1.5 犠牲者の数はたとえ一人でも十分ではないのか?

L(聴衆):600万人という数字は人口調査のデータにもとづいている数字ではなく、神話的・象徴的な数字だと説明されましたね。しかし、この地域の政府が、ホロコーストでは600万人が殺されたという点で一致していたとすれば、それはまったく的外れであるとおっしゃるのですか?

R(ルドルフ):それでは、犠牲者の数について議論しましょう。

 

L:しかし、そんなことが重要なのでしょうか?もしも、100万のユダヤ人、たとえ10000人であっても、ユダヤ人が殺されたことが明らかとなったとすれば、それだけでも唾棄すべき犯罪ではないのでしょうか?

R:話を進めてみます。第三帝国時代の抑圧措置は、たとえ誰も殺してはいないとしても、法律的・道徳的観点からまったく認められるものではありません。しかし、道徳的観点から、統計学的分析、およびユダヤ人絶滅がどのように実行されたのかという問題を検証するのを否定することは、適切ではありません。三つの理由を挙げておきます。

@        犠牲者の数は問題ではないという観点は、犠牲者の数がなぜ数十年間も聖なる数字とみなされてきたのかをまったく説明していないからです。犠牲者の数が問題ではないとすれば、その数に疑問を呈することをタブーとしたり、いくつかのヨーロッパ諸国に見られるように、その数を法律で守る理由はまったくありません。600万人という数字の背後には、人々の個人的な運命の合計以上のものがあるのです。この数字に疑問を呈することはホロコーストのその他の局面に望ましからざる疑問の念を呼び起こしてしまうので、この数字は放棄してはならない象徴的数字となったのです600万人の犠牲者という数字に疑問を呈すると知的追放状態に置かれるか、ひいては法的訴追の対象となります。反面、この数字に対して的確な反論が登場すると、世間やひいては判事たちでさえも、数字に関する論争にかかわることを避けて、正確な数字は問題ではない、たとえ犠牲者が一人であってもそれは犯罪なのだと主張し始めるのです。まったく矛盾しています600万という数字は法律的な基準なのか、それともまったく重要ではない数字であるのか、その双方であることはできません。

A        一人の犠牲者であってもそれだけで十分であるという事実を強調することは道徳的観点からは有効かもしれませんが、この犯罪の科学的検証にはふさわしくありません。犠牲者の一人からその運命の悲劇性を取り上げてしまうことは不遜な作業かもしれませんが、科学の本質というものは正確な解答を探求することですので、テーマの量的な側面の分析を禁止してしまうことは、まったく適切ではありません。原子力発電機の冷却装置の能力を計算するにあたって、事故を防ぐ全体的な保護措置がとられていないのでそのような計算は役に立たないとの理由で、物理学者がその計算を行なうことを法的に禁止してしまうのは適切なことなのでしょうか。もしも、物理学者がこのような条件のもとで仕事をしなくてはならないとしたら、破局をもたらしてしまうような分析結果を遅かれ早かれ出してしまうことでしょう。もし歴史家が、彼らの分析結果ひいては疑問を呈して回答を求めたことが道徳に反するとみなされて、陶片追放ひいては刑事訴追の対象となるとすれば、既存の歴史叙述は歪曲されており、信頼できるものではないでしょう。私たちの歴史観は、私たちを統治している政治に直接の影響をおよぼしていますので、歪曲された歴史観は歪曲された政治を生み出します。どのような学問であっても、信頼すべき分析結果とデータを生み出すことが基本的な任務であり、その責任です。歴史学の分野において、科学と技術の分野で確立されている諸原則を放棄すべきではありません。もしそのようなことをすれば、私たちは知的分野では中世の暗黒時代に戻ってしまうことになります。

B        一人の犠牲者であってもそれだけで十分であるという道徳的に正当化された議論を利用して、犯罪の検証、とくに道徳的腐敗が比類ないものとされている犯罪の検証を妨害することはできません。比類ない犯罪とされている犯罪こそ、実際に何が起こったのかをほかの犯罪と同様な分析方法で分析することが必要なのです。つまり、この犯罪が比類ないものであると仮定している人々は、その比類のなさを認める前に、この犯罪を比類なく詳しく分析しなくてはならないのです。しかし、この比類のないとされる犯罪を道徳的憤激という保護シールドで覆ってしまうとすれば、そのことで、比類のない犯罪、すなわち、このような奇怪な告発に対する弁護活動をすべて否定するという犯罪を犯すことになるのです

 

L:戦後にドイツやその他の諸国で行なわれた数多くのホロコースト裁判では、被告人たちは適切な弁護活動を受けることができなかったということですね。この裁判の結果宣告された判決は、普通の法廷でならば享受できる様な法的な保護を、ホロコースト裁判での被告人たちは享受できなかった結果なのでしょうか?

R:この問題についてはあとで触れることにします。ここで申し上げておきたいのは、歴史学の分野でも、新しい証拠がどちらの政治勢力を利するかどうかという点にはまったく関係なく、新しい証拠を提出する権利を認めるべきであるということです。新しい証拠や新しい解釈を提起したとの理由で、社会から放逐したり、刑事訴追の対象とすべきではありません。そんなことをすれば、疑問を呈し回答を自由に探求するという人間の権利にもとづく学問の自由を否定することになります。

 

目次へ

前節へ

次節へ