試訳:ダッハウ収容所の実像

――二つの収容所体験から――

I. ヴェッカート

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2006年4月12日

本試訳は当研究会が、研究目的で、Ingrid Weckert, Two Times Dachau, The Revisionist, 2004, No.3を「ダッハウ収容所の実像――二つの収容所体験から――」と題して試訳したものである。(文中のマークは当研究会が付したものである。)

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://vho.org/tr/2004/3/Weckert260-270.html

 

以下の論文がドイツ語ではじめて掲載されたのは、1997年、ベルリンの小さな雑誌Sleipnirの第2号である。しかし、この号は、この論文その他の記事のために、ベルリン・ティアガルテン地方裁判所によって没収・焼却処分となった[1]。その後、著者とこの雑誌の責任出版者アンドレアス・レーラーは、「憎悪を煽動した」咎で起訴された。レーラーは、右翼の知識人に、平和的であるが論争を呼び起こすような見解を発表する機会を提供していたので、1995年以降、再三、検察によるこのような非合法の訴追の対象となっていた。出版社の家屋は再三家宅捜査を受け、コンピュータ装置すべてが没収された。1998年、レーラーは、検事局に精神異常を疑われたので、精神鑑定を受けなくてはならなかった、しかし、精神科医の鑑定によっても、レーラーに異常はなかった。

アメリカ人には理解できないことかもしれないが、ヴェッカートは、ダッハウ収容所に収容されていた二人の人物――一人は終戦前に、もう一人は戦後に収容されていた――の日記を比較したことで起訴されているにすぎない。このような比較は非常に興味深くかつ重要であり、相違点を指摘することからはじめるのは自然である。しかし、ベルリンの検事や判事は、ヴェッカート氏がこれらの日記から引用する方法、それについての彼女のコメントが「憎悪を煽動する」という非合法行為にあるとの印象を抱いたのであろう。

これに対して、われわれは、ヴェッカート氏の重要かつ客観的な仕事が「学術的に貴重なもの」であり、それゆえ、言論の自由・学術研究の自由という市民的権利によって保護されなくてはならないと確信している。この二つの古い日記が、ドイツの政府筋から検閲処分に処せられたことはない。しかし、この日記を引用し、それにコメントをつけたことが、その著者と出版者に対する刑事告発を呼び起こしてしまっている。このことは、ドイツがおかれている惨めな状態、すなわち、もっとも基本的な市民的諸権利を守るには程遠い国という惨めな状態を象徴している

われわれがこの論文を公表するには、それが学問的に有効かつ重要なためだけではなく、著者ともともとのドイツの出版者への連帯を表明するためである。そして、もちろん、ドイツの独裁的政府の検閲を掘り崩し、それを妨げるためでもある。

 


 強制収容所についての文献はまさしく山ほども存在している。目撃者の話、小説など、このテーマに関心のある読者ならば、あらゆるジャンルの文献をあたることができる。以下に紹介する二つの日記は、ダッハウ収容所に収容されていた二人の囚人によって書かれたものである。この二人は、しかるべき理由によって一時的に自由を失っている犯罪者ではない。異なる政治的見解を抱いていたか、当時の権力エリートとは異なる政治制度を支持していたために、ダッハウ収容所に収容されたにすぎない。それゆえ、この二人の人物は、不公平で復讐心を抱く司法制度によって囚われていたのである。

 二人の著者は同じ年齢であり、同じような文化的・知的バックグラウンドを持ち、同じような教育をうけ、物事を明晰かつ関心を引くように描く文才も持っている。このために、二つの日記を比較・対照することは興味深い。

 最初の著者=囚人の名前は、1913年にベルギーのリェージュで生まれたジャーナリストのArthur Haulotである。彼は、共産主義者で戦時中はベルギーのレジスタンス運動のメンバーであり、第二次世界大戦以降ベルギー観光局長をつとめた。彼は、1941年12月27日ゲシュタポに逮捕された。最初の6ヶ月は、St. Gilles and Forest収容所に、次の4ヶ月はマウトハウゼン収容所に収容された。当時、そこでは、チフスが流行っており、Haulotも重病になった。そして、1942年11月8日、他の重病の囚人とともにダッハウに移送された[2]

 もう一人の著者=囚人も、やはり1913年生まれのドイツ人Gert Naumannである。彼は偵察機集団のリーダーであり、その後、ドイツ空軍参謀本部付き少佐となった。彼は負傷してアメリカ軍の捕虜となり、最初は、アイブリングに収容され、そのあと1945年10月から1946年2月/3月まで、1946年5月から1946年10月まで、ドイツ国防軍兵士やSS隊員と一緒に、ダッハウのアメリカ軍捕虜収容所に収容された――何と、アメリカ軍もダッハウを強制収容所として使ったのである[3]

 二人とも、ダッハウでは日記をつけていた。序文の中で、日記のメモを変更していないこと、文書資料的価値を維持するために、文字通り掲載したことが記されている。

 ダッハウに移送されたことは、この二人にとっては、それまでよりも境遇が改善されたことを意味していたが、その後事態は急変した。一人にとっては良い方向に、もう一人にとっては悪い方向に急変したのである。1943年にドイツの収容所に入所するという事態と、1945年にアメリカの捕虜収容所に入所するという事態とはまったく異なっていた。

Haulotはこう記している。

 

ダッハウに到着すると、最初はブロック17で、ついでブロック25で収容所新参者としての生活を送った[1943年2月13日の記述では、ダッハウへの到着を『非常に大きな喜び』と記している]。私は実際の収容所生活、今日それについて知られていることのすべてに親しんだ。ドイツ人とオーストリア人の同志たちは、1943年1月6日、私が病院に移送されるように手助けしてくれた。私の日記のメモは、病院に『沈み込んで』、筆記用具に触れることができたことからはじまっている。その文書資料的価値を維持するために、このメモの言葉遣いは変えていない。

 

 「沈み込んで」という表現を文字通りに受け取るべきではない。Haulotは、収容生活の終わりまで、公的職務に専念しており、収容所管理局と赤十字代表との交渉にあたるベルギーの囚人代表とみなされていたからである。1945年4月30日、アメリカ軍がダッハウを解放したとき、彼は、囚人を代表して、収容所の責任者のアメリカ軍将校と交渉する「国際収容所委員会」の3人の指導者の一人であった。

 一方、Naumannはこう記している。

 

私たちは強制収容所にいる。右側には、小さな目立たない建物、低く暗く、特色のない木造バラックがある。アメリカ軍兵士が出てきて、私たちの中の最初の10名を家の中に連れて行った。彼らはしばらくしてから出てきたが、よろめいているようであった。鼻から血を流しているものもいた。次の10名の番となった。私は三番目のグループだった。バラックの中には大きな部屋があった。強制収容所を写した大きな写真が、目の辺りの高さで、壁にかかっていた。飢えた囚人、死体の山、拷問を受けた人々を写した恐ろしい写真であった。私たちは、この写真の真ん前に立たなくてはならなかった。アメリカ軍兵士が私の後ろを歩いていき、拳骨で私たちの首や頭を押したので、私たち全員が写真の壁に顔をぶつけることになった。『行け!』 私たちは列を作って外に戻った。誰もがひとことも発しなかった。」

 

 捕虜となっていたドイツ軍将校は、ダッハウ内部での事件とはまったく関係なかった。さらに、死体の山の写真は、虐殺行為の証拠ではなかった。Haulotはこの件についてこう記している。

 

194412月以来、チフスが蔓延し10000名以上が死んで、死体の山がいたるところにあった。1945429日に、アメリカ軍がこれを発見することになった。

 

Naumannはダッハウの宿舎についてこう記している。

 

「私たちは悪名高い強制収容所にいる。アイブリングのアメリカ軍収容所よりは、ましである。もちろん、過密であるが、バラックは石造で清潔である。道は砂利が敷かれて乾燥しており、衛生設備も整っていた。おおきな流しのついた洗濯室、水が流れ、便座がついているトイレ。ここでは、ひどく快適であった。

 

 だが、まもなく事態は変化した。到着直後に、石造バラックを出て、アメリカ軍の建てた木造バラックに移らなくてはならなかったからである。

 

私たちはしばらくのあいだこのバラックをいぶかしげに見つめた。粗雑なつくりで、前の強制収容所の石造バラックとは比べるべきもなかったからであった。…屋根はいたるところで雨漏りしており、床は数センチほど水に浸っていた。さらに、板壁が2センチ以上浮き上がっているために、室内は氷のように冷たかった。明かりはなく、数少ない窓も小さく、曇りガラスであったので、外をうかがうことはできなかった。兵卒が転居命令を持ってきたので、ドイツ軍将校グループのスポークスマンであったSchoch大佐が、新しい宿舎への転居は受け容れられないことをアメリカ軍将校に話そうとしたところ、すぐに逮捕されて、2週間懲罰房に入れられた。彼(大佐)が、アメリカ軍兵卒の命令にすぐに従わなかったとの理由であった。

 

Naumann は、Schochが懲罰房から戻ってきたときの様子をこう記している。

 

Schoch大佐は翌朝戻ってきた。彼のもとを訪問した。彼は、前の強制収容所の売春宿であった病棟の中に、個別の小部屋をあてがわれていた。彼を目にしたときショックを受けた。14日間のあいだにひどく老け込んでしまっていたからである。肉体的に懲罰房に耐えることができるかどうかも検査されなかったし、狭心症の発作のために緊急に医師を必要としている場合でも、そのような許可は与えられなかった。1つの房の中に3名の囚人とともに詰めこまれていたので、動いたり向きを変えたりすることもできなかった。最初の1週間に提供された食糧は、1日5分の1のパンと1リットルの水であった。彼は懲罰房にいれられた理由がわからず、出てきてから、私たちが彼に教えてやった。

 

 Haulotの日記には、食糧配給についての記述が多いが、まもなく、食糧配給はたいした問題ではなくなっていった。Haulotはこう記している。

 

1943年1月13日。飢えによる精神障害をどのように避けるべきか。この問題を繰り返し自問してきた。何を食べたかすべてを記録している。ブロックの中で受け取ったものをはるかに上回っている。…十分な食事時間がほかの誰にも与えられていたことを認めなくてはならない。6時、9時、13時、15時などである。このために、私はふたたび精神障害となり、回復するのに2週間かかった。…配給された食糧をたいらげることができない人もいる。…とくに、一人のチェコ人老人がいるが、彼は、外から素晴らしい食料の小包を受け取り、必要以上のパンを手に入れている。

 

 Haulot1943年1月6日入院した。ホロコースト正史の文献によると、病人への食糧配給は労働者への配給よりもはるかに少なかったために、餓死した病人も多かったことになっている。しかし、 Haulotは逆のこと、すなわち、それまでいたブロック25よりもはるかに多くを受けとったと記しているのである

 ここで触れられている食料小包は、重要な役割を果たしている。実際、友人、親戚、国際赤十字からの小包のおかげで、多くの囚人たちが十分な食料を手に入れることができただけでなく、1943-1945年も時期には、ドイツ人が手に入れることもできなかった嗜好品も含む、自分や同僚を養うのに必要な量以上の食料を手に入れていたのである。ダッハウ収容所の「Official History(正史)」によると、囚人が小包を受けとる許可をもらうことができたのは、 Haulotが到着した1942年11月以降のこととなっている[4]Haulotはこう記している。

 

1943年1月14日、今朝は奇跡が起った。短時間のあいだに次々と3回の食事を受けとった。サモリナ・ポリッジ…スープ…ポテト。…毎日、誰それからリンゴをもらっている。だから、食糧配給は素晴らしく、ダッハウについてから、すぐに6kg以上の体重を回復することができると期待している。

 

 Haulot1942年11月8日にダッハウにやってきているが、そのときは病気で餓死寸前であった。彼の話では、ブロック17と25でも待遇はよくなく、十分な食料を与えられていなかった。彼が病棟に収容されたのはやっと1月6日になってからであって、そこでは十分な食料を与えられ、残りを隣人に分け与えるほどであった。彼の体重は、ダッハウで2ヶ月すごすと、6kg回復した。だから、ブロック17と25での待遇もそんなに悪いものではなかったに違いない。Haulotはこう記している。

 

1943年1月16日、私は食べ物を詰め込まれた。私の胃が、絶えざる消化活動に堪えることができるかどうか、これが問題だ。

 

 2年後、ドイツ軍戦争捕虜はまったく逆の体験をしている。食糧配給がひどくカットされたのである。Naumannはこう記している。

 

今日、アメリカ軍収容所管理局は、配給を減らすように命じた。夕方のスープとときどき支給されるチョコレートがカットされた。しかし、アイブリングよりもまだましである。朝は1/2リットルの小麦粉スープ、昼は1リットルの豆スープ、1/4のライ麦パン、30gの脂肪か1/10缶の肉、1/2リットルの代用コーヒー。

 

今日、また食糧配給がカットされた。…それによると、1日3回の薄いスープと18gのマーガリン、5切れのパンだけとなった。

 

空腹による不満の感情だけがわいている。毎日の食糧配給は、塩漬けキャベツの切れ端で『豊かになった』2リットルの薄いスープ、数個の白豆、皮の剥かれていないポテトの切れ端、5切れのパン、2つの小さなマーガリン…体重が日々減っていく感じがしている。

 

食糧配給がまたもや減らされた。マーガリンやチーズのかわりに、毎日、ティースプーン1杯のジャム。

 

 アメリカ軍兵士は、自分たちの支配下にある絶望的なドイツ軍捕虜をしばしばなぐさみものにしていた。Naumannはこう記している。

 

今日はアメリカの祝日だった。11月22日のような日が何の祝日なのかは知らない[5]。昼食に、スープとともに半切れのチョコバー(その代わりパンはなかった)。非常にうれしかったが、それもつかの間であった。チョコレートにはカビがはえており、粉々であったからである。

 

 Haulotはその2年前の1943年2月、ダッハウ収容所でチフスにかかった。彼は、すぐに食事療法を施された。周りの誰もが彼に『たらふく食べさせよう』としたので、食事療法をするのは難しかったが、それを守った。2月末、血液検査と検便が行なわれ、回復したと判断された。体重が2.5kg減ったが、すぐに取り戻した。Haulotはこう記している。

 

1943年2月13日、昨日、最大の喜びがあった。ダッハウへの到着に匹敵する喜びだ。ルイーズと両親が私の手紙を受け取ったのだ。

 

 ルイーズとは彼の妻のことである。何と、Haulotは、ドイツの強制収容所ダッハウに着いたことを「最大の喜び」と呼んでいるのであるHaulotはこう記している。

 

1943年2月20日(昨晩の普通の小包の分配のことを気にとめていなかった)。…強制収容所の中においてさえ、分配のチャンスが平等ではないことを知って驚いた。…」

 1943年2月23日、砂糖、バター、脂肪、軽食、果物、卵が必要であった。周囲の誰もが食べていたので、まだ手に入った。しかし、少なくともプレゼントについては私は除外されている(チフスの食事療法)。…突然の訪問者が、私に、おいしいケーキをくれた。非常においしかった。

 1943年3月4日、食べ物に付いて。私は多くの食べ物を『調達している』。病院食は、ブロック11の食事、通常の普通食よりもずっと私に合っている。

 1943年3月15日、15名がブロック11に移された。必要のなくなったベッドが取り除かれた。残りの病人は週末まで病棟にとどまることになっている。残された日々をできるだけ利用しなくてはならない。昼食と夕食の特別メニュー。

 1943年3月16日、アンドレが51名の囚人とともに釈放される。…私の最初の小包が到着する。砂糖、クラッカー、ケーキ、ジャム、ガチョウの肝臓、コンデンスミルク、パスタ、新鮮な卵、バター、ガーリック、スープ。素晴らしい。…すべてがベストコンディションだ

 

 Haulotは強制収容所からの釈放について、別の箇所でも記している。彼は、まったく開封されていないままの小包を定期的に受け取っている。

 2年後、ドイツ軍捕虜も小包を受け取っている。ただし、定期的にではなく時折である。Naumannはこう記している。

 

突然、バラックの前で、『ノイマン!午後5時に、郵便局に来て小包を受け取れ』と私の名が呼ばれた。私のことか。ショックを受けた。喜びのショックであった。私あての小包だって。しかし、誰からなのか。誰が私のことを心配してくれているのか。喜びで胸を震わせながら、雨の中を走った。小包だって。初めてのことだ。何のことかわからなかった。午後5時まで待てなかった。看守が収容所郵便局まで連れて行ってくれた。兵士が誰からの小包かと尋ねた。私は答えることはできなかったが、この兵士は渡してくれた。包み紙でルーズに包まれていたが、誰が送ってくれたのかわかった。友人の『マテス』からだった。バラックで開いた。ウールのシャツと二枚の下着が入っていた。手紙も挨拶状も入っていなかった。小包は検閲され、開封されたに違いない。その中から何かが持ち去られていた。包装紙が実際の大きさよりも大きかったからである。でも、非常にうれしかった。

ときどき、親戚や友人から小包が送られてくる仲間がいた。これらの小包はもちろん、開封され検閲されていた。手紙や挨拶状は取り除かれていた。何が『取り除かれて』いるのか、推測するしかなかった。今日、マールケ大佐が小包を受け取った。彼は、『午後のコーヒータイム』にホリット大佐、ペチョルト大佐、ルンギウス少佐、そして私を招待して、この事件を祝した。私たちは自家製の小さなテーブルをコーナーに置き、その上に、テーブルクロスとしてハンカチをかけ、小包からの数枚の常緑樹の葉をおき、赤いリンゴの真ん中に小さな赤い蝋燭をたてた。…マールケはその上でチーズに入ったパンを焼いた。それは神々しい味がした。ホリットは、最後のイタリアタバコを提供してくれた。私たちはすべてを分かち合ってうまく利用した。

 

 Haulotはこう記している。

 

1943年3月18日、新たに72名が明日釈放されることになった。

1943年3月21日、オットーの訪問。ケーキ、リンゴ、特別な砂糖。…フィリップとハンスという特別な訪問者、とくにうれしい。ハンスは蜂蜜を持ってきてくれ、フィリップはセーターを約束してくれた。

1943年3月22日、体重を量った。22日で6kg太った。私は、ここで『うまく調達している者』と呼ばれている。昨日、新しい食料源を発見した。ふと知り合ったレントゲン部長が、食べることを許されているかと尋ねて、パンとバターを持ってきてくれた。…今日も、若いフランス人ロジャーと会った。…彼はブロック13/4でルーム・サービスを受けている。彼の体重は増え続けており、彼を見るのは楽しい。同じ事を続ければ、私も彼のようになってしまうであろう。

1943年3月24日、今朝、朝食前に体重を量った。2日間で1s太った。10時、アドルフェが二番目の小包をもってくる。ケーキ、オレンジ、リンゴ、レモン、クラッカー、サッカリン、砂糖、ジャム、パスタ、塩、オヴォマルチネ、トマトジュース、バター、タバコ。何も紛失していない。…いい忘れた。クラッカー、ニシンの燻製、お茶、ブイヨン、6つの燻製肉。

1943年3月29日、今日から普通食が始まる。手始めはマッシュ・ポテト。働きたいのだが、働き始めると、何もうかんでこない。私の怠惰はスキャンダラスだ。

 

 Haulotはここで「働く」と記しているが、それは「ものを書く」という意味である。彼は、詩、物語、手紙、日記を書いている。Haulotの触れている食事療法についていえば、何と、1943年の強制収容所で行なわれているのである。ホロコースト正史では、この収容所では、人々は労働力としてだけ利用され、働くことができなくなれば、飢え死にするか、別の方法で殺されたはずである。Haulotは、1942年11月8日に収容所に収容されて以来、ほぼ5か月間1日も働いていない。それどころか、健康を回復するために看護されているのであるHaulotはこう記している。

 

1943年3月30日、今朝、私が恐れていたことが起った。ブロック11への移動である。『楽園追放』だ。ブロック11での生活はこことは異なるものになるであろう。新しい環境、三段棚ベッド。時計、皿、ナイフ、スプーン、電気式ホットプレートといった個人の所持品はそこにはない、花もない。食べ物はストーブの上で調理されるようである。

 

 ブロック11は病棟だった。それ以前は、Haulotは病室として設置されていたブロック3にいた。なくなってしまうと述べているリスト(時計、電気式ホットプレート)から判断すると、それまでは、彼はこれらを所持していたのであろう。強制収容所の病室の花――このようなことを記している目撃証人の話しがあるだろうか。Haulotはこう記している。

 

1943年3月31日、よく眠れた。ベッドはブロック3よりもよかった。ここでも空腹にはならないであろう。…朝食には、1/4の普通のパン。追加のパン、すなわち大きなマーガリン片の付いた1/3のパンを受けとった。これが続けば、万事がうまくいくだろう。

1943年4月19日、『調達は』フルスピードで進行中。…私自身に関していえば、ブロック27に明日行くであろう。今朝、アイフラーがまったく清潔でぴったりとマッチした縞筋の衣服とセーターを持ってきてくれた。

1943年4月21日、移動。昼食後、エルヴィンが長であるブロック27に移る。新しい衣服と帽子を受けとる。

1943年4月29日、毎日、照射室に行っている。そこで、力の入らない私の左肩の治療を受けている。

 

 そのあとの日記の記述を見ても、病気の囚人に対する医療は非常に良好であった。2年後、事態はまったく変わっている。Naumannはこう記している。

 

太ももの傷はまだ膿んでおり、治っていない。もう一度病棟に行く。しかし、軟膏も包帯もない。…熱があって、肝臓あたりが痛い。ここでは病気にならないことだ。

 

Haulotはこう記している。

 

1943年3月13日、今日から働き始めた。パンと食料の運搬だ。つらい一日であったが、それは足が痛んだためだ。十分な食べ物。重労働。しかし、私は素晴らしい体型をしており、筋肉を使うことができるのが非常に楽しい。毎日の午後は幸せだ。コンテナーを取りに行くためにダッハウに出かける。公園、森、町をとおって、素晴らしい散歩をするチャンスだからだ。6ヶ月間忘れていた多くの事物に接することができた。小川、魚、白鳥、木々、…よい香りのする花、美しいドレスに身をつつんだ女性、…子供たち、幸せそうなカップル、…店、レストラン、簡単にいえば、実際に息づいている生活すべてだ。…そして、私は、非常な喜びにつつまれて収容所に帰ってくる。

 

 Haulotは病院で7ヶ月間の治療を受けたのちにはじめて、仕事を割り当てられている。彼は最初の日にすでに、ダッハウの町に出かけることができた。それゆえ、ダッハウ強制収容所がまったく隠すことのない通常の懲罰・労働収容所であることがわかる。そうでなければ、囚人が町中を歩くことなど許されないであろうから。Haulotはこう記している。

 

1943年5月14日、フィリップが事故にあった。月曜日にはアウグスブルクに搬送されるであろう。」

 

 この記述によると、病気の囚人は緊急事態の場合には、特別病院で治療されたようである。しかし、1945年のアメリカ軍支配下のダッハウでは、事情は異なっていた。Naumannの太物の傷が膿み始めたとき、医師はこう述べている。

 

一番良いのは入院することだが、収容所を離れることは許可されていないので、入院することはできない。危篤状態の場合であれば、収容所管理局も許可するであろうが、それでは手遅れだ。

 

 Haulotはこう記している。

 

1943年5月16日、問題が生じた。私が代わりをつとめていた男が消えたので、仕事がまったくなかった。」

1943年5月20日、まだ仕事がない、明日まで休むことになる。

 

 彼は、すでに5日間も休んでいた。囚人たちは倒れるまで働かねばならなかったといわれている強制収容所で、このような事態が起っているのである。Haulotはこう記している。

 

1943年6月1日、働いている、1日14時間。さしたる疲労もせずに、その仕事に耐えることができる。しかし、仕事が4時に終わる2日間を除いて、自由な時間はない。…今週、小包が到着した。だから、栄養状態は良好である。

1943年6月13日、時間が恐ろしいほど速くたつ。短いメモをとる時間さえもない。週末のすべてが仕事にとられていても、考えることは妨げられない。その逆である。ドイツにいたときには、そのような精神活動にふけることはまったくなかった。…身体の状態は最高である。仕事はきついが、筋肉を鍛える機会となっている。それまで、そのようなことはやったこともない。…動物のような喜びに満たされることがある。…何とたくましく、生き生きしていることか。…私は終日、歌って笑っている。

 

 「時間が恐ろしいほど速くたつ」――囚人のコメントとしては、何と奇妙なコメントであろう。Haulotはこう記している。

 

1943年7月7日、素晴らしい週であった。29日に小包が届いた。素晴らしい。土曜日、日曜日劇場。素晴らしい。…吐き気をもよおしたので、午前中は寝ていた。

 

 1943年7月7日は日曜日ではなく、水曜日であった。だから、「吐き気をもよおしたら」、終日、もしくは半日、仕事を休むことのできる囚人たちもいた。Haulotはこう記している。

 

1943年7月13日、今週は二つのイベントにかかりきりであった。日曜日の素晴らしい演劇と月曜日の小包。…6月13日に発送された小包を昨日受け取った。損傷を受けていなかった。中には素晴らしいパイプが入っていた。…

1943年8月27日、昨日は、インフルエンザにかかっていたので、ベッドにいた。今日は休み。回復している。

 

 戦時中、ドイツの民間人がインフルエンザのために自宅に待機していることは許されなかった。仕事を続けなくてはならなかったのである。Haulotはこう記している。

 

1943年10月12日、昨日、家からの知らせを受け取った。非常にうれしい。昨晩は、イタリア・コンサート。美しい声、素敵な音楽、素晴らしいジャズ。とても素晴らしい。

 

 第三帝国時代には国内から消え去っていたジャズが、強制収容所では演奏されていたのである。ダッハウ強制収容所では、演劇や演奏会という文化生活が営まれていた2年後、アメリカ軍も、捕虜が収容所のボードビルショーに出かけることを許している。Naumannはこう記している。

 

昼食後の出来事。点呼。5人一列に並べ!私たちは、一般収容所から、バラック群の前にある収容所ボードビル劇場『カルッセル』に連れて行かれた。ちょっとした軽音楽、無理やりのジョーク、道化師、Eugen Rothの歌、まがい物。俳優であっても観客であっても、泣くことになれてしまっているので、笑いを誘う技術の修得はたいそう難しい。私たちは、気落ちして、長い列を作りながら、私たちの特別収容所に戻っていった。

 

 これに対して、知的・文化的な刺激は、ドイツ軍将校たちが設置した定期的な教育講演会から発していた。Naumannはこう記している。

 

私たちは、講義と修練のある大学のような教育講演会を組織した。私自身も、5-6時間の講義に参加した。宿題が出され、自分たちの運命を考えざるをえなかった。それにしたがうにせよ、逆らうにせよ、あきらめてはいけない。

 夕方には講演会がある。ケニンガー大佐の『極東旅行の話』、レーマン教授の『アルフレド・ヴェゲナーの大陸移動説』、『地表の変化』。

 

 手紙について。すでに最初のほうの日記から、Haulotが、定期的ではないとしても、親戚からたびたび手紙を受けとっていたことがわかる。アメリカ軍「解放者たち」はこの件について別の見解を持っていた。Naumannはダッハウに付くとすぐに、「身体検査」された。アメリカ軍兵士は彼の小道具袋をとって、彼の母の最後の署名のある手紙を没収している。Naumannはこう記している。

 

手紙を書いて、それを外の作業班員に手渡すことは厳しく禁止されるようになった。用紙や封筒を持っていること、ひいては、親戚からの手紙を持っていることも禁止された。罰則が伝えられた。

 この禁止規定に反して、手紙を書いて、それを外に持ち出したならば、この手紙の受取人(!)は、6週間の禁固処分となった。外部への手紙を書いた人物は、水とパンだけの独房に1週間拘束された。その後、1週間、50ポンドの重さの包みを持って毎日8時間行進しなくてはならなかった。そのあと、さらに1週間、水とパンだけの独房で過ごさなくてはならなかった。こうした拷問に耐えることのできる囚人はほとんどいなかった。

小包が届くこともあったが、もちろん、挨拶状は付いていなかった。愛する人々からのことづけを受けとった者、10月の赤十字のカードに回答した者も誰もいなかった。

 

 1946年の半ば、手紙を書くことが短期間許された。しかし、新しい規則が囚人たちの喜びを台無しにした。Naumannはこう記している。

 

囚人たちは1週間に1通だけを19行形式の書式で書くことだけを許された。発送される手紙、届けられる手紙は今後すべて、厳しく検閲されることになった。

厳しい規則が設定される数日前に書くことを許された手紙は、戻されてきた。それを19行形式の書式に書き直さなくてはならなかったのである。…しかし、書き直された手紙はふたたび戻されてきた。住所や発送者を鉛筆で書いてはならなかったのであり、省略形や下線も禁止された。数字を使うことも禁止された。末尾に『1000回の挨拶を』と書いている手紙も戻されてきた。数が使われており、それは禁止されていたからである。第三者について書くことも禁止されていた。だから、子供たちや両親などについて尋ねることができなかった。収容所での待遇について書くことも禁止されていた。『1部屋に5人います』と記した手紙があったが、それも戻されてきた。別の行を使って手紙の日付を書くことも禁止されていた。こうした事項はちょっとしたいじめであったが、効果的であった。囚人たちの神経を苛立たせたからである。それが目的だったのであろう。

手紙は検閲人から私たちのもとに戻されてきた。決められた行数を1行オーバーした手紙を書いた人物がいた。もう一度書き直すようにとの指示の付いた手紙が戻されてきた。鉛筆で線を下書きした手紙もあったが、それも発送されなかった。

 

 捕虜たちは、アメリカ軍収容所への収容によって衰弱していき、自殺に追い込まれる者もいた。学問や文化的イベントに参加することで気を紛らわせ、恐ろしい現実から目をそむけることができたにすぎなかった。

 一方、Haulotのケースはもっとポジティブである。Haulotはこう記している。

 

1943年10月26日、あと12日で、ダッハウで1年過ごしたことになる。健康状態は正常に復し、思考能力、労働能力ももとに戻った。…何ヶ月間たったら、もしくは何週間したら、愛する人々を手の中に抱くことができるだろうか?頭を上げ強い心を持って待つだけである。そうすることで、運命を切り開くことができる。未来は非常に素晴らしいであろう。

1943年11月8日、1年間ここで過ごしたことになる。…1年間。ここにやってきたときには、病気で怪我をしており、人間の影にすぎなかった。収容所のスラングによれば、『クレチン病患者』とか『ムスリム[痩せ衰えた人間]』と呼ばれていた存在であった。今では、以前と同じように強壮で、精神的・肉体的活力にあふれている。」

 

 Haulotが強制収容所で1年すごしたあとにまとめていることは、まったく驚くべきことである。彼の幸福感あふれた感情は性格の強さを示しているが、もしも、収容所での待遇が、2年後のアメリカ軍ダッハウ捕虜収容所でNaumannが経験する過酷なものであったとすれば、このような精神状態にはならないであろう。Naumannはこう記している。

 

もはや耐えることができないという絶望感を覚えたときには、外に出て、バラックのあいだを歩いて行き来する。走り回ることはなかなかできないが、動き続けなくてはならない。白い霜の降りた鉄条網のフェンスでさえも、魔法をかけられて、白く、やさしく輝くおとぎ話の中の情景に変わる。託児所の端のもみの木の凍った天辺のうしろでは、夕方の光が黄色、赤色、雑多な緑色に輝いている。

人生には意味があるかどうか、自問する。そして、そのような考え方とそこから出てくる論理的結論に何とか抵抗する。しかし、まったく疲れ果て、空虚だ。

何か意味のあることをしたい。何かを書きたいが、紙も鉛筆もない。

 

 一方、Haulotはこう記している。

 

1943年11月10日、病棟に戻る。心臓がここ数日間負担過重であった。仕事が長すぎ、きつかったからである。回復するには、少し休めばよいだろう。

 

 Haulotはあとがきの中で、この記述についてこう述べている。

 

1943年11月10日に病棟に戻る口実として利用したのが、『心臓病』であった。実際には、厨房作業班1での食料泥棒が不可能となったので、それをあきらめることに決めたのだった。また、11月15日の私の誕生日を、しかるべき夕食で祝うために、十分に休みを取りたかったのだ。

 

 これが強制収容所の光景であろうか?強制収容所の囚人が、自分の誕生日を満喫するために、1週間前から仮病を使っているのであるHaulotはこう記している。

 

1943年11月15日、今日、30歳となった。重要な時期である。青年時代が終わった。少なくとも、バイタリティと自発性に関しては。青年が人間となる、私は、私の運命、私の将来と格闘できるほどたくましくなった。しかし、明日何が起るか、誰にもわからない。

1943年12月1日、看護助手となる。残念ながら、希望していたブロック7ではなく、3/3であった。

1943年12月2日、仕事は簡単で楽しい。看護のための教科書を勉強している。用語が難解である。でも、うまくいくだろう。

1943年12月6日、ふたたびベッドを替えた。私のベッドをチェコ人教授にやった。しかし、部屋の看護士のつとめは続けている。仕事をうまく処理できると思う。…昨年、ブロック25では、ひどいホームシックにかかった。当時の記憶は、惨めなものばかりだった。しかし、今では、しっかりと自分の足で立っている。力強く、我慢強く、思慮もある。他の人々から尊敬されおり、愛されてもいる。私のことを嫌っているのはごく少数の人々である。

1943年12月25日、クリスマス休暇が終わった。この休暇をうまくすごした。昨年のこの時期は、弱っており、孤独で絶望的であった。…今ここでは、健康かつ強壮であるだけではなく、道徳的満足感を抱くことができるような職務をもっており、同僚の精神生活に配慮することもできている。

自分の部屋で祝ったクリスマスイブは素晴らしかった。…私の『患者』は、熱心にクリスマスを祝った。誰もがクリスマスの木に感謝し、一番惨めな人でさえも楽しいときをすごした。素晴らしい仲間との素晴らしい夕食であった。

今日は、休息、観劇である。…昼夜兼行の突貫工事で立てられる文化バラックが開所した。売春宿はまだ完成していないが、劇場は完成した。精神の勝利である。異常な状況の下で暮らしている人々が、何とか正常な生活という幻想維持しようとしているのである。『にもかかわらず生きよう』とすることは、自分自身を維持し、鈍感さから逃れ、人間としての尊厳を保持することである。ここでの私たちの生活は、程度の差こそあれ、このようなことすべてに影響されている。そして時折、短い期間ではあるが、高揚感がそこから生まれてくる。そうでなければ、悲しみが永遠に続いてしまうであろう。

もちろん、愛する人々のことを思っている。しかし、恐怖や悲しみもなく、穏やかに。…しかし、不満を言うべきであろうか。そうすることは拒む、私は健康かつ強壮である。私の家族もうまくやっているに違いない。だから、特権を与えられているのだ。悪い事態に直面しても、冷静に対処し、運命に感謝しなくてはならない。

 

この記述の冒頭で、Haulotは「クリスマス休暇が終わった。この休暇をうまくすごした」と記している。2年後、わがアメリカ軍「解放者」は、特別な措置を使うことで、クリスマスに特別な性格を与えることをドイツ人に教え込んだ。アメリカ軍がSS隊員とドイツ国防軍兵士のための捕虜収容所として利用したダッハウでは、事態はこのようであった。Naumannはこう記している。

 

クリスマスまであと2日である。バラックの前でフェンスに沿って、整列しなくてはならなかった。暗く灰色の雲が収容所を覆っていた。特別収容所の他のバラックの囚人も外で点呼を受けていた。たがいに短い距離を置いて3列に整列していた。しばらくは、何も起らなかった。二人の看守が収容所の外の通りで、雪のボールを投げ合っていた。平和な光景であった。私たちはフェンスの後ろで、凍えながら待っていた。凍えてしまったので、こっそりとバラックに戻っていく者もいたが、看守は気づかなかった。

 一台のジープが収容所の広い通りをやってきた。うしろにトレーラーが付いていた。手紙の入った袋が載っていた。私たちは首を伸ばして、前に押し出た。ジープは近づいてきて、フェンスの外でとまった。3名のアメリカ軍兵士が飛び降り、うしろに回って、トレーラーをひっくり返した。手紙が雪の上で大きな山となった。一人のアメリカ軍兵士が前に進み出て、ジープからガソリンの缶を取り出し、私たちの手紙の山にガソリンを注ぎかけた。もう一人の兵士がその山に火をつけた。黄色い炎が燃えた。私たちはショックで立ちすくんでいた。燃えている山は次第に小さくなっていった。風が、燃えている手紙の用紙を吹き飛ばしていた、すべてが灰になると、『全員、バラックに戻れ』との声がした。

 

Haulotは、非人間的な時代がやってくることを予期することができたのであろう。彼は1943年12月28日にこう記している。

 

抑圧された感情がいつまで続くのであろうか?戦争が終わってもこの感情が続くと思って、恐ろしくなった。別の体制ならば、思考の自由を禁止することができるだろう。今日の、苦難と犠牲は何のためであるのか。私たちは人類が進化していく途中にいるのか、それとも退化していく途中にいるのか。未来のドラマは、たとえそれが現在より悪質で悲劇的であろうとも、すでに目に見えるところまで来ている。

 

 Naumannの記述は、このことについてのコメントのようである。

 

『南ドイツ新聞[ミュンヘンの日刊紙]』の最新版が回し読みされている。それを読むと、憎悪による非論理性によって拷問されているような気がする。実際、すべてが誇張されているので、そのことはナイーブな読者にさえも明らかである。

アメリカ軍の将軍が『軍国主義は民主主義の不倶戴天の敵である』と説明している。しかし、次の頁には、『アメリカ合衆国は一般義務兵役制を導入』という記事が載っている。あるコラムには、『政治的な理由だけで何ヶ月も、何年間も強制収容所に収容されていた哀れな囚人たちを支援することは最大の義務である』と書いてある一方で、そのすぐ隣には『よい知らせだ:70万人のナチが投獄された』との見出しが躍っている。また、『S博士とA博士はヒトラーに反対したとの理由だけで、1933年に職場を追放されるという想像を絶する運命にも苦しんだ』との記事がある一方で、同じ頁には、『もちろん、今後ナチスは、政府や自由経済の中で仕事をすることはできない、彼らができるのは劣った肉体労働だけである』という記事が載っている。

『政治的理由からナチスの迫害を受けた哀れな建築家マックス・ウェーバーが芸術的記念碑を設計した』との記事がある一方で、『芸術活動をすることが許されないブラックリストにはフルトヴェングラー、ギゼーキングの名が載っている』との記事もある。『民主主義と自由はドイツの最高目標である。誰もが人種や社会的地位に関係なく働くことができる』という太字の見出しの隣に、『ナチには投票権が認められない』、『ナチの活動家と軍人には日雇い労働者の仕事だけが存在する』、『ナチはアパートを引き払わなくてはならない』、『ナチの財産は没収される』というスローガンが続く。

万事がこうである。それを読むと吐き気をもよおす。実際に罪のある人々に対して、社会の本当の寄生虫に対して、哀れみをかける必要はない。しかし、盲目的に荒れ狂っているのは復讐と報復への渇望である。新しい不正が作り出されており、そのために、すべての人々が傷ついている。

新聞は『新しい自由法』について伝えている。それによると、誰も、法廷において自分を自由に弁護すること無しには、拘束されないし、囚人とはならないというのである。では、私たちはどうなのか。私は、自分自身や同志たちの弁護をすることもまったく許されずに、予備審問もなく、不公平で非人間的な境遇のもとで、もう6ヶ月も拘束されているではないか。たしかに、私たちは敗者である。勝手気ままに振る舞う権力は勝者にある。これはどうしようもないことである。しかし、なぜ、これらの偽善的で、口先だけの新聞が敗者を罵っているのか?

 

HaulotNaumannも自分たちが暮らしている強制的共同体について思いをめぐらしている。Haulotはこう記している。

 

1944年3月31日、収容所とは非常に奇妙な社会的枠組みのことである。収容所は、自分たちの意志に反して拘束されている人々で構成されているが、これらの人々が自発的に協力することで計画・運営されているので、あらゆる自発的社会・自由に組織された社会の基本的特徴をもっている。階級、カースト、ヒエラルヒーの形成、成文法・慣習法・偏見の存在によって、ここは、非常にノーマルに機能している社会的共同体であるとの幻想を生み出すことに成功している。強制収容所は代用社会であり、そこでの生活は、人間存在の代用ともなっている。

1945年1月19日、ここから出たときに、私たちはどの程度私たちであり続けることができるのであろうか?1年前ならば、この質問にポジティブに答えることができたであろう。その当時には、私は成熟した人間としての豊かな感情を持っていた。しかし、今日では、何かが変わってしまった。私は粗野になり、ひどく怒りっぽくなった気がする。動物としての資質のほうが前面に出てきている。まるで正常な暮らしをしてきたかのように、紳士として一日振る舞おうと決心した人々もいたが、夕方になると、誰もがそれを守れなくなった。そのように振る舞おうと努力しても、収容所の中での卑しい習慣、『強要』が前面に出てくる。私自身は非常に攻撃的となることがあるが、それは、決して満たされることのない孤独への願望による反応なのである。夕方から朝まで、朝から夕方まで、たった15分間でさえも独りになることなく、集団の中で暮らすことは、かなりの試練である。…友人関係でさえも、心をかき乱す要因である。

 

Naumannも同じような経験をしている。

 

ときどき、同僚に対して怒りっぽくなり、嫌悪感を抱くことがある。私たちが過密状態の暮らしを強いられていることがおもな原因である。それは、隣人に対する人間的な弱さを際立たせている。1時間であっても、一人になるチャンスがまったくないので、私たちは互いの神経を苛立たせている。…過密状態の部屋の落ち着きのなさや騒音に耐えられないと思って、外に出たとしても、次のバラックの角で仲間と出会ってしまい、また、身体をくっつけざるをえない状態に追い込まれてしまうのである。

エゴイストの集団がいる。『自分勝手に振る舞い』、友人関係を拒み、気分にしたがって勝手に行動し、誰にも救いの手を差し伸べず、自分自身の安寧だけを考えている。

また、人を寄せつけない内向的な集団がいる。口を硬く閉ざし、誰の関心を引くこともなく、すべての講演会にこっそりとやってきて、耳にしたことすべてを書きとめている。学び、努力し、働くのである。彼らが笑ったところをみたことがない。話し合いの最中にも、まったく静かである。…

しかし、もっとも不愉快なのは、『どうやっても教え込むことができない』集団である。彼らは下着のままでスウィングのステップを踏みながら、トイレに行き、質問に対しては、自分たちだけの揺るぎのない見解を申し述べる。部屋を掃除するときには手袋をはめ、いつも、高みの見物をしており、片メガネをかけている。彼らのすべてが不愉快である、声も、話題も、悪臭も。

 

 一方、Haulotには別の問題も生まれていた。

 

1944年3月9日、栄養状態がよいために、厄介な問題が持ち上がっている。性的欲求が高まっているが、それを満たすことができないので、別の方向に向けてやらなくてはならない

1944年3月21日、小包が着く。

1944年3月31日、昨日、2月26日発送の小包を受け取った。

1944年4月27日、3つの小包。一つは赤十字から、あとの二つはルイーズから。

 

 2年後のダッハウでは、栄養状態のおかげで、このような問題は起きなかった。Naumannはこう記している。

 

『新しい新聞』の最新版がやってきた。ダッハウ収容所での捕虜の暮らし向きがよいとの記事が載っている。『新しい光の中の古い収容所』という見出しの記事は、『バラックには、椅子、ランプ、カーテン、花を供えた快適な部屋があり、…囚人用の大きな庭園では、特別な野菜が育てられている』と記している。…この記事は、『収容所の素晴らしい図書館』や収容所のボードビル劇場のことだけではなく、毎日の食事メニューのことも記している、それによると、私たちは、『朝食には、チーズ、バター、パン、コーヒー、ミルク、砂糖を、昼食にはマッシュ・ポテト、ボイルド・トマト、肉入りシチュー、プディング、パン、ミルク、砂糖』を受けとっていることになっている。だが、このメニューはどこにあるのか? 私たちは、朝食には薄いポリッジを、昼食にはお湯を――ジャガイモの切れ端が浮かんでいる、もし運がよければ、とうもろこしの粒が浮かんでいる――、夕食には、今一度、蕪やビートの入った薄いスープかドイツ国防軍の缶入りスープを受け取っているだけである。

記事によると、毎日2576.2カロリーもしくは2671.6カロリーを受けとっていることになっている。誰がこの話を信じるであろうか。…出版物の情報は何も信じられない。

食料はますます乏しくなっている。スープは薄くなっている。小さなパン切れとティースプーン1杯のジャムでは不足である。私たちは飢え死に寸前である。バラックの周囲を半時間も歩き回れば、重労働したかのように、瀕死状態となる。

もちろん、食料は話題の筆頭である、すべての話の中心である。誰もが体重の減少に気がついている。恐ろしいことである。夜には、『食べ物』の夢を見る。私も、おいしい臭いのする子羊の肉の載った大皿が私の前におかれている夢を、昨晩見た。…そして、空腹から目が覚めた。下痢のためであろう。このためにひどく衰弱してしまった。

 

Haulotは自分が女性に魅力を感じたのと同じように、若い男性に魅力を感じ始めたことに気がついたが、何とかその誘惑をやりすごした。彼は病気の女性用のバラックを訪問し、そこの責任者である若いドイツ人女性と関係を持っている。

 

チフス対策部門の看護士主任として、私は病気の女性用バラックを訪問する特権を持っていた。このとき、私はSSの女性責任者と関係を持った。彼女は所長の秘書でもあったので、その関係は非常に有益であった。ヒムラーが収容所の疎開命令を出したときにも、ダッハウにこの命令がとどいた1時間後には、彼女からのこの命令のコピーを手に入れていた。[6]

 

Haulotは、自分の女友達が女性収容所の看護婦主任であると同時にドイツ人収容所長の秘書でもあったと述べているが、こうした兼務がありえたかどうかを考えてみなくてはならない。おそらく、彼は、二つの別の女性、すなわち看護婦主任と秘書と関係を持ったのであろう。この関係は緊密であったので、彼は、1944年、1年中それに没頭していたが、その件については日記に記していない。

戦後、彼は、この「浮気」の件を「スパイ活動のための冒険」と呼んでおり、純粋に戦術的な策略であったと称している。この恋愛関係はあまりにも開けっぴろげであったので、秘密にしておくことはできなかった。彼はこの関係を「道徳的な」ものではなく「戦術的な」ものとして描こうとしているが、理解するには程遠い。しかし、日記の記述は、彼の感情がひどく揺り動かされていたことを明らかにしている。

その上、当時、彼は妻と疎遠になりつつあった。彼の妻は写真を送ってきているが、それは彼にショックを与えた。Haulotはこう記している。

 

1944年4月27日、ルイーズの写真。…2年という月日の影が彼女に刻印を残している。外見が鋭くなり、顔は老けたようである。

1944年5月1日、この写真は残酷に真実を暴きだし、私の心を深く動揺させている。…私がかくも若々しく、強壮に感じており、生命への渇望に満たされているのに、その一方で、つれ合いは老けてしまったのであろうか。女性がしたがわなくてはならない、厳しい自然の摂理が魅力と美しさを壊してしまったのである。…妻に感じていた愛着や魅力は決して変ることがないであろうが、性的な空虚感、冷たい生活に対して、昨日よりも明日、ますます満たされなくなっていくこともよく知っている。今ほど、強壮なときはなかったのだから。

 

 続く記述には、この情事についてのほのめかしが繰り返し登場する。彼は1944年6月から1945年1月まで日記をつけていないが、情事にふけっていたにちがいない。1945年1月、チフスが流行し始めると、彼は危機のど真ん中で自分自身を慰めている。Haulotはこう記している。

 

1945年1月24日、しかし、自分自身を紛らわすことができる。

 

 最後のチフスの流行のとき、彼は、死体の山の真ん中で詩を書いている。

 

January 27, 1945:

Contrast.
My heart walks on Wallonian paths
up to the sky, following the flight of a lark.
It answers the joyful call of the weathercocks,
which the fresh Walloon wind flatters.
However with grotesque grimaces waiting,
piled on the ice,
wave yellow, green, blue dead
with their thin fists
weakly to the living
who follow falteringly their traces:
Well, I will live
when I see your face of the wild lioness,
oh death, who plays with little bones.

 

Naumannも時折、自分の願望を詩で表現している。

 

Longing.
Oh, to walk again on a quiet forest path,
alone, hear, alone! - And not to see people,
always only people - but rather trees, strong and big!
No more day in, day out the sound of people's voices
in the ear, but the joyous singing of birds
and the sound of the tree tops and the song of the cricket in the moss -
And to drink walking the blessing of the spirited quietness!
Maybe to stand on a mountain and watch the day go down,
the land without borders at the feet -
And not to have to breathe the dull closeness of the hut,
forced into the monotonous complaining fate of the crowd,
banned to a tortured look at fences, walls.
Oh, to hold your hand in mine once more
And feel now, how unknown forces
give our souls the same tone and courage.
And not to live on without sense like animals,
but to work in peace, to be with you lovingly,
and to be able to be cheerful with you: World you are good!

 

 10000人以上の犠牲者を出した収容所での最後のチフスの流行は、責任者にどうすることのできないほどの仕事を課した。Haulotも看護助手として忙しかった。しかし、驚くべきことに、日記を書く時間を見つけている。日記の序文にこう記している。

 

チフスのことを3回書いている。1944年1月と12月の事例は腹チフスであった。約300名が死亡した。1944年12月以降のチフスの流行は、10000人以上の死者を出した疫病であり、いたるところに死体の山が作られた。アメリカ軍はそれを1945年4月29日に発見した。

1945年1月24日、先週、過去2年間の中でもっとも悲劇的な事態が進行した。疫病の規模は恐ろしいほどである。数十名の友人が感染している。

1945年1月31日、日曜日、私たちは死者の服を脱がせた。私の見た中で最大の死者の数。昨日、私の部屋は事実上、チフス対策区画に変わった。疫病と戦争の競争が続いている。多くの人々にとっては、結果はすでに決していた。

1945年2月6日、仕事にかかりきりである。死の舞踏。私の助手も病気である。少なくとも、毎日80名が死体安置室に新しく収容されている。

 

 あとで著者が挿入したメモはこう記している。

 

チフスは収容所全体に広がっている。…死者はブロックのあいだの通りに積み上げられている。病人バラックは病人であふれている。

1945年2月6日、私たちは回復している患者に輸血した。

 

 ダッハウ収容所の閉鎖直前の1945年2月でさえも、ここでは輸血が可能であった。これに対して、当時のドイツの野戦病院では、負傷者に対する治療は最低限の水準に抑えられていた。切断手術にあっても、偽薬が処方された。アスピリンは鎮痛剤とみなされていた。輸血を正常に行なうことはできなかった。Haulotはこう記している。

 

1945年2月10日、死自身は遅れを許さない。死者の数はどんどん多くなっている。昨日、老チャールズ・ジェイが死んだ。私がベルギー赤十字代表デクレルクのもとを訪問しようとしていたとき、彼の死体は毛布でつつまれたばかりであった。

 

 赤十字は1945年2月にはダッハウに自由に入ることができるようになっており、制限を受けずに囚人と接触していた。Haulotはこう記している。

 

1945年2月18日、日曜日、収容所運転手と非常に興味深い訪問。その目的は、赤十字の小包の処理を円滑にすること、その後、すべてが正常に進んだ。そうでなければ、何も変らなかったろう。ほしいだけの鴨の肉…疫病についていえば、峠を越えた。

 

 健康な囚人の食糧事情は好適であった(「ほしいだけの鴨の肉」)。のちに序文の中で、Haulotは、1945年3月25日に収容所長のもとを訪れた件について、こう記している。

 

1945年3月25日の収容所長との会談は超現実的な雰囲気のもとで行なわれたので、記しておく価値がある。この時、ベルギー赤十字が大量の食料小包を送っていた。同僚も私自身も、ベルギー人がたらふく食べている一方で、他の囚人たちが飢え死にしそうなことを不公平と感じていた。そこで、あまった食料は、とくに、外の世界から援助物資を受け取っていない『スペイン人戦士たち』に分け与えるという決定がなされた。しかし、収容所規則では、連帯行動はサボタージュとみなされていたので、私は所長との面会を求めた。日曜日、その許可が出た。…私は腕時計をして(禁止されていた)、SSの配給物資から『借用した』靴を履いていた。その上、私は長髪であった。髪を切るときに風邪を引いていたと説明した。…所長は事務所から男を呼んで、私の目の前で、長髪の許可証を発行させた。さらに、小包をわかち合う許可ももらって、そこを立ち去った。

1945年4月1日、与えられた条件のもとで新しいブロックを整備することはかなりの手間がかかる。しかし、それを喜んで行なって成功し、私の能力を証明することができた。500名ほどの病人を担当する区画の長となった。半分はチフスで、半分は内科疾患であった。良き看護助手、良き医者であった。すべてがうまくいった。

 

 Haulotの記録は、アメリカ軍が到着する前の最後の日々、到着してから占領・解体されるまでのダッハウ強制収容所の様子についての、貴重な証言である。Haulotはこう記している。

 

1945年4月6日、終わりが近づいており、そのことが毎分ごとに予期できる。きわめて対照的なのだが、収容所の内部は比較的平穏であり、一方、収容所の外は恐ろしく騒々しい。また、解放によって私たちが投げ込まれることになる空間もひどく不穏であろう。

1945年4月21日、状況は変っている。収容所の雰囲気は時間ごとに変っている。極端な楽観論からまったくの悲観論まで。それは、次のような事柄についてである。

1. 食料:小包は2週間も分配されていない。理由は説明されていない。ほかから食料が供給されなくて、自活しなくてはならない場合には、収容所の食糧貯蔵庫を建設しなくてはならないのであろう。…この間、毎日の食糧配給は最少にまで減らされる。

今日、一人に一つの小包を分配することがやっとできた。

2. 疎開。さまざまな偽の情報が広まっている。チロルかスイスに大量移送されるというのだ。…ダッハウはそのままの地点に残り、連合国に正式に引き渡されるという、逆の予想もある。

3. 清算。もっとも悲観的な人々は、古典的な方法にしたがってダッハウが清算されると噂している。大量処刑かガス室

一方では:…ブルムやシューシュニクといった有名な囚人たちだけがチロル方面に移送されるという噂。これまで誰が収容所を離れたのかわからない。

私個人は、意図的に気ままな行為にかかわっている。それは何も生み出さないが、非常に刺激的であり、周囲の狂気から私を免れさせることによって私の情緒的バランスを維持するという目的を果たしている。

 

3.の「清算」ということに関する注釈:Haulotは、収容所の清算を悲観的な噂とまで呼んでいる。しかし、序文の中では、ヒムラーによるとされている収容所の清算命令のことを、愛人から知ったと述べている。テレックスであったと思われるこの命令は、ホロコースト文献によると1945年4月14日と18日に出されており、次のような内容であった。

 

「引渡しは論外である。収容所を即時に疎開させなくてはならない。囚人の一人として生きたままで敵の手に落ちてはならない。囚人たちがブッヘンヴァルトの民間人に虐殺行為を行なった。署名:SS全国指導者ハインリヒ・ヒムラー。」

 

 Haulot の日記にある4月21日、彼は、序文の中で、「ダッハウにこの命令がとどいた1時間後には」、愛人からこの命令のことを知っていたと述べているので、この命令のことを知っていたにちがいない。

 前述したように、プラハ在住のチェコ人歴史家Stanislav Zamecnikの研究によると、この命令は本物だとしても、ダッハウ収容所あてではなく、せいぜいフリュッセンブルク収容所あてのものであった。

 Haulotは「清算」の項目の中で「ガス室」のことに触れているが、1945年4月29日以前の日誌の中で、「ガス室」が登場しているのはこの箇所だけである。「ガス室」とされている部屋があったのかもしれないが、彼自身はこの件について自分の目で確かめているわけではない。ダッハウ強制収容所での事件史ともなっている彼の日記が、「ガス室」について何も語っていないことをどのように説明したらよいのであろうか。Haulotは序文の中で、マラリア実験やメスカリン実験のことを知っていたけれども、日記の中には記述しなかったと述べているが、この理由を明らかにしていない。しかし、ダッハウに「ガス室」が存在していたとすれば、日記には何らかのかたちで登場したにちがいないのである。Haulotはこう記している。

 

1945年4月23日、騒動が起こっている。…焼却棟と給与ステーションが爆破された。狂騒は収まった。ユダヤ人が移送のために集められている。急降下爆撃が頻繁となってきたので、移送が行なわれるにちがいない。

1945年4月26日、ドイツ人とロシア人が収容所を去っていく。…今晩、7500名が、残りは明日の予定である。

1945年4月27日、人々が去っていくのを眺めている。ユダヤ人の移送はまだ始まっていない。貨車がフェンスの外にある。…昨晩、呼び出されて、スイス赤十字代表に紹介された。彼は、西側諸国の人々のために、5台のトラックに満載された小包を持ってきた。

 

 Haulotは記述しているのは「死の行進」ではなく、「鉄道による規則的移送」である。赤十字は最後の瞬間まで収容所にアクセスし、囚人たちに小包を渡すことができたHaulotはこう記している。

 

1945年4月29日、昨晩、囚人国際委員会が秘密裏に組織され、事態を沈静化させ、解放後の業務を引き継ぐことになった。

朝、収容所のSSが立ち去ったことに気がついた。二つの戦闘集団が看守の役目を引き継いでいった。

午後、戦闘が始まった。看守たちは次々と白旗を掲げた。…最後の監視塔の兵士たちが降服した。・・・別の場所で捕まったSS隊員が公に辱めを受けていた。もしも、私たちの手に落ちれば、引き裂かれてしまったであろう。同じ日の午後、SS将校たちが処刑された。夜、兵士たちも同じ運命をたどった。アメリカ軍兵士は、『われわれは最初収容所を目撃したときから、すべてを知った。われわれが戦っているのは兵士や将校ではなく、犯罪者なのだ。われわれはドイツ軍人を犯罪者として取り扱う』と言っていた。[7]

1945年5月2日、焼却棟を訪れる。2000名ほどの死体が山積みされ、悪臭を放っている。凍りつくようなガス室の恐怖。ユダヤ人が移送される列車には、死者があふれている。解放者たちは、SSの制服を着たものであれば誰であれ、情け容赦なく射殺している

 

 焼却棟はチフスの死亡者の死体を処理することができなかったにちがいない。ホロコースト文献では数千の死体を1時間で焼却できるようなことが述べられているが、そのようなことは不可能である。焼却炉がそのような作業を行なえるとすれば、死体の山は存在しないはずである。その後、焼却棟はドイツ人が行なった残虐行為のショールーム、証拠として展示される。Naumannはこう記している。

 

焼却棟の中のすべてのものは、アメリカ軍が発見したときのまま残されている。死体の山だけが蝋人形に変えられている。焼却棟を清掃しなくてはならなかった、物事を率直に述べるバイエルン人は、『知ってのとおり、アメリカ人はここに自分たちのおおいなる伝統を打ちたてた。すなわち、自分自身でそれを真剣に受け止める以前に、それを笑い飛ばしたのである』と話していた。

 

 Haulotはどの部屋がガス室であるのか述べていないが、害虫駆除室と焼却棟のあいだにある小さなシャワー室がガス室とされていたのであろう。その部屋は今日でも、「使われたことのないガス室」と称されているからである。

 Haulotは、当時のその他の目撃者と同じく、収容所の列車の中の死体がダッハウから搬送されるユダヤ人囚人の死体であると思っている[8]。ビルケナウやブッヘンヴァルトからダッハウに移送された人々の死体であると考えている者もいる[9]。ダッハウ強制収容所の記念碑はブッヘンヴァルトために捧げられており、それは、目撃証言、収容所ファイル、囚人の日記になどにもとづいている。Haulotはこう記している。

 

1945年5月4日、ブロックに閉じ込められている。人々が大量に死んでいる。アイゼンハウアーの命令:チフス検疫。

1945年5月15日、今では、収容所の管理は公式にアメリカ人所長ローゼンブロムの手の中にある。…しかし、私は囚人と囚人国際委員会についての決定を下した。…多くのフランス人、とくに医者たちが逃げ出した。アメリカ軍司令部の仕事がずさんなために、危機がもっとひどくなっている。人々は、対策が採られていないことを知ると、勝手に逃げ出し始めた。こうして、2000名以上が姿を消した。衛生状態は恐るべきものである。毎日、120名のうち10名が死んでいる。下痢、チフス、衰弱。

 

 Haulotは、収容所が解体される1945年6月までダッハウにとどまった。その後、ふたたびダッハウに戻ってきて、1945年11月にはじまるダッハウ裁判の証人、報告者となった。

 Haulotは、ダッハウの詳細について、とくに囚人の社会的構成について、『南ドイツ新聞』のインタビューの中で明らかにしている。今日では、強制収容所の囚人を殉教者、同情に値する人々とみなすのがあたりまえとなっているが、囚人の大半が刑の宣告を受けた犯罪者であったことがまったく忘れ去られているHaulotはこのインタビューの中でこう述べている。

 

もっとも耐えがたかったのは、私たちが暮らしていかなくてはならなかった道徳的環境です。あらゆる種類の犯罪者、反社会的分子、悪党たちと暮らしていかなくてはならなかったのです。

 

 さらにこう述べている。

 

解放自体は厄介な状況を生み出した。アメリカ軍は進撃しなくてはならず、収容所をあとにしなくてはならなかった。数千の犯罪者、ほぼ10000名の病人、補給物資の欠如を考慮すると、秩序を維持し、これ以上犠牲者が出ることを防ぐには、多くの勇気、賢明さ、指導力が必要であった。

 

 誤解を避けるために、いくつかコメントして、本小論を終わらなくてはならない。Haulotのダッハウ日記を抜粋したのは、強制収容所への収容が回復治療休息のようなものであったという印象を作り出すためではない。Haulot自身は収容所にやってきたときひどく健康を害していたのだから、彼の場合には治療休息のようなものであったとしても、そのような暮らしを送ることのできなかった数多くの囚人たちがいる。しかし、ダッハウ収容所について調査し、目撃証言を検証してみると、ダッハウは、他の懲罰収容所と比べると、穏やかな収容所であったとの印象を受ける。だが、個々人が収容所の諸条件に適応できるかどうかは、個々人の性格、反社会的なシステムの中での生存能力にかかっている。好ましからざるカポーを避けて、収容所のヒエラルヒーの中で指導的な立場を確保することも重要であった。この点で、Haulotはうまくやった。だから、彼の性格と日記は、数多くの無実の人々がダッハウで経験しなければならなかった運命を代表しているわけではない。

 

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[1] Amtsgericht Tiergarten, Ref. 352 Gs 3367/97.

[2] Abstracts from his diary were published in: "Arthur Haulot, Lagertagebuch. Januar 1943 - Juni 1945", Dachauer Hefte. Studien und Dokumente zur Geschichte der nationalsozialistischen Konzentrationslager, on commission of the Comité International de Dachau, Brussels, edited by Wolfgang Benz and Barbara Distel, vol. 1, 1985, issue 1, "Die Befreiung," December 1985, pp. 129-203.

[3] His diary entries of Dachau are in: Gert Naumann, Besiegt und "befreit". Ein Tagebuch hinter Stacheldraht in Deutschland 1945-1947, Druffel, Leoni 1984, pp. 139-199, 239-281.

[4] Paul Berben, Dachau 1933-1945. The Official History, London 1975, pp. 67f.

[5] ドイツでは知られていない「感謝祭」のこと。

[6] To the alleged Himmler order about the evacuation of the camp compare the essay by Stanislav Zamecnik: "'No inmate shall fall into the hands of the enemy.' About the existence of the Himmler-order of April 14/18, 1945," Dachauer Hefte, Vol. 1, p. 219-231. In it Zamecnik proves that such an order never existed for the camp Dachau. Therefore it is not possible that the lover of H. had told him of a Himmler order.

[7] Howard A. Buchner as an American eyewitness reports in detail about the execution of the last German guard, Dachau. The Hour of the Avenger. An Eyewitness Account, Metairie, Louisiana 1986. Cf. also Ingrid Weckert, "Dachau - Tag der Rache," in: Deutschland in Geschichte und Gegenwart, 35(2) (1987), pp. 14-20.

[8] E.g. Nico Rost, Goethe in Dachau, Frankfurt/M. 1983, pp. 229, 237, 245.

[9] Birkenau: H.A. Buchner, ibid. (note. 7), p. 89; Buchenwald: Hans Carls, Dachau. Erinnerungen eines katholischen Geistlichen aus der Zeit seiner Gefangenschaft 1941 - 1945, Cologne 1946, p. 198; Dachauer Hefte, 1, pp. 10, 19, 20, 22; Hermann Langbein, ...nicht wie die Schafe zur Schlachtbank, Frankfurt/M. 1980, p. 382.