終っているのですが、それでも、これらのユダヤ人の多くの運命について、知ることができます。その資料によると、恐ろしいほど多くの人々が、1942年夏に収容所で蔓延したチフスで死にました。これ以降移送されてきたユダヤ人の大半は、収容所に登録されませんでした。収容所の衛生環境が破局的であったので、移送集団をこれ以上受け入れることができず、アウシュヴィッツに移送されてきたユダヤ人はもっと東方に移送されていったからでしょう[13]。
L:この死亡者記録にリストアップされている死者の合計は何名ですか?
R:69000名ほどです。しかし、収容所の初期の時代、1944年、収容所が解放された月(1945年1月)については記録されていないのです。
L:ということは、おそらく120000名ほどの犠牲者が出たと推測されるということですね。数十年も聞かされてきた、100万単位のアウシュヴィッツのユダヤ人犠牲者数とはかなり食い違っていますね。
R:注意してください。死亡者記録が記録しているのは、登録囚人の死亡についてだけだということです。ホロコースト正史では、直接ガス室に送られた移送者は登録されず、どのような記録にも姿を現さないということになっているのです。あとで、このテーマに立ち返りましょう。
ベンツが無能である事例をもう一つあげておきます。当時、ソ連をのぞくと、ポーランドはヨーロッパで最大のユダヤ人口をかかえた国でした。1931年の人口調査では、ポーランドには310万人ほどのユダヤ人がいました。ベンツは自分なりの犠牲者数を算出するにあたって、3つのことを行なっています。第一に、ベンツは、1939年までのユダヤ人の人口増加をポーランド人の人口増加の割合と同じものであったと推定することで、ドイツとの戦争が勃発した時点でのユダヤ人の人口を345万人として、当初の数字を多く見積もっています。第二に、彼は、のちにドイツが占領する地域で暮らしているユダヤ人すべてが、そこにい続けたと仮定して、ドイツ占領下のポーランド系ユダヤ人の数を200万人と見積もっています[14]。第三に、殺された人々の数を算出するにあたって、この200万人から、1945年にポーランドで暮らしていたとされるユダヤ人の数、すなわち約20万人を引いています[15]。このようなやり方のどこが間違っていると思いますか。
L:ベンツは、きわめて反ユダヤ主義的な国家である戦後のポーランドで、ユダヤ人と称した人々の数をどのように知ることができたのでしょうか?
R:そのとおりです。実際の数はもっと多かったに違いありません。例えば、ヨーロッパにおけるユダヤ人の境遇問題を調査したイギリス・アメリカ委員会は、1946年2月に記者会見していますが、それによりますと、戦後のポーランドには80万人のユダヤ人が依然として移住を希望しているというのです[16]。ほかにご意見はありますか?
L:ベンツは、ポーランド系ユダヤ人がドイツ軍の侵攻以前に東方に逃亡した可能性に触れていません。
R:そのとおりです。ほかにありますか?
L:ポーランドは1945年以後、200マイルも西に移動しています。その当時、ヨーロッパの情勢は混沌としていました。そのとき、ポーランドで生活しているユダヤ人の数をどのようにして知ることができたのでしょうか。そもそも、1945年のポーランドという概念自体を定義しておく必要があります。
R:素晴らしい議論です。ほかにありますか。ありませんか?
それでは、1931年の人口調査からはじめましょう。ベンツはユダヤ人の人口を推定するにあたって、他の民族集団と同様の成長要因をユダヤ人に割りあてていますが、それは的外れです。両大戦間期のポーランドは、迫害――ポグロムにいたることもありました――という手段を使って、少数民族に同化か移住かという大きな圧力をかけていた国家でした。それは、民族ドイツ人、白ロシア人、ウクライナ人、およびユダヤ人にあてはまりました。ポーランドとヒトラーのドイツを較べると、1938年末の「水晶の夜」まで、ポーランドの方が反ユダヤ主義的であるとみなされていたことを忘れるべきではありません。戦後のドイツ・アカデミー会員でドイツ史家のHermann
Gramlは、1933年以降、毎年10万人ほどのユダヤ人がポーランドから移住していったことを明らかにしています[17]。
そして、移住していったのはおもに、子供を産む能力を持つ若者たちでした。ですから、1939年時点のポーランドにおけるユダヤ人人口は、300万よりもはるかに少なく、200万に近かったと思います。
さらに、戦争勃発時のドイツ軍の侵攻以前に、住民、とくにユダヤ人が逃亡していったことも忘れてはなりません。ベンツは30万人ほどが逃亡したと推定していますが、サニングは、60万から100万のポーランド系ユダヤ人がソ連に逃亡し、シベリアに移住させられたというユダヤ人慈善団体の発言を引用しています。サニングによると、1939年の時点で、ドイツ側に残っていたポーランド系ユダヤ人は、ベンツの推定よりも125万少ない75万人ほどにすぎませんでした[18]。
この問題にこれ以上深くは立ち入りません。ベンツの研究には方法的な弱点があることを強調しておきたいだけです。
L:ホロコーストでは一体何名が殺されたと考えているのか、ルドルフさんのお考えがまだ明らかになっていません。ベンツよりもサニングを信頼しているようですね。
R:サニングの本は、第一次資料をあまり利用しておらず、また、出版されてから20年以上もたっているので、改訂されなくてはならないと思っています。正確な数字については留保しますが、彼の全体的なアプローチは正しいと思っています。人気のない分析結果を公表してしまうことを恐れない批判的な研究者による研究が求められています。
L:600万人のホロコーストの犠牲者の名前のリストがあるのですか?
R:イスラエルのヤド・ヴァシェム・センターがこのようなリストを編集しました。300万人の名前がリストアップされていますが、そのうち100万人の名前は公開されている資料から出されたものです。残りの大半は、親戚、友人、地元住民からの文書報告から出されたものです[19]。ヤド・ヴァシェムが発行しているパンフレットは、この点についてこう述べています[20]。
「これは時間との戦いです。今日すぐにサイトを検索しましょう、そして、記録されていない名前や写真を提出し、ホロコーストの犠牲者全員が私たちの集団的記憶の中に留めおかれるようにしましょう。情報を集めてください。ご家族に話してください。親族がホロコーストの犠牲者であったかどうかわからなければ、まず、家族――両親、祖父母、叔父と叔母――に当たってみて、殺されたかもしれない人々についての情報をできるだけ多く集めてください。…あなたの家族の中にホロコーストで殺された親族がいるのであれば、オンラインで名前と詳細をサイトに知らせてくださるか、付属の証言の頁を使ってください。」
L:言い換えれば、誰であってもヤド・ヴァシェムに犠牲者を登録できるのですね。
R:そのとおりです。例えば、ヤド・ヴァシェムは、地元も住民が、たんに「戦後、自分の故郷に戻ってきたユダヤ人は誰もいなかったことを知った」という理由だけで、戦前にこの地域で生活していたユダヤ人すべてが殺されたと報告した事例をあげています[21]。
L:このような報告が正しいかどうかを誰がチェックするのでしょうか?姿を消した人々がアメリカ、イスラエルその他の国々で暮らしていることもありうるのですね。
R:私の知るかぎり、まったくチェックされていません。ヤド・ヴァシェムから書類を取り寄せて、それに書き込み、送り返すだけでよいのです。住所は、Yad
Vashem, P.O.B 3477, 91034 Jerusalem, Israel; Telephone:
00972-02-6443582; via Email: names.research@yadvashem.org.il.です。
L:自分の犬についてのデータを送ることもできるのですね。
R:その種のことが行なわれているとは思いませんが、誤り、二重登録、生存者を死者として報告してしまうことを避ける方法はまったくないようです。いずれにしても、学術的観点からすると、このHall of Names(名前の殿堂)は、重要な資料ではありません。
L:ルドルフさんを納得させるためには、ヤド・ヴァシェムはどのような基準を作らなくてはなりませんか?
R:まず、当該地域に問題の人物が実在していたこと、次に、この人物がホロコーストの結果殺されたことを証明するような資料が必要です。ヤド・ヴァシェムはこのような資料を請求しなくてはならないでしょう。
L:犠牲者の死の多くが、記録されもせず、死亡証明書も与えられず、焼却されるか放置された名もない死であることを考慮すると、ルドルフさんは少々無理なことを要求しているのではないでしょうか?
R:そうかもしれませんし、この種のジレンマがあることも十分承知しています。しかし、反面、誠実に振る舞っているかどうか分からない人物からの情報、犠牲者とされている人々の運命についてまったく知らないかもしれない人物からの情報を額面どおり受け取ってしまうことは、学術的アプローチとはいえません。
ドイツのアロルセンにある国際赤十字委員会追跡委員会は、まったく別のやり方で作業を進めています。ドイツの収容所での死亡は、それが疑問の余地のない資料によって確証された場合にはじめて登録されるのです。
L:では、赤十字はどれほどの犠牲者があったという結論に達しているのですか?
R:1993年まで、アロルセンは、調査請求があれば、ドイツの収容所での登録された死者リストを返送していました。強い批判を受けたあと、このやり方を止めました。
L:どうして批判されたのですか?
R:表3の数字を見てください。宗派にかかわらず、囚人の死亡者の合計は30万人ほどになっています。
表3:公式に証明されたドイツの強制収容所での死者の数[22] |
|
アウシュヴィッツ ベルゲン・ベルゼン ブッヘンヴァルト ダッハウ フロッセンビュルク グロース・ローゼン マイダネク マウトハウゼン ミッテルバウ ナチヴァイラー ノイエンガムメ ラーフェンスブリュック ザクセンハウゼン シュトゥットホフ テレジエンシュタット その他 |
60056 6853 20678 18456 18334 10951 8831 78859 7468 4431 5785 3639 5014 12634 29375 4704 |
合計 |
296077 |
L:アウシュヴィッツの犠牲者はわずか6万なのですね。そして、合計も30万人にすぎないのですね。これが真実に近ければ、まったくセンセーショナルでしょう!
R:ドイツでこのような数字をあげれば、センセーショナルどころか、スキャンダルひいては犯罪とみなされてしまいます。赤十字もこの理由から批判されたのです。しかし、結論を急ぐ前に、ドイツの収容所のオリジナル資料から直接・間接に作成された死者の数をリストアップしている表4を見てみましょう。
表4:第三帝国のさまざまな収容所における、文書資料にもとづく犠牲者数 |
||
現存の収容所資料によるデータ[23] |
アロルセン1993年 |
|
アウシュヴィッツ ブッヘンヴァルト ダッハウ マイダネク マウトハウゼン ザクセンハウゼン シュトゥットホフ |
135500 33462 27839 42200 86195 20575 26100 |
60056 20687 18456 8831 78859 5014 12634 |
合計 |
371871 |
204537 |
R:アロルセンの数字は、収容所当局資料からのデータの55%にすぎないことがわかります。アロルセンが査定したすべての収容所に適用できる合計は50万の範囲内におさまることになります。
ただし、アロルセンのリストは収容所すべてをカバーしているわけではないことを忘れるべきではありません。ホロコースト正史によると、チェウムノ、ベウゼッツ、ソビボル、トレブリンカといった絶滅収容所いわれている収容所では、殺戮はまったく登録なく行なわれ、したがって、資料はまったく残っていないことになっています。これらの収容所が検討の対象となっていませんし、さまざまなゲットーもそうです。さらに、アウシュヴィッツでの非登録ユダヤ人の大量殺戮のデータが欠如しているのは、当然のことだともされています。さらに、ユダヤ人は犠牲者の中で最大の集団であったといわれていますが、ユダヤ人の正確な割合もわかっていません。
[1] Raul
Hilberg, The Destruction of the European Jews,
[2] Lucy Dawidowicz, The War Against the Jews,
[3] W.N. Sanning, The
Dissolution of Eastern European Jewry, Institute for Historical Review,
[4] W.
Benz, Dimension des Volkermords, Oldenbourg,
[5] Ibid., p. 558, note 396:「 この本の著者は、統計資料を不適切な方法で扱うこと、派手ではあるが間違った説と結論を出すことに秀でている。」しかし、こうした非難はまったく立証されていない。
[6] Germar Rudolf,
“Holocaust Victims: A Statistical Analysis,” in: Germar Rudolf, Dissecting
the Holocaust, 2nd ed., Theses & Dissertations Press, Chicago, IL,
2003, pp. 181-213 (www.vho.org/GB/Books/dth).
[7] Nikita Petrov,
“Veranderungstendenzen im Kaderbestand der Organe der sowjetischen
Staatssicherheit in der Stalin-Zeit,” Forum fur osteuropaische Ideen- und
Zeitgeschichte, 5(2) (2001) (www1.kueichstaett. de/ZIMOS/forum/docs/petrow.htm).
[8] Cf. primarily the
Jewish author Sonja Margolina, Das
Ende der Lugen, Siedler, Berlin 1992; also, much more scientific: Johannes
Rogalla von Bieberstein, Judischer
Bolschewismup. Mythos und Realitat, Edition Antaios, Dresden 2002; Alexander Solschenizyn,
200 Jahre zusammen, 2 vols., Herbig,
Munich 2003; cf. Wolfgang Strauss, “The End of the Legends,” TR 2(3) (2004), pp. 342-351; historically interesting:
Rudolf Kommos, Juden hinter Stalin:
Die Vormachtstellung judischer Kader in der Sowjetunion auf der Grundlage
amtlicher sowjetischer Quellen dargestellt, Nibelungen-Verl., Berlin/
Leipzig 1938; reprint: Verlag fur ganzheitliche Forschung und Kultur, Viol,
undated; see also Robert Wilton, The
Last Days of the Romanovs, George H. Doran, New York 1920 (reprint: Institute
for Historical Review, Newport Beach 1993; cf. Mark Weber, “The Jewish
Role in the Bolshevik Revolution and Russia’s Early
Soviet Regime,” JHR 14(1) (1994), pp.
4-14).
[9] Serge Klarsfeld, Le
Memorial de la Deportation des Juifs de France, Klarsfeld, Paris 1978; Engl.: Memorial
to the Jews deported from France 1942-1944, Beate Klarsfeld Foundation,
[10] W. Benz refers to
S. Klarsfeld, even though his number of victims is somewhat higher, Benz (ed.),
op. cit. (note 42), p. 127.
[11] Carl O. Nordling,
“What happened to the 75,000 Jews who were deported from
[12] Certain data taken
from the death books have been published: Staatliches Museum Auschwitz-Birkenau
(ed.), Die Sterbebucher von Auschwitz, Saur,
[13] Cf. E. Aynat, “Die
Sterbebucher von Auschwitz,” VffG 2(3) (1998), p. 188-197; cf. E. Aynat,
“Consideraciones sobre la deportacion de judios de Francia y Belgica al este de
Europa en 1942,” in E. Aynat, Estudios sobre el “Holocausto,”
[14] W.
Benz (ed.), op. cit. (note 42), p. 443.
[15] Ibid.,
p. 492f.
[16] Keesings Archiv
der Gegenwart, vol. 16/17, Rheinisch-westfalischesVerlagskontor, Essen
1948, p. 651, Item B of Feb. 15, 1946. The Allied occupation forces in postwar
years officially registered the weekly (!) arrival of up to 5,000 Polish-Jewish
emigrants in the western zones of occupation alone, W. Jacobmeyer, Vierteljahrshefte
fur Zeitgeschichte 25 (1977) p. 120-135, esp. p. 125.
[17] H.
Graml, Die Auswanderung der Juden aus Deutschland zwischen 1933 und 1939,
in Institut fur
Zeitgeschichte (ed.), Gutachten des Instituts
fur Zeitgeschichte, Vol. 1, Institut fur Zeitgeschichte,
1958, p. 80.
[18] W.N.
Sanning, op. cit. (note 41), pp. 39-46.
[22] Letter of the
[23] Jurgen Graf,
“National Socialist Concentration Camps: Legend and Reality,” in G. Rudolf
(ed.), op. cit. (note 44), pp. 283-309.