2.4 ダッハウについて明らかなこと
R(ルドルフ):ソ連によるザクセンハウゼンのガス室宣伝は、アメリカによるダッハウのガス室宣伝に刺激を受けています。ですから、今日でも、殺人ガス室が展示されているダッハウについて考察しましょう。少し前まで、博物館当局は、「ガス室」の中に、数ヶ国語で次のように書かれている展示板を立てていました。
「『シャワー室』に偽装されたガス室は、ガス室としては使われたことがなかった。」
1960年代から1990年代まで、ダッハウ博物館長[1]、ダッハウ強制収容所囚人連合[2]といった権威のある当局がこの見解を支持していました。
L(聴衆):誰が、これらを権威のあるものとみなしたのですか? またそれはなぜですか?
R:世論です。
L:しかし、そのことは、彼らの主張が正しいということを保証しているわけではありません。主張の正しさを保証するのは、公的に与えられた権威ではなく、主張自体の正確さおよび信憑性です。
R:よくわかっていますが、私がこれらを引用しているのは、この主張が正しいことを証明している証拠としてではなく、広く世論に受け入れられていることを示す典拠資料としてです。事実関係に話を戻します。その後、ダッハウ博物館は、ダッハウの「ガス室」にあったこの展示板を取り除き、ガス処刑がここで行なわれたと主張する展示板に取り換えました。
L:当局が主張していることがたがいに矛盾しているわけですね。だとすると、どちらのほうを信じたらよいのでしょうか? ここがガス室であるという主張には、信憑性があるのでしょうか?
R:ダッハウ収容所にガス室が存在すると最初に主張され始めたのは、アメリカ軍が収容所を解放した直後です。1945年5月7日、David Chavezを長とする合衆国調査チームがこの「ガス室」のことを記しています[3]。
ガス室についての告発は、1945年末にダッハウで開かれた40人の被告に対する合衆国裁判を準備した予備審問調査の過程でもしばしば登場していますが、裁判そのものには登場していません[4]。しかし、ガス室の話は、アイゼンハウアーの命令で上記のChavez調査チーム報告のリライトが命じられるとともに、1946年のニュルンベルク国際軍事法廷にふたたび登場します[5]。チェコ人医師のフランツ・ブラハ博士の証言もガス室の話を支持しました。ダッハウに収容されていた彼は、ダッハウで殺人ガス処刑が行なわれたと裁判中に主張した唯一の証人でした[6]。ブラハ博士がニュルンベルク裁判で証言したとき、弁護側は彼に対する詳しい反対尋問をしようとしましたが、法廷はその機会を奪いました[7]。
L:反対尋問は行なわれなかったのですか?
R:少なくとも、ブラハ博士のガス室物語については行なわれませんでした。この話に関する彼の主張は、論争の対象とはなりませんでした。
L:ニュルンベルク国際軍事法廷は、証人をまごつかせる恐れがある場合には、証人尋問を省くことができたのですか?
R:そのとおりです。戦後の戦争犯罪裁判の証拠採用規則がいかに奇妙であったのかについては、あとで検討しましょう。ここでは、一部のホロコースト正史派の研究書が、ガス室の建設に従事したダッハウの囚人が、3年以上も仕事を引き伸ばすことによって、終戦までガス室の完成を妨害したと考えていることを指摘しておくべきだと思います。
L:囚人たちは、自分たちが何を建設しているのか、どのようにして知ることができたのですか?
R:これがガス室であるとしたら、SS隊員が囚人たちに暴露するはずがありません。ですから、噂にすぎないと思いますが、その噂も虚偽の噂であったのです。
L:囚人たちが3年間も建物の完成を遅らせることに成功したとすれば、ダッハウは、囚人たちが処罰もされずにサボることのできるホリデイ・キャンプであったことを証明していませんか?
R:注意してください!そのような憶測をすると、刑事訴追の対象となってしまいます。ダッハウには、今日まで保存されている、旧ドイツ帝国領内唯一のガス室があります。ですから、この「ガス室」に関する詳細な、ひいては法医学的な調査をすることができるのです。
L:何を意味しているのですか?
R:そのような調査を行なうことで、凶器として使われた施設を技術的に検証することができるということです。二つの質問を提起しておきます。現存の空間で、証人たちが証言しているような目的を果たすことができたのでしょうか? もし答えがイエスならば、この凶器が目撃証言のように使われたことを証明する痕跡が存在するのでしょうか? さらに、この凶器はオリジナルの状態のまま残っているのか、それとも1945年4月以降に改築が行なわれたのかどうか、このような質問を提起しておきます。
こうした質問との関連で、以下のことを指摘しておきます。
リライトされたChavez報告は、「ガス室」のことを次のように記しています。広さは6m×6m、天井の高さは3m。ガスが注入される、外壁の二つのバルブとつながっているパイプを介して、青銅のシャワーヘッドからガスが入ってくる、と。
L:ちょっと待ってください。その記述は今日のダッハウの「ガス室」の様子とはまったく異なっています。今日では、外壁に2つのハッチが開けられており、そこからチクロンBが投入されたことになっています。ガスをパイプに注入するバルブのようなものはまったくありません。
R:そのとおりです。優れた犯罪捜査官のようです。でも、事実を分析する前に、私の話を終わらせてください。
合衆国第三軍司令部「Enemy Equipment Intelligence Service Team Number 1」報告にはこうあります[8]。
「上記の尋問、およびダッハウのガス室(使われたことはなかったにちがいない)の実況見分にもとづいて、ガス室は処刑目的用には失敗作であり、実験的な作業もそこでは行なわれなかったというのが、下記に署名している人物の見解である。連合国が、マラリア、空気圧力、冷水実験についてのはるかに信頼できる情報を囚人たちから入手しているという事実を考慮すると、もしもガスの実験が行なわれていたとすれば、同じように信頼できる情報を入手することができたというように考えるのが妥当であろう」
ここで述べられていることは、今日では見過ごされがちです。周知のように、ダッハウでは、戦争遂行に重要な医学実験が、上部機関の命令にもとづいて、囚人たちに対して行なわれていました。例えば、危険な疫病用のワクチンの開発、打ち落とされた飛行機のパイロットが高高度の低圧に何時間もさらされた場合の生き残り策、沈没した船の水平が冷水に何時間も使っていた場合の生き残り策などです。
L:このような犯罪は行なわれなかったというのですか?
R:いいえ。歪曲・誇張されているとは思いますが、このような実験は行なわれたと思いますし、道徳的にほとんど正当化できないと思います。
L:「ほとんど」とはどのような意味ですか?
R:道徳的なボーダーラインをどこに引くのかという問題とかかわってきます。例えば、法の支配の下の裁判で死刑判決を受けた囚人が、処刑を選択するか、それともこのような実験の実験台となるのかを選択する場合です。もし生き残れば、赦免されるのです。これが、少なくとも当初は、普通のやり方でした。もちろん、第三帝国の医師たちが、問題の囚人が法的に正当な死刑判決を受けているのか、自発的に実験台となることを志願しているのか、この点をどのようにして知ることができたのかという問題は残ります。この当時、チフスで志望する人々は非常に多かったのですが、チフスに対するワクチンを開発するために、何名かの人命を犠牲にすることは倫理的に正当化できるかもしれない、という議論の是非問題もあります。
ドイツ人医師の行為は戦後、合衆国軍事法廷で処罰されました。その判決は、この当時の感情と宣伝に毒された雰囲気にもとづいており、まったく公平・誠実なものではありませんでした。あとで、これらの裁判について詳しく分析することとします。ですから、これらの裁判で「証明」されているから今日でも「証明」されているとみなされていることすべてが、真実であるとは限らないのです。しかし、このことは、この種の実験が行なわれたという事実を変えているわけではありません。上記の報告は、人体実験に関する幅広い、そして、核心の面では矛盾していない目撃証言が存在しているだけではなく、これらの実験の事実を確証する数多くの文書資料が存在すると示唆しています。しかし、このことは、ダッハウの「ガス室」とその使用問題とはまったく別のことです。
証拠に戻りますと、ニュルンベルク裁判で上映された宣伝フィルムはこう述べています[9]。
「ダッハウ――恐怖の工場。[ . . . ] 整然とぶら下がっているのは、殺人ガス室で窒息死させられた囚人の服である。彼らは、タオルと石鹸を渡され、これからシャワーを浴びるとの口実で、服を脱ぐように説得された。これがBrausebad、すなわちシャワー室である。シャワー室の中には、ガス口がある。天井には、偽のシャワーヘッドがある。技師室には吸気パイプと排出パイプがある。ガスの出入をコントロールするにはボタンを押す。圧力調整のための手動バルブ。シアン化合物の粉が、致死性ガスを放出するために使われる。死体はガス室から取り除かれて、焼却棟に運ばれる。」
L:これも、前に引用した、調査委員会による文書と同じ内容です。相互に補完しているように見えます。
R:こうした事態すべてを説明する資料があります。「偽ガス室」というタイトルのCommon Sense (New Jersey, USA), 1 June 1962, p. 2からの記事です[10]。
「収容所はガス室を備えていなくてはならなかった。しかし、存在していなかったので、シャワー室をそのように見せかけることが決定された。ストラウス大尉(合衆国陸軍)と彼の囚人がこの作業に取り掛かった。以前には、シャワー室には、約4フィートの高さに敷石が置かれていた。隣の乾燥室にあった同じような敷石が取り外されて、シャワー室の敷石の上に置かれ、新しい天井が、この敷石の2列目の上に、鉄の漏斗(ガス取り入れ口)をつけて、作られた。」
L:何と! ダッハウのアメリカ人はザクセンハウゼンのロシア人を真似したのですね?
R:時系列からいえば、逆です。
調査活動をもっと進めましょう。論点をいくつか挙げておきます。
1.
「殺人ガス室」が存在しているとされるダッハウの建物には、いくつかの近代的な循環様式のチクロンB害虫駆除室[11]と2つの焼却炉があります。それゆえ、この建物はダッハウ収容所の新しい衛生・保健施設で、その中では、囚人の衣服の害虫駆除が行なわれ、囚人自身がシャワーを浴びていました。囚人の害虫駆除のプロセスは普通こうでした。囚人はある部屋で服を脱ぎます。服は害虫駆除室へ、囚人はシャワー室に送られます。囚人は新しい服を受け取るために、そこから別の部屋、普通は脱衣室の反対側にある部屋に入ります。脱衣室と着衣室を分けてあるのは、入浴したばかりの囚人にシラミがふたたび取り付くのを防ぐ衛生・保健目的のためです。ダッハウの衛生・保健建物のレイアウトによると、シャワー室と名づけられている「ガス室」は、脱衣室と着衣室のあいだにあり、それ以外のシャワー室は存在しないので、文字通りシャワー室として機能したに違いありません。ここで質問です。もしこの部屋が偽シャワーを持つ殺人ガス室であったとすると、シャワー室はどこにあったのでしょうか? もし、シャワー室がなかったとすると、害虫駆除室、脱衣室、着衣室は何のために存在していたのでしょうか? この部屋がシャワー室としてもガス室としても機能していたとすれば、技術的にはどのようにすれば可能なのでしょうか?
2.
今日のシャワー室の天井は高さ2.30mで、錫製のシャワーヘッドがついています。これは、戦後の合衆国委員会が発見した高さ3mの天井、青銅のシャワーヘッドとはまったく異なっています。また、ガスの注入・排出バルブ、ガスの量をコントロールするバルブやボタンもまったくありません。さらに、報告や引用したテキストは触れていませんが、部屋の外壁には2つのシャフトがあります。
3.
金属探知機を使ったところ、水道管は天井の上にあり、したがって、この部屋はシャワー室として機能していたことがあったことが明らかになっています。
4.
建物後ろ側の窓から眺めると、大きな温水ボイラーかスチーム装置があり、その厚い絶縁パイプは壁を通って、「ガス室」の上の知られていない空間に向かっています。
5.
ダッハウ博物館長をつとめたことのあるBarbara Distelの文通仲間によると、1960年代に衛生・保健会社が専門家報告を作成し、温水設備はいつでも稼働可能であるとの結論に達していたといいます[12]。博物館側がこのような専門家報告の存在を公的に認めようとしない、ひいてはその報告書にアクセスすることを許さないのであれば、このような専門家報告を再度作成することが可能かつ適切なのでないでしょうか。
6.
チクロンBガスをパイプやシャワーヘッドから送り出すことはできません。チクロンBから放出されるシアン化水素ガスは、圧力をかけられた状態ではガスにならないからです。それゆえ、毒ガスがパイプやシャワーヘッドから出てきたという調査委員会や目撃証人の話は虚偽なのです[13]。
L:あちこちで捏造の臭いがしますね!
R:そうですね、ここで論点をいくつかあげたのは、この問題でしっかりとした結論を出すには、どのような調査を行なわなくてはならないのかをまとめておくためです。戦争が終わってからかなりの年月がたちましたが、今日かで、この問題についてはまともな研究はありません。あったとしても公表されていません。しかし、戦争直後の公式の合衆国調査委員会の記述と現在の状態とは矛盾していること、すでにわかっている技術的事実、およびダッハウの衛生・保健施設の構造は、ダッハウの「ガス室」がアメリカ占領軍の捏造であるという予備的な結論に達する強力な証拠となっていると思います――私にとっては、十分に納得できる証拠です。
L:連合国側の資料、いわゆるLachout文書は旧ドイツ帝国領内にはガス室か存在しなかったと述べているのではないですか?
R:その文飾の作成者Emil
Lachoutは、連合軍占領当局の指示で作成したと述べています。しかし、修正主義的研究者が詳しく調査した結果、これは偽造文書ではないかといわれています[14]。
L:Emil Lachout自身は修正主義者ではないのですか?
R:彼は修正主義者の説を支持しています。
L:ということは、修正主義者が文書を偽造したのですか?
R:この文書が偽造であるかどうか、まだ定まっていません。しかし、偽造であることがわかったとしても、Lachout自身が偽造した人物であるということにはなりません。事実、彼は、自分のことを偽造者と呼んだ人物に対する名誉毀損裁判で、いくつか勝訴しています。
L:修正主義者がこの文書に関する論争を始めたのは、正史派の15年もあとのことですね![15]
R:いわゆる「Lachout文書」が何かを立証している証拠としてあげられている修正主義者の研究書があれば、それを見せてください[16]。学術研究としての修正主義は、もし誤りが発見された場合、それを取り除く道徳的強さを持っています。現代史の分野では、捏造事件はよく起ります。これについてもあとであつかいましょう。人間の本性からして、修正主義者の中にも黒い羊がいるのです。
私の知る限りでは、その後、連合国側がダッハウの「ガス室」の実在性に疑問を表明した唯一の事例は、合衆国陸軍兵士Stephen F. Pinterが合衆国の新聞Our Sunday Visitorの編集長にあてた私信です。同紙1959年6月14日号(15頁)に掲載された「ドイツの虐殺」という見出しの記事にこうあります。
「私は合衆国陸軍省弁護士として、戦後17ヶ月間、ダッハウにいた。そして、ダッハウにはガス室は存在しなかったということができる。」
L:でも、そのような手紙なら誰にも書けたに違いありません。
R:そうかもしれませんね。目撃証言は、私たちの知識を豊かにするには役に立ちません。ホロコースト生存者のMoshe Peerの「証言」はそのことをよくあらわしています。この人物はカナダの新聞The
Gazetteに掲載された1993年のインタビューの中で、ベルゲン・ベルゼンのガス室の中で、少なくとも6回のガス処刑を生き延びたと述べています[17]。
「Moshe Peerは、第二次世界大戦中、11歳の少年のときに、ベルゲン・ベルゼン強制収容所に収容され、少なくとも6回ガス室に送られた。そのつど彼は生き残ったが、ガス処刑された多くの女子供が死んでいくのを恐怖を抱きながら目撃した。今日まで、Peerは自分がどのように生き残ることができたのか知らない。」
もう一人のホロコースト生存者Elisa Springerは、戦後42年たってから出版された回想録の中で、ベルゲン・ベルゼンの「ガス室と炉[複数][18]」が稼働し始めたのは、ヨーゼフ・クラマーが収容所長になってからのことであったと述べています[19]。
L:ベルゲン・ベルゼンにはガス室があったのですか?
R:ベルゲン・ベルゼンにガス室はなかったという点では、今日の歴史学は意見の一致を見ています[20]。ベルゲン・ベルゼンにガス室があったと主張する歴史家、研究機関はありません。ですから、上記の証言は、300万から500万のホロコースト生存者が正常な人間であるという瑣末な事実を証明しているにすぎないのです。300万から500万人の中から、何人の病理学的な嘘つきを発見することができるでしょうか? もちろん、この質問は言葉のレトリックです。以上で、旧ドイツ帝国領内の「殺人ガス室」というテーマを終わりたいと思います[21]。
[1] Israel Gutman (ed.),
Encyclopedia of the Holocaust,
[2] Internationales
Dachau-Komitee, Konzentrationslager Dachau, 1933-1945, 5th ed., Comite
Internat. de Dachau, Brussel 1978, pp. 165.
[3] “Report of the
Atrocities Committed at
[4] First Dachau Trial
(Trial of Martin Gottfried Weiss and Thirty Nine Others, also known as “The
Trial of Martin Gottfried Weiss et al.,” Nov. 15 - Dec. 13, 1945, microfilm
M1174, National Archives. Cf. Carlos W. Porter, “The Gas Chamber at
[5] IMTdocument L-159
(PS-2430): Document no. 47 of the 79th Congress, 1st Session, Senate: “Report
of the Committee Requested by Gen. Dwight D. Eisenhower […] to the Congress of
the United States Relative to Atrocities and Other Conditions in Concentration
Camps in Germany, carried out by a Special Committee of Congress after visiting
the Concentration Camps at Buchenwald, Nordhausen, and Dachau,” May 15, 1945,
Exhibit no. USA-222, IMT, XXXVII, p. 621
[6] Document PS-3249,
January 9, 1946, IMT, vol. XXXII, pp. 62, also quoted in vol. V, pp.
173. E. Kogon et al., op. cit. (note 96), pp. 203f. Blaha also testified during
the
[7] IMT,
vol. V, pp. 194.
[8] Headquarters Third
[9] Document PS-2430:
Nazi Concentration and Prisoner-of-War Camps: A Documentary Motion Picture,
film shown at the Nuremberg Trial, November 29, 1945, IMT, vol. XXX, p.
470.
[11] “DEGESCH Kreislauf-Entwesungsanlagen,”
circulation disinfestation devices made by the German firm DEutsche
GEsellschaft fur SCHadlingsbekampfung (DEGESCH, German Society for Pest
Control).
[12] Private
communication by Anton Schimmelpfennig, who received this information from Mrs.
Barbara Distel verbally.
[13] Regarding the
properties of Zyklon B cf. Wolfgang Lambrecht, “Zyklon B – eine Erganzung,” VffG
1(1) (1997), pp. 2-5; see also Jurgen Kalthoff, Martin Werner, Die
Handler des Zyklon B, VSA-Verlag, Hamburg 1998.
[14] Cf.
Klaus Schwensen, “Zur Echtheit des Lachout-Dokuments,” VffG 8(2) (2004),
pp. 166-178.
[15] Brigitte
Bailer-Galanda, Wilhelm Lasek, Wolfgang Neugebauer, Gustav Spann, Das
Lachout- ”Dokument” – Anatomie einer Falschung, Verlag DOW, Vienna 1989;
Brigitte Bailer-Galanda, “Das sogenannte Lachout-’Dokument,’” in:
Dokumentationszentrum des osterr. Widerstandes (DOW), Bundesministerium fur
Unterricht und Kunst (ed.), Amoklauf gegen die Wirklichkeit. NS-Verbrechen
und revisionistische Geschichtsklitterung, 2nd ed., Verl. DOW,
[16] The Lachout
“document” was published and praised only in right-wing propaganda
publications: Walter Ochensberger (ed.), Sieg no. 11/12 (Nov./Dec.
1987), pp. 7-9; Gerd Honsik, “Regierungsbeauftragter bricht sein Schweigen –
Mauthausenbetrug amtsbekannt! Major Lachouts Dokument exklusiv im Halt,”
Halt no. 40,
[17] The
Gazette,
[18] ベルベン・ベルゼンには一つの炉しかなく、それはヨーゼフ・クラマーがこの収容所に転勤してくるかなり前から稼働していた。
[19] Elisa Springer, Il
silenzio dei vivi. All’ombra di
[20] Re. the history of
the
[21] Readers interested
in more details about this may consult the “Second Leuchter Report” in: Fred A.
Leuchter, Robert Faurisson, Germar Rudolf, op. cit. (note 115), pp. 118-179
(first published as The Second Leuchter Report, Samisdat Publishers,
Toronto 1990); see also JHR 10(3) (1990), pp. 261-322.(試訳:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/leuchter_02.htm)