試訳:民族社会主義ドイツの収容所の実像とガス室神話の起源

J. グラーフ

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:20071013

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Jürgen Graf, National Socialist Concentration Camps: Legend and Reality(民族社会主義ドイツの強制収容所:伝説と実像), Germar Rudolf (Ed.) Dissecting the Holocaust, The Growing Critique of 'Truth' and 'Memory', Theses & Dissertations Press, PO Box 257768, Chicago, IL 60625, August 2003を「民族社会主義ドイツの収容所の実像とガス室神話の起源」と題して試訳したものである(文中のマークは当研究会による)。

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

onlinehttp://www.vho.org/GB/Books/dth/fndGraf.html

[歴史的修正主義研究会による解題]

 戦時中の反ドイツ虐殺宣伝、戦後のホロコースト「絶滅収容所」物語は、強制収容所を民族社会主義ドイツの「悪行」の権化として喧伝してきたために、強制収容所のイメージは、その実像と大きくかけ離れたものとなっている。グラーフは、民族社会主義ドイツの強制収容所とは何であったのかを、歴史的パースペクティブの中で、文書資料にもとづいて客観的に考察している。なお、このグラーフ論文は、論集『ホロコーストの解剖』の新版(2003年度版)に新規収録された。

 

1.  出発点

 1945411日、アメリカ軍がブッヘンヴァルト強制収容所に入った。4日後、イギリス軍がベルゲン・ベルゼン強制収容所に到達した。それに続く数週間、英米軍は、ダッハウ(429日)、マウトハウゼン(55日)などの収容所を解放していった。戦勝国の兵士たちは、この強制収容所に入って、恐ろしい光景を目の当たりにした。ユダヤ系の歴史家W. ラカーはこの点を次のように記している[1]

 

415日、イギリス軍部隊は、当地のドイツ軍司令官との休戦交渉の後にベルゲン・ベルゼン強制収容所に入った。部隊を指揮していたテイラー大佐は、その公式報告書の中で、簡潔な表現を使って、収容所の最初の調査の様子をこう記している。

 

『われわれは、収容所のメインストリートを進んでいくと、囚人たちに大歓迎され、はじめて、囚人たちの様子を目の当たりにした。多くの人々が生ける骸骨に等しかった。男女とも通りの両側に、並んで横たわっていた。憔悴した表情のない顔をして、ゆっくりと、あてもなく這っている囚人もいた。』

 

 数万の死体、その多くはかなり腐敗の進んでいたが、たがいに重なり合うように積み重なっていた。」

 

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ベルゲン・ベルゼン収容所の大量埋葬地。おもに、終戦直前か直後にチフスによって死亡した囚人の死体であふれかえっている。イギリス軍が収容所を解放した後に撮影された写真。

 

 兵士たちのあとに、カメラマンやジャーナリストが大挙して押し寄せた。死体の山や歩く骸骨を写した恐ろしい写真が世界中にあふれかえった。アメリカ人は、悪の体現者――ドイツ諸市に対する野蛮なテロル爆撃など、どのような闘争手段を使っても戦うべき悪魔的な敵――と戦ってきたという、かねてから探し求められてきた証拠を、連合国側はついに発見したというのである。

 しかし、解放された民族社会主義ドイツの強制収容所での大量死はドイツ側の絶滅政策によるものではなく、疫病の蔓延によるものであると冷静に観察していた人物も、数少ないが、当初から存在していた。たとえば、シカゴの本部のあるJournal of the American Medical Associationは、1945519日に、こう伝えている[2]

 

「イギリス軍将校とドイツ軍将校の交渉によって、イギリス軍が、ツェレの北西数マイルのベルゼンにある大きな収容所――おもに政治犯6万人が収容されていた――の警備を、SSとドイツ国防軍から引き継いだ。収容所ではチフスが蔓延しており、非感染をチェックするまでは囚人を解放させないためであった。」

 

 しかし、理性の声は、メディアが行った虐殺宣伝の渦の中に沈んでしまった。収容所解放以降の数ヶ月、ドイツの虐殺行為を喧伝する組織・団体はフル稼働となり、新聞には、民族社会主義ドイツの強制収容所で絶滅されたとされる途方もない犠牲者数が躍った

 たとえば、スイスの新聞は19458月にこう絶叫している[3]

 

「ヒトラーのドイツ、世界を驚愕させる。2600万人がドイツの強制収容所で殺された!」

 

 ニュルンベルク裁判の検事たちは、これほどの数字を唱えるまでには至らなかったが、彼らなりの最善の努力は行なっている。ソ連検事は、アウシュヴィッツでは400万人[4]、マイダネクでは150万人[5]が殺され、ザクセンハウゼンでは84万人のソ連軍捕虜が殺され、その死体は4つの可動式焼却棟で焼却されたと主張した[6]

 ニュルンベルク裁判でのイギリス首席検事ショークロス卿は、次のような言葉で敗戦国ドイツに対する告発をまとめた[7]

 

「殺戮は大量生産産業様式で行われ、アウシュヴィッツ、ダッハウ、トレブリンカ、ブッヘンヴァルト、マウトハウゼン、マイダネク、オラニエンブルクのガス室と炉が使われた。」

 

 修正主義者シュテークリヒは、この問題の核心をこうまとめている[8]

 

[終戦直後]、第三帝国指導部が命じたユダヤ人の物理的絶滅という意味合いで、『ユダヤ人問題の最終解決』が話題となるときには、いつでも、個々の強制収容所のあいだにはまったく差異がなかった。すべての強制収容所は、チクロンBや一酸化炭素を使ってユダヤ人を殺戮した一つかそれ以上のガス室を備えていたとみなされたがゆえに、すべての収容所がこの醜悪な殺戮計画のために利用されたとみなされたし、そのように説明された。」

 

 一般人の大半にとっては、シュテークリヒの言葉を借りれば、今日でも、「個々の強制収容所あいだにはまったく差異がない。」平均的な市民は、ユダヤ人その他の囚人たちがダッハウ、ベルゲン・ベルゼン、ブッヘンヴァルトでガス処刑されたと信じている。こうした事態になってしまったのは、ひとえに、疫病の犠牲者(ユダヤ人と非ユダヤ人)の写真が、「ユダヤ人の組織的絶滅」の「証拠」として、繰り返し、テレビや出版物に登場しているためである。さらに、恥じ知らずなことに、メディアは戦後半世紀たっても、西部地区強制収容所でのガス処刑の記事を掲載し続けている。たとえば、カナダの新聞は、1993年に、子供の頃ベルゲン・ベルゼンで少なくとも6回のガス処刑を生き延びたというMoshe Peerなる人物の話を紹介している[9]

 

「彼は、多くの女子供がガス処刑されて死んでいく恐ろしい光景を目の当たりにしながら、そのつど生き残った。今日まで、Peerは、自分がどうして生き延びることができたのかわからない。」

 

 別の「ホロコースト生存者」Elisa Springerは、戦後42年(!)に発表した回想録の中で、ベルゲン・ベルゼンでは「ガス室と炉[複数形][10]」が、ヨーゼフ・クラマーが所長となってから稼働し始めたと述べている[11]

 メディアは、今日でも、この種のホラー物語をばらまいている。しかし、誠実な歴史家であれば、西部地区収容所の目的が意図的な大量絶滅の実行であるという伝説は、事実にまったく反しているがゆえに、もはや検証に耐えることができないことを自覚している。ラカーは、ベルゲン・ベルゼンに関する項目への補足の冒頭でこう述べている[12]

 

「ベルゼンのケースは特筆に値する。全世界がはじめて絶滅収容所の存在を耳にしてから、3年がたっていた。これらの収容所の名前、所在地、ここで殺された数百万の人々についての詳しい報告が登場していた。収容所長の名前さえも知られていた。…逆説的ではあるが、ベルゼンは、それ自身は絶滅収容所ではなかったにもかかわらず、激烈な憤激の波を呼び起こしてしまった。」

 

 事実、正史派の歴史家たち、すなわち、ユダヤ人の物理的絶滅が行われたという告発を擁護している歴史家たちも、終戦直後から、ベルゲン・ベルゼンその他の西部地区強制収容所での大量絶滅説を放棄していた。今日では、これらの収容所では、小規模かつ非組織的なガス処刑が行われたと主張する歴史家が存在するが、彼らを除けば、西部地区収容所でのガス処刑に触れる歴史家は誰もいない(第5節参照)。

 もちろん、このことは、数百万人――大半がユダヤ人――がドイツの強制収容所で殺されたという告発が放棄されたことを意味しているわけではない。戦勝国およびそれに追従する一部のドイツ人は、「世界史上独自の犯罪」の咎で、カインの刻印を敗戦国民に押すために、ドイツ国民の道徳心・自尊心を恒久に打ち砕くために、反ドイツ的な虐殺物語キャンペーンを続けてはいるが、大量殺戮現場を、西側の人々のアクセスし難い、鉄のカーテンの向こう側の地点に移した。その結果、今日よく知られているところの「ホロコースト」バージョンがしだいにつくり出されていった。このバージョンによると、民族社会主義ドイツの強制収容所は3つのカテゴリーに分けられるという。

 

<「通常の」強制収容所>、すなわち、労働収容所。ここでは、処刑――小規模なガス処刑も行われたという説もある――も行われたが、犠牲者の大半は、「自然」死、とくに、疫病と消耗から死亡した。

<アウシュヴィッツとマイダネク>、この収容所は労働収容所としても、絶滅収容所としても使われたという。労働可能なユダヤ人は奴隷労働力として、労働不可能なユダヤ人は意図的に殺されたという。

<純粋絶滅収容所>、すなわち、トレブリンカ、ソビボル、ベウゼッツ、ヘウムノは、もっぱらユダヤ人の大量絶滅の実行という目的のために設立されたという。これらの収容所では、収容所の稼働に必要な少数の「労働ユダヤ人」以外のユダヤ人はすべて、年齢、健康状態に関係なく、登録もされずにガス処刑されたという。

 今日でも、正史派の「ホロコースト」文献の大半は、民族社会主義ドイツの強制収容所をこのように分類しているからといって、このような分類がまったく恣意的であり、いかなる文書資料にももとづいていないという事実を隠すことは許されるべきではない。アウシュヴィッツとマイダネク(ルブリン)に関する戦時中のドイツ側文書はすべて、たとえば、ダッハウ、ブッヘンヴァルト、ザクセンハウゼンとまったく同じように、アウシュヴィッツとマイダネクをたんに「強制収容所」と呼んでいる。後述するように、アウシュヴィッツとマイダネクは他の収容所と同じ規則で運営されているし、高い死亡率の理由も同じであった

 いわゆる「純粋絶滅収容所」についての事情は異なる。本小論では、この点について二、三コメントするにとどめる。まず、トレブリンカ、ソビボル、ベウゼッツ、ヘウムノは強制収容所ではなかった。この4つの収容所に関して、残っている文書資料はごく少なく、物的証拠はまったくない。これらの収容所で、大量絶滅計画が実行されたことを示す証拠はまったくない。絶滅が行われたという告発は、もっぱら信用できない「目撃」証言にもとづいているだけである。限られた文書資料と、数多くのその他の証拠にもとづけば、トレブリンカとソビボルは通過収容所であったと推論できる。これらの収容所を経由して、さらに東方に――占領ソ連地区――に移送されたユダヤ人もいれば、さまざまな労働収容所に移送されたユダヤ人もいた[13]。ベウゼッツもやはり通過収容所であったと推測される[14]。ヘウムノについては、皆目わからない。これらの4つの収容所は本小論のテーマではないので、これ以上扱わない。

 他の収容所に関して、われわれは、民族社会主義ドイツの強制収容所についての多くの神話と、文書資料にもとづく事実を比較するという作業に取り組んできた。長い期間をかけて培われてきた先入観を打ち壊すには、やはり、長い期間がかかるに違いない。

 

1.  民族社会主義ドイツの収容所システムの発展と機能

2.1.先例と類似システム

 アレクサンドル・ソルジェニーツィンの『収容所群島』が明らかにしたために、強制収容所システムを発明したのはドイツ人ではないという事実は、よく知られるようになった。しかし、それを発明したのは、全体主義的なソ連システムでもない。多くの民主主義諸国も、戦争捕虜、忠誠を誓わない民間人、嫌われている少数民族を同じような収容所に収容している。以下に紹介するのは、比較的よく知られている大きな事例にすぎない。

 アメリカの南北戦争時代、北部も南部も、戦争捕虜と敵性市民用の強制収容所を保持した。これらの囚人のかなりの割合が、おもに疫病によって死亡した。キャンプ・ダグラス・ロックアイランド北部囚人収容所では、死亡率は2%から4%であった。アンダーソンヴィル南部囚人収容所では、52000人南部連盟囚人のうち13000人が死亡した。すなわち、死亡率25%だった[15]。後述するように、アンダーソンヴィルの死亡率は、パーセンテージでいえば、多くの民族社会主義ドイツの強制収容所の死亡率に匹敵した。

 第二次ボーア戦争(1900-1902)のとき、イギリスはボーア領に40ほどの収容所を建設し、115000名の民間ボーア人を収容した。うち、26251人の女子供が死亡した。死亡率25%であった[16]

 第二次世界大戦中、合衆国政府は、数多くのドイツ系アメリカ人[17]と、合衆国にすむほぼすべての日系人――アメリカ市民権をもつものも含む――[18]を、日系アメリカ人による破壊活動やサボタージュ事件が一件もなかったにもかかわらず、強制収容所に収容することを命じた。やはり、第二次世界大戦中、民族社会主義政府は数多くのユダヤ人を収容した。この措置は法的に正当化できないにせよ、少なくとも、それだけの理由は存在した。すなわち、当然のことではあるが、ドイツ占領地域のレジスタンス運動やパルチザン運動のかなりの部分を担っていたのがユダヤ人であったからである[19]

 

2.2.戦前の民族社会主義ドイツの強制収容所

 ヒトラーが1933130日に権力と握るとすぐに、パーパンブルクやエステルヴェーゲンのような有名な「Moor camps」を含む拘禁収容所が設立され、頑強な政治的反対派を無力化するために利用された。最初の強制収容所は、1933年に開設されたミュンヘン近郊のダッハウ収容所であった。それから、開戦までに、5つの収容所が加わった(ザクセンハウゼン、ブッヘンヴァルト、マイトハウゼン、フロッセンビュルク、ラーフェンスブリュック)。

 収容所の囚人数は193310月時点では27000人にまで達していたが、その後、政治情勢が急速に安定したために、19342月までには、7000人に減り[20]、その後は、政治犯に加えて、常習犯や反社会分子(浮浪者や乞食など)も収容されたにもかかわらず、数は安定していた。ユダヤ系歴史家Arno Mayerは、1937年夏の時点の強制収容所囚人数を7500人と見積もっている[21]。別のユダヤ系歴史家Joseph Billigは、この時期の死者の数は非常に少なかったと強調している[22]

 

「この体制の初期、ナチの指導者は囚人の死亡に困惑していた。彼らは世論を考慮しなくてはならなかったので、死者が増えることを認めることはできなかった。したがって、[囚人の数]が一定していたのは、釈放された者の数と新しく収容された者の数が拮抗していたためであった。このために、収容所人口の合計はいつも一定であった。」

 

 1938年、国際赤十字代表でスイスの地区長J.-C. Favezがダッハウ収容所を視察した。その最終報告にはこうある[23]

 

「収容所には6000人以上の囚人がいる。…宿舎の状況:しっかりとした建物、十分な照明と換気をそなえたバラック。…各バラックには、近代的で清潔な便所があり、さらに、洗濯桶がある。…夏期の労働は午前711時、午後16時、冬期の労働は午前811時、午後15時。土曜日の午後と日曜日は休業。…食糧配給:食事は非常に清潔な厨房で調理される。食事はシンプルであるが、日替わりであり、質量ともに十分である。…囚人は1週間当たり15マルクを親戚から送ってもらい、自分のために使うことを許されている。…囚人は、1週間に1通の封書か葉書を家族から受け取ったり、送ることを、もちろん、交互にではあるが、許されている。しかし、規則は厳格である。看守と衛兵は、逃亡事件においては、武器の使用をためらわない。…独房への拘禁は、照明十分の地下室で行われる。…棍棒による殴打も非常の場合の処罰として適用される。この処罰の適用は、きわめて例外的なケースだけのようである。…この処罰は非常な苦痛を伴うものであり、囚人たちはひどく恐れている。…看守=衛兵が囚人を恣意的に殴った場合には、厳罰に処せられ、SSから追放される。…囚人の取り扱いは、もちろん、きわめて厳しいものであるが、非人道的と呼べるようなものではない。とくに、病人は、親切かつ理解のある態度で扱われ、適切な専門治療がほどこされている。」

 

 1938年まで、ユダヤ人が収容されるのは、民族社会主義体制に対する政治的な敵(もしくは犯罪者)である場合だけであった。パリでドイツの外交官が暗殺され、193811月にいわゆる「水晶の夜」事件が起こった後に、30000人ほどのユダヤ人が収容されたが、そのほとんどはすぐに釈放された。

 1939年の開戦前の数年間、囚人の数と死者の数も増え続けた。ブッヘンヴァルトでは、1937年には47人が死んだ。1938年には、その数は771人に増え、1939年には1235人にまで達した[24]。ザクセンハウゼンの死者は1936年に6人、1937年に38人、1938年に229人であった[25]

 

2.3.戦時中の強制収容所の機能

 開戦後すみやかに、アルザスのナチヴァイラーからポーランドのルブリン市近郊のマイダネクなど、新しい強制収容所が数多く設立され、囚人の数も劇的に増えた。囚人数は19429月までに11万人、19438月までに225000人、19448月までに524000人にまで増えた[26]。その数の頂点は、1945年初頭で、すべての強制収容所で合計635586人であった[27]。すべての強制収容所には付属衛星収容所のネットワークがあった(ほぼ100)。総督府、すなわち占領下のポーランドでは、公式の強制収容所システムと並行して、囚人たち――大半がユダヤ人――が強制労働に従事する数多くの労働収容所が設立された[28]

 強制収容所システムが急速に発達した要因の一つは、とくにドイツ占領地域でのレジスタンス運動の広がりであった。ポーランドの研究書はこの点をこう述べている[29]

 

1942年初頭から、パルチザン運動も進展し始め、1944年までには、約20000名の武装した兵士たちが数十の地下部隊の中で戦闘に従事するようになった。…占領軍は、レジスタンス運動に対する戦いの中でドラスティックな措置を取るようになったが(報復、村の焼き打ち、処刑、移送など)、鎮圧することはできなかった。この点については、ドイツ側資料によると、19427月から194312月の期間、[ルブリン]地区で、少なくとも27250回の襲撃が行われ、何度かの大きなパルチザン戦争が起こったこと、…1944年の最初の数カ月だけで、254両の列車が脱線・爆破され、116の鉄道駅と施設が襲撃され、19の移送部隊が襲撃されたことを指摘しておけば十分であろう。」

 

 どのような占領当局であっても、このような事態を放置できない。パルチザン運動がテロ巣戦術をとったために、ドイツ側も厳しい報復措置を取らざるをえなかった。収容所の設立は、鎮圧措置のおもな道具となった。

 さらに、強制収容所システムが膨張していった要因の一つとして、労働力が不足していたことがあげられる。ドイツ人兵役適格者のほぼ全員が前線にいたとき、強制収容所システムは、とりわけ軍需産業の面では、非常に大きな経済的意味をもつようになっていった。数多くのドイツ側資料がこの事実を明らかにしている。以下に紹介するのは、とくに重要な数例である。

 

いまも根強い歴史的神話[30]によると、ユダヤ人の物理的絶滅命令が下されたというヴァンゼー会議の5日後の1942年1月25日、ヒムラーは強制収容所の監督官リヒャルト・グリュックスに次のように書いている[31]

 

 

「次の数週間で、強制収容所に10万のユダヤ人男性と5万までのユダヤ人女性の導入を準備すること。強制収容所は、次の数週間で、大きな経済的任務を遂行することを求められるであろう。」

 

1942年4月30日、SS経済管理中央本部[32]長オズヴァルト・ポールは、ヒムラーにこう報告している[33]

 

「戦争は強制収容所の仕組みを決定的に変えてきており、囚人の配分に関する収容所の責任を本質的に変えてしまった。治安維持、再教育、予防措置を目的とする囚人の収容はもはや第一義的ではない。焦点は経済的な側面に移った。まず戦争目的のための(兵器産業)、ついで平時の目的のためのすべての囚人労働力の利用が、第一義的となってきている。これを実現するには、強制収容所を、初期の一面的な政治的形態から、経済的な必要に合わせた組織に徐々に変えていかなくてはならない。」

 

 1942821日、外務省のマルチン・ルターは民族社会主義ドイツのユダヤ政策をこうまとめている[34]

 

「権力奪取後のドイツのユダヤ人政策の原則は、あらゆる手段をつかってユダヤ人の移住を促進することにあった。現在の戦争は、ヨーロッパでのユダヤ人問題を解決する機会と義務とをドイツに提供している。…言及されている総統の指示[ヨーロッパからすべてのユダヤ人を排除せよという19408月 のヒトラーの決定]にもとづいて、ドイツからのユダヤ人の移送が始まった。同時に、ユダヤ人に対する措置を取っている諸国の国民であるユダヤ人も移送されるべきであると論じられた。…東部地区に移送されたユダヤ人の数は、当地での労働力の需要を満足させるには十分ではなかった。」

 

 収容所での非常に高い死亡率――おもに疫病の流行が原因であるが、劣悪な食料や衣服も原因であった(第4節参照)――は、当然のことながら、収容所の経済的効率に悪影響をもたらした。19421228日、強制収容所監督官グリュックスは 19 の収容所の所長に次のような指令を出している[35]

 

「収容所の医師団は、自分たちの持っているあらゆる手段を使って、収容所での死亡率がかなり低くなるようにするであろう。…収容所の医師は、以前よりも注意深く、囚人の栄養状態に配慮し、収容所長の行政的措置に対応しながら、改善策を提案すべきである。こうしたことは、紙の上だけではなく、収容所の医師団によって定期的に監察されるべきである。… SS全国指導者は、収容所の死亡率を是が非でも低くするように命令している。 」

 

 これらの指示によって、具体的な成果がもたらされた。8ヶ月で、収容所の死亡率はほぼ80%も下がったのである[36]

 19431026日、SS経済管理中央本部長オズヴァルト・ポールはすべての強制収容所長に次のような回覧状を送っている[37]

 

「ドイツの軍需産業の分野では、過去2年間に実行された改善努力のおかげで、強制収容所は戦争の中で決定的に重要となった。われわれは無から、比類の無い兵器工場を建設してきた。今、われわれは 全力を傾けて、すでに達成されている生産レベルを維持するだけではなく、それをさらに改善しなくてはならない。そのことは、作業場や工場が今のまま残っているかぎり、囚人の労働力を維持し、高めることによってのみ可能であろう。再教育政策が採用されていた初期の時期には、囚人が有益な仕事をするかどうかは問題とならなかった。しかし今では、囚人の労働能力は重要であり、収容所長、連絡所長、医師団のすべての権限は囚人の健康と効率を維持するために拡大されるべきである。偽りの同情からではなく、われわれは囚人たちの手足を必要としているからである。囚人たちはドイツ民族の偉大なる勝利に貢献しなくてはならないのだから、われわれは心から囚人の福祉に配慮しなくてはならない。私は、病気のために労働できない囚人を10%以下に抑えることを第一の目標としたい。責任ある部署にいる人々は、一丸となってこの目標を達成すべきである。それには以下のことが必要であろう。

1)   適切な栄養供給

2)   適切な衣服供給

3)   すべての自然保健措置の利用

4)   仕事の実行には必要ではない作業をさけること

5)   報奨の奨励

私は、本書簡の中に繰り返し記述されている措置の監督に個人的な責任を負うつもりである。」

 

 以下は、軍需産業において囚人労働がいかに重要であったかを示すいくつかの具体的事例である。

 最大の収容所アウシュヴィッツでは、人造ゴム=ブナ――タイヤの製造のために使われるがゆえに、非常に重要な製品――の製造のためのIGファルベン産業での労働に、かなりの割合の囚人が割り当てられていた。ヒルバーグは「ホロコースト」に関する標準的著作の中で、こう述べている[38]

 

1941319日ならびに424日、技術委員会はアウシュヴィッツでの生産の詳細を決定した。そこには合成ゴム工場と酢酸工場の二つが予定された。…

アウシュヴィッツにおける投資は当初、5億ライヒスマルク(最終的には7億ライヒスマルク)であった。…労働は約170人[社]の請負人[請負会社]にまかされた。工場が建設され、道路がつくられ、囚人のバラックが建てられ、有刺鉄線が工場の囲いにされた。アウシュヴィッツの町がI.G.ファルベン関係者たちであふれ、社宅群が二つ建てられた。合成ゴムのために、I.G.アウシュヴィッツに必要な建設資材をすべて確保できるように、クラウフは完成までの第一の優先順位をおくことを指示した。その間、I.G.アウシュヴィッツはフュルステン鉱山やヤニナ鉱山の施設とともに石炭補給を保障された。二つの工場はユダヤ人囚人であふれていた。

 

 ドラ‐ミッテルバウ収容所――厳しい労働環境のためにとくに恐れられており、1944年まではブッヘンヴァルトの付属衛星収容所であったが、そのご、それ自身が強制収容所の地位に昇進した――では、地下工場の囚人がロケット――ドイツはこれを使って戦局を逆転しようとしていた――を製造していた。

 1944511日、ヒトラーは、戦闘機生産計画の中に20万のユダヤ人を雇用するように個人的に命じている[39]

 1944815日、SS経済管理中央本部は、612000人の囚人をすぐさま強制収容所に配送すると通知している[40]。しかし、実数は遠く及ばなかった。

 

2.  収容所の環境

3.1.囚人のカテゴリー

 開戦後、従来の政治囚(囚人服に縫い付けられた赤い三角形の模様から、収容所用語では「赤」として知られている)、「緑」、「反社会分子」(「黒」)に対して、新しい囚人カテゴリーが加わった。戦争捕虜――とくにソ連軍捕虜――はいくつかの収容所に収容された。もう一つのグループは、兵役忌避の咎で処罰されたエホバの証人たちであった[41]

 1942年以降、ユダヤ人がドイツ占領地区全域から、強制収容所に大量に移送されていった。移送されたユダヤ人の割合は、国ごとに非常に異なっている。たとえば、フランスで移送されたユダヤ人は75721人で、これはフランス在住のユダヤ人口の4分の1にあたり、外国のパスポートを所持している者が圧倒的であった[42]。もっとも高い割合であったのはオランダであった(全ユダヤ系住民のうち4分の3以上)。

 ユダヤ人とは別に、組織的絶滅の対象となったといわれてきた二つの囚人カテゴリーがある、ジプシーと同性愛者である。事実にもとづいて、この点を手短に修正しておく。

 

3.11.ジプシー

 ドイツのジプシー(「シンティとロマ」)の側に立って発言している政治的指導者たちは、この人種集団が数十万単位で、民族社会主義ドイツの強制収容所で殺されたと主張している。絶滅されたジプシー50万人という数字が、出版物で散見され、メディアでも繰り返されている[43]。だが、すでに1985年に、ウド・ヴァレンディが彼の雑誌Historische Tatsachenの中で、この数字がまったく妄想の産物にすぎないこと、第三帝国時代にジプシーの大量殺戮が行われたことについての証拠はまったくないことを立証している[44]。また、オトヴァルト・ミューラーも、大量殺戮説の反証となる補足証拠を1999年に公表している[45]ホロコースト正史派の歴史研究も、殺されたジプシー50万人という数字を劇的に下方修正している。1997年、ドイツの歴史家たちは「殺された」「シンティとロマ」5万人と語っている[46]

 ヒムラーが19421216日に、「混ざり合った人種のジプシー、ローマン・ジプシー、バルカンからのジプシー」の収容を命じたのは事実である。しかし、これと同時に、彼は、「社会的に順応した」ジプシーのような他のカテゴリーのジプシーを収容から除外している。アウシュヴィッツでの死亡例を記録しているアウシュヴィッツ死亡者名簿によると、11843人のジプシーが、その多くが疫病のために自然死した[47]。ホロコースト正史によると、194482日に、アウシュヴィッツで2000名上のジプシーの女性がガス処刑されたことになっているが、マットーニョが的確に立証しているように、これは、まったく事実にもとづいていない神話にすぎない[48]

 

3.1.2.同性愛者

 西側社会は、同性愛を急速に受け入れるにいたり、同性愛者団体の影響力も強まってきた。この結果、第三帝国時代に「組織的に絶滅された」少数集団の「殉教者の地位」を同性愛者に与えようとする動きが強まっている。民族社会主義ドイツの強制収容所で死亡したといわれる同性愛者の数は、特別利害集団の言うところでは、50万人、否、それ以上に達するという[49]反駁の余地のないことは、この当時、民族社会主義ドイツにおいても、イギリスやソ連のような非常に多くの国々においても、同性愛は刑事犯罪であった点である。1933年から1944年、ドイツの裁判所は5万から6万人のゲイを有罪とした。このうちの少数――おそらく1万から15000人――が通常の刑務所での刑期を終えた後に、強制収容所に送られた。彼らの多くは、再犯者、男性売春者、女装趣味者、未成年の誘惑者であった[50]

 

3.2.食料

 大戦の初期に、死亡率が高かったのは食料が乏しかったためであることには疑問の余地はない。だから、収容所当局がこの点での責任を負わなくてはならないことに間違いはない。しかし、事態を改善しようとする真剣な試みも行われていたことを指摘しておかなくてはならない。ポールSS大将は、前述した、「適切かつ十分な食料」の必要性に触れた強制収容所長あての回覧状の中で、食事の準備・配給について詳しく指示し、とくに、こう述べている[51]

 

「食事のときには、サラダの形でも、生のままでも、野菜を提供すべきである(人参、酢漬けキャベツ)。…昼食に提供される食事の量は1.25-1.5ℓとならなくてはならない。薄いスープではなく、栄養豊かな十分な食事を提供しなくてはならない。…配給量の追加も奨励されるべきである。…病人が特別食のおかげで速やかに回復するのであれば、病院に限定されるが、このような特別食を提供すべきである。」

 

 元アウシュヴィッツ記念館長タデウシュ・イワシュコは、アウシュヴィッツの囚人の食事に関する論文にこう記している[52]

 

「昼食時には、1週間に4度『肉スープ』が、1週間に3度『野菜スープ』――ジャガイモ、ビート、人参などの野菜――が配給された。」

 

 イヴァシュコによると、スープは350400カロリーであった。昼食時には、約300gのパン、約25gのソーセージかマーガリン、スプーン一杯のマーマレードかチーズ、合計9001000カロリーの食事が配給されたという。ドイツの前線兵士には、毎日、このような配給を受け取ることが保証されていたのだろうか?

 収容所の環境を取り繕って語る必要のないポーランド・レジスタンス運動は、1943年初頭のマイダネク強制収容所の食事についてこう述べている[53]

 

「食事は当初は貧弱であったが、最近、改善されており、たとえば、1940年時点の捕虜収容所よりも質が高い。朝6時、囚人たちは約半ℓのブロートを受け取る(1週間に2日は、ペパーミント味のハーブ茶)。午後1時、半ℓの栄養価の高いスープ――脂肪や肉が入っていることもある――が昼食として、配給される。午後5時、200gのパン(マーマレード、チーズ、マーガリン、1週間に2度は300gのソーセージつき)、および、半ℓのブロートもしくはジャガイモ・スープが夕食として配給される。」

 

3.3.医療

 Isabell Sprengerは、グロース・ローゼン強制収容所についてのきわめて反民族社会主義的な研究書の中で、次のように記している[54]

 

1943年−1945年の医療記録、個々の患者への治療記録が恒常的に保管されているところ見ると、少なくとも、いくつかの事例で、囚人の7両に時間と労力が割かれていたことが分かる。」

 

 これに対しては、グロース・ローゼンは「絶滅収容所」ではなく、「通常の強制収容所」であったとの反論が寄せられるかもしれないが、「絶滅収容所」として一番よく知られているアウシュヴィッツに関しても、大量の囚人治療記録が残っているので、このような反論には根拠がないことが分かる。

 

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アウシュヴィッツ・ビルケナウでの囚人の治療[55]

 

 例えば、3138人のハンガリー系ユダヤ人の治療記録が1944628日――「ガス室」がフル操業していたとされる時期――に作成されているが、それは、病名と治療措置を詳しく記載している。

 

外科のケース

1426

下痢

327

便秘

253

扁桃腺炎

79

糖尿病

4

心臓疾患

25

疥癬

62

肺炎

75

インフルエンザ

136

発疹炎症

59,268

その他

449

伝染病:

 

猩紅熱

5

流行性耳下腺炎

16

はしか

5

丹毒

5"

 

 もう一つの「絶滅収容所」マイダネクには、194316日のヒムラーの建設命令にもとづくソ連軍捕虜負傷兵のための病院もあった[56]

 

3.4.処罰と虐待

 民族社会主義ドイツの強制収容所では、恣意的な残虐行為がまかり通り、サディスティックな虐待行為が頻繁に行われていたという説が流布しているが、これは、現存する戦時中のドイツ側文書資料によってもまったく立証できない。もちろん、虐待を禁止する規制は紙の上だけのことであった可能性もありうるし、事実、収容所では、残酷な振舞いも起こっている。しかし、収容所管理局用の規制を見れば、こうした残酷な振舞いは公式の政策ではなかったことがはっきりと分かる。アウシュヴィッツでは、SS隊員は全員、次のような宣誓書に署名しなくてはならなかった[57]

 

「私は、総統だけが国家の敵の生死に関する決定権を持っていることを知っている。私は、いかなる者であれ、国家の敵(囚人)を殺すことを許されていない。強制収容所の囚人を殺すには、SS全国指導者の許可が必要である。私は、この規則を破れば、厳罰に処せられることを知っている。」

 

 アウシュヴィッツ博物館元館長カジミェシ・スモレンは、ドイツ側文書資料にもとづいて、アウシュヴィッツの処罰システムについての論文を書いている。それによると、規則が定めている処罰は、軽いものから重いものの順に並べると、次のようになる[58]

 

ž   処罰警告

ž   追加労働

ž   懲罰隊への一時的移行

ž   逮捕

ž   逮捕・食事抜き

ž   独房への拘禁

ž   殴打(25回)

 

 殴打処罰の執行にあたっては、医師による事前審査が必要であった。死刑は、執行前に、国家保安中央本部の承認が必要であった[59]

 囚人に対する犯罪行為を犯したSS隊員にもしばしば厳罰が下された。ブッヘンヴァルト所長のカール・コッホ、マイダネクのヘルマン・フロルシュテットは、民族社会主義者自身の手で処刑されている。

 

3.5.犯罪者と共産主義者によるテロル

 収容所では政治囚と犯罪者がまじりあって収容されていたために、政治囚にとっては恐るべき事態が生じたにちがいない。犯罪者の中には、地下社会のやり方に通暁している者も多く、多くの収容所では、まさにテロルの支配がつくり出された。収容所管理局が、「カポー」を「赤」たちから募るのか、それとも「緑」たちから募るのかという問題は、囚人たちの生死にかかわっていた。オーストリアのユダヤ系社会主義者ベネディクト・カウツキーは、1938-1945年、数多くの収容所(ダッハウ、ブッヘンヴァルト、アウシュヴィッツ、ふたたびブッヘンヴァルト)での生活を経験したが、犯罪者によるテロルについてこう述べている[60]

 

「収容所を仕切るのが犯罪者であるのか、それとも政治囚であるのかという問題は、一般の囚人にとっては死活問題であった。ブッヘンヴァルトやダッハウ収容所では、政治囚から[募られた]監督者に課せられた責任は巧妙に配分された。SSが横暴な振る舞いをしても、その多くは途中でつまみとられるか、消極的な抵抗によって効果が失われた。犯罪者が仕切っていた、アウシュヴィッツやマウトハウゼンといった収容所は腐敗の温床であり、ここでは、囚人たちが自分たちに対する食料、衣服などの配給をかすめ取られたり、仲間の囚人によってひどく虐待されたりした。」

 

 また、政治囚出身のカポーたちの悪行を指摘した強制収容所囚人もいる。フランスレジスタンス戦士でホロコースト修正主義の創設者ラッシニエは、1950年に書かれた『ユリシーズの嘘』の中でブッヘンヴァルトでの共産党系囚人のテロルを描いている。共産党系囚人たちは、他の非共産党系囚人を威嚇し、その食料配給分を奪ったという――これは、多くの囚人にとって死刑宣告に等しかった――[61]。ブッヘンヴァルト収容所解放後に作成された合衆国陸軍報告は、共産主義者たちが――ある程度、SSの協力も得て――犯罪者のカポーから次第に権力を取り上げていき、多くの囚人を殺したと述べている。彼らは、収容所における野蛮な行為の大半の責任者であり、食料配給分の配分をコントロールしていたという[62]。きわめて怠慢なことに、収容所管理局は、犯罪者と共産主義者の横暴な振る舞いを抑止する効果的な措置を取らなかった。

 

3.6.釈放

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1944721日付のアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所からの釈放証書[63]

 

戦争が始まってからも、多くの囚人が釈放されていた。ポーランドの研究書によると、シュトゥットホフ強制収容所から5000名の囚人が釈放されているし[64]なんと「絶滅収容所」でもあったはずのマイダネクからも20000名という信じがたいほどの数の囚人が釈放されている[65]。アウシュヴィッツから釈放された囚人の数の合計は不明であるが、かなり多かったに違いない。ダヌータ・チェク(チェヒ)は、『アウシュヴィッツ・カレンダー』の中で、19422-19452月のあいだに、合計1100名の囚人が釈放されたと述べている[66]。しかし、マットーニョと私が発見した断片的な釈放記録――1943612月だけをカバーしている――には、釈放者数300名となるので、実際の、釈放者数の合計は、チェクのあげている数字よりも、はるかに多かったにちがいない。釈放された囚人の大半は、労働契約違反の咎でビルケナウ「労働・矯正収容所」に56日間移されていた矯正対象囚人であった(このやり方は、1942528日のヒムラーの命令による[67])。これら短期間囚人の多くは、ハンガリー系ユダヤ人の「大量絶滅」が進行中であったとされる、1944年夏に釈放されている。だから、民族社会主義者たちは、自分たちの大量絶滅計画の「目撃者」たちを釈放し続け、釈放された「目撃」者たちは、アウシュヴィッツでのドイツの虐殺行為について全世界に知らせることができたことになる!さらに、ドイツ側当局は、アウシュヴィッツ収容所を疎開させるにあたって、ビルケナウに4299名の囚人を残し、ソ連軍の到着を待たせている[68]

 

3.7.比較

 ドイツの強制収容所のうちいくつかは、戦後も稼働し続けた。今度は、連合国の職員とドイツ人囚人――連合国側の安全の脅威とみなされた人々、占領政策に反対する人々――であった。この点で、とくに悪名高いのはソ連の管理するザクセンハウゼン収容所であるが[69]、アメリカ側が管理したダッハウ収容所も戦後、強制収容所として稼働していた。アメリカによってダッハウに拘禁された囚人の一人が日記を発表しているが[70]、ドイツ管理下の、すなわち戦時中のダッハウ収容所に収容されていた囚人の日記[71]と比較すると非常に興味深い。イングリッド・ヴェッカートがこの二つの日記を比較分析し、ドイツ管理下のダッハウ収容所の環境のほうが、米軍管理下の環境よりもかなり良好である――ドイツのインフラストラクチャーが崩壊し、囚人たちは、他のドイツ国民と同様に、生活物資の欠乏にひどく苦しんでいた戦争末期の数か月を除いては――ことを明らかした[72]

 

3.  強制収容所での死亡率と死因

4.1.収容所の犠牲者数

 民族社会主義ドイツの強制収容所で死亡したのは何人か?7つの個々の収容所――実質上、収容所規模の順に上から7つ――当局の文書資料にもとづく、かなり詳しい統計数字、ある場合には、とくに詳しい統計数字が残っている。強制収容所で死亡した囚人の数に加えて、到着者の合計数字もあり、それも、マイダネクを除けば、完璧もしくは完璧に近いかたちで残っている。さらに、指摘しておかなくてはならないのは、囚人たちの多くは、しばしば移送されて、いくつかの収容所に収容されたことである(例えば、B. カウツキーは、1938-1945年、ダッハウ、ブッヘンヴァルト、アウシュヴィッツ、ふたたびブッヘンヴァルトでの囚人生活を経験している)。すなわち、収容所に収容されていた囚人の合計は、個々の収容所に収容されていた囚人を単に合計した数よりもはるかに少ないのである。また、一つの収容所を生き残った囚人は、戦時中の全期間を通じて生き残ったという誤った結論を導き出すことも避けなくてはならない。一例をあげれば、アウシュヴィッツに登録され、その後他の収容所に移送された365000人ほどの囚人のうち、かなりの割合がアウシュヴィッツ以外の収容所で死んでいる。

 7つの収容所の統計数字は以下のとおりである。

 

アウシュヴィッツ:[73]

1940/1941:

19500

1942:

48500

1943:

37000

1944:

30000

1945:[74]

約  500

合計:

500100人の登録囚人のうち約135500[75]

 

ダッハウ:[76]

1940:

1515

1941:

2576

1942:

2470

1943:

1100

1944:

4794

1945:

15384

合計:

27,839 168000人の囚人のうち27839[77]

 

 

ブッヘンヴァルト:[78]

1937:

48

1938:

771

1939:

1235

1940:

1772

1941:

1522

1942:

2898

1943:

3516

1944:

8644

1945:

13056

合計:

238979人の囚人のうち33462

 

マイダネク:[79]

1941:

約  700

1942:

17244

1943:

22339

1944:

約 1900

合計:

数不詳の登録囚人中で約42200[80]

 

マウトハウゼン:[81]

1938:

36

1939:

445

1940:

3846

1941:

8114

1942:

14293

1943:

8481

1944:

14766

1945:

36214

合計:

230000人の囚人のうち86195

 

ザクセンハウゼン:[82]

1940:

3788

1941:

1187

1942:

4175

1943:

3563

1944:

2366

1945:

4821

Liquidated and executed:[83]

675

合計:

20,575 132196人の囚人のうち20575

 

シュトゥットホフ:[84]

1939:

47

1940:

860

1941:

268

1942:

2276

1943:

3980

1944:

7500

1945:

11200

合計:

105302人の囚人のうち約26100[85]

 

 以上7つの収容所の犠牲者数を合計すると、約372000人という数字になる。その他の強制収容所に関しては、アロルゼンの結婚・誕生・死亡特別登録局(ドイツのアロルゼン特別局)の統計を参照しなくてはならないが、文書資料が欠落していたり、他の自治体の誕生・結婚・死亡登録局に登録されている死亡がアロルゼンには登録されていなかったりするために、この統計は完全ではない。1990年時点では、このような具合であった[86]

 

 

フロッセンビュルク:

18334

ノイエンガムメ:

5780

グロース・ローゼン:

10950

ナチヴァイラー:

4431

ドラ・ミッテルバウ:

7467

ラーフェンスブリュック:

3640

ベルゲン・ベルゼン:

6853

合計:

53445

 

 これらの統計数字はどれほど不完全なのか?前述した7つの収容所については、その死者の数は程度の差こそあれ知られている。しかし、アロルゼンが1990年の時点で、確証された死者の数として挙げているのは以下の数字である。

 

マウトハウゼン:

78851

ダッハウ:

18455

アウシュヴィッツ:

57353

シュトゥットホフ:

12628

マイダネク:

8826

ザクセンハウゼン:

5013

ブッヘンヴァルト:

20686

合計:

201812

 

この数字は、約372000人の犠牲者数という実数のほぼ55%である。だから、アロルゼンに登録されているその他の7つの収容所の数字も二倍してやれば、ほぼ実数に近づくことになる。そうすると、14の強制収容所で犠牲者数479000人(372000人+107000人)という数字となる。

 この数字に、労働収容所――大半がポーランド領内――で死亡した死者の数を加えなくてはならないが、この点に関する信頼すべき統計数字がない。ヒルバーグは、これらの労働収容所で死亡したユダヤ人の数を100000人と見積もっているが、その資料的根拠を明確にしていない[87]。研究上の仮説としてヒルバーグの数字を受け入れ、これらの収容所で死亡した非ユダヤ人の死者の数も非常に多かったと推定すると、679000人(479000人+200000人)、すなわち約70万人が民族社会主義ドイツの強制収容所や労働収容所で死亡したと推定できる。われわれの見解では、これが推定最大値であろう。実数はもっと少なかったと思われる。犠牲者数の中でのユダヤ人の数は、現在の諸条件のもとでは正確に算出できないが、おそらく50%よりも低いことはないであろう。

 

4.2高い死亡率の原因

 アウシュヴィッツでもっとも多くの死者が出たのは、チフスが蔓延して、収容所住民の中の多くの割合を殺した1942年下半期のことであった。流行の頂点は194297日−11日であり、平均して、1375人が死亡した[88]。マイダネクでは、死亡率がもっとも高かったのは19438月であり、その月には、囚人の6.84%が死亡した[89]。大量死の原因は、収容所の下水システムがルブリン市の下水システムと結びついていないこと――収容所にとって破局的で、疫病の蔓延を促した欠陥――による劣悪な衛生環境であった[90]

 西部地区収容所の状況は異なっていた。たとえば、すでに見てきたように、ダッハウでは19451月−4月に15000人以上が死亡しているが、これは、これまでの戦時中に死亡した数の合計を上回るものであった。他の西部地区収容所の統計数字もほぼ同様である。この極端に高い死亡率の原因はドイツの崩壊であり、連合国にもその責任の一端がある。有名なアメリカ人パイロット・チャック・イーガーは、その自伝の中にこう記している[91]

 

1944年秋、私の戦闘機グループは、50マイル×50マイルの地域を割り当てられ、動くものは何であれ、機銃掃射するように命じられました。…無慈悲に人をやっつけることをどう感じるかなどとは尋ねられませんでした。…悲惨で穢れたミッションでしたが、時間通りに離陸して、やり遂げました。…私たちは、まったくのそして単純な虐殺行為を行なうように命じられましたが、この行為を承認したお偉方は、それが正当だと感じていたのでしょう。戦時中のドイツでは、『無垢の民間人』と軍人を区別することは簡単ではなかったからです。ジャガイモ畑を耕している農夫であっても、ドイツ軍に食料を提供していたことになるはずですから。」

 

 連合国によるテロル爆撃はドイツのインフラストラクチャーを破壊し、その結果、戦争末期、強制収容所囚人にはもはや何も配給されなくなった。しかし、1945年の大量死のおもな原因は餓死ではなく、東部地区収容所の疎開による疫病の蔓延であった。東部地区収容所の囚人の疎開によって、人口過密となった西部地区強制収容所に疫病が持ち込まれ、戦争末期の諸条件のために、西部地区収容所はまったくの無秩序状態に陥った。

 イギリス人医師ラッセル・バートン博士は若い医学生としてベルゲン・ベルゼンに1カ月滞在し、収容所の状況に関する報告を作成している[92]

 

「多くの人々は、囚人のおかれている状況を、ドイツ側の意図的な行ないの結果とみなしている。…囚人たちは、野蛮な行為や怠慢の事例を熱心に伝え、各国からのジャーナリストは祖国での宣伝のために、この状況を自分流に解釈した。…ドイツ人軍医によれば、数ヶ月間、収容所への食糧配送はますます困難となっていったという。アウトバーンを動くものは何であれ、爆撃されたのである。…私は、記録を二、三年さかのぼってみたが、そこには、日々の配給のために、大量の食事が調理されていたことを記されており、そのことを知って驚いた。その時、私は、世論と反して、意図的な飢餓政策は存在しなかったと確信した。このことは、栄養十分な囚人が大量に存在していたことからもわかる。…ベルゼンのこの状況のおもな原因は、疫病、中央当局による人口過密、宿舎での法と秩序の欠如、食料、水、医薬品供給の不十分さであった。」

 

 当然のことながら、1945年時点の連合国の宣伝家たちは、こうした事実に関心を抱かなかったし、今日でも、西側世界のメディアはこの同じ事実に関心を抱いていない。ベルゲン・ベルゼン所長ヨーゼフ・クラマーは、実際には、絶望的な収容所の状況を改善しようとして、全力をふるっていた。にもかかわらず、意図的に囚人たちを餓死に追い込んだ悪魔的なSS隊員という歪曲されたイメージの象徴として、勝者の歴史の中では、いつもそうであるのだが、「ベルゼンの野獣」と呼ばれ、見世物裁判の後に処刑された[93]

 

5.「ガス室」

5.1.西部地区収容所に関するガス室物語

 民族社会主義ドイツの収容所には「ガス室」――ここでは、殺人目的のガス室――が使われていたという告発は、「目撃」証言にもとづいており、戦時中のドイツ側文書資料(数千トンの単位で残っている)には、その実在を立証するようなものはない。アウシュヴィッツとマイダネクの「絶滅収容所」の「ガス室」については、本書の中で、ルドルフとマットーニョによって検証されている。この二人が立証したのは、問題の施設は、その建築学的特徴から、毒ガスによる殺人には適していない、したがって、殺人目的で使われたはずがないということであった。だから、本小論では、西部地区収容所の「ガス室」物語の検証だけにとどめる。

 これらの「ガス室」にも多くの「目撃」証言があった。ニュルンベルク裁判では、ダッハウ収容所の医師でフランツ・ブラハという名のチェコ人がこう証言している[94]

 

ガス、射殺、注射による多くの処刑が収容所で行なわれました。ガス室は1944年に完成しました。私はラッシャー博士に呼ばれて、最初の犠牲者を検死するように命じられました。室内にいた89名のうちまだ3人が生きていましたが、残りは死んでいるようでした。彼らの目は赤く、顔は膨張していました。

 

 Georges Hénocqueというフランス人は、1947年に、ブッヘンヴァルトの「ガス室」についての妄想をたくましくしている[95]

 

「部屋はおそらく5平方フィートほどで、高さは33.5mほどだった。天井には、不規則間隔で、17個の気密シャワーヘッドが付いていた。それは普通のシャワーヘッドのように見えた。焼却棟の仕事を割り当てられていた囚人たちは、欺くために、シャワー室に入る前に、犠牲者にはタオルと小さな石鹸が渡されると私に警告した。不運な犠牲者たちは、シャワー室に入ると信じ込まされたのである。

重い鉄のドアが犠牲者の背後でとじられた。ドアは厚さ50mmのゴムで気密にされていたので、室内には空気はまったく入らなかった。内壁は滑らかで、ひびもなく、上塗りされているように見えた。室外では、ドア枠の隣に、4つのボタンがあり、それは、上から、赤色ボタン、黄色ボタン、緑色ボタン、白色ボタンの順に並んでいた。

しかし、一つの点が疑問であった。ガスはどのようにして、シャワーヘッドから出てくるのであろうか。私のいる部屋の隣に、通路があった。そこに入ってみると、私の手ではカバーできないほど巨大なパイプがあった。このパイプも厚さ1cmほどのゴムで覆われていた。

パイプの隣に、ガスを室内に送り込む右回りのクランクがあった。強い圧力がかけられていたので、ガスは床に下がっていき、そのために、犠牲者は、ドイツ人のいうところの『緩慢で甘い死』を逃れることはできなかった。

パイプがガス室に入ってくる場所の下には、ドアの外側と同じように、赤い色ボタン、緑色ボタン、黄色ボタン、白色ボタンが付いていた、それらは、ガスがどこまで沈澱しているのかを測るために使われていたにちがいない。すべてがきわめて科学的に組織されていた。悪魔であっても、このように上手くは設計できないであろう。」

 

 ホロコースト正史派の歴史家たちは西部地区収容所の「ガス室」をついに歴史のごみために放り込んでしまった。このように考えている修正主義者は数多くいるが、それは、不正確な単純化である[96]。この説を正当化するために、多くの修正主義者は、1960年にブロシャート――ミュンヘンの現代研究所研究員で、のちに所長――が書いた、次のような内容の編集局への手紙を引用している[97]

 

ダッハウでも、ベルゲン・ベルゼンでも、ブッヘンヴァルトでもユダヤ人その他の囚人はガス処刑されなかった。ダッハウのガス室はまったく『完成して』おらず、稼働していなかった。数十万の囚人が旧ドイツ帝国領内のダッハウその他の強制収容所で死亡しているが、彼らは、とくに破局的な衛生・物資補給状態の犠牲者であった…。ガス処刑によるユダヤ人の大量絶滅は 1941 年 42 年にはじまり、もっぱら占領されたポーランド領内のいくつかの地点で(旧ドイツ帝国領内ではない)、すなわち、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、ブク河畔のソビボル、トレブリンカ、チェウムノ、ベウゼッツで行なわれた。ここでは――ベルゲン・ベルゼン、ダッハウ、ブッヘンヴァルトではない――、シャワー室や害虫駆除室に偽装された大量絶滅施設が設置されていた…

 

 ブロシャートの手紙を注意深く読めば、彼が公然と異を唱えているのは3つの収容所(ダッハウ、ベルゲン・ベルゼン、ブッヘンヴァルト)でのガス処刑にかぎってのことであり、その他の収容所については、「大量ガス処刑」を否定しているだけで、小規模なガス処刑活動が行われた可能性の余地を残していることが分かる。コーゴン、リュッケルル、ラングバインその他が編集した有名な論文集『ナチスによる毒ガスを使った大量殺戮』は、このような小規模なガス処刑が行われたとしている[98]。それによると、ラーフェンスブリュック、ザクセンハウゼン、ノイエンガムメ、マウトハウゼン、ナチヴァイラー、シュトゥットホフでこのようなガス処刑が行われたという。ダッハウに関しては、コーゴンたちは明言していない。ブッヘンヴァルトとベルゲン・ベルゼンについては、ガス処刑が行われていたと証言する数多くの目撃証言が存在するものの、ガス処刑が行われたとの記述はない。だから、コーゴンたちは、これらの「目撃」証言が嘘であるとみなしていることになる。だとすると、一体、ラーフェンスブリュック、ナチヴァイラー、その他の収容所での「ガス処刑」に関する「目撃」証言がなぜ信用できるものであるのか?まったくのミステリーである。

 この論文集の知的レベルは、マウトハウゼンでのガス室が単数形で記述されていることからもわかる。それが実在した証拠として、合衆国の裁判の判決が引用されているが、そこでは、「ガス地下室[複数形]」が、熱い煉瓦で事前に暖められ、そのあと、ガスが何と「紙きれの上に」投入されたという[99]

 囚人たちの目撃証言に加えて、「実行犯の自白」も数多く引用されている。これらすべての自白は強要によって引き出されており、「学術書」に掲載する価値のないものである。西部地区収容所に拘束されていたSS隊員からお望みどおりの自白を引き出せたことは、マウトハウゼン収容所長フランツ・ツィエライスの「死の床での自白」の例からも明らかである。彼は、腹部に3発の銃弾を受けながらも、リンツ郊外のハルトハイム城での「ガス室」についてこう述べたという[100]

 

SS集団長グリュックスは、弱っていた囚人を精神病患者と分類して、リンツ郊外のハルトハイム城にあったガス室で殺すように命じました。ここでは、約 100 から150 万の人間が殺されました。問題の地域はハルトハイムと呼ばれ、パッサウの方向に 10km のところにあります。これらの囚人たちは[マウトハウゼン]収容所で自然死したと報告されています。

 

 もちろん、コーゴン、ラングバイン、リュッケルルとそのお仲間たちは、ツィエライスの自白の一節を、彼らの本に掲載してしまうほど愚かではない。しかし、このマウトハウゼン所長が、「100 から150 万の人間」ではなく、数千人がハルトハイムでガス処刑されたと述べていれば、この一節はハルトハイムで殺戮が行われたことに関する「反論の余地のない証拠」として扱われたにちがいない

 コーゴンたちの論文集に引用されている数字をまとめると、西部地区収容所でのガス処刑の犠牲者の数は、数千にすぎないので、数的な観点からすると、数百万のユダヤ人の組織的虐殺という「ホロコースト」の中ではさしたる意味を持っていない。コーゴンたちがこれらの殺戮が毒ガスによって行われたとしつこく主張するのは、民族社会主義ドイツの強制収容所が、その性格からして、ロシア、シナ、フランス、アメリカなどの強制収容所とは本質的に異なるものであった、したがって、悪魔的な存在であったことを立証しようとするためであろう。その悪魔的性格の象徴が「ガス室」であり、それゆえ、「ガス室」を備えていた民族社会主義ドイツの強制収容所の数は、できる限り多いほうがよかったにちがいない。

 また、ある収容所の「ガス室」の実在を放棄してしまえば、そのことは、その他の収容所の「ガス室」の実在説にとって壊滅的打撃となることを熟知している正史派の歴史家たちも存在する。収容所CDについての「目撃」証言その他の証拠が虚偽であることが立証され、公認の事実となってしまえば、収容所ABには「ガス室」が実在したという「目撃者」や正史派の歴史家たちをそのまま信じている理由はなくなってしまうからである。ヒルバーグは、1300頁にもおよぶ「ホロコースト」の関する著作の中で、西部地区収容所でのガス処刑にはまったく触れていない。彼は、コーゴンやラングバインたちよりも如才ない。

 西部地区収容所でのガス処刑についての目撃証言に関する詳しい文書資料は、フォーリソン監修のもとで作成された第二ロイヒター報告にまとめられている[101]。この小冊子は、この問題に関心を抱く人々にとって必須の文献である。

 

5.2.典型的事例:ザクセンハウゼンの「ガス室」

 マットーニョは、ザクセンハウザンについてのすぐれた研究[102]の中で、この収容所の殺人「ガス室」についての伝説の起源を分析している。コーゴンたちの『ナチスによる毒ガスを使った大量殺戮』によると、ザクセンハウゼン収容所長アントン・カインドルは、強制収容所監察官リヒャルト・グリュックスから、囚人の清算のためのガス室の建設を委任されたという。コーゴンたちは、ソ連側に拘留されていたときに行われたカインドルの「自白」を引用して、こう続けている[103]

 

「裁判の過程で、カインドルと囚人サコフスキ――焼却棟の処刑人として、ガス処刑に立ち会っていた――は、ガス室には、ガス・コンテナーの機械的開閉装置と、いわゆる『圧力換気装置』が設置されていたと述べている。彼は、ガス室の外壁の隣に立っていた。ガス・コンテナーは機械的に開けられ、換気装置が、暖房パイプ装置を介して、ガスをガス室に送り込んだ。」

 

 19456月にソ連側専門家グループが書いた報告書には、この部屋の機能が詳細に記述されている[104]。マットーニョが明らかにしたように、この記述は逐一、デゲシュ社製の、チクロンB空気循環害虫駆除装置の特徴と一致している。すなわち、ソ連の宣伝家たちは何と害虫駆除目的の装置を殺人ガス室にしてしまったのである。この報告に記載されているこの部屋の大きは、2.75m×3mであり、この部屋が大量殺人のために使われたという説がいかに馬鹿げているか分かる。もし、SSが個々の囚人を殺したければ、危険な毒ガスを使った複雑なシステムを運用する代わりに、たんに銃殺すればよかっただけの話であろう。

 戦後、ソ連は、ザクセンハウゼンを自分たちの強制収容所として使った。旧ドイツ軍兵士ゲルハルト・シルマーは、終戦時にこの収容所に収容され、1950年にシベリアの労働収容所に移送するまで、ここで暮らしていた。その回想録の中で、彼は、戦争が終わって半年後に、ソ連側が彼やその他の囚人たちに、ザクセンハウゼンの「ガス室」を建設させた様子をこう記している[105]

 

194510/11月にガス室と射殺施設が建設されたことに関する4名の囚人――私もその一人だが――の認証された宣誓供述書がある(付録4)。手短に言えば、この『ガス室』は、天井に25のシャワーヘッドを備えたシャワー室だった。それによって、ガス処刑がこの中で行われたような印象を作り出していた。その隣に、私たちは、穴のある別の部屋を立てた。処刑される犠牲者はその穴の前に立ち、顔を穴とは逆の方向にむけることで、首筋を撃たれるのである。ガイドは[ソ連の見学者]にそのように話さなくてはならなかった。[ガイド]を務めたのは仲間のフリッツ・デルベックであった。彼はロシア生まれだったので、完璧なロシア語を話したために、そのような演技を行わなくてはならない通訳を務めた。」

 

 この馬鹿げた「ガス室」があったとされる建物は、1952年に壊されてしまい、犯罪を立証するような証拠、もしくは冤罪を立証するような証拠はすべて破棄されてしまった。このために、この「ガス室」は、ソ連やその操り人形の旧東ドイツにとっては、いわば頭痛のタネであったにちがいない。

 

5.3.ガス室という嘘の起源

 のちにホロコースト修正主義の創始者となるラッシニエは、『ユリシーズの嘘』の中で、強制収容所のパニックに陥った囚人たち、憎悪を培った囚人たちが、まったくありえないような噂を信じ込んでしまう、印象的な事例を挙げている。ブッヘンヴァルト収容所のゲートには、正義とは各人にふさわしいものを各人に与えることであるという意味の古代ローマ法の原則をうたった「Jedem das Seine(各人に各人のものを)」という標語が掲げられていた[106]。ドイツ語の分かるラッシニエはこの標語の意味を理解していた。しかし、ドイツ語の分からないフランス人の囚人たちのあいだでは、この標語は「いったんここに入ったならば、すべての希望を捨てなさい」[107]という意味であるとの噂がすぐに広まっていったという。

 3つの強制収容所を経験したベネディクト・カウツキーは、収容所の中で、醜悪な噂が瞬く間に貪欲に広まっていく様子をこう描いている[108]

 

「収容所での軽挙妄動は信じられないほどであった。アーリア人たちが『parolen』、ユダヤ人たちが『bonkes』とよぶ噂話は、その中身がどんなにナンセンスなものであっても、いつも急速に広まり、人々は聞き耳を立てていた。噂を信じ込むことがどれほど馬鹿にされても(『二つの古い大嘘を一つの新しい大嘘ととっかえますか』というジョークがはやっていた)、多くの人々はそのつど、『古き良き大嘘』に引っ掛かっていた。』

 

 マイダネクの囚人であったDionys Lenardは、マイダネクでの噂の流行についてこう述べている[109]

 

「私は、イギリスがボローニャに上陸したことを新聞で知ったことを覚えている。このとき、人々は大きな希望を抱いた。誰もがドイツ軍の崩壊を予想した。しかし、この希望は現実のものとはならなかった。収容されている期間の大半、われわれは噂に振り回された。これら虚偽の情報すべてを検証することは不可能であった。…ある時、ロシア軍がすでにリヴォフにいると話してくれた人物がいた。砲声をすでに耳にすることができるとの話であった。また、ドイツの北部戦線はすでに崩壊し、ロシア軍はすでにケーニヒスベルクにいるとの話もあった。ハンガリー軍が降伏し、イタリア軍も彼らに同調したとの話もあった。チェコ人とセルビア人が注目を集めていた時期もあった。チェコ人とセルビア人のレジスタンスに対処するために、ドイツ側は40個師団を差し向けなくてはならなかったとの話であった。また、日本が合衆国とイギリスとのあいだで休戦条約を結んだとの話もあった。」

 

 この種の噂が自然発生的にではなく、レジスタンス運動が意図的に虚偽の情報を収容所に広めたために生まれることもかなり多かった。収容所では意図的な大量絶滅が行われているとの情報には、まったく根拠がなかったが、そのことは、戦時中に広まっていた話の多くが戦後の話とはほとんど一致していないことからもわかる。一例をあげておこう。

 アウシュヴィッツ強制収容所では、レジスタンス運動は、1941年から、際限のないホラー物語と囚人の大量殺戮という情報を捏造していた。しかし、このときには、チクロンBという殺虫剤はまったく登場していない。その代りに、絶えず話が変化しているのではあるが、殺戮は、「電気風呂」、戦闘用毒ガス、「空気ハンマー」で行われたという話になっていた[110]。赤軍がアウシュヴィッツを解放してからでさえも、ユダヤ系ソ連人従軍記者ボリス・ポレヴォイは、囚人が「電流」で殺される「電気コンベア・ベルト」についての記事を書いている[111]。チクロンBが凶器であったという話が流布されるようになるのは、この後のことであった。

 ユダヤ系ドイツ人共産主義者ブルーノ・バウムは、1935年反政府活動の咎で、エーリヒ・ホーネッカー――のちの東ドイツ大統領――とともに、懲役10年の刑に処せられ、1943年にはブランデンブルク刑務所からアウシュヴィッツに移送されたが[112]、彼自身が、収容所での虚偽宣伝の責任者の一人であったことを認めている。戦後、バウムは回想録[113]を発表しているが、それには3つの版がある(1949年、1957年、1961年)。1949年の初版34頁にはこうある。

 

「この当時世界に広まっていたアウシュヴィッツに関する宣伝情報の大半は、収容所のわれわれによって書かれたといっても大げさではないと思う。」

 

 その1頁あとにはこうある。

 

「われわれは、アウシュヴィッツに収容されていた最後の日まで、この宣伝を広めた。」

 

 だから、バウムは、アウシュヴィッツに関する情報がレジスタンス運動による「宣伝」であったことを認めていることになる。しかし、1957年の第二版では、こう述べている。

 

「この当時世界に広まっていたアウシュヴィッツに関する出版物の大半は、収容所のわれわれによって書かれたといっても大げさではない。…アウシュヴィッツに収容されていた最後の日まで、われわれはこのようなかたちで情報を提供した。」(89頁)

 

 第二版では、「宣伝」が「出版物」となり、世界はそれを介して「情報を提供」されたということになっている! バウムはアウシュヴィッツからマウトハウゼンに移送され、そこでも、収容所レジスタンス運動の中で、執拗に宣伝活動を続けた。

 ドイツの敵が反ドイツ的な虐殺宣伝をいかに熱心に展開したかについては、ノルウェー人Erling Bauckの話からもわかる。彼は、13名のノルウェー人収容者とともにザクセンハウゼンからマイダネクに移送され、そこで解放されている[114]

 

1944年初秋、アメリカの新聞と非合法のノルウェーの新聞から、14名のノルウェー人がベルリンからの命令で、ルブリンで処刑されたという記事を知ることができた。われわれが14名のグループであった少なくとも14か月前に命令が出されていたにちがいないので、この14名のノルウェー人とはわれわれのことであると思われた[115]。われわれ全員の名前と囚人番号が明らかにされていた。11月、ノトッデン出身の司祭が、イリア・エレンブルクからの手紙を受け取った。その中で、司祭は、ブラッティ兄弟の父親に、彼の息子たちが処刑された14名の中にいることを知らせるように求められていた。ロシア軍が収容所で発見した文書の中には、われわれはチクロンBで殺され、その死体は痕跡の残らないように酸を満たした風呂につけられたとあった。」

 

 赤軍がマイダネクを解放した(1944723日)直後、ユダヤ系ソ連人記者コンスタンティン・シモーノフは、1943年春に、フランスの元首相レオン・ブルムが殺されたという内容も含む記事を書いている。シモーノフは、この記事を書くにあたって、ブルムの最後の瞬間を「非常に詳しく」話してくれた二人の目撃証人P. ミハイロヴィチとC. エリンスキに依拠していた[116]。モスクワ放送はこの話に厳かな信用を与えた。フランス共産党の新聞Fraternité19448月にこう書いている[117]

 

「モスクワ放送が伝えているところでは、レオン・ブルム元首相は、彼の多くの信仰の仲間と同じように、人種差別的な野蛮な振る舞いの犠牲者となり、死亡した。70歳であった。」

 

 マイダネクでレオン・ブルムが殺されたという記事はまったくの捏造である。実際には、ブルムは1943年にブッヘンヴァルトに移送され、その後ダッハウに移されて、そこで、194554日に解放されている[118]

 囚人たちは、「ガス室」に関する虐殺宣伝をきわめて真剣に受け取った。ポーランドの歴史家ゾフィア・ムラフスカは、マイダネクについてこう記している[119]

 

1943年秋(9月か10月)、トラックがフィールドXに入って来て、SS隊員たちはトラックに子供たちを載せ始めた。このことを予想していなかった母親たちの手から子供たちを無理やり取り上げた。SSは、子供たちの世話はポーランド赤十字の保護下にある施設で行われると母親たちに保証したにもかかわらず、母親たちはひどいパニック状態に陥り、旅の目的地はガス室だと嘆いた。実際には、子供たちはウッジの子供収容所に収容されたのであったが。」

 

デュッセルドルフ地方裁判所は、マイダネク裁判判決の中でこう述べている[120]

 

「ガス処刑による殺人のために人々を大量に選別することは、マイダネク強制収容所ではもっとも遅くても1943年初頭から始まっていた。この結果、実際にはガス処刑以外の目的で、とくに、他の収容所への移送目的で選別された大量の囚人が同じような状況の下で、ガス処刑のために選別されたとみなされてしまった。」

 

 マットーニョはこの件にこうコメントしている[121]

 

実際には、事実は裁判所の憶測とは逆であった。移送目的で選別された囚人たちが収容所から姿を消したので、残った囚人たちは、移送されていった仲間たちが殺されたと思い込んだのである。選別された囚人たちは移送される前に、害虫駆除ガス室が存在していたバラック4142というシャワー施設・害虫駆除施設を通過していったことが、一層この思い込みを強くした。この手順は、残された囚人たちに強い印象を与えた。すなわち、仲間の囚人たちはガス室のある場所に送られた。彼らは戻ってこなかった。だから、彼らはガス処刑されたにちがいないというのである。

 

 だから、多くの強制収容所の囚人たちが、殺人ガス処刑が行われていたと心底思いこんでいたことには疑いない。B. カウツキーは、アウシュヴィッツの「ガス室」についてこう述べている[122]

 

「ここで、私はガス室について手短に述べておきたいと思う。私自身はそれを実際に見たことはないが、多くの人々が私に話してくれたことはきわめて信用できる内容であるので、その話を繰り返さざるをえない。」

 

 こう述べたあと、カウツキーは自分が見たことのない「ガス室」の話をしている。彼は、収容所での噂について、「噂を信じ込むことがどれほど馬鹿にされても、多くの人々はそのつど、『古き良き大嘘』に引っ掛かっていた」と述べているが、彼自身がその噂に引っ掛かっているのは何とも皮肉なことである。

 カウツキーは最後の最後まで、「ガス室」に触れて、ひいては「ガス室」の話をしていることで、自分自身がが「古き良き大嘘」に引っ掛かっているとは想像もしなかったことであろう。

 

6.まとめ

6.1.ホロコースト正史の大失敗

 このように明瞭な事実を考慮すると、もはや正史派の歴史家たちは、民族社会主義ドイツの強制収容所すべての絶滅的性格説を主張し続けることができなくなった。彼らは、いわゆる大量殺戮現場を、ダッハウ、ベルゲン・ベルゼン、ブッヘンヴァルトといった近くの場所から、ソ連の影響下にあり、批判的な観察者がなかなかアクセスできなかった、もっと遠くの東部地区「絶滅収容所」に移さざるをえなかった。トレブリンカ、ソビボル、ベウゼッツ、ヘウムノといったいわゆる4つの「純粋絶滅収容所」――文書資料的証拠、物理的証拠はほとんど現存していない――に加えて、アウシュヴィッツ・ビルケナウとマイダネクが、大量のユダヤ人がガス室で殺された「絶滅兼労働収容所」とみなされるようになった。このような主張は、信頼できる多くの事実にまったく背反しており、結局は正史派の歴史家たちの完敗をもたらすはずである

 西部地区収容所と同じように、アウシュヴィッツとマイダネクの死者の多くの死因は疫病であった。ただし、相違点もあり、アウシュヴィッツとマイダネクの死亡率がピークを迎えたのは1942年か1943年であり、西部地区収容所の死亡率がピークを迎えたのは、終戦直前、ドイツの崩壊によってであった。

 ダッハウ、ブッヘンヴァルトその他の収容所管理局と同じように、アウシュヴィッツとマイダネクの収容所管理局も、全力で死亡率を下げ、囚人の生活条件を改善するようにとの命令を再三受け取っていた。

 「死の収容所」筆頭とみなされているアウシュヴィッツに関する大量の現存文書には、死が運命づけられているとみなされてきたユダヤ人を生かしておくために治療を施した記録が残っている。

 正史派の歴史家たちが、東部地区収容所での「絶滅」の証拠として提出できるのは「目撃証言」と「自白」だけであるが、その質は、それと同じような西部地区収容所に関する証言と「自白」――今日では、まったく信用に欠けているとみなされている――と同等である。アウシュヴィッツ所長ヘスは194311月までに、アウシュヴィッツだけで250万人がガス処刑されたと「自白」している[123]。マウトハウゼン所長フランツ・ツィエライスは、ハルトハイム城で100万から150万人がガス処刑されたと「自白」している。一体、ヘスの「自白」の方がツィエライスの「自白」よりも信憑性があるとする根拠はどこにあるのであろうか?まったく、あるまい

 正史派の歴史家たちは、絶滅を運命づけられているとされたユダヤ人囚人が、絶滅されることもなく、収容所から収容所へと移送されていったことを説明できない。ベネディクト・カウツキーは左翼の社会主義者でユダヤ人という二重の意味で絶滅を運命づけられているはずであるが、なぜ、ダッハウ、ブッヘンヴァルト、アウシュヴィッツ、再度ブッヘンヴァルトを生き延びたのか?のちに『ホロコースト百科事典』の共同編者となるイスラエル・ガットマンは、マウトハウゼンとグンスキルヘンという「普通の強制収容所」をだけではなく、マイダネクとアウシュヴィッツという「絶滅収容所」をも生き延びたのか?[124] ユダヤ系ポーランド人サムエル・ジルベルシュタインは生き延びることができて、『10カ所の収容所の囚人の回想』[125]を執筆し、マイダネク、アウシュヴィッツ、何とその他8つの強制収容所での自分の経験を描くことができたのか? このようなことを、正史派の歴史家たちは説明できていない。

 マイダネク「絶滅収容所」から20000人の囚人が釈放されており、もしも、「大量絶滅」がそこで行われていたとすれば、彼ら一人一人がその絶滅の目撃者となったにちがいない。民族社会主義者は、ハンガリー系ユダヤ人の「絶滅」がピークを迎えていたといわれる1944年夏に大量の囚人を釈放している。正史派の歴史家たちはこのような事実を知って、まったく困惑してしまうにちがいない。ドイツ側は、アウシュヴィッツ・ビルケナウから撤退するにあたって、4299人の囚人を残していった。もしも、アウシュヴィッツに関する正史が歴史上の事実と一致していれば、釈放された囚人の一人一人が第三帝国に対する告発者となったにちがいない。正史派の歴史家たちは、なぜこのようなことが行われたのか説明できない

 簡単にいえば、民族社会主義ドイツの強制収容所に関する正史は、まったく崩壊の淵に立っているのである

 

6.2.文明の崩壊?

 正史派の歴史家たちとジャーナリストたちは、民族社会主義ドイツの強制収容所、とくにアウシュヴィッツがもたらした「文明の崩壊」について倦むことなくおしゃべりを続けている。『シュピーゲル』誌元編集長マイヤーも、アウシュヴィッツの犠牲者に関する有名な論文[126]の中で、「文明の崩壊」に触れている。ルドルフはマイヤーに対する回答の中で、合唱団、オーケストラ、幼稚園、歯医者、大きな厨房、高周波害虫駆除施設、水泳プール、サッカー場が存在していたアウシュヴィッツは「文明の崩壊」なのであろうか、と反問している[127]

 戦後、ユダヤ系医学教授マルク・クラインは、アウシュヴィッツでの収容生活についてこう述べている[128]

 

「日曜日の午後には、サッカー、バスケットボール、水球の試合が行われ、観戦者が大声で声援をしていた。危険の脅威から人々の関心をそらせるには、さしたることは必要でなかった。SS当局は囚人たちが、ウィークデイであっても、定期的に娯楽にふけることを認めていた。囚人たちは映画館で、ナチの映画、感傷的な映画を見ることができ。その隣の気のきいたキャバレーではショーが演じられ、SS隊員もよく見に来ていた。また、非常に優秀なオーケストラもあった。最初は、ポーランド人の音楽家だけで構成されていたが、その後、すべての民族、とりわけユダヤ人からの第一級の音楽家で構成されるようになっていった。」

 

 「文明の崩壊」? 文書資料にもとづいたJ. バクーの著作『消えた百万人』[129]の中では、戦後、アイゼンハウアーの兵士たちが、ドイツ軍兵士を、まったくインフラストラクチャー・宿舎・医療のない収容所に収容し、風雨にさらされたまま放置したために、数十万単位でドイツ軍兵士が惨めに死んでいった様子、大量に存在していたにもかかわらず、食料が意図的に与えられなかったために餓死していった様子が描かれている。このような著作を読めば、「文明の崩壊」はもっぱらドイツ側の現象であったのか、それとも、ドイツ人以外の民族の行為による結果として生じたのか、自問せざるをえないであろう。

 

重要な典拠資料を提供してくれた友人カルロ・マットーニョ(イタリア)に感謝する。J. グラーフ。

 

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[1] Walter Laqueur, Was niemand wissen wollte. Die Unterdrückung der Nachrichten über Hitlers "Endlösung", Ullstein Verlag, Frankfurt a.M./Berlin/Vienna 1981, p. 1ff.

[2] Quoted according to M. Weber, "'Extermination' Camp Propaganda Myths", in: E. Gauss (ed.), Dissecting the Holocaust, Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2000, p. 305 (online: vho.org/GB/Books/dth/fndWeber.html).

[3] Berner Tagwacht, August 26, 1945. 少しでも誠実さを持っている歴史家であれば、この犠牲者数を引用することはない。しかし、戦争が終わって47年たっても、一人の狂人が、有名な『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』紙の中で、編集者からの反対も全く受けないで、2600万人がドイツの強制収容所で殺されたと論じることを許されている。(FAZ, Sept. 21, 1992, p. 13).

[4] URSS-008.

[5] IMG, vol. VII, p. 648, German edition.

[6] IMG, vol. VII, p. 644, German edition.

[7] IMG, vol. XIX, p. 483, German edition.

[8] Wilhelm Stäglich, Der Auschwitz-Mythos, Grabert Verlag, Tübingen 1979, p. 6 (online: vho.org/D/dam/index.html).

[9] The Gazette, Montreal, 5. August 1993.

[10] ベルゲン・ベルゼンには炉が一つしかなかったし、クラマーが着任するかなり前から稼働していた。

[11] Elisa Springer, Il silenzio dei vivi. All'ombra di Auschwitz, un racconto di morte e di risurrezione, Marsilio Editore, Venedig 1997, p. 88.

[12] W. Laqueur, op. cit. (note 1), p. 8.

[13] See, in this regard, Carlo Mattogno, Jürgen Graf, Treblinka: Vernichtungslager oder Durchgangslager?, Castle Hill Publishers, Hastings 2002 (online: vho.org/D/Treblinka; soon also available in English from Theses & Dissertations Press, Chicago; online: vho.org/GB/Books/t). On Sobibor, please see Chapter 9 of the same book.試訳:トレブリンカ:絶滅収容所か通過収容所か(C. トーニョ、J. グラーフ)

[14] 1942317日、ルブリンの役人フリッツ・ロイターはハンス・ヘフテSS大尉と会談したのち、ルブリン地区のユダヤ人再定住責任局に、自分がベウゼッツ行きのユダヤ人を満載した移送集団を1日に4ないし5受け取っていると伝えている。これらのユダヤ人は国境を越えて移送され、総督府に戻されることはなかった。 (Józef Kermisz, Dokumenty i materiały do dziejw okupacji niemieckiej w Polsce. Vol. II: Akce' i 'wysiedlenia', Warsaw/Lodz/Krakow 1946, pp. 32 ff.)

[15] Arthur Butz, The Hoax of the Twentieth Century, Historical Review Press, Brighton 1977, p. 127f.

[16] Claus Nordbruch, Die europäischen Freiwilligen im Burenkrieg, Contact, Pretoria 1999.

[17] Arnold Krammer, Undue Process: The Untold Story of America's German Alien Internees, Rowman and Littlefiled, Lanham, MD, 1997.

[18] Udo Walendy, US-amerikanische Konzentrationslager, Historische Tatsachen No. 41, Vlotho/Weser 1990.

[19] ユダヤ系著述家Arno Lustigerは自分自身もレジスタンス運動のメンバーであったが、フランスのレジスタンス軍事活動家の15%ほどをフランスのユダヤ系住民が構成していた(これに対して、フランスの全住民の中でユダヤ系住民が占めている割合は1%弱であった)と指摘している。Der Spiegel, 7/1993, p. 54.

[20] Joseph Billig, Les camps de concentration dans l'économie du Reich hitlérien, Presses Universitaires de France, Paris 1973, p. 20.

[21] Arno J. Mayer, Der Krieg als Kreuzzug, Rowohlt, Reinbek 1989, p. 245.

[22] Joseph Billig, op. cit. (note 20), p. 20.

[23] Jean-Claude Favez, Das IKRK und das Dritte Reich. War der Holocaust aufzuhalten?, Verlag Neue Zürcher Zeitung, Zürich 1989, p. 538 ff.

[24] Eugen Kogon, Der SS-Staat. Das System der deutschen Konzentrationslager, Karl Alber, München 1946, p. 120.

[25] Winfried Meyer, "Britischer oder sowjetischer Sachenhausen-Prozeß?", Zeitschrift für Geschichtswissenschaft, Nr. 45 (1997), p. 987.

[26] 1469-PS.

[27] Survey of the SS-Wirtschaftsverwaltungshauptamtes, "Situation of SS Guard Personnel and Inmates in all Concentration Camps, 1 and 15 January 1945." Reproduced in Hans Marsalek, Die Geschichte des Konzentrationslagers Mauthausen, Eine Dokumentation. Österreichische Lagergemeinschaft Mauthausen, Vienna 1980, p. 130.

[28] A complete table of these camps is found in Głwna Komisja Badania Zbrodni Hitlerowskich w Polsce (ed.), Obozy hitlerowskie na ziemiach polskich 1939-1945, Państwowe Wydawnictwo Naukowe, Warsaw 1979.

[29] Tadeusz Mencel (ed.), Majdanek 1941-1944, Wydawnictwo Lubelskie, Lublin 1991, p. 35.

[30] Canadian Jewish News 1992130日)によると、イェルサレム「ホロコースト」専門家イェフダ・バウアーは、ユダヤ人の絶滅がヴァンゼー会議で決定されたという説を「馬鹿げた話」とみなしたという。

[31] NO-500.

[32] Wirtschaftsverwaltungshauptamt (Economic Administration Main Office)

[33] R-129.

[34] NG-2586.

[35] NO-1523.より正確には、15の強制収容所(ナチヴァイラー、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブッヘンヴァルト、フロッセンビュルク、ラーフェンスブリュック、ノイエンガムメ、ニーダーハーゲン、アウシュヴィッツ、グーゼン、シュトゥットホフ、ヘルツォーゲンブッシュ、ルブリン)と2つの「特別収容所」(SS特別収容所ヒンツァート、SS特別収容所モリンゲン)、2つの懲罰施設(シュトラウビヒ監獄、ダンツィヒ/マツカウ監獄収容所)である。

[36] PS-1469.

[37] Archiwum Muzeum Stutthof, 1-1b-8, S. 53 ff.

[38] Raul Hilberg, Die Vernichtung der europäischen Juden. 3 vols., Fischer Taschenbuch Verlag, Frankfurt 1997, p. 992.

[39] NO-5689.

[40] NO-1990.

[41] 多くの国々で、エホバの証人たちは兵役忌避の咎で投獄された。民主主義が発達した国とみなされているスイスでは、エホバの証人たちは1990年代まで、しばしば投獄されていた。それゆえ、第三帝国がエホバの証人たちを迫害したのは、宗教的な迫害ではなかった。

[42] Serge Klarsfeld, Le Mémorial de la Déportation des Juifs de France, Paris 1978.

[43] New Yorker State Newspaper199987日)は、(6頁に)、ドイツ・シンティ・ロマ中央会議が。「シンティとロマ50万人のホロコースト犠牲者」のための記念碑の建設を要求したとの記事を掲載している。1997年、ドイツ連邦共和国前大統領ローマン・ヘルツォークは、殺されたジプシー50万人という数字は「歴的事実」だと明言している。Bulletin des Presse- und Informationsamt der Bundesregierung, March 19, 1997, no. 234, p. 259.

[44] "Zigeuner bewältigen 1/2 Million", in: Historische Tatsachen No. 23, Verlag für Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1985.

[45] Otward Müller, "Sinti und Roma - Geschichte, Legenden und Tatsachen", in: Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung 3(4) (1999), pp. 437-442 (online: vho.org/VffG/1999/4/Mueller437-442.html).

[46] "Korrekturen an Goldhagen: Vorträge über den Holocaust an der Universität Freiburg,"という見出しで、Frankfurter Rundschau 1997213日)は、「文書資料を入念の調査した結果、殺されたシンティとロマの数はメディアでよく引用される数よりもはるかに少ないことがわかった。すなわち、50万人ではなく、5万人である」とん伝えている。

[47] Memorial Book. The Gipsies at Auschwitz-Birkenau. K.G. Sauer, München-London-New York-Paris 1993, volume II, p. 1476.

[48] Carlo Mattogno, "Die 'Vergasung' der Zigeuner in Auschwitz am 2. August 1944", in: Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung, 7(1) (2003), pp. 28f. (online: : vho.org/VffG/2003/1/Mattogno28f.html)

[49] たとえば、Franc Rectorは自著The Nazi Extermination of Homosexuals, Stern and Day, New York 1981の中で、「民族社会主義による少なくとも50万人の同性愛者の犠牲者」と述べている。

[50] Jack Wickoff, "Der Mythos von der Vernichtung Homosexueller im Dritten Reich", Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung 2(2) (1998), pp. 135-139 (online: vho.org/VffG/1998/2/Wikoff2.html), a translation of "The Myth of a Nazi Extermination of Homosexuals", Remarks, no. 22, April 20, 1997.

[51] Archiwum Muzeum Stutthof, I-Ib-8, p. 53 ff.

[52] T. Iwaszko, "Le condizioni di vita dei prigionieri", in: Auschwitz. Il campo nazista della morte, State Museum Auschwitz-Birkenau, 1997, p. 70f.

[53] Krystyna Marczewska, Władysław Waźniewski, "Obz koncentracyjny na Majdanku w świetle akt Delegatury rządu na Kraj", in: Zeszyty Majdanka, VII, 1973, p. 222f.

[54] Isabell Sprenger, Groß-Rosen. Ein Konzentrationslager in Schlesien, Böhlau Verlag, Köln/Weimar/Wien 1996, p. 151.

[55] Gosudarstvenny Arkhiv Rossiskoi Federatsii (GARF), Moscow, 7021-108-32, p. 76; see illustration on next page.

[56] T. Mencel (ed.), op. cit., p. 88ff.

[57] GARF, 7021-107-11, p. 130.

[58] Kazimierz Smoleń, "Systeme de punition infligées par la SS dans le camp de concentration d'Auschwitz", in: Contribution à l'histoire du KL-Auschwitz, Edition du Musée d'Etat à Oswiecim, w/o year, p. 67f.

[59] Franciszek Piper, "I metodi di assassinio diretto dei prigionieri", in: Auschwitz. Il campo nazista della morte, Edizioni del Museo Statale di Auschwitz-Birkenau, 1997, p. 137.

[60] Benedikt Kautsky, Teufel und Verdammte, Büchergilde Gutenberg, Zürich 1946, p. 9.

[61] Paul Rassinier, Le Mensonge d'Ulysse, La Vielle Taupe, Paris 1979, p. 162 ff. (online: aaargh.vho.org/fran/archRassi/prmu/prmu.html); cf. Engl.: Rassinier, The Holocaust Story and the Lies of Ulysses, 2nd ed., Institute for Historical Review, New Port Beach 1990.

[62] Egon W. Fleck and Edward A. Tenenbaum, Buchenwald: A Preliminary Report, U.S. Army, 12th Army Group, 24 April 1945. National Archives, Record Group 331, SHAEF, G-5, 17.11, Jacket 10, Box 151 (8929/163-8929/180), quoted according to M. Weber, op. cit. (note 2), p. 293f.

[63] Rossiski Gosudarstvenni Vojenny Arkhiv, Moscow (RGVA), 502-1-438, p. 116.

[64] Stutthof. Das Konzentrationslager, Wydawnictwo Marpress, Danzig 1996, p. 120.

[65] Anna Wiśniewska, Czesław Rajca, Majdanek Lubelski obóz koncentracyjny, Państwowe Muzeum na Majdanku, Lublin 1996, p. 32.

[66] D. Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945, Rowohlt Verlag, Reinbek 1989, p. 165-178.

[67] RGVA, 1323-2-140, p. 4.

[68] Andrzej Strzelecki, "Wyzwolenie KL Auschwitz", in: Zeszyty Oświęcimskie, special issue, 1974, p. 57.

[69] Günter Agde, Sachsenhausen bei Berlin. Speziallager Nr. 7, 1945 - 1950; Aufbau-Taschenbuch-Verl., Berlin 1994; Barbara Kühle, Wolfgang Titz, Speziallager Nr. 7 Sachsenhausen : 1945 - 1950, Brandenburgisches Verl.-Haus, Berlin 1990.

[70] Gert Naumann, Besiegt und "befreit". Ein Tagebuch hinter Stacheldraht in Deutschland 1945-1947, Druffel, Leoni 1984.

[71] "Arthur Haulot, Lagertagebuch. Januar 1943 - Juni 1945," Dachauer Hefte. Studien und Dokumente zur Geschichte der nationalsozialistischen Konzentrationslager, 1(1) (1985), pp. 129-203.

[72] Ingrid Weckert, "Zweimal Dachau," Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung 2(1) 1998, pp. 22-34 (online: vho.org/D/Sleipnir/RauWe3_2.html)試訳:ダッハウ収容所の実像(I. ヴェッカート). An earlier version of this essay, published in the Berlin periodical Sleipnir, 3(2) (1997), pp. 14-27, was confiscated by the German authorities because of this comparing article (County Court Berlin-Tiergarten, ref. 271 Ds 155/96).

[73] Carlo Mattogno, "Franciszek Piper und 'die Zahl der Opfer von Auschwitz'", Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung, 7(1) (2003), pp. 21-27 (vho.org/VffG/2003/1/Mattogno21-27.html). 正史派の歴史家たち、すなわち、ガス室の実在とユダヤ人の絶滅を信じている歴史家たちのあいだでも、アウシュヴィッツの犠牲者数の見積もりは、900万人から514000人とばらついている。アウシュヴィッツ博物館歴史部長F. ピペルは1077000人を犠牲者数としている(F. Piper, Die Zahl der Opfer von Auschwitz, State Museum Auschwitz, 1993)。ピペルがこの妄想の数字を出したやり方は、上記のマットーニョ論文で分析されている。

[74] アウシュヴィッツは、1945127日、赤軍に解放された。囚人の大半は、事前に疎開していた。

[75] アウシュヴィッツでは、約401500人の囚人が、規則にのっとったやり方で、すなわち、登録番号を割り当てられたのちに、収容所記録簿に登録された。これ以外に、約98600人が、一定期間、ビルケナウ通過収容所に収容され、その後、別の収容所に移送されていった。詳しくは、C. Mattogno, "Franciszek Piper und 'die Zahl der Opfer von Auschwitz'", op. cit. (note 73).

[76] Johann Neuhäusler, Wie war das im KZ Dachau? Ein Versuch, der Wahrheit näher zu kommen. Kuratorium für Sühnemal KZ Dachau, Dachau 1981, p. 27.

[77] Paul Berben, Dachau. The Official History, The Norfolk Press, 1975, p. 186.

[78] Johann Neuhäusler, Wie war das im KZ Dachau? Ein Versuch, der Wahrheit näher zu kommen. Kuratorium für Sühnemal KZ Dachau, Dachau 1981, p. 27.

[79] Jürgen Graf, Carlo Mattogno, Concentration Camp Majdanek. A Historical and Technical Study, Theses & Dissertations Press Castle, Chicago, IL, 2003, Chapter 4 (online: vho.org/GB/Books/ccm)試訳:マイダネク収容所(J. グラーフ、C. マットーニョ). ポーランドの歴史学会は1948年から1992年まで、犠牲者数を36万人としていた。定説派の収容所史家J. Marszałekは、自著 Majdanek. The Concentration Camp in Lublin, Interpress, Warsaw 1986, p. 142でこの数字を挙げている。1992年、ポーランドの歴史学会はマイダネクの犠牲者数を約235000人に減らした(C. Rajca, "Problem liczby ofiar w obozie na Majdanku", in: Zeszyty Majdanka, XIV, 1992, p. 127)。グラーフとマットーニョの研究書は、二人のポーランド人歴史家がどのような操作をして、この数字を出したのかを検証している。

[80] マイダネクにやってきた囚人の数は分かっていない。マイダネクに関するポーランド側の標準的著作では、Zofia Leszyńskaによる「275000人以上」が挙げられているが (in: Tadeusz Mencel (ed.), Majdanek 1941-1944, Wydawnictwo Lubelskie, Lublin 1991, p. 93)、 この数字も誇張にちがいない (in this regard, see J. Graf, C. Mattogno, Majdanek, op. cit. (note 79), Chapter 3).

[81] Hans Marsalek, Die Geschichte des Konzentrationslagers Mauthausen. Dokumentation. Österreichische Lagergemeinschaft Mauthausen, Vienna 1980, p. 156-158.

[82] Carlo Mattogno, "KL Sachsenhausen: Stärkemeldungen und 'Vernichtungsaktionen' 1940 bis 1945", in: Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung, 7(2) (2003) (online: vho.org/VffG/2003/2). マットーニョのあげている数字は、モスクワのロシア連邦国立文書館にあるザクセンハウゼン収容所管理局のオリジナル文書からのものである (GARF, Dossier 7021-104-4, p. 39ff.)

[83] ザクセンハウゼンで清算・処刑された者の数字は自然死した囚人の数字から別にしてある。See C. Mattogno, ibid.

[84] Jürgen Graf, Carlo Mattogno, Concentration Camp Stutthof and its Function in National Socialist Jewish Policy, Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, 2003, pp. 79-85 (online: vho.org/GB/Books/ccs).

[85] Elżbeta Grot, Rejs Śmierci, Muzeum Stutthof w Sztutowie, Danzig 1993, p. 13.

[86] 典拠資料:1991年にアロルゼン特別局が筆者に送ってきた小冊子。ルドルフは、その2年後の1993年に、やはりこの部局が発表した数字を挙げているが、ほとんど変わっていない。see his contribution "Holocaust Victims: A Statistical Analysis" in this book. 1990年代中頃以降、アロルゼンは、自分たちの数字が自立的歴史家に利用されること嫌って、このような数字を公表していない。

[87] Raul Hilberg, op. cit. (note 38), p. 1299.

[88] Jean-Claude Pressac, Die Krematorien von Auschwitz. Die Technik des Massenmordes, Piper Verlag, München/Zürich 1994, p. 193.

[89] PS-1469, p. 4.

[90] See J. Graf, C. Mattogno, op. cit. (note 79).

[91] Chuck Yeager, Yeager. An Autobiography, Bantam Books, New York 1985, p. 79.

[92] Quoted according to Robert Lenski, The Holocaust on Trial: The Case of Ernst Zündel, Reporter Press, Decatur 1990, p. 157f.

[93] ベルゲン・ベルゼン裁判では、イギリス人弁護団は、検事側証人のことを軽蔑し、ベルゲン・ベルゼンでの虐殺行為に関する彼らの証言は嘘であるとの結論に達した。Raymond Phillips (ed.), Trial of Josef Kramer and 44 Others (The Belsen-Trial), William Hodge and Company, London/Edinburg/Glasgow 1949, p. 76, 82, 89, 141, 244, 518, 524, 535, 544.ベルゼン裁判記録の試訳

[94] IMT, vol. V, p. 198.

[95] G. Hénocque, Les Antres de la bête, G. Duraissie, Paris 1947, quoted according to Robert Faurisson, Mémoire en défense, La Vieille Taupe, Paris 1980, p. 192ff.

[96] In this regard, see the comments by Reinhold Schwertfeger, "Gab es Gaskammern im Altreich?", Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung 5(4) (2001), pp. 446-449 (online: vho.org/VffG/2001/4/Schwertfeger446-449.html).

[97] Die Zeit, August 19, 1960.

[98] Eugen Kogon, Hermann Langbein, A. Rückerl, et al. (ed.), Fischer Taschenbuch Verlag, Frankfurt a.M. 1983; Engl.: Nazi Mass Murder, Yale University Press, New Haven 1993.

[99] Ibid., p. 247.

[100] Simon Wiesenthal, KZ Mauthausen, Ibis-Verlag, 1946, p. 7f.

[101] Frederick A. Leuchter, The Second Leuchter Report, Samisdat, Toronto 1989 (online: www.zundelsite.org/english/leuchter/report2/leucha.html):第二ロイヒター報告(ダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイム).

[102] C. Mattogno, op. cit., (note 82).

[103] E. Kogon et al., op. cit. (note 98), p. 255.

[104] GARF, 7021-104-3, p. 2-4.

[105] Gerhart Schirmer, Sachsenhausen - Workuta. Zehn Jahre in den Fängen der Sowjets, Grabert, Tübingen 1992, p. 9, similar p. 36. この文章のために、シルマーの回想録は2002年に、ドイツ政府当局の手で没収・廃棄された(この小冊子はまもなく vho.org/D/swに掲載されるであろう)。

[106] プロイセンの国家的モットーでもあった。

[107] Paul Rassinier, op. cit. (note 61), p. 26.ダンテの『地獄』では、地獄へのゲートに 「いったんここに入ったならば、すべての希望を捨てなさい」という標語が掲げられている。

[108] B. Kautsky, op. cit. (note 60), p. 182f.

[109] Tomasz Kranz (ed.), Unser Schicksal - eine Mahnung für Euch. Berichte und Erinnerungen der Häftlinge von Majdanek. Państwowe Muzeum na Majdanku, Lublin 1994, p. 65.

[110] アウシュヴィッツでの大量殺戮に関してレジスタンス運動が流布した情報は、Enrique Aynat, Estudios sobre el 'Holocausto', Graficas Hurtado, Valencia 1994に収録されている。

[111] Pravda, February 2, 1945.

[112] I am grateful to Knud Bäcker's article, "Ein Kommentar ist an dieser Stelle überflüssig", Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung 2(2) (1998), notes 26, 29, for the information on Bruno Baum (online: vho.org/VffG/1998/2/Baecker2.html).

[113] Widerstand in Auschwitz, East Berlin.

[114] T. Kranz, op. cit. (note 109), p. 197.

[115] うち一人がその間に死亡し、一人が病院に送られ、もう一人はザクセンハウゼンに戻された。

[116] K. Simonov, Il campo dello sterminio, Edizioni in lingue estere, Moscow 1944, p. 7.

[117] Stéphan Courtois, Qui savait quoi? L'extermination des juifs 1941-1944, Editions la Découverte, Paris 1987, p. 225.

[118] E. Jäckel, P. Longerich, J. H. Schoeps (eds.), Enzyklopädie des Holocaust, Argon, Berlin 1993, vol. I, p. 223.

[119] Z. Murawka, "Dzieci w obozie koncentracyjnym na Majdanku", in: Zeszyty Majdanka, X, 1980, p. 243.

[120] Landgericht Düsseldorf, vol. I, Urteil Hackmann u.a., XVII 1/75, p. 88.

[121] J. Graf, C. Mattogno, op. cit. (note 79), p. 184.

[122] B. Kautsky, op. cit., p. 272f.

[123] NO 3868-PS.

[124] Nordwestzeitung, Oldenburg, April 13, 1994.

[125] Samuel Zylbersztain, "Pamiętnik więznia dziesięciu obozw", in: Biuletyn Żydowskiego Instytutu Historycznego w Polsce, no. 68 (1968), pp. 53-56.

[126] F. Meyer, "Die Zahl der Opfer von Auschwitz - neue Erkenntnisse durch neue Archivfunde", in: Osteuropa, 52(5) (2002), pp. 631-641 (online: vho.org/D/Beitraege/FritjofMeyerOsteuropa.html).

[127] G. Rudolf, "Cautious Mainstream Revisionism", in: The Revisionist 1(1) (2003), pp. 23-30 (online: vho.org/tr/2003/1/Rudolf23-30.html)試訳:メイーによる用心深い正史の修正(G. ルドルフ).

[128] M. Klein, Observations et Réflexions sur les camps de concentration nazis. Extrait de la revue "Etudes Germaniques", Caen 1948, p. 31.

[129] James Bacque, Other Losses, Stoddart, Toronto 1989.